Black [ 黒い手帳 〜エヴァンス編〜 ]





 デイビッド・エヴァンスの体調は、その日、芳しくなかった。
 朝、目が覚めると喉に違和感があり、初夏だと言うのに悪寒がした。熱は九十八度(摂氏36.7℃)程度だったので、そのまま出社したものの、時間が経つにつれ身体は重だるくなっていった。秘書の森澤が用意した薬をのみ、とりあえずランチ・ミーティングをキャンセルして様子を見ているのだが、書類に目を通すのがやっとの状態だ。
 いつもなら我慢せずにさっさと帰宅するところを、薬の効果を期待しておとなしくしているのは、夜に篁エレクトロニクスとの会食が予定されていたからだった。会食と言っても研究プロジェクトの定例報告会で、実際のところ、キャンセル出来ないほどのものではない。普段は出席しないことの方が多いくらいだ。しかし今夜は、相手方の専務・篁亜朗が出席する。
「やはり今夜はキャンセルなさって、お帰りになった方が」
「今日はミスター・タカムラが久しぶりに顔を見せるだろう?」
 篁は最近、別のプロジェクトを立ち上げて忙しく、軌道に乗ったノーブルウィングとの方は部下にまかせ、よほどのことでもないかぎり会合に顔を出さなくなった。そしてその多忙に比例して、エヴァンスとの二人だけの時間もめっきり減っている。今夜の会合の後、二ヶ月半ぶりに会う約束を取り付けた。たとえ篁の目的が来月開かれる駐日大使のホームパーティーだとしても、エヴァンスにとって彼と過ごす時間は甘やかなものであることに変わりはない。
「でも…そうだね、彼にうつしでもしたら大変だ。カオル、今夜の予定はキャンセルだと、ミスター・タカムラに連絡を入れてくれたまえ」
「わかりました。ではご帰宅の仕度をなさってください。車の用意もしておきますので」
「ありがとう、すまないね」
 森澤が部屋を出て行くと、エヴァンスはイスの背に身体を預け、目を閉じた。
 きっと篁はこともなげにその連絡を受けるだろう。それとも少しは気にかけてくれるだろうか?――瞼の裏に篁の姿が浮かんだが、口の端で笑むだけで答えはなかった。




 帰宅前に社内の診療所で受診すると、エヴァンスの体温は百度(摂氏37.8℃)を超えていた。風邪の引き始めだろうと言うことで、あらためて薬を処方され、その場で飲まされる。
 診療所の外では森澤が待っていた。今夜の会食への欠席を先方に伝えたことと、ミセス・リードにベッドの用意と時間延長の連絡を入れた旨をエヴァンスに報告した。通いの家政婦であるミセス・リードは、エヴァンスが夕食を自宅で取らない日は午後五時に引き上げてしまうので、森澤は機転を利かせたのだ。
「ミスター・タカムラから何か伝言はあるかね?」
「お大事になさってくださいとのことです」
 社交辞令的な言葉は、篁本人の口から出たものではあるまい。エヴァンスは苦笑する。森澤が一瞬、訝しげな視線を寄越したが、エヴァンスは「何でもない」と車の後部座席に乗り込んだ。
「他にご指示はありますか?」
 車のドアを閉める際に、森澤が最後の確認をする。
「明日の予定はそのままにしておいてくれたまえ」
「わかりました。ですが、予定の調整は致しますので、無理はなさらないで、いつでもご連絡ください」
「ありがとう、その時は頼むよ」
 ドアが閉まったのを合図に、車は滑るように発進した。
 途端に急激な眠気がエヴァンスを襲う。薬の効果と発熱、それと多少なりとも部下の前で張っていた気が、緩んだせいもあるだろう。何にせよエヴァンスが自覚する以上に、体調は良くなかったというわけだ。もし誰もいない自宅に戻ったなら、とりあえず横たわったソファでそのまま寝入って、風邪をこじらせたに違いなかった。ミセス・リードに連絡を入れておいてくれた森澤に、エヴァンスは心の中で感謝した。
 うとうととする中、一冊の黒い手帳が脳裏を過ぎる。篁の第一秘書・暮林の持ち物である。彼もまた森澤同様、有能な秘書だった。
――思えば、あの黒い手帳が曲者だ。
 篁の第一秘書は近森美沙が務めていたが、彼女は妊娠・出産を機にもともとの社長付きに戻り、第二秘書だった暮林隆也が繰り上がった。
 彼がスケジュールを管理するようになってから、篁と会う機会がさりげなく減らされているように思う。今年ももう半分が終わったと言うのに、彼とプライベートな時間を過ごしたのは三度に満たない。
 次の約束を取り付けようとすると篁は必ず暮林に確認した。それを受けて暮林が内ポケットから取り出すのが黒い手帳で、たいていすぐにはアポイントメントが得られない。近森は目的――つまり見返りになるパーティーや会合がなくても、エヴァンスのために篁の時間を調整し都合してくれたものだが。
 第一秘書に就任して日が浅い暮林に、そう言った融通を利かす余裕がないのか、それとも篁にとってエヴァンスの利用価値がなくなりつつあるのか。後者であるなら、自分がそれ以上の存在になれなかったことを思い知らされているようで、体調不良のエヴァンスは、更にブルーな気分になった。



 
 自宅では、すっかりベッドの支度が整っていた。ランチをほとんど口にしていないことが森澤から連絡されていたのか、ミセス・リードは消化の良い材料でスープを作ってくれていたが、今はすぐに横になりたかった。
「召し上がれますか?」
「後で頂く。急なことですまなかったね」
 彼女に着替えを手伝ってもらい、エヴァンスは早々にベッドに入った。
 車を降りてから一時的に覚醒したものの、眠気はすぐに甦る。しかし薬によってもたらされた不自然な眠りは、完全に意識を失うまでには至らず、エヴァンスは目が開いてるのか閉じているのかわからない状態だった。
 するとまた、あの黒い手帳が登場した。
 最初、篁に対する気持ちは、興味以外になかったはずだ…と、朦朧とする意識の中、エヴァンスは考える。「初めまして」と言葉を交わした瞬間から、あの抜け目のない闇色の瞳に囚われた。野心的でありながら餓(かつ)えたところがなく、形容しがたい独特の雰囲気があった。彼との時間は刺激的で、退屈しない。
 自分の方が圧倒的に立場が上だとわかっているのに、なぜが篁相手には強気に出られずにいる。いつのまにかエヴァンスは、彼が望むような『情報』を自ら与えて、逢瀬の理由を作っていた。
 篁と過ごしたニューヨークでのクリスマス休暇は楽しかった。この夏も何とか彼との時間を作りたい。それにはあの黒い手帳を開かせないほどに魅力的な『メリット』が必要だ。
「メリットが必要と言うのも、情けないが…」
 エヴァンスは独りごちた。
 篁との時間は、あの手帳次第。もしかしたら最大の『ライバル』なのかも知れない――その『ライバル』をかわして得た今夜をふいにしてしまった。自分の体調管理の拙さが、エヴァンスは悔やまれてならなかった。
 手帳から染み出たような黒い闇が、あやふやな視界をじわじわと侵食する。そうしてエヴァンスは、ほんものの眠りの淵に落ちて行った。
 どれくらいか経って、寝室のドアが開閉する気配をエヴァンスは感じた。ミセス・リードだろうか。いまだはっきりしない意識の中、エヴァンスは目を開けようと試みたが、重い瞼は言うことを聞かない。
 ようやく薄く開いた目が、ゆらゆらと近づく人影を捉える。
「今日は遅くなってしまったね。ありがとう…」
 横たわったままの、あきらかに病人然とした姿を女性に見られるのは、エヴァンスにすれば不本意なことであった。せめてミセス・リードの目を見て礼を言いたかったが、再び瞼が視界を閉ざす。それでもどうにか謝意を言葉にした――呂律が回っているかどうかは別として。
 不意に額に手が乗せられた。額全体を覆う骨ばった長い指は、柔らかで温かな女性のそれとはおよそ違う。秘書の森澤が、帰宅の折に様子を見に寄ったのだろうとエヴァンスは思った。
「…カオル、何か報告があるのかね?」
 瞼を無理やり上げる。灯の落とされた空間に、ぼんやりとスーツ姿のシルエットが浮かんだ。ああ、やはり森澤なのだ。エヴァンスの問いかけに、「いいえ」と答えが返ったこともあって確信した。
 ベッドの端が少し沈んだ。彼が腰を下ろしたことが窺えたが、森澤にしては珍しくフランクなことだ。すぐに額の汗をハンカチのようなものがぬぐったので、そのための所作であるなら肯ける。
「ありがとう」
 エヴァンスは額から去る手を追って握った。いつもの調子で往なされるかと思ったが、その手に引く様子はない。
「たまには病気になるべきだな。こうして手を握ることも、大目に見てもらえるのだからね」
 よほど弱って見えるのかも知れない。子供ほどに若い部下に心配をかけることもまた、エヴァンスには不本意だった。だから少しでも普段と変わらない「らしさ」を見せたい。エヴァンスは握った彼の手を引き寄せた。そうすれば、森澤は慌てて身体を離そうとするだろう。
 しかし彼はエヴァンスの手をやんわりと外しただけ。違和感を覚えなくもないが、目を開けていることはそろそろ限界だった。
 エヴァンスはどうにか口元に笑みを作り、やっとのことで低く「残念」と呟いた。それに応じて「眠った方が良い」と言った類の答えが、息がかかるほどの耳元で返り、ブランケットが肩まで引き上げられた。
 ふわりと微かな香りを含んだ空気が動く。普段、森澤が使っているコロンとは違う気がした。西洋的ではないエキゾチックな香りは、まったく知らないものではない。むしろ、忘れがたい匂い。


『君は変わったコロンをつけているんだな?』
『これはコロンではないんですよ』


――まさか…?
 思考同様、鈍くなっている鼻腔が拾った匂いなので自信はなかった。それに、『彼』がわざわざ見舞いに来るとも思えなかった。彼にとってはアポが一つキャンセルになっただけのことだ。とは言え、先ほど聞こえた耳元での声とこの香りは、彼、篁ではないのかと期待させるに十分であったし、願望でもあった。
「…カオル?」
 一瞬、躊躇って口から出たのは、森澤の名だった。その呼びかけには答えはなかった。
 直接確認するにも完全に閉じてしまった目は、びくとも動かない。開けようとしても、瞼は痙攣に似た動きをするだけだった。そしてその動きも、降りてきた彼の手に阻止された。眠りを無言で促すかのように、手はしばらくそのまま留まった。
 自分のものとは違う体温。触れる面から広がる温もりが、エヴァンスの眠気を誘う。
 ほどなく意識は、本人の意思に関係なく遠のいて行った。






                           <end>2009.07.11

 
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