8月の焦燥


 


 ベッドヘッドに置いた三木の携帯電話が、メールの着信を音で知らせた。いつもなら無視を決め込む。『お楽しみ』の最中であれば尚更だ。だからたいていマナーモードにしておくのだが、今夜はし忘れていたらしい。おかげで三木は反射的に電話を手に取ってしまった。
「なによぅ…?」
 一瞬三木の腰の動きが止まり、飲み会で『お持ち帰り』したOLが反応した。片手に携帯電話を持っての動きの再開に彼女は少々不満げだが、構わず突き上げる。
 もともと今夜の三木はセックスに集中出来ずにいた。飲み会は予定外だった上に、ラブホテルに同行したOLは、美人だが三木の好みから大きく外れていて、性欲処理だと割り切って事に及んだものの、欲望を隠さないあけすけな様子に辟易していた。もっとも、この手のタイプの方が後腐れなくて楽であることは知っている。
『飯田先生に婚約者がいた』
 メールの送信者は母校で教育実習中の一枝だった。地元の小学校から私立の中高一貫校を経ての腐れ縁で、大学は違うが今も時折会っている。いわゆる幼馴染であり、親友と言えるだろう。
 『飯田先生』は高等部の美術教師で、今回の実習で一枝の指導を担当している。加えて、一枝が高校在校時から秘かに想っている相手でもあった。その先生に婚約者がいたと言う事はつまり、一枝が失恋したに等しい。ちなみに飯田は髭面の男性教諭で、三木たちの母校は男子校だ。
 メールの短い文面に目を走らせ、あやうく動きが止まりそうになる。しかし三木の下半身は萎えることなく、むしろ逆に高揚し、OLを穿つ動きも力強くなった。身体の下で彼女が喜悦の声をはばからずに上げる。どんどんと熱くなる自分の内側とは裏腹に、三木はその女の声を冷めた耳で聞いていた。




「それで、どうだったんだ、教育実習?」
 一枝と会ったのは7月に入って間もなく、メールを受けた夜から一週間以上が経っていた。数学科の院生である三木は、夏休み前の課題と秋学会の準備に追われ、一年浪人して美大四年生の一枝は卒業制作などで忙しく、時間が取れなかったのだ。もちろんメールの返信は、あの事後すぐにしていたが、続けて一枝からの返信はなくそれきりだったので、かなり落ち込んでいると推測出来た。これは直接会って話を聞き、慰めてやらなくてはと思っていた――のだが。
「まあまあ楽しかった」
 向かいに座る一枝はいつもと変わりない様子で、行きつけの定食屋で注文した日替わりランチの一口カツを頬ばる。三木の予想では無回答であり、それには気落ちした表情がついてくるはずだった。しかし一枝は予想に反して「楽しかった」と答えたのである。
(飯田に振られたんじゃないのかよ?)
 三木は心の中で問いかける。
「なんだ?」
 微妙に空いた間に一枝が反応した。オレンジ色のレンズの中の目が三木を見る。見透かされたようで言葉が一瞬詰まったが、三木は答えがあるのなら知りたい方だった。遠まわしに聞くのも性分ではない。
「飯田に婚約者がいたってメールして来ただろ? その割にはあまり落ち込んでないな?」
 なので直球である。
「あー」
 一枝は合点したように口元から箸を離した。
「それで珍しくおまえから連絡くれたのか」
「そりゃ心配するだろ? あの後、返信もしてこないし」
「確かにあの時はちょっと気落ちしたかな」
 一枝は食事を再開した。
「『ちょっと』? 人生の進路決めるくらい好きだった相手に失恋して、『ちょっと』の気落ちで済むのかよ?」
 呆れたように三木が言い放つと、彼は上目遣いで見た。
「落ち込んでる暇がなかったと言うか」
 と言って小さく笑った。同時にテーブルの上に置いた一枝の携帯電話がメールを受信して震えた。液晶に浮かぶ送信相手の名前を一瞥して、またもや彼の口元に笑みが浮かぶ。三木は何だか嫌な予感をおぼえた。
「見ないのか?」
「今は三木と食事中だし、内容はだいたいわかってっから」
 目の前で携帯電話がメールを受信すると、友達同士の場であれば、たいていの人間は中を確認しようとするものだが、一枝はそれをしないタイプだ。
 天然パーマの長髪に、オレンジ色のレンズを入れたランドフレームの眼鏡をかけ、一見、怪しげに見える一枝だが、育ちの良さ――躾の良さはそこかしこに滲み出ていた。食事をする時は必ず髪は一つに結わえるし、小声ではあるがちゃんと「いただきます」「ごちそうさま」と言って手を合わせる。誰かと一緒の時や公共の場では、急用以外は携帯電話を触らなかった。それは三木と共に問題児で知られた高校時代もそうで、高校生は出入りが禁止されているクラブには行っても、酒や煙草は一切口にしなかった。
「暇なかったって、卒制(卒業制作)が行き詰ってんのか?」
「行き詰ってないけど、進んでもない。つい出歩くっつうか」
 再び携帯電話がメールを受信する。一枝は今度は苦笑した。
「誰だよ、さっきのヤツ?」
「実習の時知り合ったダチ。今日、就職説明会だっつってたから、終わったのかもな」
「見たらいいじゃないか」
「だから良いんだって。あっちは約束してねぇし。後でいいよ」
「俺が気になんだよ。さっさと見て、返信するならしろ」
 三木が強く勧めてやっと一枝は携帯電話を手に取った。メールを開けて見る様子を、三木は注意深く観察する。「ダチ」と言っているが、果たしてそうなのか。教育実習が終わってまだ一ヶ月ほどしか経っていない。
(なのになんだ、この妙に仲良しこよしな雰囲気は)
 メールを読んだ一枝は、すぐさま返信した。かなり短い文章を送ったらしいのは、指の動きでわかった。それが慣れたものに思え、三木はますます相手が気になる。返信し終えた後、一枝は食事を続けた。
「ダチになったって、一年下のヤツ?」
「タメ。そいつも一浪してるから。それに高二の時、同じクラスだったらしい。俺は覚えてなかったけどな。タメは俺らだけだったから、何となく話をするようになったんだ」
「おまえから話しかけたのか?」
「あっちから。タメがいなくて心細かったんだろ」
(それにしても)
 三木と一枝のグループは、高校時代、学校から問題児扱いされていた。いわゆる札付きやらツッパリやらの類である。中高一貫の私立男子校にしてはおとなしい生徒――覇気が薄いとも言う――が多かった中では、異質な存在だったと三木も自覚していた。他校の「同類」に比べれば、はみ出し方は可愛い方だったのだが、常に生活指導担当の教諭に追い回されていたし、他の生徒も遠巻きに見るだけで関わりを避けていた。そのグループ内では目立たないとは言え、目つきの悪さでは群を抜いていた一枝に、同じクラスだったことがあるからと言って、簡単に声をかけられるものだろうか。
 小声の「ごちそうさま」が聞こえ、三木は我に帰る。ぼんやり考えを巡らしている間に、一枝は食べ終えていた。三木はと言えば途中から箸が動いておらず、まだ半分くらい残っている。慌てて皿の中身を口に運んだ。
「珍しいな、食欲ないのか?」
 その様子を見て、一枝が少し気遣わしげに聞くので、三木は首を振った。
「逆。腹減り過ぎて胃が上手く動かねぇの。研究室ではぺーぺーだから、こき使われてんだ。うちの大学が秋学会の会場になってて、ゼミの教授が講演ぶつんで、ここんとこ特にな」
「三木がぺーぺー扱いされてるのか、見てみてぇ」
 一枝は面白そうに笑った。「うるせぇよ」と応えて、三木は残り一口を飲み込んだ。
 食後にコーヒーを頼み、しばらく話をした後、席を立った。三木はこのまま二人で街をそぞろ歩くつもりにしていたのだが、一枝は大学に戻って卒業制作の作業をすると言う。
「じゃあ夜は? 久々に七橋(ななはし)とかも呼んで、飲みに行かねぇか?」
 続けて誘うと、一枝は「先約がある」とそれも断った。
「もしかしてさっきのメールのヤツ?」
「なんか、相談事があるらしい。就職先を迷ってるみたいで」
 就職活動をしている学生はこれから夏までが正念場のはずで、それについての相談だと言うのなら、優先されるのは仕方がない。
「仕方ねぇな」
 普段であれば「また次回」の言葉が続くのだが、今日は気持ちにシコリが残って出てこない。
 一枝の新しい友人が、どうにも三木には気にかかる。こう言う勘は外したことがない。「こう言う勘」とは、色恋沙汰関連である。
 一枝の恋愛対象が同性であり、高校の美術教師に片想い中だと本人から聞き出す前に、三木は気づいていた。昼食時の会話程度では何とも言えないが、どことなく一枝の周りを、あの時に似た空気が包んでいる。
 相手の男を見て確かめたかった。一枝とその男のツーショットを見れば、確信出来る自信が三木にはある。だから暇を理由に作業を見学したいと彼の大学に行き、待ち合わせの場所までついて行って見極めようと考えたのだが、その時、ジーパンの後ろポケットに入れた携帯電話が震えながら鳴った。メール用の短い着信音とは違ったので、見なくとも研究室からの電話だとわかる。通話機能など、最近はそことのやり取り以外で使わないからだ。出たら最後、大学に戻ることになるのはあきらかだった。「チッ」と小さく舌打ちして、三木は電話に出た。電話は推測通り、研究室の助手からだった。
「俺も大学に戻らなきゃだ。やっぱまた今度かな」
「七橋にも会いたいし、盆休みとかだったら、就職してるヤツ等も休みだろうから」
(七橋は複雑だろうよ)
 三木は心の中ではそう答え、口では「だな」と同意した。




 三木と一枝は、郊外にある私立男子校の遥明学院で中高時代を過ごした。俗に「性春」と言われ、至るところに血が巡る時期を男ばかりで過ごすせいか、中には異性代わりに同性を見る生徒も珍しくない。
 高等部では敬遠されるグループのリーダー格だった三木だが、まだ身長が伸びる前の中等部の頃には、高等部の生徒に体育館の倉庫に引きずり込まれそうになったことがある。身体は小さかったが腕っ節は強かったので、襲った方は鼻を折る怪我を負い、「喧嘩」の理由を言わなかった三木は三日間の自宅学習、つまり停学となった。筍のごとく伸びて目立つほどの身長となった高等部では、下駄箱に時々、手紙が入っていた。それらが一度も読まれず、ゴミ箱直行の運命を辿ったのは言うまでもない。自分の責任でならともかく、万が一、その手紙類が素となり、変なとばっちりでまた処分されるのは御免だった。
 思春期の同性に対する恋愛や性衝動は、一過性のものだと言うのが三木の持論だ。実際、ベタベタと仲が良く、影でカップル認定されていた生徒たちも、卒業して進路が違えば自然と消滅して行ったし、彼女連れですれ違ったこともある。いつまでも引きずっている方が稀だったのだが、その稀なケースが、三木のグループには三人いた。六人中三人だから、結構な率である。
 一人は一枝春視。想う相手は美術教諭の飯田だった。飯田は男性ホルモンが旺盛なのか、顔の下半分が髭に覆われ、その髭面と体格の良さから生徒たちの間では『熊五郎』と呼ばれていた。一見強面の風貌と若い新任のためか、三木たち問題児グループ対策で編成された生活指導担当の一人だったが、性格はいたって温厚で、力技ではなく親身になることで三木たちを「更生」させようとした。一枝はそれにほだされて惹かれた口である。元々絵は得意だったが、その方面に進もうと考えていなかった彼に、美術の、それも教師の道に進もうと思わせたのは、飯田の影響が大だった。
 二人目は。
「なんで見張っててくんなかったんだよ、三木〜」
 今、三木の目の前で、ファストフード店内に響き渡りそうなほどの声で盛大にぼやく七橋和正だ。現在医学部の二年生である。高校時代はごく普通の成績で医学部の合格はとうてい圏外だったが、一念発起して猛勉強、二年の浪人生活の後、公立大学の医学部に合格した。
「やっと夏休みに入って会えると思ったら、誘うたんびに『先約がある』って断るんだぜ、おかしいだろ。変な虫がついてんじゃねぇかと思ったら、あの男、誰だよ」
 そして七橋の一念発起の原動力は一枝だ。
「知るか。俺はあいつの親でも兄弟でも無ぇ」
「小学校からの付き合いだろ。大学も近ぇし、卒業してからも一番会ってたから頼んだのに」
「頼まれて無ぇ」
 三木が不愛想に答えると、坊主頭がむなしくうなだれた。以前は金茶色のソフトモヒカンで、耳にはルーズリーフのごとくピアスが並んでいた七橋だが、今や見る影もない。ただもみあげからフェイスラインに沿って細く整えられた顎鬚が、どことなく医学生のイメージから離れて、遊び人ぽく見せていた。本人基準で「ダサい学生」になりたくなかったのと、髭は「ライバル飯田」を意識して伸ばし始めたものだ。しかし一枝が飯田に惹かれた理由に、髭は入っているのかと疑問に思う三木だった。
「そいつ、見たのか?」
 目の前の頭頂部に問いかける。
「誰?」
 口をへの字に曲げて、七橋が顔を上げた。
「一枝の相手」
 一枝から新しい友人の話を聞いて一か月近く経っていたが、三木はまだ見たことがない。さりげなく大学名を聞き出したので、一度顔を見に行ってやるつもりでいたが夏休みに入ってしまい、その上、秋季学会の準備で身動きが取れなかった。七橋が言う「あの男」とおそらく同一人物だろう。
「見たっつうか、ばったり会ったっつうか。コンパで行った居酒屋で知らないヤツと飲んでるハルを見かけたんだ」
「おまえ、女に興味ないくせにコンパなんて行ってるのか?」
「人数足りないって言うし、参加したら飲み代チャラにするって言うから。言わばバイトだ、バイト」
 医学生は人気があり、今は社会人になった友達や、違う学部、大学の知人から、人寄せとして声がかかる。公立に受かったとは言え、他の学部に比べて学費は高く、遊びの飲み代にまで手が回らない貧乏学生には、ありがたい話なのだと続けた。
「ハルだってダチと飲みにくらい行くさ」
「かもだけど、あれは違うな。イイ感じだった。今はダチでも、この先どうなるかわかんない感じ。つか相手のヤツ、ぜってぇ同類だ」
 高校時代にはグループ内でしか見られなかった笑顔の大判振る舞いで、かなり親しいようだと七橋は言った。
「相手はごくごく普通の学生っぽかった。芸術系に見えなかったから、同じ大学じゃないと思う。ハルのやつ、飯田っち一筋じゃなかったのかよ」
 相手がゲイであるかどうかはさておき、一枝が新たな『片想い』にまい進するのではないかと、七橋は危惧しているのだ。
「飯田には婚約者がいたらしい。つまり失恋したってことだ」
「え、なにそれ?! いつの話?! 三木、知ってたのか?!」
 三木は「しまった」と思ったが後の祭りで、七橋は機関銃のように質問を繰り出した。仕方がないので、飯田に婚約者がいたことと、教育実習で知り合った同期と友達になったことを六月に聞いたと話す。一応、七橋が見かけた相手と同一人物かどうかはわからないと付け加えたが、納得し難いようで、飯田に婚約者がいた、すなわち一枝に望みが無くなった時点で、なぜ教えてくれなかったのかと三木は責められた。
「あのなぁ、七橋、おまえも悪いんだぞ。卒業ん時にダメ元で告っとけば良かったんだ。卒業以来、会ってないだろ? メールのやり取りだけで、気持ち伝わるって思うのか?」
「だって、まず合格しなきゃだろ。そしたら入ったら入ったで医学部って勉強ばっかなんだぜ? それでなくても凡人頭なのに、付いて行くのだけで精一杯だっつーの。それでも俺は頑張ってる。いつかあいつの前に立って『俺がおまえの目を必ず治してやる』って言うまで」
「そりゃどこの少女漫画だよ」
 三木はため息をついた。
 七橋の猛勉強は仲間内の誰もが知っている。七橋は高校三年生の秋に急に「医学部を受ける」と言い出した。それは一枝が眼病を患っていると知ったからだ。失明の可能性があるにも関わらず、美術系大学を受験して教師を目指すと聞き、七橋は一念発起したのだった。元々、文系寄りだった脳に理系最高峰を狙わせるのだから、並大抵の努力ではなかったはずだ。二年の浪人で済んだだけでも奇跡だと、合格を聞いた時に三木は思った。
 七橋が想いを伝えないままにそれだけ頑張れたのは、一枝の相手が教師だったからだ。OBが卒業後に母校を訪ねるのは、部活動をしていた生徒であっても珍しい。美術部OBでもない一枝が、生活指導で世話になったとは言え、飯田を訪ねることはないだろう。そのうち熱も冷める。もしかしたら同性に懸想すること自体、若気の至りだと笑い話になる可能性があった。
「三木がそう言ったんだぜ。『だからおまえは勉強を頑張れ』って。だから俺は脇目も振らずにだな」
 恨みがましく七橋の目が三木を見る。それから一枝が好きだと三木に相談してから今日までの助言など、よく覚えているなと感心するくらいに並べ立てた。おとなしく聞いてやっていた三木だが、だんだんと耳が疲れて面倒になる。
 三木は手のひらでバンッとテーブルを叩いた。七橋が黙ったのは言うまでもないが、周りの客の会話も一瞬止み、こちらを見た。三木が鋭い目で見回す素振りをすると、それから逃れるように集まった視線は散り、またガヤガヤと会話が始まった。
「いいか、整理するぞ。七橋、ハルにそいつと付き合ってるって聞いたのか?」
 高校時代を彷彿とさせる三木の『睨み』に委縮し、黙りこくっている七橋に尋ねる。七橋は「聞いてない。挨拶しただけ」と答えた。
「俺もあいつから『新しいダチが出来た』って聞いただけだ。あいつの性格上、一ヶ月やそこらでダチ以上に発展しているとは考えづらい。つまりダチならそいつとおまえは同じスタートラインで、イコール、おまえにもまだ望みがあるってこった。こんなところで俺に管巻いてる暇あるんなら、そこんとこ確かめたらどうなんだ。いい加減、当たって砕け散れよ」
 神妙に聞いていた七橋は、言葉の最後の部分に反応し、吊り上げ気味に整えている眉尻を下げ、情けない表情を作る。
「なんだよ、それ、砕けるの前提じゃんか!」
 

 
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