恋に似ているII   





 是枝は珍しく酔っていた。わずか三センチの段差に足を取られて倒れこむのを、辛うじて環は身体によって阻止する。
 肩から背中に回った彼の腕に力が入り、環は一瞬、抱きしめられたような気がした。
 息がかかるほどに互いの唇は近い。今夜、是枝が口にしたアルコールの芳香が、環の鼻孔に滑り込む――環は頬が上気するのを感じた。




 空は気持ち良く晴れ渡っていた。天気予報では冬型の気圧配置になっているが、それほど寒く感じない。コンビニとの往復だけで終わるのはもったいなくて、越野環は公園に寄り道した。
 平日の昼下がり、この時間に人影はまばらだった。オフィス街ではない場所の公園に、昼休憩を過ごすサラリーマンやOLの姿はない。利用頻度の高い幼児とその母親達は、昼食を家やファスト・フード店等で摂るために公園を出てしまうから、残っているのは日向ぼっこをする老人くらいだ。環は空いているベンチに腰を下ろし、上着のポケットから煙草を取り出すと一本銜えた。
 風はなく、小春日和でぽかぽかと暖かい。環は空に向かって紫煙を吐き出した。煙は日差しの中に拡散して、すぐに消える。また吐き出して、その行方を追った。しかし環の意識は別のところに向いていた。
――昨日はやばかったな
 正確には今日の午前二時過ぎ。環は是枝を店の外へ見送りに出た。彼の来店は三ヶ月ぶりで、その夜は珍しく酔いが回っていた。もともと笊で知られるほどアルコールに強い是枝である。顔にはさほど出てなかったが、足元は心なしか危うく見えた。本人も多少自覚があるらしく、いつもはタクシーが横付けされるまで店内にいるのだが、「酔いを覚ます」と言って、少し早くに席を立った。
 他の客のラスト・オーダーも済み手が空いた環は、是枝の兄であるヴォーチェ・ドルチェのオーナーの目配せを受け、彼について外に出た。
「大丈夫だと言っているのに。これから片付けだろう?」
「今夜は強いものばかりオーダーなさいましたから。それに空きっ腹だったでしょう?」
「環は目聡いな」
 是枝は財閥系企業の重要なポストに就いていた。主に欧州圏での事業展開に関わっているのだが、ここしばらく欧米の各市場は芳しくない。前年九月にニューヨークで起こった同時多発テロが、経済情勢に大きく影響していた。是枝の会社も余波を受け、その立て直しに奔走していると環はオーナーから聞かされている。彼が三ヶ月も顔を見せなかったのは、日本とヨーロッパを頻繁に行き来しているからだった。
「空きっ腹にアルコールは良くないですよ」
 環の言葉に是枝は鼻で笑った。酔いの自覚があるとは言え、大したことはないと思っているのだろう。しかし店の外のほんのわずかな段差に、彼の足は取られる。並んで歩く環の肩を是枝の腕が掴んだ。環は倒れこもうとする彼を、辛うじて身体で支えた。
 彼の大きな手や腕が環を抱きこむ格好となり、唇は甘いアルコールの匂いを漏らしながら、頬を掠めて肩先に落ちた。
「大丈夫ですか?」
 是枝は身体を起こしたが、腕は環の肩に回されたままだった。
「是枝さん?」
 彼は黙って環を見つめた。唇の距離が徐々に縮まるのがわかった。それを環は拒むことが出来なかった。
――あぶない、あぶない
 あの時、タクシーのヘッドライトの光が視界に入らなければ――環は吐き出した紫煙を追いながら、自嘲気味に笑った。
 店の客と必要以上に親密にならないと言うのが、環の決めたルールだった。自分が器用なタイプではないことを知っている。恋に発展するまでには人一倍時間がかかるくせに、一度自覚するとのめり込んでしまうのだ。以前、社内恋愛をしたことがあり、上手く行かなくなった時に相当なダメージを受けた。転職した理由の一つであることは否定出来ない。だから線引きをする。たとえお茶の一杯でも、客の誘いは受けないと言う風に。どこに恋の種が落ちているか知れないからだ。
――最近、遊んでないから、相当溜まってるな
 以前は、休みである土曜の夜ともなれば『お仲間』が集まるクラブに出向き、気が合った相手に出会うと後腐れなくガス抜きをしたものだが、ここのところご無沙汰だった。自宅でのんびり過ごすことが多くなっている。三十路が迫ると、その手の欲も落ち着いてくるのだろうか。
 それでも昨夜はちゃんとその気になった。まだ是枝の腕の感触が肩に残る。吐息の甘い匂いが鼻腔に甦る。陶然とした感覚を覚えている。環はそれらを払うように頭を振ると、「今度の休みは出かけよう」と心に決めたのだった。
「環さん?」
 確かめるような口調で名前を呼ばれ、環は顔を上げた。
「やっぱり環さんだ。こんなところで会えるなんて、ラッキー」
 名前を呼んだ相手が誰だかわかると、環は苦笑する。
 彼は葉山孝太と言うクラシック界期待の若手ピアニストで、ヴォーチェ・ドルチェの常連客の一人である。彼との最初の出会いはヴォーチェ・ドルチェではなく、『その手』のクラブだった。ひょんなことから環は彼のマンションに誘われベッド・インした。しかし強か酔っていた葉山はそのまま寝入ってしまい、結局、何もなく朝を迎えたと言うオチが付く。
 それきりの関係だと思っていたのだが、一年ほど後に再会した。今度はヴォーチェ・ドルチェの、客とバーテンダーと言う立ち位置で。
「もしかして、この近所に住んでんの?」
 環はスウェットの上下に、ダウン・ジャケットを引っ掛ける程度のラフな格好をしていた。髪も結わえず下ろしたままな上に、コンビニで買い物した袋を持っているのだから、一目でこの辺りが生活圏内だとわかる。
 葉山は環の隣に腰掛けた。
「葉山さんはなぜこんなところに?」
 住処を知られるのは面倒だったので、さりげなく話題の方向を変える。彼はなぜだかすっかり環に懐ついていて、機会があれば初対面の折の雪辱を果たしたがっていた。葉山の率直な性格は嫌いではなかったが、ヴォーチェ・ドルチェの客となった彼と、今更どうこうなるつもりは毛頭なかった。第一、三才以上年下は環の趣味ではない。
「俺はこれからバイト。特別講師頼まれて、今から行くとこなんです」
「ああ、音楽科がある高校、あったかな」
「そうそう。そこ。あ、そだ、帰りどこかで待ち合わせしません? 同伴しよう、同伴!」
――キャバクラ嬢じゃ、ないっての
 確かに水商売ではある。ヴォーチェ・ドルチェは女人禁制の男性専科だったが、『疲れた男の隠れ家』をコンセプトにしていて、その手のマイノリティばかりが集まる特別なBarではなかった。したがって同伴システムなど存在しない。
「今日は少し早く出勤するんですよ。だから一緒に行くのは無理だと思うよ?」
 嘘ではない。酒の肴がチョコレートのみと言う変り種のBarヴォーチェ・ドルチェにとって、今日二月十四日は本領発揮の日と言えた。この日には特注のチョコレートが用意されるのだ。また店も一晩だけ、趣向を変える。チョコレートをビュッフェ・スタイルで出すので、環は少し早めに出勤して準備しなくてはならなかった。
「それに『特別講師』で招かれたのなら、終わった後に一席あるんじゃないんですか?」
 環の言葉で今日の予定を思い出したのか、葉山は口をへの字に曲げた。
「準備ってことは、淡路さんも来るの?」
「ヴァレンタインデーのチョコは、彼にお願いするから」
 淡路は鎌倉にスイーツの店を持つパティシエで、ヴァレンタインデーのチョコレートは、毎年彼に依頼していた。ヴァレンタインデー当日は、当然ながら自分の店も忙しいはずであるのに、彼自らがチョコレートを搬入し、ビュッフェの準備まで手伝ってくれる。
「下心、見え見えだ、淡路さん」
と言う葉山の言葉は、まんざら外れではない。淡路は準備が済み開店するまでの間、環の傍を離れなかった。他愛のない会話の中に、食事やお茶の誘いをさりげなく入れる。
「二ノ宮さんも原稿、絶対終わらせるって言ってたし。俺は何でこんな日にオフじゃないんだろ」
「閉店時間はいつも通りですよ」
「そうだけど、ヴァレンタインデーの店の雰囲気が好きだから、最初から最後までいたいんだよ。あ、今年のプレミアム・チョコ、取っといてくださいよ。それで絶対、環さんからの手渡しで下さい!」
「はいはい」
 環は社交辞令的に返した。
 環自身はヴァレンタインデーに何の思い入れもなかった。製菓会社と、ホワイトデーを当て込んだ婦人用品系メーカーの陰謀でしかない行事に、一喜一憂するのは馬鹿らしかった。自慢じゃないが環は今まで、義理以外でチョコレートもらったことがない。それなのに倍返し以上を期待され、またせざるを得ないことが、不条理に思えた。それも興味の無い異性に、である。
 儀礼的にもらうチョコレートなど、葉山は嬉しいのだろうか?――手渡しすることについては吝かではないが。
「今夜は是枝さんも来んのかな? 今、ヨーロッパに出張中だよね?」
 突然、葉山から是枝の名前が出て、環はドキリとした。前述の小説家の二宮やパティシエの淡路ほど、彼は是枝と面識はないはずだった。葉山は終電があるうちに帰り、是枝はたいてい日付が変わる頃に来るから、二人が同じ時間に店にいることはほとんどない。あったとしても、ほんの数分のことだ。
「昨日の夕方に帰国されたらしい。でも今夜は来られないと思う。午後一の便でカナダだって仰ってたから」
「え? 是枝さん、来たの?」
「いつもの時間にね」
 葉山が環を見つめる。
「何?」
 それからため息ともつかない息を吐いた。
「二宮さんの口説きはゲームだし、淡路さんのことは、環さん、まったく眼中にないって知ってる。久坂さんはノンケだから心配ないし。だけど是枝さんはちょっと違う気がする」
 環はポケットから煙草を取り出した。葉山がそれを横から攫う。自分が吸うためではなく、環から取り上げるために。煙草の箱は彼の手の中で丸められ、傍らのごみ箱に放りこまれた。環が抗議するより先に、「喘息持ちだろ?」と彼が言った。
「子供の時の話だよ」
「でも環さんには似合わない。せっかくきれいな歯をしてるのに、黄ばんだらもったいないじゃん」
 似合う、似合わないで喫煙するものなのか…と思わなくもないが、環は逆らわずにおいた。『子供』のやることにいちいち目くじら立てていられない。それより、少し前の葉山の言葉が気になった。
「是枝さんが、どう違うって言うんです?」
 コンビニの袋を覗いていた葉山は、オレンジ百パーセントのジュースを取り出す。飲んでいいかと目が聞いていたので、環は仕方なく頷いた。
「俺は是枝さんとそんなに接点ないから、はっきり言えないけど。でも二人の雰囲気が、何だか良い感じなんだよね。俺にとって是枝さんは最大のライバルかも知れない。わざわざヴァレンタインに合わせて帰ってくるってのがイヤラシイよ。どうせカナダに行くんだったら、ヨーロッパから飛んだ方が楽なのに」
「仕事で戻らなきゃならないことだってあるだろう?」
「だったら尚更でしょ? そんなタイトなスケジュールに、ヴォーチェを入れるなんて」
 是枝が店を出たのは午前二時を回っていた。自宅まで小一時間。午後一番の便でアメリカなら、午前中には出なければならないだろう。その前に会社に寄るともなれば、更に自宅を出る時間は早くなる。葉山の言う通り、かなり詰まったスケジュールだと言えた。ヴォーチェ・ドルチェに来るより、休養を取って然るべきなほどに。
 実際、彼は疲れているように見えた。口数は少なく、グラスが空くピッチだけは早かった。オーナーが早く帰るように何度か促したが、口の端を少し上げて笑うだけで聞き入れない。
 環はと言えば、是枝の疲れている調子に合わせて自分からは話しかけなかった。これはいつものことだ。ただ違うのは、常に是枝の視線を感じることだった。他の客のオーダーを受けている時も、彼は環を見ていた。
「何か、俺についてますか?」
「いや。環の動きに見とれていただけだ」
「相当、お疲れですね? それとも酔ってらっしゃるんですか? そんな言葉が出るなんて」
「バランタインだからな」
 スコッチ・ウィスキーのことだと思っていた。彼がその時飲んでいたのはスコッチの名品・バランタインの十七年物。だから環は、「スコッチで酔っているから甘い言葉を吐くのだ」と受け取った。
――あれは『バランタイン』じゃなく、『ヴァレンタイン』だったのか?
 環は左親指の爪を噛む。考え事をする時の癖だった。その手首を葉山の手がやんわりと掴んだ。意識が現在(いま)に戻って顔を上げると、葉山の唇が間近に迫っていた。環は掴まれた方とは別の手でそれを遮る。
「ケチだなぁ。減るもんじゃなし」
 葉山は肩を竦めた。
「環さん、今、是枝さんのこと考えてたでしょ?」
 環は驚いて彼を見た。
「何で?」
「だって、色っぽいから。是枝さんと一緒にいる時みたいに」
「まさか」
「自覚、ないんだ?」
 葉山は複雑な笑みを浮かべた。
「宣戦布告しとかなきゃだ…」
 環には聞き取れないくらいの声音で何か呟くと、彼は腕時計を見た。目的地に向かわなければならないのだろう。
 葉山はオレンジ・ジュースを、ストローで一気に吸い上げて飲み干し立ち上がった。大きく伸びをした後、環を振り返る。それから全開の笑顔を見せた。
「じゃ、俺はそろそろ。なるべく早く抜けて行くけど、今夜のプレミアム・チョコのお取り置きヨロシク」
 そう言うと、あっさりと走り去った。残された環は少々拍子抜けである。ヴォーチェ・ドルチェから帰る時、往生際悪くダラダラと時間を費やしている彼なら、もっとゴネそうなものなのに…と。
 環は葉山が残したジュースの空パックをつぶしてゴミ箱に放り込んだ。その前に彼が捨ててゴミと化した環の煙草にあたり、微かな音を立てる。


『自覚、ないんだ?』


 葉山の声が重なる。「どう言う意味だ」とその声に問い返した。答えがあるはずもない。
 環はコンビニの袋からオレンジ・ジュースを取り出した。百パーセント果汁特有の酸味の利いた甘さが、口の中に広がった。


『ヴァレンタインだからな』


 耳に是枝の声が甦る。バランタイン? ヴァレンタイン? 思わせぶりな発音。都合のいい聞き違い。
――ヴァレンタイン、…だから何だってんだ
 やはり今度の休みは出かけよう。自覚する以上に溜まっている。だから昨夜の是枝の時も、さっきの葉山の時も、隙が出来てしまうのだ――環は煙草の代わりにストローを銜え、空を見上げた。
 少し、風が出てきたようだった。






                       
end.(2009.02.23)
  

 
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