――――4
昨日の喧騒が嘘のように、日付の変わったE.R.は静かだった。夕方に少しバタバタとしたが、昼間とは違いスムーズに対処出来る程度で、忙しさの元の将棋倒しの重傷者達は、動かせない者以外、別の病棟に移されて行った。ここ数日間では一番静かな夜を迎えたのである。
りく也はドクター・ラウンジで医学書を開いていた。夕方の一時の忙しさの為にまたも帰りそびれてしまったのだ。それで提出期限が迫るレポートの下書きをしながら、次の勤務時間を待つことにしたが、本は開いているだけで読んでいるとは言えない状態だった。頭の中は忙しくなる少し前の、搬入口の外でのことに占められていたからだ。
初めて会った兄の恋人――加納悦嗣は『感じのいいヤツ』だった。恋人と言うよりは良い友人と言った風で、今までの恋人達のようにさく也が可愛くてしかたがない的なものは感じられなかった。兄に初めて出来た友達。それがりく也の第一印象である。もう一人のユアン・グリフィスの方がよほど恋人然として見えた。彼が持っていたドリンクの一つはさく也の為のもので、甘い笑顔付きで手渡した。こちらは以前の恋人達と大差ない。
「あ、何だ、帰ってなかったのか?」
ケイシーが入って来た。手にはどっさりとカルテを持っている。それをりく也の座る大きなテーブルの上に放り出し、コーヒー・メーカーに歩み寄った。りく也にも「飲むか?」と確認し、二つの紙コップにコーヒーを注いだ。
「帰りそびれたんです」
カップを受け取って、答える。ケイシーは向かいに座った。意識は今に戻ってきた。
「兄貴が来たんだってな?」
昨日から何度目かの同じ質問である。りく也は苦笑した。家族が会いに来ることは別に珍しいことではない。ケイシーの二人の子供は父親の職場を見に来たし、ロバートの元ミス・カルフォル二アの――今は想像出来ないくらいに太っている――母親が着替えを持ってきたこともある。他にも友達や配偶者、異性・同性の恋人などが訪れたことがあったが、りく也の時ほど話題にはならなかった。
「たかが兄貴が来たくらい、珍しいことじゃないと思うけどなぁ」
皮肉めいた口調は隠さない。ケイシーがニヤリと笑った。
「普通の兄貴だったらな。やけに目立った三人組だったって聞いたぞ。ヴァイオリニストなんだって? 今年のちゃいころすきー、最有力なんだってな? すごいな」
「それを言うならチャイコフスキーですよ、ケイシー」
どう見てもR&Bしか聴いていなさそうなケイシーの口から、チャイコフスキーの名が出ることには相当に違和感があった。「すごい」がどれくらい「すごい」のか、わかって言っているとも思えなかった。大方、誰かからの入れ知恵に違いない。彼は頭を掻いて、持ってきたカルテを開いた。
「クラシック好きの部長なんかは、あの派手なブロンドに大騒ぎだったけどな、他はみんな、おまえの行動に驚いてたぞ。本当に兄貴なのか? あの飛びつき方は違うだろ?」
「兄貴だってば、正真正銘、十五分違いの」
からかい口調のケイシーに、乾いた笑いで答えた。
「ずい分会ってなかったから、ちょっとはしゃいだだけですったら。ご期待に添えなくて申し訳ありませんがね」
「それじゃ、重症なブラコンだな」
違う声が割り込んだ。声の主はジェフリーで、彼はまっすぐロッカーに向かった。やはり予定よりずい分オーバーしてのオフだった。
「ICUのモンローをすっぽかしたろ?」
「ちゃんと断った。それに兄貴の為にキャンセルしたんじゃないぞ。夕方はそれなりに忙しかったじゃないか?」
「どーだかなー。いつもと雰囲気違ったもんなー。mouth to mouthだし。噂、変わったぜ。リック・ナカハラはブラコンでゲイ。満たされない性欲を、女で処理してるって」
りく也はレポート・パッドを一頁千切って丸め、ジェフリーに投げつけた。
「みんな忙しくて、煮詰まってんじゃないのか? だいたい後半はおまえの創作だろーが」
後頭部に軽い音を立てて当たり、床に落ちた紙屑をジェフリーは拾い上げ、今度はりく也に向けて投げ返した。しばらく紙屑の応酬が続いたが、ケイシーの嗜める声がかかったので、りく也の手からごみ箱にパスされて終わった。ジェフリーは腕時計に目をやる。
「遊んでる場合じゃない」
そう言うと手を振って足早に帰って行った。それでなくても大幅にオフを削られている。さっさと帰らないと足止めを掛けられかねないからだ。医学生は何しろ、使い走りだから。
彼が出て行くとりく也を肴にした話も終わり、ケイシーは山と積まれたカルテの整理に取り掛かった。が、すぐにナースが呼びに来て中断せざるを得ず、頭を掻きながら出て行った。
そうしてまた、りく也一人になった。
重症なブラコンだな
そんなことはジェフリーに指摘されるまでもなく、りく也はとっくに自覚している。
八才の時にりく也は、跡取を必要とした遺伝子上の父である男に引き取られた。不倫の末に生まれた彼はその妻と子供達に存在を認められず、大財閥の後継者として厳しく教育される。優しかった実母と仲の良い兄が恋しくてたまらなかった。しかし瞼の母が手元に残った兄を虐待し続け、ついにはその首に手をかけて殺そうとしたと知った時、そして、ショックで感情を失くして空ろな瞳の兄を見た時、りく也は――子供は大人に夢を見ることは止めた。この世で信じられるものは、同じ日に同じ子宮から生み出され、辛い境遇の中で育ったさく也だけ。後はすべて敵。りく也はそう思って生きて来た。
医学書に目を落とす。専門用語を解するほど大人になったが、りく也は精神的にあの頃と少しも変わっていない。人好きのする人気者のその実は、人間不信のまま育った、どうしようもない子供なのだ。だから、さく也の幸せを素直に喜べない。あの笑顔を向ける最初の相手が、自分でなかったことがこんなに悔しい。
「ざまぁねーな」
さく也の変わりようを見るのは嬉しい。加納悦嗣がいいヤツで良かったと思うことも嘘じゃない。
それでも人間の心は複雑で、ちりちりとした痛みがりく也を苛んだ。
――――5
四月の第四週、ひよこ達のE.R.ローテーションも最終週に入った。前半はお荷物だった医学生も今では立派な戦力となり、満遍なく重宝に使われている。
彼らが使えるようになったとは言え、E.R.の忙しさが緩和されるわけではない。患者を捌けるようになった分、受け入れる人数が増えるわけだから、相変わらずオフも休憩もままならない現状は、一ヶ月前と変わりはなかった。
「それでも、気分的に余裕が出来るってもんだわ。あーあ、やっと仕事を覚えてくれたと思ったら、次に回って行くんだから、まったく割に合わない」
スタッフ・ドクターのナンシー・コーンウェルが嘆く。
「また何ヶ月後かに回って来るじゃないか」
慰めるのはケイシーである。ナンシーは肩を竦めて「リセットされてるわ」と、記入しきれないほど名前が書き連ねてあるクランケ・ボードを見ながら言った。
そんな忙しいE.R.スタッフの最近の関心事と言えば、受付とドクター・ラウンジに飾られているバラの花についてだった。
バラは先週から三日と空けずに送られてくる。ビロードのような手触りの深紅の花は、素人目にも高価なものに思えた。それがニューヨーク一高級な花屋から、国際的なピアニストのユアン・グリフィスの名前で、医学生のリクヤ・ナカハラ宛てに送られてくるのだから、否が応にも関心を引くと言うものだ。
「また来た。すごいわねぇ。ざっと見ても五十本よ」
「七百$は下らないわね」
「花言葉は『熱愛』よ。どう、リック? 熱愛されてる気分は?」
受付でナース達が新たに来た花束を前に囀(さえず)っている。通りかかったりく也は感想を聞かれると、、
「光栄だね、何たって名高い『黄金のグリフィン』からだから。ああ、良かったらナース・ルームに持って行ってくれていいよ」
と気にしない風に笑顔で答えた。しかしその腹の内は、煮えくり返っている。だから踏み出す足に力が入っていた。
最初に花束が届けられた時、休む間もなくこき使われているサクヤ・ナカハラの弟を、励ます意味かとりく也は思っていた。話題には上ったが、花束が病院に送られてくることは珍しくなかったから、その場だけで済んだ話の筈だったのだ。ところが二日後にまた花束が届けられた。そしてその三日後にも。一週間に三回も届けられると、さすがに周りも黙ってはいない。ユアン・グリフィスはゲイであることを隠していなかった。更なる憶測の嵐が吹き荒れたのは言うまでもない。
りく也とてただもらい続けていたわけではなかった。まずウィーンのさく也に電話をし、ユアンの連絡先を聞いた。それから彼のニューヨークのマンションに電話を入れたが留守で、執事と名乗った男が出て演奏旅行に出ていると答えた。本人はヨーロッパだと言うのに、それからも花は届き続けた。配達人にもう持って来るなと言うと、
「ご本人に直接言って下さい」
の一点張りで、りく也が受け取りを拒否するや、他の人間にサインを貰ってバラを置いていくようになった。
ドクター・ラウンジは、だから、芳香で満たされている。疲れた心の癒しとはなっているが、りく也にはいい迷惑だ。花のおかげでりく也が話のネタにされ、スタッフを癒しているのだから。
「これもあとちょっとだ。来週はここにいないんだから」
花瓶がわりのコニカル・ビーカーに生けられたバラに独りごちる。
「リックは次、どこなんだ?」
テイク・アウトのハンバーガーを頬張りながら、ロバートが尋ねた。
「外科」
「僕は小児ICUだ。ここより楽かな」
「子供は恐いわよ。小さいから些細な量の違いが命取りなんだもの」
カーラは前回が小児ICUのローテーションだったとかで、その大変さをロバートに語って聞かせた。
医学生達の気持ちはすでに次のローテーションに移っていた。やっと使い物になった頃に学生は去って行くのだから、teaching hospitalの宿命とは言え、スタッフの苦労が忍ばれる。
「君達、出来ればレジデンシィはここを希望して欲しいもんだね。E.R.は面白いぞ。緊張感みなぎる現場だから、退屈しないこと請け合いだ」
学生達の会話に、カインが口を挟んだ。二年間の臨床研修で揉まれてそこそこ成長したレジデントは、万年人手不足の科にとって貴重な戦力になる。だから医学生の頃から目星をつけるのだが、たいていの場合、E.R.は敬遠された。
今回の学生達も御多分には漏れず、カインの言葉にアルカイックな笑顔で応えた。
「僕には向きませんよ。判断力も悪いし。この緊張感が続くと、胃に穴が開きそう」
ロバートが最初に意思表示した。カーラもそれに同意して頷く。
「その緊張感がいいんじゃないか、まったく」
「ジェフリーはE.Rを希望してますよ」
落胆するカインに、カーラは慰めるように言った。ジェフリーの評価はここに来て上がっていた。物覚えが良く、応用を利かせる能力に長け、遅刻は相変わらずだったが、その分居残りも厭わないので、いつの間にかスタッフ・ドクターの『人気』を、りく也と二分するほどになっていた。
「本当かい? これでリックが来てくれたら、取りあえずはここ数年は安泰だ。リックはもちろん来てくれるんだろう?」
「希望は精神科なんです」
当然、E.R.をレジデンシィ・プログラムで選ぶと思われたりく也の口から意外な専攻科が飛び出て、一同、「えーっ!?」と声を上げた。
「なんでまた…、その腕が泣くぞ」
カインは身を乗り出す。 精神科医は需要が高い割に評価が低い。メディカル・スクールと臨床研修で学んだ技術的処置が必要ないからだ。派手さを好むアメリカ人気質に合わないこともある。E.R.は多忙を、精神科医はインカム(基礎所得)と評価の低さを理由に、医学生が避ける診療科だった。
それよりも何よりも、りく也の判断力の良さと臨機応変な対応は、E.R.向きだと誰もが思っていたから、驚きの声は無理からぬものと言えた。
「俺は最初から精神科医になるつもりで、医学部入ったんですもん」
いつかきっと笑える日が来る。君がこんなに一生懸命なんだから。焦らないで。君の焦る気持ちは彼に伝染するよ。疲れたら、いつでも私の所にくればいいから。いいね?
そう言ったのは、ボストンで兄の主治医だった小児精神科医のドクター・グレイブだ。兄の感情を取り戻したくて、子供なりに焦っていたりく也を支えてくれた。第一は兄の為、第二は彼のカウンセリングに影響を受けて、精神科医の道を選んだ。
「でもまあ、まだ一年あるから気が変わるかも知れませんけどね」
兄にはもう、精神科医など必要ない。加納悦嗣が治しつつある。
「それはぜひとも期待したいもんだ。あ、でもここのE.R.を選んでくれよ」
期待を込めてカインが言うと、「考えておきます」とりく也は笑った。
「リック、お客さまよ」
ラウンジのドアが開いて、ナースのエミリーが顔をのぞかせた。意味深な笑みが口元に浮かんでいる。
「誰?」
「バラの騎士」
――――6
りく也とユアン・グリフィスは、緊急車両の進入口脇に立っていた。
西の空にオレンジ色の雲を残して陽は沈んで行った。摩天楼のシルエットが美しい日没は、ニューヨークの自慢の一つだが、マンハッタンに在るマクレインからは、残念ながら見ることは出来ない。従ってりく也はそれを堪能する為に、ユアンと佇んでいたわけではなかった。
この場所を選んだのはE.R.から死角になっているからだ。ユアン・グリフィスがりく也に会いに来たと知ると、手の開いたスタッフ達の好奇な目が受付に集中した。見世物になるのは真っ平御免のりく也は、みんなの前で平静に挨拶をし、さっさとその場を離れたのである。それに ここなら表通りがすぐだから、一言言ってやってユアンを追い返せる。
「いい加減に、花を送ってくるのはやめろ」
りく也の開口一番に言った。それに対してユアンは、
「好きな相手には基本だろう?」
と笑顔付きで答えた。
「迷惑だ」
「花は嫌いだった? じゃあ、次からは違うものにするよ」
「だから、そう言うことじゃないだろ。だいたい、好きな相手って何だ? おまえとは一回しか会ってないぞ」
ズボンのポケットからタバコを取り出す。ラウンジを出る際に突っ込んで来たので、潰れて曲がっていた。少し形を修正して、りく也は口にくわえた。ライターを忘れたので火は点けられない。それを承知で咥えるのは、気持ちが落ち着くからである。もともと激情型のりく也にとって、タバコは感情の抑止力として必須アイテムだった。
「回数なんて関係ないよ。恋に落ちる時は、一瞬でだって落ちるものさ。それに僕は恋がしたかった。そうしたら、目の前に君が現れたんだ。運命的にね」
ユアンがそう言うのを呆れた表情で見やり、咥えたたばこを手に戻す。
「とにかく花もプレゼントもお断りだからな。送ってきても、俺は受け取らない。じゃ、これで」
用は済んだ。りく也は病棟に戻ろうと足を踏み出す。
「あの時、君はとても切ない目をしていた」
呼び止めるように、ユアンが言った。
「何だと?」
相手の思惑通りに振り返ってしまった自分に、りく也は胸の内で舌打ちした。
ユアンは真顔になっていた。
「ドアから二人を見ていた時だよ。とても切なくて、僕は声をかけずにいられなかった」
搬入口から、さく也と加納悦嗣が話している姿を見ていた時のことを、りく也は思い出した。自分の知らない笑顔の兄――「まったくムカツクね」と複雑な気持ちのりく也の胸中を、代弁するかのような言葉が背後から聞こえたことも。
「俺はそんな顔した覚えはない」
「大事なものを取られたって顔をしていたよ?」
頬が一瞬、熱くなったようにりく也は感じた。
「その気持ちはよくわかるから、間違っていないと思うけど?」
「気持ち?」
「サクヤを他の人間に取られるって言う気持ちさ」
ユアン・グリフィスがパートナーにするために、兄のさく也を追いかけまわしていたことは知っている。ヴァイオリニストとしてもあったが、恋人として求めていたのだ。当のさく也にはまったくその気はなく、また音楽性が違うこともあって――これは曽和英介の言葉だ。りく也は音楽に対して無知に近かったから――、ついに「YES」と言わなかった。
そんなヤツの気持ちと一緒だと言うのか?
――他人のおまえに、何がわかるって言うんだ
恋愛感情と一緒にされてたまるものか。
「それがどうした。俺は筋金入りのブラザー・コンプレックスだからな。そんな顔してもおかしくないさ」
だから開き直ってやる。ムキになって反論して、相手を喜ばせることはない。にっこりといつものように外面宜しい笑顔を浮かべて、りく也は答えた。
「君はチャーミングだね。色んな表情を持っていて、サクヤとはまた違った魅力がある。ますます好きになりそうだよ」
抱きしめかねない勢いで、長い両手を広げた。りく也は身をかわす。
「生憎、女には不自由してないんだ。男を抱きたいとも思わないしな」
「僕は抱く方が得意だから、心配ないよ。きっと君も満足するさ、男同士のセックスも」
シュッ…と空気のなる音が聞こえた。りく也の右ストレートがユアンの左頬に向かう音だった。あわててかわしたユアンは、無様にアスファルトの上に尻餅をついた。そうして避けなくても、りく也の手は頬には到達しないで止まるはずだった。
「誰が本気で殴るか。次、また戯けたこと言って見ろ、今度は頬骨、折ってやる」
白衣の胸ポケットでベルが鳴った。E.R.からの呼び出しだ。
尻餅をついたままのユアンに背を向けて、大またで踏み出した。
「リクヤ、僕と恋愛しようーっ! 僕はあきらめないからー。追いかけるのは得意なんだー」
背後で叫ぶ彼に向かって、りく也は中指を立てた右手を走りながら思い切り振った。それに対して『黄金のグリフォン』が極上の笑みを贈ったなど、知る由もない。
「あ、何だぁ、一人で帰ってきたの?」
息を切らして戻ったりく也を、ナース達の落胆を含んだ声が迎える。彼女達に舌を出して答えにした。
外で話したのは正解だった。息抜き代わりに、面白がられることは目に見えている。今だって、本当の呼び出しかどうか怪しいものだ。外来はスムーズに流れているし、緊急搬送の連絡が入っている様子はない。戻って来たりく也を見る目は、ナースに限らず、興味津々だった。
「呼び出されたんだけど?」
受付のスミスは「知らない」と首を振った。
「みんな退屈してるのよ。今日は珍しく暇だから。ちなみにベルを鳴らしたのはケーシー」
カルテを戻しに来ていたナンシーは、患者を診ているケーシーを指差した。視線に気づいて彼は、親指を立ててりく也にウィンクして見せた。
「忙しけりゃ文句を言い、暇ならすぐに退屈する。ここはやっかいな所だなぁ」
りく也は苦笑した。
「そ。あきない所よ。だから、ぜひともレジデンシィはここにしてね」
「今から営業ですか? まだ一年もあるんですけど?」
「優秀な学生には早いとこ唾つけとかなきゃ。精神科なんかに盗られたら、大損失だもの」
ナースが持って来たカルテに投薬の指示を書き付け、ナンシーは時計を見た。
「今日は時間通りに帰れそうだわ。たまにはこんな日もなけりゃね」
彼女が首から聴診器を外して首を回したところで、緊急電話が鳴った。スピーカーから乗用車同士の衝突事故による怪我人の受け入れ要請が入る。人数は五人で、うち二人はかなりの重傷らしい。五分後に到着予定だと告げて、電話は切れた。
「あと十分でオフなのにぃ」
「退屈だなんて言うからさ」
天を仰ぐナンシーに、スミスが皮肉った。外した聴診器を首にかけ直し、彼女は搬入口に向かった。手の空いているドクターも、次々と搬入口に走る。五分なんてすぐだ。りく也も後に続く。
いつもの風景が戻って来た。不思議な高揚をりく也は覚えた。案外、自分はここに合っているのかも知れない。はっきりとした現実感が、余計な思考を止めてくれる。兄の代わりに自分を必要としてくれる――心の奥底に出来た小さな隙間を、忘れさせてくれる。
こう言う日常に埋没するのもいいかも…と、近づいて来るサイレンの音を聞きながら、りく也は思った。
end
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