[ 一九四五年 ]
各持ち場、各部屋からは宴会のような賑やかで朗らかな声が聞こえていた。
出撃命令の訓示の後、それぞれ持ち場に戻り、翌日の準備をした。それが終わってから身の回りの整理をし、散髪などで身奇麗にして、家族に手紙を書いたり、読書や花札などの遊戯に興じたりと、思い思いの時間を過ごした。しばらくしてから酒保(売店)が開放されると、この艦で最後となるかも知れないささやかな宴会が、そこここで始まった。明日、死への航海に出るとは思えないほど、飲んで騒いだ――もっとも出撃が前提の航海であるので、ある程度の自制はなされたが。それでも生きている喜びを心に刻み付けておこうとしてか、飲めない者も等しく『末期の酒』に酔い痴れていた。
部屋と言う部屋のドアは開けられ、部署の垣根なくその場の宴の輪に入って行く。皆、笑顔ではあった。しかし泣き笑いのようにも見えなくなかった。おそらく信乃夫自身の笑顔も、顔色を見るのに長けた人間であれば、真からのそれではないと見抜いただろう。信乃夫は自分を含めたそんな笑顔を見るのは切なかった。
無意識に視線を逸らした先、開け放したドアの外を、同期の水測士・印南が通りかかるのが見えた。信乃夫と一瞬目が合ったが、彼は軽く会釈するとそのまま歩いて行ってしまった。いつもなら一言くらい声をかけて行くはず。信乃夫は腰を上げて、ドアのところに歩み寄る。印南は上部甲板へと続く通路を進んでいた。
「どうした、池辺? 便所か?」
「ああ、ちょっと」
「ならどこかで酒を調達してきてくれ」
信乃夫は「わかった」と答え、印南の後を追った。
ハーモニカが得意なことで知られている信乃夫は、あちらこちらの部屋から呼び止められた。それらを上手く躱しながら歩を進める。印南の姿はすでに見えなかったが、階段を上がって行く音を聞いたので、彼が甲板に上ったのはほぼ間違いない。たとえ彼がいなくとも、信乃夫は甲板に上がろうと部屋を出た時から決めていた。楽しいばかりではない宴に少しばかり息苦しさを感じて、頃合いを見計らって座を外すつもりだったからだ。
甲板に出ると、潮風が頬を撫でた。四月初旬の海面を渡ってくる夜風はまだ冷たいが、酒が入っているせいか寒さは感じない。
灯火管制で辺りは暗かった。明日にも下弦となる儚い月明かりが、目を闇に慣らす。印南が船縁に近づいて行くのが見えた。前かがみになるように彼の背が丸まったので、信乃夫は「印南!」と声をかけ、足早に近づく。
「池辺」
「そんなに身を乗り出したら、落ちるよ?」
「海面を見ようかと思ってな」
印南がそう言うので、信乃夫は胸を手すりにもたせ掛けて下を見た。なるほど、身を乗り出さないと海面は見えない。ただ下は真っ暗で、船体に当たって砕ける微かな波の音がなければ海とはわからなかった。海面と思しきそこは闇の世界に続く静寂(しじま)の淵に見え、そのまま引き込まれそうに錯覚する。
「君こそ落ちるぞ?」
足が浮くほどに海面を覗き込む信乃夫を見て、印南は笑った。
「酔いを醒ましに来たんだが、君も?」
信乃夫がそう言うと、印南は「ああ」と答える。
印南龍之介は信乃夫と同時期に学徒出陣で動員された名門私立大学の学生で、横須賀の海兵団で一緒だった。赴任地は別になったが、レイテ沖海戦以後に再編成された艦隊で、偶然、同じ艦となり、再会したのである。
学徒動員兵で同期、東京出身、お互い根っからの文系と言うこともあり、二人は気が合って、休憩が一緒の時などはよく話しをした。だから先ほど、目が合いながら声もかけずに印南が行き過ぎたので、信乃夫は気になって後を追ったのである。
いかにも文学青年風の印南は、ややもすると哲学的で冗談が通じなさそうに見えたが、話してみると気さくで笑顔が多く、冗談も人並みに口にする。しかし今夜は第一印象で受ける気難しげな表情が勝っていた。信乃夫にはその理由が想像出来た。明日の出撃に思うところがあるのだろう。
「本当のところ、酒宴が息苦しくて抜けてきた」
並んで眼前に広がる海を見ながら、印南は言った。傍らの信乃夫の耳にようやくと届く、呟きに近い声音だった。
「実は僕もさ」
信乃夫が顔を向けると、彼もこちらを向いて哲学者染みた表情を崩し「ふっ」と笑った。
「十七年しか生きていない水兵までもが建前を口にするのがきつい。『死ね』と言われて、それを肯定することしか出来ないなんて、何とも切なくてな」
信乃夫も感じていたことを、印南は口にする。同期で、学問の道半ばにして自ら望んだ形ではない出征を課された者同士だからこそ、漏らせる本音だ。
印南は胸ポケットから何かを取り出す。手製のお守り袋だった。その中から小さく折りたたんだ紙片を取り出し、広げて信乃夫に渡した。受け取って目を凝らして見ると、赤ん坊を抱いた女性の写真だとわかった。
「妻と息子だ」
「君、子供がいたのか?」
写真を印南に戻す。
「半年前に生まれたんだ。まだ会ってなくてね、だから父親として実感がない」
印南が妻帯していることは知っていた。出征が決まってから見合いをし、結婚したと言う話だ。今の時代、珍しくもないことだった。
「どうしても子を残してくれって親に泣かれて、出征の一週間前に結婚したんだ。だから正直言って、結婚した実感はなかった。この一年半、休暇で帰ったのは五日もない。互いにまだ『です、ます』で話すんだから、父親になったと言われてもね。生まれたと連絡が来ても『ああそうなんだ』くらいで」
彼はしばらくそれに目を落とし、また畳んで袋に仕舞った。
「それでも不思議なもので、明日死ぬとなると無性に二人に会いたくなる」
「もう『家族』だからだろう?」
印南は浅く息を吐いて、「そうかもな」と答えた。
「僕はね、池辺、こうなってしまった今、後悔しているんだ」
信乃夫に本音をもらしたせいか、あるいは明日が最期と思っているためか、印南は続けた。
「後悔?」
「両親の頼みをどうしても断れなかったことをね。親孝行のつもりだと思って、初子を、妻を娶ってしまったけど、それは初子にとっては不幸なことだったんじゃないだろうか?」
息子が成人するまで、多分、彼女は『家』に縛られる。たとえ再婚が許され家を出ることになっても、子供は両親が離すまい――印南は呟くようにして言った。
「俺は初子の一生を縛ってしまったも同然だ」
親のために出征直前に結婚し、夫婦と言う実感が湧かないと言いながら、印南は妻のことを不憫に思い、彼女の一生に対して申し訳ないと思っている。それはつまり、ちゃんと彼女のことを想っている証拠ではないのか…と彼の口調から信乃夫は感じ取った。印南の話から夫婦と言っても数えるほどしか会っていないことがわかる。出征間近の人間と見合いし、結婚を承諾したと言うことは、彼女本人もこうなることは覚悟の上だったろう。子供を成すことを前提に結婚したのであれば、感謝と子供の行く末を頼むことはあっても、彼女の人としての一生を慮る言葉は出ないのではないか?
「それに父親としての実感が薄くても子供がいると思うと、死にたくないと思ってしまってな。独り身だったなら、こうは考えなかったろうに」
沈鬱な表情に生への執着が見て取れる。建前で散華を望む切なさより、人間らしくてずっと良いと信乃夫は思った。
「だったら、生きて帰ればいいことだろう」
印南は信乃夫を見た。
「特攻と言っても零戦みたいに一機で突っ込むわけじゃないんだし、確実に死ぬとは限らないじゃないか」
「池辺」
「妻子のもとに帰るんだって気持ちがあったら、簡単に諦めないだろう?」
信乃夫は笑った。
「池辺も、そんな風に想う相手がいるのかい?」
信乃夫は目を印南から海の方に向けた。
「いると言えばいるかな」
手すりに肘をつく格好でもたれると、尻ポケットに入れたハーモニカが存在を主張する。信乃夫はそれを取り出して見つめた。
「片想いだけれどね」
「池辺だったら、どんな女とも想いを通わせられるだろうに」
「望みのない相手なんだ」
「なんだ? 成さぬ仲? もしかして人妻なのか?」
さきほどまで神妙だった印南の表情が、少し和らいでいる。黙っていれば哲学者に見えなくもない彼だが、普通に俗なところも持ち合わせているらしい。
「まあね、いずれは人のものになってしまう人さ。それにもともと僕は楽観的だから、いつだって生き残る気ではいるんだよ。運も良さそうだし。何しろ『不沈』と渾名される軍艦に乗ることが出来たのだからね。それだけでも確率が高くなると思わないか?」
印南は「なるほど」と妙に納得した風で、ようやく心から笑みで頬が動いた。
「彼女も音楽を?」
「ヴァイオリンをね。僕がいつも伴奏をしていたんだ。またあのヴァイオリンと合わせたいと思っているよ。もっとも、もうずい分ピアノに触っていないし、手は傷だらけだから、前のように弾けるかどうかわからないけど」
左手の甲と手のひらを反転させながら見る。細かな切り傷や火傷の痕がついていた。手すりを鍵盤に見立てて弾く真似をする。指先に伝わる手すりの冷たさが、冬の日のピアノの鍵盤を思い出させた。
信乃夫の軽やかな指の動きを見て、印南は「いつか池辺の演奏を聴いてみたいな」と言った。
「じゃあ、それも僕の生き延びる理由の一つに加えておくから、君の『覚書』にも入れておいてくれよ」
印南は一瞬瞠目した後、今度は口元にはっきり笑みを浮かべ頷く。
「そうだな。ぜひとも彼女との合奏を、家族で聴かせてもらうよ」
「それまではこれで我慢してもらおうかな」
右手に持っていたハーモニカを唇に押し当てる。短いスケールで音の出を確認した後、『すみれの花咲く頃』を吹き始めた。尚之が出征するとわかった慰問カルテットの最後の練習の日に、容子の歌と信乃夫の伴奏で餞別とした曲だ。途中で尚之自身がヴァイオリンで加わり、信乃夫にとって忘れえぬ曲になった。
第一期の学徒出陣で一足先に尚之は陸軍に入営した。大陸に出征した後、連絡は取れていない。三月に東京は大空襲に見舞われ、容子や信乃夫達『慰問団』の一員となった下級生の高柳鼎の安否も知れなかった。
(みんな、無事なのかな)
自分の唇が奏でる旋律を耳にすると、あの教室で聴いた尚之のヴァイオリンの音色と、容子の美しいソプラノが甦る。
信乃夫は目を閉じて、その音色に想いを馳せた。
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