永遠の音楽


(二)


 私が音楽学校に入学した頃の日本のことを少し話しておくと、一言で言って疲弊していた。
 開戦当時の連戦連勝――と知らされていた――の優勢は、昭和十七年六月のミッドウェー海戦の大敗を境に劣勢に転じる。
 ミッドウェーでの大敗は隠蔽され、国民に知らされることはなかったが、以後の戦況の悪化はどんなに時の政府や軍部が取り繕っても、「お国のために」集められた人間の、「帰らない」比率が高くなると広がる。その上、日々の生活の制約が増えるに従い、綻びは隠せなくなっていた。昭和十八年四月、ついには名将と誉れ高い連合艦隊司令長官・山本五十六海軍大将を失うに至ると、さすがに国民も衝撃を受けざるを得なく不安が広がる。
 ただ徹底した思想教育によって「まだこれからだ」、「日本は神の国だから」と言う根拠のない自信と誇りが国民には植え付けられていた。それに加えて官憲などに取り締まりや監視が厳しくなり、言論や行動の自由が制限された為、引き返すことも立ち止まることも出来ず、滅びの道をそれとは知らずに進まざるを得なかったのである。
 世間とは違う独特の空気の中にあった音楽学校も、その実、戦争とはまったく無縁ではなかったことを、私は入学して間もなく知る。
 学生は勤労動員として軍需工場や土木関連の現場、農業などの作業に従事させられ、授業時間は平時とは比べられないほどに減っていた。
 男手が不足している「外」では男子学生は重宝がられるものの、人々の目の中に冷ややかなものが混ざらなくもない。身体的に何ら欠陥も見出せない若い男が、学生と言うだけで徴兵を猶予されている。国のためになる理工系や医学部ならまだしも、およそ役に立ちそうもない音楽。ましてや音楽学校と言えば良家の子女が集うイメージがあり――実際そうであったし――、中には「兵隊に行くのが嫌で学生をしているのだろう」などの陰口を言う、あるいはあからさまに口にする人もいた。
「苦学生もここにいるんだけどなぁ」
 信乃さんはそう言って苦笑した。彼は夜間、カフェーで働いていたからだ。
 信乃さんの父親は、無声映画がトーキーに取って替わられるまで活動弁士をしていて、幼い頃はよく仕事場である映画館に出入りしていたらしい。ピアノは映画館楽士達に遊びがてら手ほどきを受けたと言うことだった。上達の早さに、楽士達は「音楽学校に行けるぞ」と素質を見抜き、それが信乃さんの夢と目標になった。
 しかしトーキーの波に押され、父親は活動弁士を廃業、楽士達も映画館を去り、音楽の道はそこで一旦途切れた。素質を保証されたところで父親がそれを許すはずも無かったからである。基礎は楽士達に習ったとは言え、後は学校や教会に暇を見つけてオルガンを弾きに行き、ほぼ独学で音楽学校に入ったと言うから、やはり楽士達の目――耳は正しかったと言えよう。合格したものの入学は諦めていたら、以後の学費を自分で何とかするなら良いだろうと、両親は当面の授業料を工面してくれたと言う。
「兄貴二人がお国のために命を捧げてんだから、一人ぐらい残しておきたいって親心だよ」
 信乃さんの二人の兄のうち一人はまだ生きて戦地にいたが、それでも当時の戦況を考えるとどうなるか知れない。信乃さんは戻って来ないものと思って、そう表現したのだろう。
 ともあれ、そんな羨望と侮蔑の入り混じった視線を受ける私達、音楽学校生ではあったが、慰問で訪れる先々では大変喜ばれた。演奏するのはクラシックばかりではなく、むしろ流行歌や唱歌などの親しみやすい曲が主であったからだ。
 私は尚さん、信乃さん、容子さんのトリオに付属だった。
「鍵盤は二人も要らんだろう?」
 尚さんは最初そう言って、私が同行する必要性を認めなかった。彼らはトリオとして絶妙のバランスを保っていたし、私が同学年の友人よりも、自分達とばかり行動したがるのはどうかと思っていたようだ。それに私が流行歌や民謡を弾く事にも難色を示した。
「鼎のピアノは、そんなものを弾くピアノじゃない。指が荒れたらどうする?」
「じゃあクラシックだけでも良いじゃないか。授業には伴奏学だってあるんだから、尚之とだったら良い練習にもなるよ、ねえ?」
 信乃さんがそう言ってとりなしてくれた。彼の「尚之とだったら良い練習になる」と言う言葉のところで、尚さんの伴奏をすることを目標にしてきた私は、大きく頷いて見せたものだ。
 尚さんは首を振った。
「俺のヴァイオリンとじゃ合わない。鼎の音は柔らかすぎる」
「僕だったら良いんだ?」
「信乃は器用だし、伴奏向きだ」
 後々になって、尚さんが私のピアノを高く評価してくれていたことを知るのだが、その時は信乃さんが羨ましくてならなかった。
 信乃さんは苦笑した。
「複雑。だったらカナちゃんは僕と連弾しよう。それなら良いだろう? 好きなように弾けばいい。『器用で伴奏向き』な手で合わせるよ」
 尚さんはまだ何か言いたげであったが、信乃さんが譲らなかったので、私はやっと彼らと行動を共にすることを許された。
 慰問では容子さんによる一人二役の似非宝塚歌劇団が、特に好評を博した。言わばオペレッタで、芝居がかった部分では男役を、歌の部分では見事なソプラノの女役を披露する趣向である。
「やっぱりお芝居するのって楽しいわねぇ。反対押し切って、宝塚に行けば良かったわ」
 容子さんは溜息交じりでよく嘆いた。
「芝居ならオペラがあるじゃないか。素晴らしいソプラノを与えられているのに、男役になったら使えないだろう?」
 容子さんを宥めるのは、いつも尚さんの役目だ。
「オペラなんて、いつ出来るのよ。それに日本の男は小さすぎるわ。衣装つけて靴を履いたら、私の方が大きくなるじゃないの」
 容子さんは私達四人の中では尚さんの次くらいに背が高かった。当時としては珍しい。本人はそれを別段気にする風でもなかったが、信乃さんの隣に立つ時は少し猫背気味になった。彼女は信乃さんに友情以上のものを抱いていたのではないかと思う。一番背の高い尚さんとはともかく、私と並ぶ時は考慮なしだったから。
「ああ、早く戦争が終わればいいのに。そうしたらアメリカのミュージカルやフランスのレヴューだってたくさん演れるし、観にも行ける。宝塚だって、元の素敵な舞台に戻るはずよ」
 私達だけで集まる時は、彼らは躊躇いもせず敵国名や敵性語を使った。戦争は人間同士がするもので、芸術に国境はないと言うのが理由だった。そんな自由なやり取りを、初めのうち、私は面食らったものだ。
 私達は四人でも積極的に慰問活動をした。請われれば井戸端会議をするような町の一角ででも、出向いて演奏する。そんなピアノやオルガンのない場所では、信乃さんはアコーディオンを学校から持参した。
 彼らは士気高揚を鼓舞する曲をしないことがモットーで、耳に心地よく、塞いだ気持ちを和ませる曲を選んだ。「それは敵国音楽じゃないのか」と咎められると、「同盟国のドイツやイタリアのものですよ」と丁寧に説明する。曲に謂れや逸話があれば、わかりやすく、時には面白おかしく語って聞かせ、文字通り聴く人の心を慰めた。
 そうした三人の豊かな音楽性と、音楽に関しては「何ものにも縛られない」と言う気概が、私を惹きつけて止まなかったのだ。

   
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