寝室のドアを開けると、空気が澱んでいた。空調は病人の負担にならない程度に設定され、換気も完璧のはずだが、存在が吐き出す健康ではない呼気が、独特の澱みを作っているのだろう。
篁は闇に目が慣れると窓にむかい、細く開ける。二十五階には地上の人工的な熱気が届かない。涼やかな夜の風がカーテンを揺らし、部屋の中を巡って、すぐさま澱みを払拭する。
篁は前髪を風に遊ばせながら、しばらく眼前に広がる夜景を見ていた。
「エヴァンス専務の自宅に寄ってくれ」
午後九時、ノーブルウィング社との定例会食を終えての帰路で篁がそう言った時、秘書の暮林は「はい」と答えたものの、バックミラー越しに合った目の表情は、その答えと裏腹だった。『夜通し』の予定がなくなってせっかく早く帰宅出来るのだから、おとなしく休んで欲しいと思っていることが見て取れた。今夜の予定も、何とか遣り繰りして作った隙間にねじ込んだものだった。その上、風邪で寝込んでいる人間の見舞いに行こうというのだから、秘書の立場からすれば止めるのが当然だ。
前任者・近森の後を受け第一秘書となった暮林は、最初でこそ篁が勝手に変更するスケジュールに翻弄され、後手に回るばかりだったが、今では完璧に行動管理を行っていた。若さに任せて精力的に仕事を入れたがる上司のプライドを考慮して、タイトなスケジュールを組みつつ合理性を徹底する。彼が常に携帯する黒いシステム手帳には、分単位で篁のスケジュールが書き込まれていて、何人であろうとその『審査』を受けないことにはアポが通らないと、実しやかに噂されていた。実際のところ、アポイントメントの受諾の有無は篁の意思が優先されるが、暮林はその調整を一任されていた。時間の貴重さは身にしみているからこそ、寸暇が出来れば上司には休んで欲しいと思うのはあたりまえのことである。
しかし暮林は黙って篁を送り届けた。
篁は暮林に、自分が着くまで待たせていたエヴァンスの家政婦を家まで送り届け、そのまま帰宅するように指示したのだが、彼が従わないことはわかっていた。篁がマンションのエントランスに姿を見せれば、車を横付けするだろう。
暮林がこの夜景のどこかで車を走らせながら、篁の『わがまま』に譲った今夜の帳尻を、どこで合わせるか算段しているかと思うと――それはたいてい、エヴァンスにしわ寄せが行く――、篁の口元は自然と綻んだ。
「今日は遅くなってしまったね。ありがとう…」
篁は、背後の声に振り返った。ベッドのエヴァンスに起きた気配は見られなかったが、微かに唇が動いているのがわかった。そばに近寄ると、「帰りは気をつけて」と言葉が続く。どうやら部屋に入ってきたのが家政婦だと勘違いしているようだった。
普段はよく通る魅力的なバリトンが、心なしか艶を失い掠れ気味だった。
病人然とした姿を女性に見られるのは、エヴァンスにすれば不本意なことだろうに、身体はベッドに沈むにまかせている。目を薄く開けたが、薬のせいか、それとも熱が高いゆえか、いずれにしても本人の思うままにならない状態で、それはすぐに閉じられた。
篁は手を伸ばし、彼の額にあてがう。掌に熱による汗を感じた。他人の手の感触で、エヴァンスの瞼が再び重たげに開く。
「…カオル? 何か報告があるのかね?」
今度は秘書の森澤馨のつもりで、エヴァンスが問いかける。篁が来るとは思いも寄らないから、間違っても仕方がない。
篁はあえて訂正せずに「いいえ」と短く答えると、そのままベッドの端に腰を下ろした。それからハンカチを取り出し、エヴァンスの額の汗を拭ってやる。
「ありがとう」
額から離れかけた篁の手に、エヴァンスの手が重なって握りこむ。やはり少し熱い。
「たまには病気になるべきだな。こうして手を握ることも、カオルに大目に見てもらえるのだからね」
篁は苦笑した。どんな時もエヴァンスはエヴァンスだ。弱みを冗談で覆い隠し、負の印象を緩和する。無防備に自分を晒すことは決してない。相手が自分の一番身近な年若い部下だと尚更で、このセクハラめいた冗談は、それに呆れて森澤が寝室から出て行くことを狙っている。
もう一押しとばかりに、エヴァンスは握った手を引き寄せようとした。森澤であれば、「冗談が出るくらいなら大丈夫でしょう」とか何とか、耳まで赤くしつつ嗜めて、さっさと部屋を出て行くに違いない。
やんわりと篁はその手を外す。それに対してエヴァンスが口の端に笑みを浮かべ、「残念」と低く呟いた。思惑通りであるくせに。
弱っていても虚勢を張る。そんなところは嫌いじゃない。
「眠った方がいい」
篁はエヴァンスの耳元で囁き、腕を出したために捲れたブランケットを整えてやった。『森澤』らしからぬ反応に、彼のままならない瞼がピクピクと動く。
「カオル…?」
どうにかして開けようと試みるその瞼を手で塞いで、篁は無言で眠ることを促した。瞼の下で微かに目の動きを感じたが、諦めたのか、やがて止まった。
それを確認すると篁はベッドから離れた。
篁にエヴァンスから直接電話が入ったのは、翌日の午後。驚いたことに、ノーブルウィングの彼のオフィスからだった。休んでもおかしくない状態に見えたが、強靭な体力と精神力が風邪に勝ったというところか。
電話の内容は、篁が彼を見舞ったことへの謝辞だった。
彼は「なぜ起こさなかったのか」と実に残念そうに尋ねた。
「起きてらっしゃいましたよ。手も握られたし。ただ私ではなく森澤君だと思ってらしたようですがね?」
そう答えを返すと、受話器の向こうでエヴァンスが一瞬、声を詰まらせたことがわかった。熱と薬で朦朧としながらも、森澤の名前を連呼したことには覚えがあり、大方、出社して彼に礼を言ったところで間違いに気づき、篁にあわてて電話を入れたのだろう。その点をエヴァンスは素直に詫びた。それから見舞いの礼として、ランチかディナーはどうかと続ける。
篁は暮林を呼び、例の黒い手帳を出させた。その週の土曜日の午後が空いている。その箇所に持ち主である暮林の承諾も得ず、「D.E ランチ」と書き入れた。
「ランチなら時間が取れます。ええ、かまいませんよ。では土曜の十二時半に」
土曜日のランチを約束して電話を切った。切り際のエヴァンスの声の弾みようは、篁の口元に笑みを生む。
暮林は篁から手帳を受け取ると、物言いたげな視線を寄越した。彼の言いたいことは想像がつく。土曜日は休みだったが、夕方から某製薬会社の重役夫人が出演する声楽の会に招かれていた。終演後の打ち上げにはぜひ出席して欲しいと、彼女の夫から頼まれている。多少、見てくれのいい篁の容姿は、パーティー等の彩に重宝された。そして翌日曜日は、月曜から始まる欧州メーカーとの新規事業に関する会議のため、午後便でドイツに経つことになっている。
「土曜日はお休みになられた方が」
暮林はとうとう本音を口にした。
「たかが一時間ほどのランチだ」
「それがなければ、夕方までお休みになれます。週明けからは忙しくなりますし、休める時に休んでおかれた方がいいかと。エヴァンス専務とのランチは、また機会を設けます」
暮林は手帳を開くと、先ほど篁が書き込んだ土曜日の予定に目を落す。今しもペンで消しそうな勢いだ。
「いや、いい。そのままにしておいてくれ」
「専務」
「改めて一晩、拘束されるよりいいだろう?」
「それは昨夜の見舞いで相殺されたはずです」
――なるほど。それで昨日は引き下がったのか
篁は暮林を見た。彼もまた、ペンを握ったまま篁を見ている。今日は簡単に引きそうにないことが、無表情を保ち結ぶ唇から伺えた。
篁は笑った。
「可愛い男は嫌いじゃないんだ」
暮林の眉間に、浅く皺が入った。
「可愛い…? エヴァンス専務が、ですか?」
デイヴィッド・エヴァンスはビジネスに関してはシビアで、他を寄せ付けない迫力を持ち、つけ入る隙を見せない。一歩間違うと容赦がなく、ゆえに彼の名前をもじって『Devil-Evans』と密かに呼ばれているくらいだ。「可愛い」と形容することには違和感があるだろう。
そんなエヴァンスが篁との時間を確保するために、心を砕く。上下関係で言えば彼の方に分があると言うのに、決して無理強いはしなかった。情熱的でありながら理性的。小憎らしいほど余裕があるかと思えば、今日のように篁の言葉に一喜一憂する。脆さ、繊細さ、可憐さ――そう言った類の「可愛さ」ではなく。
「そうさ、強くて可愛い」
篁の答えに暮林は複雑な表情を浮かべた。普段、あまり感情を表に出さない彼だが、篁と二人きりの時には、他には見せない顔を見せることがある。
暮林がスケジュールを管理するようになって、エヴァンスとの時間は格段に減った。もちろんメリットの高いアポイントメントはきっちり残されるが、行っても行かなくても支障のないそれは、さりげなく削られる。
彼がエヴァンスとの時間に対して神経を使うようになった原因は、篁の二度の『失敗』にある。
一度目は初めてエヴァンスと夜を過ごした翌朝、度が過ぎてチェックアウトが遅れ、一旦帰宅する予定が、ホテルから直接出社する羽目になった。それも大幅な遅刻。迎えに来たのが、当時は第二秘書の暮林だった。ネクタイをする間もなく車に乗り込んだ時、ボタンのかかっていないシャツの襟元から、エヴァンスによって鎖骨に付けられた『跡』が覗き、二人の間に何があって、どうして遅刻に繋がったかを暮林に悟られた。
二度目は近森の後を受けて暮林がスケジュールを管理し始めた頃で、逢瀬の帰りに篁が珍しく車中で正体を失くして眠りこけたことがあった。暮林が不慣れなことにつけ込んで、ただでさえ過密なスケジュールに、更に予定を、それも勝手に入れた篁に責任があったにもかかわらず、彼はそのことで自らを責めた。同時にそこまで疲れさせたエヴァンスに対しての警戒心を、暮林に植えつけることになった。
この二件の篁の失敗が、暮林にエヴァンス関連を徹底して吟味させる要因となったのだ。目の敵にされてエヴァンスは、暮林が手帳を取り出すたびに表情を微かに翳らせた。
暮林の意図が純粋に自分の体調を慮ってのことなのか、他に思うところがあるせいなのか。仕事の要所さえ押し間違えなければ、篁にとって問題はない。
が、時々こうして見せる表情に、彼の「他に思うところ」が見え隠れした。エヴァンスに一歩も譲らない、彼なりのささやかな牽制は悪くない。
「そして君もね」
篁の言葉に、暮林の手から手帳が落ちた。何事もなかったかのようにそれを拾い上げ、彼は一礼をしてオフィスを出て行ったが、耳から首の後ろにかけてほんのり赤くなったことを、篁は見逃さなかった。
「くくく…」
床には暮林のペンが転がっていた。手帳を落とした際にペンホルダーから抜け落ちたのだろう。篁はそれを拾った。
ペンはクリスマス休暇で訪れた折のニューヨーク土産だった。手帳と同じ色のボディには、オキサイド・シルバーに彩色された手彫りの柳が一枝、絡みついている。
天冠の部分に作者の銘「C.R」が、独特の飾り文字で刻まれていた。懐かしいロゴだ。
篁は手の中のペンをしばらく見つめた後、電話のそばのペン・トレイに無造作に置いた。
<end>2009.07.11
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