信乃夫は夢を見ていた。「見ていた」は正しくない。暗闇の中、声だけが聞こえるのだから。声は尚之に似ていた。
(尚之、何を怒鳴っているんだ?)
目を開けようにも、瞼は重くて上がらない。喉がカラカラで、声は出なかった。後ろに回した両の手首が互いにくっついて離れないのはなぜか。身体に重石が乗っているのはなぜか。自由は利かず、柔らかな闇に沈んで行く感覚。夢の中で機能しているのは、どうやら聴覚だけのようだ。
「君、失敬じゃないか!」
これは田内の声だ。
「信乃から離れろ!」
尚之の声にドスン、ドスンと言う音が重なる。途端に胸が軽くなった。『重石』を尚之がどけて、それが立てた音なのだろう。
短い呻き声の後、「こんなことをして、ただで済むと思っているのか?!」と浅野の怒鳴り声が続く。
「知られて困るのはどっちだ?! 学生をかどわかして、正体が無くなるまで飲ませて、まともな状況じゃないだろう?!」
「ひ、人聞きの悪いことを言うな! その子は進んでここに来たんだぞ?!」
「進んでだと?! 仕事を餌に呼び出したのだろう?! 第一、進んで来たのなら、なぜ縛る必要がある?!」
(ああ、そうか。手首が離れないのは、縛られているからか…)
「縛ってくれと頼んだのは、そいつだ。とんだ淫乱だ。仕事をもらえるなら何でもすると、浅野さんに淫らに頼み込んだんだぞ!」
「大方、いつもその手で『仕事』しているんだろう。誘い方が堂に入っていたよ。私は惑わされただけだ」
何てひどいことを言うのだろう、いくら夢でも、尚之には聞かせたくない言葉だ。信乃夫は否定しようと口を開く。しかし息を吸い込むばかりで、声にならない。
「信乃はそんな男じゃない。曲がったことの嫌いな男だ。そんな真似をするくらいなら、潔く学校を辞める」
尚之がきっぱりと否定する。
背中の手首が外れた。抱き起されて「信乃、信乃」と尚之が耳元で呼ぶのを聞く。
(尚之、ヤツが言ったことは嘘だ、信じないでくれ)
信乃夫は口を必死に動かした。顎が動いて唇が上下しているのがわかるのに、声は出ない。出ていたとしてもきっと消え入るほどに小さいに違いない。信乃夫は尚之の耳に何とか声を届かせようと、力の入らない腕で彼の首を掻き抱く。
「わかっている。おまえはそんな人間じゃない」
抱きしめられて背中を優しく擦られる。聴覚だけが機能した闇の中で、身体に温もりが伝わってきた。相変わらず目も口も自由にならないが、信乃夫には自分の言葉が彼に届いたと確信出来た。
今回のことは自分の軽率さが招いたことでもある。こんな店で、こんな目に遭って、申し開きをしても多勢に無勢、社会的に地位のある大人と夜のカフェーで働く苦学生のどちらに分があるか。現実の尚之だとて、どこまで信じてくれるか知れない。たとえ夢の中だとしても尚之が彼らの言葉を強く否定し、信じてもらえて嬉しかった。
その安心が、再び信乃夫の意識を眠りの奥底に誘う。身体の力が全て抜けたかと思うと、もう尚之の声も聞こえなかった。
夢から覚めた時、信乃夫は布団に寝ていた。そこはあの料亭の座敷ではなかった。最初に目に入ったのは天井だが、一般的な竿縁で、吊り下げられた電灯の形も信乃夫の家の物とよく似ている。あの座敷の次の間に用意されていた布団は鮮やかな朱色の絹であったが、今、信乃夫の身体に掛かっているのは、糊が利いた木綿覆布の掛布団だった。
首を動かし辺りを見回すと、文机に座る見慣れた後ろ姿が見えた。
「尚之?」
声をかけると彼は振り返った。やはり尚之だった。
「目が覚めたか?」
尚之は布団の傍らに移動して、微笑んだ。
「ここは?」
「俺のうちだ。おまえの家には泊る旨を伝えてある。学科の対策だと言ってあるから、聞かれたら話を合わせておけよ?」
信乃夫は半身を起こす。頭がズキズキ痛んで顔を顰めると、尚之は「寝ていろ」と信乃夫を布団の上に押し戻した。
ここが尚之の家だとすると、あの店から帰ってきたことになる。いつ、どうやってここまで来たのか、夢の中では尚之が助けに来てくれたが、あれは現実だったというのだろうか。
信乃夫は不思議そうな表情を浮かべたに違いない。仕事の面接に行くことは話した。早く終われば尚之の居残り練習につき合うとは言い置いたが、確約したわけではなかった。信乃夫が学校に戻らなくても、尚之はおかしく思わなかったはずだ。
「容子が知らせてくれたんだ」
信乃夫の表情から疑問を察したのか、尚之が答えた。
「容子が?」
「今日は野中夫人の稽古日でな」
野中夫人とは野中医院の院長夫人で、容子が月に二度ほど歌のレッスンを付けている『生徒』だった。容子は毎週、そうやってどこかしらに声楽のレッスンを付けに行っている。子供であったり、音楽学校受験を希望する少女だったり、趣味にしている大人の女性もいた。
レッスンを終えた後、夫人が車を頼んでくれたので、少しでも近距離で済ませるように近道としてあの界隈を通り抜けた。その際に偶然、信乃夫を見かけたのだと言う。
「何だか様子がおかしいままに男二人と店に入って行くから、ひどく気になったらしくてな。俺が今日、遅くまで学校に居残っていることを覚えていて、そのことを知らせに来てくれたんだ」
信乃夫同様、尚之も面接は勤める店で行われるものと思っていたので、おかしいとすぐに気がついたらしい。警察の上層部にいる親類の名を容子に告げ、「久永」の名も出しても良いからと警察に走らせた。それからヴァイオリンを学校に預けて、信乃夫が入ったと言う店に急いだのだと尚之は事の次第を話した。
「どうやらあの田内と言う男は銀行に勤めていながら、女衒のようなこともしていたらしいんだ。夜毎、あちこちの店に出入りしては、眼鏡に叶う人間を物色して、騙しては好きものに紹介していたと見える。ただ証拠がなくてな」
男女問わず被害者は自分を恥じて届を出そうとしなかった。被害者のいない事件は事件にならない。
「僕が届け出るよ」
信乃夫はそれが筋だとわかっている。尚之は考える風に目線を落とした。
事態が表沙汰になると、どうしても口から口へと噂に上る。それは不名誉な形に歪められることが常だった。だから他の被害者も泣き寝入りしているのだ。場合によっては職場を、学校を去らねばならない事態になりかねない。
「いや、それが本筋だとしても、得策だとは思えない。あの銀行の本店は大伯父のところが一番の取引先のはずだ」
「尚之?」
「頼んでみる。ああ言った輩は、叩けばいくらでも埃が出るはずだ。貸付主査なんて地位に就いているんだから、銀行に対しても後ろ暗いことをしているかも知れない」
尚之は日本有数の財閥の一族ではある。辿れば華族に至る血筋も入っていたが、極力、知られないように努めていた。であるのに今回の件では、警察の親類を頼り、今また財閥の中核にいる大伯父を頼ろうとしている。彼の矜持を曲げさせているのではないかと、申し訳なく思って信乃夫の顔が歪んだ。
「なんだ、その顔? ああ、心配しなくとも、信乃の貞操は無事だぞ?」
「な…」
信乃夫は思わず起き上がろうとした。急に動いたせいか、目の前がぐらりと揺れる。いったい何を呑まされたのかと舌打ちした。
「寝ていろ。かなり飲まされたのか?」
「酒はほとんど飲まなかった。最後に無理やり流し込まれて、その中に何か仕込まれていたんだと思う。気分が悪い」
尚之は信乃夫の額に手をあてて、熱を見る。
「少し熱っぽい。話は明日でいいから、もうやすめよ」
再び横たわった信乃夫に、尚之は掛布団を首までかけ直してくれた
額に残された尚之の手の感触を反芻しつつ、信乃夫は目を閉じた。
後日、尚之の伯父が銀行に圧力をかけて調査した結果、田内が地位を利用して銀行の金を流用していたことが判明する。横領罪で田内は逮捕されたが、余罪のかどわかしの件は届がないので裁かれなかった。ゆえに信乃夫や他の被害者の名前も表には出なかったが、今後、そのことで噂が出たり、それを理由に被害者達に接触しようとすれば、恥も外聞も関係なく被害届を出すと半ば脅す形で田内には言い含められた。更なる罪で裁かれたくはないことと、関係した『客』達は地位や名誉のある大物と思われ、それこそ表沙汰になれば、自分の命は刑務所の中でも危険に晒されると判断したのか、田内はそれを大人しく呑み誓約書を残した。
それから信乃夫のもとに、来年度の学費の半分に相当する見舞金が届けられた。あの「浅野」と言う男からだった。彼も今回の不祥事は表ざたにはしたくないのだろう。あるいは尚之の親戚筋と取引があるのかも知れない。何にしても信乃夫は当面、学費で頭を悩まさずに済む。働き先もゆっくり探せる。とりあえずは、もともと勤めている料亭で働く時間を増やした。手を使う仕事になるが、贅沢は言っていられない。
今回、尚之は親身になって動いてくれた。
容子に警察に連絡させてあったとは言え、たった一人でどんな状況かも知れない場所に乗り込み、信乃夫を救い出してくれたのである。つまり夢の中だと思ったことは現実だった。抱きしめてくれた温もりは、本物の尚之のものだったのだ。その上、信乃夫の不利にならない事後処理を見越し、心を砕いてくれた。おそらく学校関係者で知っているのは、他には容子しかいないと思われる。親族の力を使ってまで穏便に、且つ、相手が信乃夫に手出し出来ないように考えてくれた。
(なぜ、尚之はこんなに親身になってくれるのだろう?)
もともと友情に厚い男だが、今回、信乃夫は身を持って知った。自分が思う以上に大事にされているとわかり、信乃夫は面映ゆいと同時に、嬉しかった。
「もう容子に心配させるようなことはするなよ」
「容子?」
「次の日、容子が朝、学校に行く前にうちに寄ったんだ。おまえは熱を出して寝込んでいたから部屋には入れなかったんだが、戸口のところから中を見るなり泣き崩れて、しばらく立てなかったくらいだった」
(抜かった)
信乃夫は心の中で独りごちた。
この手のことには――女性が自分に好意を抱いていることに対しては、本来、信乃夫は敏感だった。感じ取ったなら、なるべく接点を持たないように努めた。「男女七才にして席を同じうせず」が染みついている時代である。たいていは信乃夫に話しかけもしないまま、諦めて消えて行った。中には積極的な性質の者もいたが、信乃夫の脈がないと感じるのにそう長くはかからなかった。
鶴原容子は慰問トリオの一員であるし、長身で丸みの足りない少年じみた体型と男勝りな性格、はっきりした物言いが異性を感じさせなかった。尚之と二人で始めた慰問活動に彼女が加わりたいと言った時、反対しなかったのはそれがあったからだ。むしろ尚之との方が親密で、信乃夫の胸の内を違った意味で揺さぶったため、探知感覚が鈍ったのだろう。
尚之から聞いた容子の話は、一見、友人を心配している風にしか聞こえない。しかし蘇えった感覚がが、それとは別の、彼女の感情の在処を教えた。
「容子はあんな風に泣くんだな、初めて見たよ」
そして尚之の呟きの中に、彼の複雑な表情も見抜く。容子の泣き顔を思い出し、彼の頭は今の瞬間、彼女で占められている。更にその表情で、彼の中の自分の位置を思い知る。親身なのは、やはり友情の延長に過ぎないと。
「気を付けるよ」
信乃夫はそう答えると、尚之にわからないように息を吐いた。
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