So Wonderful Day



(5)


 運転手を買って出てくれたジェームズの厚意を丁重に断り、ジェフリーは車に乗り込む。
 マイケル・バートンの妻・シェリルは出産を年明けに控えていた。予定日までは一週間以上、三人目の子供で安定し、妊婦本人も慣れたものだったのだが、母体にショックを受けると状態は途端に変わる。リクヤからの短い電話の内容だけではわからないが、車が横転したとなると多少のケガを負っているかも知れない。ここから郡の総合病院までは距離があった。ケガの度合いではヘリの要請が必要になるだろうと、ジェフリーは考えをめぐらす。
「また降ってきたな」
 ジェフリーは独りごちた。風で雪がフロントガラスに吹きつけられている。
 アメリカのスノーベルトであるクリーブランド出身のジェフリーは、雪には慣れっこだった。だがリクヤはどうだろう。ジェフリーが知る限り、彼はマンハッタンでの生活が長かった。通勤もたいていは公共機関を使っていたように記憶している。雪道を運転したことがあるのだろうかと。
 途中、自宅の前を通りかかったので様子を見たが、当然ながら公私で兼用している茶色のCUVはなかった。
――出ることは出られたってことだな。
 しかしそれから数分進んだところで、雪で立ち往生しているそのCUVを発見する。傍らにはタイヤを覗き込むリクヤの姿が在った。
「リック、どうしたんだ?」
 ジェフリーは車から降りて、リクヤの元に向かった。
「チェーンの巻き方が甘かったらしくて、外れてこの様だ。巻き直すのは無理だと悟ったところに君が来た」
 彼は肩をすくめた。
「とにかく、こっちに移れよ」
 ジェフリーはリクヤを促した。彼は頷いて、車の中から二人の診療バックとポータブルのレントゲンが入ったケースを運び出す。
車内で詳しい話を聞くと、シェリルは横転した車に乗っていたのではなかった。雪橇遊びに出かけた夫のマイケルと二人の子供の乗った車が、自宅から数メートルのところで雪溜まりにタイヤを取られ横転。身体の小さい下の子が這い出して泣き叫ぶ声を家に残ったシェリルが気づき、外に出たところで足を滑らせて転倒したのだった。咄嗟にかばったのと積もった雪がクッションになり、幸い腹部は直接打たなかったのだが、ショックで破水してしまったのだと言う。
 マイケルと上の子は何とか車から出られたが、どちらもケガをしているようだとリクヤは話した。
「ヘリ、呼んだ方が良くないか?」
「国道で玉突き事故が起きてて、911は手一杯だ。よほどのことじゃないかぎり無理だろう。さっきマイケルから電話があったけど、ケガは大したことなさそうだった」
「シェリルはどうなんだ?」
「陣痛が三分置きに来ているらしい」
「それってヤバクないか?」
 ヤバイと言うのは、自分達が着く前に生まれてしまうかも知れないと言うことだ。
 積雪による悪路と降雪による視界の悪さで、車は思うようにスピードを出せないでいる。この調子だと、バートン家まで早くても三十分はかかるだろう。
「三分間隔になって、どれくらい経つんだ?」
 リクヤは首を振る。
「わからん。シェリルは電話に出られないようだったし、最初に電話してきたのはボビーで要領を得なかった」
 五才になる下の子のボビーは、事故と母親の状態とで半ばパニックを起こしていた。マイケルがようやく車から抜け出し、クリニックに連絡してきたのは更にその二十分後で、それから今に至るまで十五分、間に911への通報も含んでいるから、一時間以上経過しているのではとリクヤは言った。
「そうか。子宮孔次第だけど、初産じゃない分、計れないな」
 積もらない雪ではあるが、風で舞いワイパーを使っていても視界を奪う。まっすぐ走っているつもりでも、足の下でタイヤが不安定に動くのを感じた。ラジオは記録的な降雪で引き起こされる事故を伝え、注意を促している。気をつけなければと思った矢先、車が急に重くなり進まなくなった。アクセルをふかすがエンジン音が大きくなるばかりだ。
「どうした?」
「タイヤを取られた」
 バックは出来たのですぐに立て直して進みだしたが、しばらく行くとまたタイヤを取られた。それが繰り返されるものだから、ますます遅くなる。運転を諦めて乗り捨てられた車両が道幅を狭くしていることも、走行を困難にしている要因だった。自然現象の前では、つくづく人間は無力だと思い知らされる。
「歩いて行った方が早い気がする」
 無人で停まっている車を横目に、リクヤが呟いた。
「よした方がいい。視界がこれだけ利かない中に出たら、遭難するぞ」
「冗談さ」
――本気でやりかねないから言ってるんだよ。
 リクヤは患者に対して、彼自身が思う以上に真摯だった。マクレインでの救急車への乗車シフトの時には、火が燻っていようが、漏れたガスが残っていようが、待機指示を無視して患者の搬送に飛び出して行った。
 あの頃はまだまだ若く反射神経も現役だったが、リクヤも今日で五十五才になるのだ。外見上は確かに若く見える。心臓にケチがついたジェフリーと違って健康そのものだが、「本当に若い頃」とは、いざと言う時に差が出るに違いなかった。
「なんだ、その恐い顔は?」
 知らず知らずジェフリーの眉間に皺でも寄っていたのか、リクヤが言った。
「思い出したんだよ、君がワーカーホリックで、意外と使命感に燃えるタイプだったってことをね」
「大げさな。ここはそんなに忙しくないだろう? 事件や事故がそう頻繁にあるわけじゃなし」
「どうだか。この前だって溺れた子を助けに飛び込もうとするし」
「目の前で溺れていたら、誰だって助けに行くさ」
「父親がすぐ近くにいたじゃないか」
 それは一週間ほど前の休日にアシェンナ湖へ釣りに行った時のことだ。小春日和で暖かく、他にも子供連れが数組、釣りやバーベキューを楽しんでいた。二人が釣り糸を垂れていたところから遠くない水際で、魚が跳ねるのとは明らかに違う水音が聞こえたので目をやると、小さな手のひらがもがきながら沈んで行くではないか。周りに大人の姿がなく、一緒に遊んでいた子供が大人に知らせに走って行くのが見えた。
 ジェフリーが持っていた釣竿を放り出した時には、隣にいたはずのリクヤの姿は駆けて小さくなっていた。間もなく現れた子供の父親が助けたのだが、彼が一瞬遅れていたならリクヤが飛び込んでいたに違いない。
 暖かい日とは言え、初秋のアシェンナ湖の水温はかなり冷たく、ショックと水を飲んで子供はぐったりと意識を失くしていた。リクヤの適切な処置ですぐに意識は戻り、泣き声を上げた。手際は往年の彼を彷彿させ、ジェフリーは関心した。
「三年も無駄に過ごしたから、仕事するのが楽しいんだろう?」
「うるさいよ」
 リクヤはふいと横を向き、胸元から携帯電話を取り出す。
 ワーカーホリックでも今の方がよほど良いとジェフリーは思った。マクレインを辞め二年後に再会した時のリクヤは、そのまま独りにしておくといずれ消え失せてしまうのではないかと錯覚するほど、静かで影が薄かった。アシェンナレイクサイドに移った後のリクヤは、生き生きとしてとても魅力的だ。ユアンはよく「彼はとてもきれいだよ」と言った。看護師達がリクヤを評して使う「charming」ならまだしも、「beautiful」はリクヤより、豪奢な金髪と鮮やかな青い瞳の持ち主であるユアン・グリフィスにこそ相応しい単語だった。ユアンの目は「恋」と言うフィルターで被われているからだと当時は聞き流したが、しかし今ならジェフリーも同意出来る。フィルターの威力はまことに凄まじい――いや、素晴らしい。
「あれ? ミセス・ブラウン? どうしてそこに?」
 ジェフリーの意識はリクヤの声で現実に引き戻された。と言っても声は携帯電話の送話口に向けて発せられたものだ。
 バートン家にかけた電話に出た人物は、ミセス・ビクトリア・ブラウンだった。リクヤに猫の膀胱炎まで診察させる、あの老婦人である。住まいはバートン家の隣だが、縁戚関係ではない。
「ええ、そちらへ向かっているんですが、この雪でなかなか。はい、はい、わかりました。お願いします」
 殊勝に応えて、リクヤは電話を切った。
「なんだって?」
「子宮孔が十センチになったらしい」
「じゃあ、間に合わないじゃないか。どうするよ?」
「大丈夫、ベテラン助産師がいるから」
 リクヤはそう言うとニヤリと笑った。




(6)


 この辺りでは比較的新しい住宅のバートン家に着いたのは、リクヤがミセス・ブラウンとの電話を切って三十分後。急ぎ車を降りてドアベルを鳴らすと、出てきたのはそのミセス・ブラウンだった。白髪を前からきっちり引っ詰めて、露わになった額にはうっすらと汗が浮かび、頬はばら色に発色していた。医師二人を迎え、腕まくりしたシャツをさりげなく下ろしながら中に導く様は、まるでこの家の主のようである。
 リビングに人の姿はなく、その奥の夫妻の寝室に家族が集まっていた。入ってきた二人を一斉に見る。ベッドの中央にはシェリル、彼女の肩を抱くのは、花柄のスカーフを三角巾代わりにして左腕を吊るマイケルで、反対側では子供達が母親の胸元で組まれた腕の中を覗いていた。彼女の腕の中には、大判のタオルに包まれた赤ん坊がいる。
「あれからすぐに生まれたのよ。女の子」
 ミセス・ブラウンがベッドの端に「よっこらしょ」と腰を下ろした。
「助かりましたよ、ありがとうございました」
 リクヤが彼女に礼を言った。
「昔取った何とかよ。赤ん坊を取り上げるのは二十年ぶりぐらいだけど、覚えていたわ。最近、私に認知症疑惑が上がっているようだけれど、まだまだ大丈夫でしょう?」
 ミセス・ブラウンは片目を瞑って見せる。
「ソーシャルワーカーに言っておきますよ。年寄り扱いするなってね」
 リクヤはそう答えて、カバンの中から聴診器と簡易血圧計を取り出しシェリルに近づいた。
 ジェフリーはベッドから離れたマイケルの担当だ。彼の左腕は骨折していたが、ちゃんと副え木で固定されている。これもミセス・ブラウンの処置で、花柄のスカーフは彼女のものだった。
 ビクトリア・ブラウンは元看護師であり助産師の資格も持っているのだとか。二十年前に引退するまでは、ここら一帯の妊婦を担当していて、実はシェリル・バートンも彼女に取り上げられた子供の一人であり、それをシェリルが思い出して上の子が呼びに行かせたというわけだった。
 マイケルは左腕の完全骨折で、持参した治療キットで充分間に合った。子供達二人は身体が柔らかく小さいため、目に見えるのはかすり傷程度、頭も打っていない様子である。雪でスピードが出なかったことが幸いしたのだろう。念のため、明日にでもクリニックに来るように指示した。
 赤ん坊は簡単なチェックを受け、生まれた時のためにすでに用意されていた傍らのベビーベッドに移された。産湯も使い、清潔な産着に包まれていたので、何ら問題はない。ミセス・ブラウンの手技は完璧だった。
「可愛い女の子だね」
 シェリルを診ながらリクヤが言った。
「ありがとう。出来ればクリスマスに生まれて欲しいと思っていたから、神様が願いを叶えてくれたのね」
 彼女は胸にかかったクロスに口付ける。
「本人は嫌がるかも知れないよ。一緒に祝われちゃうからね」
「うふふ、そうかも」
 ニュッと、湯気をたてるマグカップがシェリルに差し出された。ミセス・ブラウンが人数分、温めたミルクだ。
「そんなことありませんよ。世界中のクリスチャンみんなが祈る日なのよ。これほど神聖な日に生まれる幸運はないわ」
「祈りはキリストのためでしょう?」
 血圧の測定帯をシェリルの腕から外しながら、ミセス・ブラウンの言葉にリクヤが控えめに反論した。日ごろ、彼女と接するうち、口では勝てないことが彼にはわかっている。もちろんジェフリーも知っていた。
「祈りを捧げる行為と精神が崇高なものなの。そこにはただ神様への想いがあるだけですからね。幸せも嘆きも考えず、ただ祈るだけ。ある意味、無欲で純粋な日よ」
 ミセス・ブラウンはミルクの入ったマグを配り終えるとベビーベッドに近づき、中の赤ん坊を見つめた。リクヤはと言えば、右眉がいつもより中途半端な上がり方をしている。彼女に反論したいのを抑えているのか、それとも機会をうかがっているのか。マクレインではこう言う複雑な表情を見せない男だった。一年前に再会した時も。ジェフリーは頬が緩んだ。
「不満そうね、リック。その様子だと、あなたはクリスマス生まれなんじゃない?」
 今度は右眉が完全に反応した。
「いつもクリスマスに『負けていた』口ですから」
 クスクスとミセス・ブラウンが笑う。「いくつになるの?」の質問には、リクヤは答えなかった。「五十五才ですよ」とジェフリーが変わって答えると、彼はジェフリーに向かって口元をへの字に曲げた。五十五才など八十三才と比べれば子供だが、その表情も、ジェフリーには少年に見えた。
「少なくとも知った私は、これから先、クリスマスが来る度にあなたの誕生日でもあると思うのよ」
 ミセス・ブラウンはリクヤの前に立ち、彼の手を取って両手で包み込むようにして握り締めた。
「お誕生日、おめでとう。あなたのことを愛する人達には、今日はまぎれもなくあなたの誕生日。それは覚えておきなさい」
 彼女につづいてその場にいたみんなが「おめでとう」を言った。
 リクヤのへの字に曲げて引き結んでいた口は緩んだ。上がっていた右眉も元の位置に戻って逆に左眉と対になり、下がり気味になっている。リクヤは彼女の、そして周りの反応に困っていた。ミセス・ブラウンもそれを察したのか、握り締めた手を放し、少し背伸びをして今度は彼の頬を両手で挟んだ。きっと年の功や元看護師としての経験値で、リクヤの複雑な生い立ちを感じ取ったかも知れない。
「明日、うちに来て頂戴ね、ドクター。アポロンのお薬が切れたから」
「…ミセス、猫は専門外なんですがね?」
 そんな言葉は聞き流し、ミセス・ブラウンはまた赤ん坊の元に戻った。
 リクヤはジェフリーの方を見て、肩をすくめた。




(7)


 帰り道、雪はすっかり止んでいた。傾いた太陽が灰色の雲の向こうに薄っすらと透けて、弱弱しいオレンジ色の光を放ちながら遠くの山並みに沈もうとしている。雲がところどころ切れ、冬のくすんだ青い空を覗かせていた。
 バートン家にはミセス・ブラウンが残ってくれることになり、ジェフリーとリクヤは車に乗り込んだ。雪道も慣れておきたいと、帰りはリクヤが運転席に座った。
 ラジオから天気予報が流れる。低気圧は通り過ぎ、雲も急速に晴れて今夜は星空になるだろうとのことだった。
「晴れても雪が溶けるわけじゃない」
 リクヤがシニカルに言った。
「確かに。来た時と同じくらいかかるなら、一時間は車の中だ」
 ジェフリーはうんざりとした口調で答える。
 一面の銀世界。またこの中を走るのかと思うと辟易するが、戻らないわけには行かない。それでも轍に新たな積雪はなく、他にも車が通ったため、踏み固められて道らしくなっている。スピードは出せないものの運転は来た時よりも楽だった。タイヤが取られることもなくスムーズな走行で、一時間もかからずに帰宅出来そうである。
――ミセス・ブラウンに先を越されたなぁ。
 つい半時間ほど前のことを、ジェフリーは思い出す。「誕生日おめでとう」を一番最初にリクヤに言うのは、自分のはずだったのにとも。
「何が?」
 リクヤが聞き返した。心の声は、どうやら言葉になって現実に出ていたらしい。隠すのもおかしいので、「誕生日おめでとう」が…と答えた。
「なんだ、覚えてくれていたのか」
「あたりまえだろう。こんなわかりやすい日、忘れるわけないさ。うんとロマンチックな夜にして言うつもりだったのに」
 バックミラー越しに彼がジェフリーを見た。呆れているのがわかる目の表情だ。
「キャラじゃないだろう?」
「失敬な。僕は好きな相手には誠実でマメなんだからな」
 だったら四度も離婚するわけがない――もう一人のジェフリーが頭の中で言った。
「どうだか。君は元奥方達の誕生日をよく忘れて、当日になって大騒ぎしていたじゃないか」
 リクヤがジェフリーの内なる声を代弁する。当然ながら反論出来ない。ミセス・ブラウンほどの年季があれば、上手くやり込められるだろうに、その点ではまだまだ自分も若造だと苦笑する。
 小一時間もしないうちに、自宅にたどり着いた。太陽の残照が山の向こうにほのかに見えたが、辺りはすでに夜モードになっている。雪が被っているせいか、景色はどこまでも続く荒野に見えて、いつもと雰囲気が違った。牧場の延長であるクリニック周辺には家屋がないので普段も静かなところなのだが、今夜は一層の静寂に支配されそうだった。
「誰かいる」
自宅近くでリクヤが指差す。留守宅のはずなのに、窓からは灯りが漏れていたからだ。
「ああ、エレナだ。夕食の支度に来てくれているんだよ。今日は疲れて作る気になれないだろう? だから向こうを出る時に電話で頼んでおいたんだ」
「気がきくな?」
「だろ?」
 ジェフリーはガレージの手前で車から降りて、一足先に家の中に入った。部屋は暖められていて、料理の良い匂いがする。リビングの中央に移動したダイニングテーブルの上にはアレンジした花が飾られ、ジェフリー手作りのバースデイ・ケーキとエレナが作った料理が並んでいた。電話で知らせた時間よりも少し早めについたのだが、ほとんど準備は出来ている。
「リックは?」
 エレナはキッチンで料理を盛り付けている最中だった。
「ガレージだ。もう来るよ」
 当初は娘夫婦の家で開く予定だったパーティーを、エレナが気を利かせてジェフリー達の自宅で準備してくれたのだ。
 サプライズ・パーティーはわくわくする。本来ならクラッカーを鳴らすところだが、幼いエイミーが驚いて泣いては水を差すことになるからと無しにした。それにクラッカーの音がなくても、リビングに入った瞬間にリクヤが驚くことは想像出来る。
 表のドアの開く音が聞こえたかと思うと、ほどなくリビングのドアノブが回り、リクヤが入ってきた。
「ハッピー・バースデイ!」
 揃った声にリクヤの目が見開いた。
 クラッカーは鳴らないが、ジェームズの抜いたシャンパンの栓が心地よい音を響かせて宙を舞い、それを見て喜んだエイミーが、甲高く可愛い声を上げる。
 エレナがエイミーに予め棘を取った赤い薔薇を一輪握らせる。「リックに『ハイ』して」と背中を軽く押すと、エイミーはヨチヨチとリクヤに向かって歩き出した。
「こりゃ…いったい」
 リクヤは突っ立ったまま、ぼそりと呟いた。独り言に近い。
「今日は君の誕生日だ。誕生日と言えば、バースデイ・パーティーに決まっている」
 エイミーがリクヤの足元に到着した。「あい」と薔薇を差し出す。リクヤはようやく我に返り、かがんでその花を受け取った。
「決まっているのか?」
「そうさ、少なくとも僕達の『家』ではね」
 ジェフリーはリクヤに近づいて、彼の肩をポンポンと叩き、立つように促した。リクヤは抱っこをせがむエイミーを抱いて立ち上がる。エレナがあらためて「おめでとう」を言い、リクヤの頬にキスをする。ジェームズも「おめでとう」と握手した。
 リクヤは少し固まっている。どう反応して良いかわからない様子だった。手が機械的にエイミーの金色の頭を撫でる。
「ほら、リック、とにかくこっちへ。ローソクを吹き消さなきゃ。ケーキはパパが作ったのよ」
 エレナがケーキにローソクを刺し、火を点けた。
「ケーキを、君が?」
「僕からの誕生日プレゼントさ」
 リクヤがテーブルの傍らに立つや否や、ジェフリーは「Happy birthday to you」を歌い出した。エレナがリクヤの腕からエイミーを引き取り、ジェームズと並んで父親の歌に合わせる。
 リクヤがここに来て一回目の誕生日だから、ローソクは一本にした。ゆらゆらと、炎が歌に合わせるかのように揺れる。リクヤはそれをただ見つめていた。
歌が終わって、リクヤがローソクの火を吹き消す。同時に拍手が起こった。
「ありがとう」
 リクヤは火の消えたローソクを見つめたまま言った。感激してくれているのだろうか。バートン家でも今も、リクヤは戸惑いを隠せないでいる。
 ジェフリーは彼が泣くかも知れないと思った。泣いてくれれば良いと思った。感激して欲しいわけではなく、まだどこか頑なな彼の心が解れればと――が、しかし。
「ジェフ」
「ん?」
「綴りが間違っている」
 リクヤはケーキの飾り文字を指差し、顔を上げた。「え?」とジェフリーは指差した先を見る。昼間、エレナに「リクヤを愛しているのだろう」と図星を指され、動揺して「birthday」の「y」の字をミスった。修正する間もなくバートン家に向かったのでそのままになっていたのだ。直してくれても良いのにとの意味合いで、ジェフリーはエレナを振り返った。
「だって、全部自分でするって言うから」
とエレナはジェフリーの言わんとすることに答えたが、どうも確信犯に見える。
「や、それはだなぁ、ちょうど君からの電話が」
 しどろもどろに答えるジェフリーに、笑いが起こる。その中にはリクヤの声も入っていた。




(8)


 午後八時を回った頃、朝の早い娘夫婦が帰り支度を始めたので、パーティーはお開きになった。クリスマスから新年の長い休暇に入ったとは言え、家畜の世話は休めない。
 ジェフリーとリクヤは外まで三人を見送りに出た。エイミーはジェームズの腕の中ですっかり夢の中だった。泊まって夜明け前に帰ったらどうかとジェフリーは勧めたが、
「お邪魔でしょ?」
とエレナに耳打ちされる。ジェフリーは慌ててリクヤの方を見た。彼はジェームズと話をしていて聞こえていないようであった。
 天気予報通りに雲は晴れ、夜目にも澄んだ群青色の夜空に星が瞬いている。その下を帰って行くエレナ達の車を見送り、家の中に入った。
 ホームパーティー慣れしているエレナのおかげで、細々したものはあらかた片付けられていた。ダイニングテーブルはすでに元の位置に戻され、後は部屋の壁際に寄せたソファを中央に戻せば良い。それらも片付けて行くとジェームズは言ってくれたが、「後は自分達で出来るから」と断って帰らせた。ロング・ソファもシングルソファも小さなキャスターがワンタッチで出せ、力は不要だった。床続きのキッチンで、少し耳につく機械音を響かせていた古い食洗器が止まる頃には、いつものリビングに戻った。
「もう一杯、コーヒーはどうだい?」
 リクヤが彼愛用のオットマンを定位置のシングルソファ前に運んだところで、ジェフリーが声をかけた。
 コーヒーメーカーにはちょうど二杯分のコーヒーが残っている。彼が頷いたので、それぞれのマグカップを用意してコーヒーを注いだ。それからバーボンとミルク、砂糖を少々入れる。アシェンナレイクサイドに来てから覚えた飲み方だ。身体が暖まり、砂糖の甘さで疲れも取れる。冬にぴったりのアレンジ・コーヒーだった。普段は何も入れない派の二人だが、今日は忙しい一日だったため、身体は程よい甘みを欲しているに違いない。
 リビングにはクリスマスに相応しいBGMが流れていた。柔らかなピアノの音色のみのそれは、『Your birthday』と名づけられた連作のアルバムで、演奏はユアン・グリフィスによる。そう、イブに毎年、マクレインで催されたミニ・コンサートのライブ録音である。
 ユアン・グリフィスが最愛のリクヤのために贈った演奏は一年遅れでCD化され、翌年のクリスマス・シーズンに予約限定で販売された。シリアル・ナンバーの『1』のディスクは、常にリクヤのものだった。
 ジェフリーはその『シリアルNo.1』の存在を知っていた。ニューヨークのクイーンズの彼のアパートでも、この家でも、リクヤの本棚に並んでいる。しかし彼が聴いている姿は今まで見たことがなかった。実際、聴いたことはなかったろう。今夜、「BGMに」とリクヤが持って来た数枚は、新しいままだった。
 シリアルNo.1のCDは一般用と違って特別仕様であった。レーベル面は白い無地で、一見、未使用のCDかDVDにしか見えない。そこに手書きで何語かわからない――多分、ユアンの手によるものと思われる――五文字が記されているので尚更だ。文字の意味をリクヤに尋ねたが、教えてもらえなかった。
「今日は大変な一日だったな」
ジェフリーがカップを手渡すと、リクヤは「ありがとう」と言って口をつけた。ふわりと香るアルコールに、彼の口元が緩んだ。
「そうだな。でも良い一日だったよ」
 二人で今日一日のことを振り返る。大雪で困ったこと、焦ったこと、バートン家でのこと。新生児を見たのは久しぶりだとか、ミセス・バートンの現役っぷりだとか。
「これでますます彼女に頭が上がらない」
 リクヤが苦笑する。
 曲が変わった。それまでの曲を気にかけなかったジェフリーの耳が反応する。センチメンタルでスローな曲調の『Have Yourself A Merry Little Christmas』は、数多のクリスマス・ソングの中でジェフリーが最も好きな曲だった。
「踊らないか、リック?」
 ジェフリーは立ち上がって、リクヤに手を差し伸べた。リクヤの反応は「はあ?」である。しかしジェフリーはお構い無しに、彼の腕を掴んだ。
「何?」
「この曲、好きなんだ」
「だからって、何で踊るんだ?」
「踊りたい気分だからさ」
 ジェフリーは掴んだリクヤの腕を引き、立たせた。それから彼の腰に手を回し、ダンスの姿勢を取る。
「バーボン・コーヒーで酔ったのか?」
「今日はクリスマスだし、マイケル達に待望の女の子が生まれた。何より、君の誕生日だからな」
 音楽に合わせて身体を揺らす。身長が同じくらいのパートナーと踊るのも、同性と踊るのも初めてだった。ダンス自体、いつ以来だったか記憶に薄い。ただ、ジェフリーはどうしようなく踊りたくなったのだ。この静かな夜に、リクヤと。
 酔っ払いの戯言とでも捉えているのだろうか、リクヤはジェフリーの手を振り払わなかった。呆れたような目の表情ではあるものの、ジェフリーに付き合って、ゆっくりとステップを踏む。
「君がダンスをする性質だとは知らなかったよ」
 リクヤはそう言うと、さりげなくポジション・チェンジ、つまり、自分がリードする側に立とうとした。ジェフリーはそれを無視する。
「よく踊ったよ、プロムから始まって、元妻達との結婚生活でもね」
 ポジション獲りの攻防がしばらく続いたが、軍配はダンスをしたいと望んだジェフリーに上がった。と言うよりも、戯言だと思っているリクヤが譲ってくれた感は強かった。
「今日はジェフの意外な面ばかり見るな」
「人一人のことを全部知ることは、なかなか出来ないさ」
 ジェフリーの答えにリクヤは少し目を見開いた。
「どうかしたかい?」
「昔…、同じセリフを言ったことがあるんだ」
 そう言うと彼は、ジェフリーの肩越しに視線を送った。懐かしむような、切ないような、どこか遠くを見るような。
 リクヤがそのセリフを誰に言ったのか、ジェフリーはあえて聞かなかった。彼の表情から相手が知れる。それに、これから暮らすうちに話してくれる日が来るだろう。二人の『時間』は始まったばかりだ。焦ることはないと、ジェフリーは自分自身に言い聞かせる。
「これからもっと色々、お互いを知ることになるさ。きっと毎日飽きないよ。ちなみに僕の誕生日は一月二十三日だからな」
 そしてとりあえず「君の事を知りたい、自分のことを知って欲しい」と言う気持ちを匂わせてはおいた。
 そんなジェフリーの秘めたる思いを知ってか知らずか、リクヤは「中途半端で覚えにくい」と言った。その部分は付け足しだったのにと、ジェフリーは胸の内で彼に突っ込んだ。
「そうでもないさ、one、two、threeだぜ?」
 二人は顔を見合わせて笑う。
 そんなやり取りをする間に曲は終わった。足は止まり、二人の身体は離れた。
「まだ宵の口だな。飲みなおさないか?」
 ジェフリーがそう言うとリクヤが「いいね」と答えたので、バーボンとグラスを用意した。残った料理をエレナがタッパーに詰めて冷蔵庫に片付けていたので、酒の肴になりそうなものを見繕い、クラッカーを副える。それらをリビングのテーブルに乗せた。
 リクヤはジェフリー特製ザッハトルテもどきのバースデイ・ケーキも出した。
ジェフリーは嬉しく思ったが、照れくさくもあったので表に出さずにおく。
「ケーキはツマミにならんだろう?」
「コーヒーに合うんだから、ケーキにも合うさ」
 リクヤはバーボンの瓶を指し、それからグラスに注いだ。「なるほど」とジェフリーは変に納得する。
 それぞれにグラスを持って、軽く合わせた。カチンと小さく美しい音が鳴った。
 そうして想い人へ贈るプレゼントの為に奔走した日々と、忙しく慌しかった今日一日は、ジェフリーが最初に望んだ二人きりのロマンチック――か、どうかはともかく――な夜で締めくくられようとしている。
 外はこの冬一番の寒さだったが、部屋の中は暖かい。ジェフリーの心の中も。同様にリクヤも暖かく感じてくれていれば良いと、ジェフリーは切に思った。


 この、穏やかな夜に――




2011.12.17(sat)
イメージB.G.MHave Yourself A Merry Little Christmas(You tube)
   
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