※文中の挿画(イラスト)の著作権は七月あくあ様にございます。
〜 藤 〜 藤の樹の下で、彼を抱いた。 差し伸べられた腕を取り、指を絡め、甘やかな吐息を漏らすその口を吸う。 月明かりを浴びて白く発光するその肌は、どれほどに滑らかなことか。私の手や唇の熱で、ほんのりと薄桃色に染まっていく様が愛おしい。 黒耀の瞳が私を求めて潤んでいる。 伸びやかな下肢が至上の温みへと私を 「藤が」 彼の揺れる視界には、満開の藤の花が見えたのだろう。 「藤が?」 「見ている」 「見ているのは、藤だけだ」 私は彼の瞼にそっと手を添え、塞いだ。 歓喜に 彼のすべての思考を奪い去りたかった――今宵は私だけを、ただ感じるようにと。 私たちが理性の箍を外したのは、あの一夜きりであった。 公顕は跡取りであり、私は庭師の息子だった。この関係は、多分、これから先も変わらない。彼はこの 「よくこの樹に登ったな?」 幼い頃、異様に曲がった太い幹が誘うので、藤の樹で木登りをして遊んだ。 「二人して叱られましたね」 子供の悪戯に跡取りや使用人の息子の隔てはなく、根元に正座させられた。今はもう、遠く懐かしい思い出だ。 あの頃が一番幸せだったかも知れない。身分の違いもさほど感じず、まだ恋情も知らなかった。 「そろそろ」 母屋から使いが来た。公顕は短く「すぐ行く」と答え、藤の樹に背を向ける。 私は頭を下げた。目線を落とした先に、彼の踏み出した足が見えた。手の指が我知らず握りこまれ、拳となって力が入る。 私のその拳に、公顕が触れた。ほんの一瞬、しかし確かに。 顔を上げた時、すでに彼の背は遠ざかり、「公顕」と呟きに近い私の呼びかけは届かなかった。 残った彼の手の感触に、夢のような一夜が鮮やかに蘇る。私は涙なくして泣いた。 あの夜も、二人の想いも、そして私の『涙』も、ただ藤だけが知っている。 2010.05.05 (wed) |