(あれ、人がいる?)
春の盛り、美しく芽吹いて緑の絨毯となった芝生の上に横たわる人影を見て、暮林は「珍しい」と思った。
十二時から十三時と言う昼休み終了後の第一社屋の屋上庭園には、普段、人けがない。フレックスタイム制を導入している篁エレクトロニクスS工場ではあったが、一階の社員食堂から十五階の屋上まで上がる社員は稀だった。地上にも昼休みを過ごせる庭はそこかしこにあったし、その屋上庭園を利用しやすい第一社屋勤務の社員は事務職で、たいていレギュラー・タイムの昼休みを取っていた。フレックスタイムが常態化している技術・研究職は社員食堂を共有しているが、棟違いのため、昼食を済ますと自分のプラントへと戻ってしまう。加えて『庭園』とは言うものの屋上緑化の実験庭でもあり、どんなに気持ち良さげに芝生が生い茂っていても、地上のそれとは違って寝ころぶことも入ることも出来なかった。他に色々と決まりがあるのも、人気がない一因だ。
上着を枕にして昼寝中のその社員を一瞥し、暮林は彼から一番離れたベンチに腰を下ろした。大きく伸びをした後、背もたれに身体を預けて空を見上げる。雲一つなく晴れ渡っていた。
技術・研究開発部半導体デバイス部門の暮林は技術棟の住人ではあったが、今日のような一人で昼休みを過ごすシフトの時は、第一社屋の屋上庭園へよく足を運んだ。
手入れの行き届いた緑の絨毯、その真ん中を分ける煉瓦舗装の歩道、設えられたウッドベンチ、季節ごとに表情を変える草花、涼しげに翳を提供するガゼボ。実験庭にしては立派で、フェンスを無視すれば屋上だとは思えない。高層にある為、吹き抜ける風さえも、地上とは違った。
最新設備の整った無機質な空間で機械相手に一日過ごすと、こう言う場所が恋しくなる。「芝生に入らない」はともかく、休憩時間に喫煙、飲食出来ないのは辛いが――だから他の社員は敬遠する――、少しくらい我慢しても良いかなと暮林に思わせる場所だった。
「煙草、持ってないか?」
空を見上げてまったりとしていた暮林の耳元で、不意に声がした。驚いて振り返ると、膝立ちの男と顔が触れ合わんばかりの近距離で目が合い、慌てて身を引く。芝生に寝転んでいた社員だった。
「ごめんごめん。煙草、持ってたら一本分けてくれないかな?」
男はにっこりと笑った。「にっこり」と言うより「にやり」と表現する方が似合う笑みだ。
「持ってるけど、ここじゃ吸えませんよ。全館禁煙だし」
「なんだ、ここもか。下に降りるの面倒だったし、外に変わりないからいいかと思ったんだけど。肝心の煙草も忘れるし、禁煙しろってことかな」
額にかかる前髪をかき上げ、彼は芝生の上に座り直した。そこはかとないエキゾチックな顔立ちは、イケメンの部類に入るだろう、いや、部類に入るどころか、かなりのイケメンだ。見たことのあるような、ないような。もっとも各プラントに数百人単位で社員がいて部署も違えば、見知った顔の方が少ない。
「ついでに言うと、芝生の中は立ち入り禁止」
暮林は呆れたように言った。
「寝転ぶ為じゃなかったら、なんで芝生を敷いてるんだ?」
「ここは屋上緑化の実験施設も兼ねているから。その芝はバイオ改良の最中で、コストも手間もかかってる。荒れて枯らしたりしたら、意味ないでしょう?」
この屋上庭園にある植物は芝生のみならず、すべて実験・観察対象になっている。寒暖、気温差に強く改良された群、品種改良はされず開発肥料を与え生育観察される群。散水に使われる水、土、あらゆるものが篁エレクトロニクスのバイオ部門で製品化されたものだが、改良の途上にあると暮林は説明した。
「こんな気持ちのいい芝の庭を持っていて、もったいないことだ」
男は辺りを見回した。
「そりゃ、俺だって寝転がれたらいいのにって、来る度思うけど」
「寝転べばいいじゃないか?」
「だから言ってるでしょ、実験施設だって。それに入ってるとこ遠山さんにでも見つかったらどうなるか」
遠山はバイオ部門二課第三チームのチーフである。ここの芝は彼のチームが屋上緑化用に品種改良したものだった。オーバーシーディング(注1)やトランディション(注2)不要、メンテナンスの簡略化を目的とした芝だが、まだ自然環境下での生育観察の段階であり、踏圧に対する強度の改良はこれからだったので、立ち入りは特に厳禁されている。
「気が小さいんだな?」
「次入ってるとこ見つかったら、始末書なんで」
「入ったことがあるのか」
暮林はすでに二回、遠山から注意を受けていた。一度目は庭が社員に解放されて間もない頃で、立ち入り禁止とは知らなかった。二度目は同僚と昼休みを過ごすために来た時に、今日のように誰もいないことを幸いに昼寝を託った。二度とも間の悪いことに遠山本人に見つかって、「三度目は始末書だぞ」と脅されているのだ――と言う理由は話さず、暮林は頷くだけに留める。
「大丈夫だろ? 午後が始まったばかりだから、誰も来やしないって」
男の言う通り、レギュラー・シフトの午後が始まって三十分、それぞれのオフィスやプラントに戻って仕事の続きにとりかかる時間は、人の動きが一番少ない時間と言える。遅番の昼休みが始まってはいるが、普通の昼休みに比べ人数は少ないから、人気のない十五階の屋上にまで上がってくる者は尚更いないだろう。二度目に見つかった時と同じ状況下だと言うのに、暮林はつい男の言葉に乗って芝生の中に入ってしまった。
芝は立ち入り禁止の効果で少しの荒れもなく、艶々とした緑色と柔らかな手触りをしている。さすがに土足のままでは憚られ、暮林は靴を脱いだ。何とも言えない解放感が足元から広がる。
「えっと、『くればやし』って読むのかな? 君はどこの部署?」
そのまま寝転んでしまいたい誘惑からは、男の声によって辛うじて逃れられた。
「半導体デバイス部門」
と答え、「君は?」と続けようとして「あなたは?」と言い直した。年頃は暮林と変わらない三十がらみに見えるが、彼には同じ年頃の社員とは違う風格がある。少しばかりは年上なのだろう。となると先輩だろうし、平社員ではないかも知れない。
「俺は総務部。人事課の近森だ、よろしく。今日は上司の出張にくっついて来たんだ」
近森と名乗った男は芝を撫でながら自己紹介をした。
(本社から来たのか)
道理でスーツ姿の雰囲気が、どこかここの人間と違う。このS工場でスーツ姿と言えば、事務職の課長以上だった。あとはカジュアルな私服で出勤し、それぞれのプラントのユニフォームに着替えるのだ。近森くらいの若さでスーツ姿はほとんどいない。その上、妙に着慣れているし、生地云々に詳しくない暮林にも、彼のスーツは量販店の廉価品には見えなかった。
「半導体デバイス部門って、うちの主力の一つだな。俺は文系だから、理系のことはさっぱりだよ」
近森は暮林のことに話を戻す。
興味があるのか、もともと好奇心旺盛な性質なのか、近森は暮林が所属する部門について質問した。社のことには精通しているし社員だと思われるが、バッジやIDは脱いだ上着にでもついているのか確認出来ない。初対面のそんな男に、仕事の内容を聞かれるままに答えることは躊躇われる。暮林は当たり障りのない、つまりは会社案内やホームページに載っている程度を話した。
暮林の警戒を悟って、近森は自分のことも会話の中に挟み込む。二十六歳から転勤族で、あちこちの支社を渡り歩いていたらしい。同じグループ系列の会社に出向もしたと言う。
「二年前にやっと本社に配属された。よほどのことがない限り落ち着くことになるかな」
まだ転勤こそないものの、暮林も似たような状況だ。
技術・開発研究部は半導体デバイスの他に、圧電MEMSデバイス、CEMS(Community Energy Management System)開発、総合バイオテクノロジー部門等で構成され、暮林はバイオ以外に籍を置いたことがある。大学での専攻がほとんどの部門に通じているので、人手不足のところに駆り出されるのだ。どこに配属されてもそれなりに仕事をこなす暮林は重宝されるが、何でも屋になっていることは否めない。
「新しいことを覚えられるのは面白いし、大学で少しはかじった分野ばかりだから苦にはならないけど、気づいたら広く浅くって感じだし、腰が落ち着いてる気がしないんですよね」
と暮林は苦笑した。
「それはもしかして幹部候補の育成の一環じゃないのか?」
『篁』では将来、各部を背負って立つ素養のある人間に、あちこちの現場を経験させるシステムを採用しているから、暮林もそのラインに乗っているのだろうと近森は言った。
「まさか、なんで俺?」
「見込みがあるからだろう? 例えば、TOEICの成績はどれくらいなんだ?」
「…悪くはないと思うけど、自慢出来るほどでもない」
「もったいぶるなよ」
「そう言うあなたは?」
人に尋ねるには、自分のことから話すのが筋だろうと暮林は続ける。テストの点数などもったいぶるほどではない。しかし、まず相手のことを聞き、容易に答えが得られないとわかると自分のことを小出しに話す彼の手法が見えてきて、それに嵌まって答えるのは癪だった。
「Not surprisingly, because I am a returnee, I can speak fluently in English. That’s why I’m exempted from taking TOEIC test.(そりゃそうだ。帰国子女だから英語はペラペラなんでね、TOEICは免除された)」注3)
ネイティブさながらの発音で答えが返ってきたので、暮林も言った手前答えざるをえない。「800点ちょい」と答えた。結局、彼の術中に嵌まっている。
近森は暮林が昇進ラインに乗っていると言ったが、暮林から見れば彼の方こそ将来の役職候補に思えた。会話の運びがスムーズだし、変に逆らえない雰囲気がある。人を見る目が必要な人事に携わっているせいだろうか。
「課長昇進レベルはとっくに超えているってことか」
暮林の答えを聞いた彼は独りごちた。
巨大グループ企業『タカムラ』に属する篁エレクトロニクスは、グループの中では中堅程度の位置にある。海外進出が遅れ、ライバル企業に比べて国際競争力は弱く、外資の触手が蠢き始めた頃、大規模な方向転換と組織改革が行われた。電子テクノロジーだけでは成長著しい中韓企業に近い将来太刀打ち出来なくなるだろうと、暮林が入社した年に常務待遇となった社長の息子だか甥だかが、一番弱いバイオテクノロジー部門を強化する方針を提唱したのだ。
日本国内での研究施設の充実はもとより、資金難に喘いでいたドイツとアメリカの民間研究所を買収し、それぞれを海外拠点として精力的に事業拡大を行った。『常務待遇』が打った布石は、彼が昨年専務取締役の一人に就任してから効果を発揮し、進められた研究の成果が次々と形になる。結果、アメリカの大手商社から、対等条件下での共同研究プロジェクトの打診を受けるまでに。年度初め早々に、正式に契約が交わされたことは暮林の記憶に新しい。
バイオ部門の躍進は電子工学部門の業績をも引き上げ、知名度が今一つだった篁エレクトロニクスは海外でも注目されるようになった。それに伴い、欠かせないのが世界の共通言語たる英語。特に海外との折衝の機会が多くなる管理職には、専門用語はさておき、通訳なしでの日常的な英会話能力が求められた。課長クラスでTOEIC700点がボーダーとされる。
「君はかなり期待されているんじゃないかな。そのうちバイオ部門も経験させられるかも知れないな。そうなったら海外事業部本部長のイスも夢じゃない」
「俺は技術屋ですよ?」
「裏を返せば技術屋としての君は、それほど必要とされてないってことじゃないか? あるいは君程度の技術屋ならいくらでもいるってことさ」
近森のその言葉に、さすがに暮林は「ムッ」とする。表情に出ていたのか、彼はニヤリとした笑顔を添えて「失礼」と言った。
「でも君は技術屋以上のことを任されているとも言える。言えば同期の出世頭ってとこだろう?」
「興味ない、そんなこと。人の上に立つのは向いてないし、学生時代だって『長』の付く役についたことない」
「欲がないな?」
「平凡が好きなんです」
近森は「ふうん」と鼻を鳴らした。
携帯電話のコール音が微かに聞こえた。脱いだままの近森の上着かららしいが、彼には出る気配がない。長く鳴りつづけるので、暮林の方が気にする始末である。
「いいのさ、上司からだから。今は昼休み中。女の上司で口うるさいったらないんだ」
暮林は自分の部署にも女性の管理職がいることを思いだす。男性と違って細部に目が届き、気働きも出来る。確かに少々口うるさいところもあるが、それは女性に限ったことではない。それにこの近森の上にいるくらいなのだから、上司として有能に違いなかった。
「細かいところに目が届くしっかり者ってことでしょう?」
「物は言いようだな。まあ確かに有能だ」
電話はまだ鳴りつづけている。近森は溜息をついて立ち上がり、ズボンの芝を掃った。スーツの上着を取り肩から下げると、
「とりあえず戻るか。半導体デバイスの暮林君だっけ? 覚えておくよ」
と言って、芝生から出て屋内への入口へと歩いて行った。
暮林はその後ろ姿を見つめた。印象的な男だ。やはりで見たことがある。あれほどの眉目秀麗と強い印象なら会っていれば覚えているはずだが、記憶にない。
「こらぁ、暮林! 今度芝生に入ったら始末書だと言ったろうが!」
近森の『毒気』にあてられたかのようにぼんやりしていた暮林の耳を、だみ声が刺激した。「しまった」と思った時には遅く、目の前には巨漢の遠山が仁王立ちしている。
「え、あ、その、これは」
泡を食って答える暮林の視界の隅には、ガラス戸を開けて屋内に入ろうとしている近森の、こちらを振り返る姿が入ったが、助け舟は出なかった。
「おまえのは要らないぞ」
翌日、遠山のところに始末書を持って出向くと、そう言われた。「え?」と問い返す暮林に「別の人間から提出されたから」と彼は答える。
「誰が…あ!」
本社人事課の近森だとすぐにわかった。
「暮林から注意されたのに、無理やり誘って共犯にしたからって。だからと言って、おまえのペナルティが消えたわけじゃないからな。ペーペーの新入社員ならともかく、ここで何年働いてるんだか。その始末書は次まで持っとけ」
結局、持参した始末書は出さないまま、暮林の手元に残された。遠山も本気で始末書を出させるつもりはなかったらしい。去り際に「本当に出してくるとは」と笑いを含んだ呟きが聞こえた。
それはともかく、近森が先に始末書を出していたのには驚いた。一昨日は自分を「見捨てて」屋内に消えた彼の要領の良さを呪ったものだが、ちゃんと始末書を出さなければならないことを覚えていて、その上、フォローまでしてくれていたことは少なからず暮林を感動させた。電話で一言礼を言っておかなければと思ったが、その日は午後からミーティングで、翌日も新入社員の研修の手伝いが入っていたので出来ず、暮林が本社の人事課に電話を入れたのは、屋上で出会ってから三日目の中休み――昼休憩と退社時間の間に取られる休憩――だった。
「近森さん? 秘書室の近森さんですか?」
電話応対の女子社員の声には疑問詞が付いていた。
「人事だと言ってたけど、違いますか?」
「総務にはいらっしゃいませんねぇ。篁専務のオフィスにいらっしゃる近森さんしか思い浮かびませんけど。お繋ぎしますか?」
「お願いします」
結局『近森』には外出中だとかで繋がらなかった。
電話を切った後、暮林は首を傾げる。自分が出会ったあの男は、いったい何者なのだろうかと。
しかし『近森』が実在していることは確かだ。
本社秘書室の『近森』から暮林に電話が入ったのは、その日の夕方、定時の終業時間間近。
「秘書室の近森です。お電話を頂いたようですが?」
受話器の向こうから聞こえてきたのは女性の声だった。
「俺…僕は男性の『近森』さんに電話をしたんですが」
「男性?」
一瞬の間が空いた後、「半導体デバイスの暮林さん…でしたよね?」と確認するように返ってきた。
「はい」
「そうですか。あなたがお探しの『近森』は、本日出先から直帰しました。明日から出張で、今週いっぱいは戻りません」
(人事課に出張や外出が?)
暮林は単純に思った。総務部などはデスクワークのイメージがあるからだが、もしかしたら人事課は、ヘッドハンティングや優秀な人材の早期確保――所謂、青田買い――の為、外回りが多いのかも知れない。
(いや、人事じゃなく秘書か)
それなら納得が行く。自分が担当している役員の出張について行くことも多いだろう。とすればやはり彼は秘書室所属なのか。
(なぜ人事課だなんて)
「あなたは来週、こちらにいらっしゃる予定ですよね?」
「ああ、はい」
「その際、帰りにでも二十三階にお寄りください。本人に申し伝えておきますから」
そこまで大した用ではない、また電話を掛け直す…と暮林が言うより早く、「それでは」と相手は電話を切った。
受話器を置いて、暮林はぼんやり考える。
翌週の火曜日、本社でのミーティングに同行する予定になっていた。各事業所の課長クラスの情報交換を目的にしたもので、暮林はアシスタントとして出席するに過ぎない。そんな「その他一名」的社員の予定を、なぜ本社秘書室の人間が把握しているのか不思議だった。電話の彼女の声が、「半導体デバイスの暮林」だとあらためて確認してから明らかに変化した点も気になった。
人事課でもないのに、それを名乗った謎の男『近森』。どこかで会った気がしてならないのは、実際、会ったことがあるからではないのか。直接ではないにせよ、どこかで彼を見たのではないだろうか――脳の機能をフル稼働し、暮林は記憶を呼び戻す。
過去本社から出張してきた人間の中に、彼の顔を見たとも考えられる。
「思い出せない」
「暮林、何、怖い顔して電話を睨んでるんだ?」
絞り出すような暮林の呟きに、同僚の一人が反応した。暮林は顔を上げ、彼を見る。
「なあ、三〜四日前、本社から誰か来てたっけ?」
「三〜四日前? ああ、確か専務の一人がバイオのプラントに来るとかって言ってたな。ほら、例のプロジェクトの件で」
その同僚の答えで、暮林も何となく思い出す。ノーブルウィング社とのプロジェクトはバイオ関連で、自分のところとは無関係だから、すっかり失念していた。
「専務?」
「そう。篁ジュニアだったかな」
秘書室勤務なら、篁専務に同行して来たのか?
(いや、違う、あれは…)
キーワード『篁ジュニア』で、記憶に在る数多の顔の中から一つがヒットした。去年、専務に就任した社長令息。暮林と五つ六つほど――実際は七才――しか変わらない、グループ史上最も若い専務を、社内報で見たことがある。否、写真で見ただけではなく、専務就任後の視察で遠目ながらも『会った』。
その篁専務の顔に、あの謎の男の顔が重なった。
「うそだろ…」
本社ビル二十三階でエレベーターのドアが開くと、ロイヤルブルーの絨毯が敷き詰められた受付が広がった。暮林は軽い眩暈を覚えた。
受付とは言っても明らかに他のフロアとは趣が違う。ここから上の階は役員フロアと呼ばれ、二十三階には現在二人の専務と二人の常務がオフィスとして使用していた。それぞれの役員秘書達の白い机が贅沢な間隔をとって配置されているのだが、さながら海に浮かぶ小島のように見える。
エレベーターから降りたった暮林の姿を見て、その「小島」から一人が立ち上がった。髪をきれいにアップにしたパンツスーツの女性で、彼女はまっすぐ近づいてくる。
「暮林さんですね? 近森です」
「半導体デバイスの暮林です」
「どうぞ、こちらへ。ご案内します」
女性の『近森』はそう言うと、別の秘書に目配せしてフロアの奥へと向かう。足が止まっていた暮林は促され、慌てて彼女の隣に並び歩き出した。
彼女との電話の後、『彼』が誰だかわかった暮林は、確認のために社内報を繰った。残念ながら専務就任時のそれはなかったが、注目度ナンバー・ワンの専務だけあり、顔写真付きの記事を別の号で見つける。ただ視察や会議の時のもので、鮮明とは言い難かった。屋上で会った男と同一人物なのだろうが、写真と生身とでは印象が違うせいか実感出来ない。向かっているところは、もしかしたら役員室ではないかも知れないとさえ思える。
しかし彼女が立ち止まった一番奥の部屋のドアには、『A.TAKAMURA』の文字が。その文字を認めた目から、見る見る緊張が暮林の体内に伝染した。
本物の近森秘書は軽くノックし、返事も待たずにドアを開けた。さっき彼女から目配せされた他の秘書が、あらかじめ連絡を入れたのだろう。
焦げ茶とアイボリーで統一された広々としたオフィス。大きなデスクで書類に目を通していた男性は、二人に気づいて目を上げる。
(あっ)
暮林は息を呑んだ。やはり屋上庭園で『近森』と名乗ったあの男だった。
「た…篁専務?」
横目で近森秘書を見ると、「そうよ」と言う風に彼女が頷く。
「先日はどうも」
篁亜朗――篁専務は去年、三十七才で篁エレクトロニクスの専務取締役の一人に名を連ねた社長令息である。アメリカの大学院でMBAを取得し、帰国後の二十六才の時に篁エレクトロニクスに入社した。父親の篁社長の方針で、国内外の支社・事業所を転々として、三十の時には常務待遇で本社へ。その時に打ち出したのがバイオ事業の拡大と組織改革であった。
本社に籍を置きながら、海外での新たな拠点作りに飛び回る日々を送っていた間に、彼がプロジェクトしたバイオ関連事業が結果を出す。その研究結果に注目したアメリカの巨大商社ノーブルウィングが共同研究を持ちかけてきたのは、彼が専務に就任して間もなくの頃だった。
篁社長が創業者一族の一人だったので、入社当時、周囲は「縁故採用のボンボン」と言う期待薄の目で見ていたのだが、彼はそれを良い意味で裏切った。数名の専務の一人ではあるが、年齢や入社経年を加味しない真の序列が存在するなら、彼はまさしく筆頭だと言えよう。
専務取締役就任の際に、篁専務は挨拶と見学を兼ねて各課各部門を回った。当然、暮林が所属する半導体デバイス部門にも、事前に視察の件は通達されていた。しかし案内や説明には課長と部門長がついていたし、篁専務から無視して仕事に集中するようにと指示が出ていたので、暮林は視察中の専務を遠目にした記憶はあったが、顔までははっきり覚えていなかったのだ。
暮林は背中に冷たい汗が滲み出るのを感じた。そして思い出す。なぜ自分が先週、人事課の『近森』に電話をしたのか。始末書の件で礼を言うためだった――もしかして、いやもしかしなくても、専務に始末書を書かせてしまったのでは。
「あの、始末書の件ですが、…その、申し訳ありませんでした」
暮林は挨拶もそこそこに、直立不動から深々と頭を下げた。
篁専務が声なく笑っているのがわかった。
「頭を上げたまえ。俺のせいだからね。君の評価が下がったら困るだろう?」
「それに『ごめんなさい』の一言だけですものね。大して手間はかからなかったと思いますよ」
「書き方を知らなかったんだ」
「だからって『pardon me』だなんて」
近森秘書の言った通り、篁専務の提出した始末書には『pardon me』の一言だけだった。受け取った側の遠山は、どこからともなく回ってきた始末書の提出者名が篁専務だったことにまず驚き、次にテンプレートな書類の真ん中の『pardon me』で目が点になった。誰かの悪戯かと思っていたら、篁専務から直々に暮林を擁護する電話をもらい、恐縮するに至る。これが後に遠山本人から暮林が聞いた始末書の顛末だった。
「君のことは少し調べさせてもらったよ。思った通り、なかなか優秀だな。将来の幹部候補らしいが、欲がなさすぎる。君自身が言ったように、『長』のつく地位は向いてなさそうだ。さしずめ宝の持ち腐れのままで定年を迎えるタイプ」
褒められているのか、けなされているのか。それ以前に、なぜ篁専務が暮林のことを調べたかがわからない。
「確かな知識と適応能力の高さは、どの部署でもお墨付きだ。先週のミーティングと新人研修の様子を少し見たけど、報告書とレジュメは君がまとめたんだって?」
ミーティングも新人研修も小規模なもので、『部外者』の姿はなかった。
(いったい、いつ見たんだ?)
暮林は記憶を辿り、設置されているテレビ会議システムが、使いもしないのに作動していたことに思いあたる。そう言えば使用する部屋がそのシステムを持つ部屋に変更になったのは、どちらも直前ではなかったか。
一瞬左下に落とした視線を前に戻すと、篁専務はニヤリと笑った。
「この前も話したように、俺は理系に疎い。秘書一筋の近森君もしかりでね、専門分野に多少なりとも明るい人間が欲しかったところなんだ。だけど専門バカでも困る。君は守秘と言うことを心得ているし、文書や口頭による説明能力もある。加えて作業服よりもスーツが似合う。と言うわけで、君を本社秘書室に引き抜くことにした」
「え?!」
「正式な辞令は来月に出る。異動は再来月だ。それまでに技術屋としての身の回りの整理をしておくように」
いきなりのことで面食らい、暮林は専務を凝視する。
「佐古田部門長と松原課長には話を通してあります。急なことで困まっていらしたけど。専務は変なところでせっかちだから。もう何日もないのに来月からでもって仰ってたくらいなの。引き継ぎのための残業費はきっちり申請してね。規定以上の時間外分については、専務がポケット・マネーで出してくださるそうだから」
近森秘書の声が横から聞こえた。篁専務が間髪入れずに「言ってない」と否定する。
「それぐらいの度量はお見せにならないと。部門長にも課長にも『泣いて』もらったんですから」
続けた彼女に向かって、専務は口元をへの字に曲げて見せた。
そんな二人のやり取りに、暮林の緊張で力が入った口元が緩む。笑うまではいかなかったはずだが、篁専務に目ざとく指摘された。
「笑っていられるのは今のうちだぞ。この近森の下につくんだから、覚悟をしておけよ」
それはすでにこれまでの二人の会話で推測出来た。そして、
「私なんて可愛いものでしょう? 専務のお守りに比べれば」
と言う彼女の返しに対して、篁専務が苦笑して見せたので納得した。
近森秘書が腕時計を見て、「そろそろ」と告げる。専務には次の予定があるらしい。
「では暮林君、再来月からよろしく」
篁専務は立ち上がり、右手を差し出す。
その手を無意識に取った暮林は、再び身体中に緊張が走るのを感じた。
ある土曜日の昼下がり、暮林は古巣の篁エレクトロニクスS工場に来ていた。工場自体は休業日だが、海外事業系、研究関連の課員は休日出勤もするので、通用門は開いている。
暮林が休日出勤したのは、ここに来るためではない。横浜で開催中の現代美術展に、篁専務が取引先でもあるスポンサー企業から招待されたので、暮林は午前中、彼に随行した。美術展を観た後、専務は横浜市内のフレンチ・レストランに向かってそのままオフに入り、暮林も直帰することになっていたのだが、まっすぐ帰る気になれなくて、車で半時間ほどの郊外にあるS工場に足を延ばしたのである。
IDを見せて駐車場に車を置き、第一社屋に入った。平日なら社員が忙しく立ち働いている時間だが、休日ではエントランスや廊下の蛍光灯の点灯数も少なく、ひっそりとしている。暮林は一基だけ動いているエレベーターに乗り込み、十五階に上がった。
「変わってないなぁ」
暮林が十五階にある屋上庭園に入るのは二年ぶりである。青々とした芝生が変わらず広がり、植え込みのサツキがピンクと白の花を満開に咲かせていた。
二年前には芝生の生え際に立ち入り禁止の札があったが、今はなくなっている。あちこちに芝の寝ている部分があることから、どうやら立ち入っても良くなったらしい。
暮林は芝生の中に入ってスーツの上着と靴を脱ぎ、ネクタイを緩めて仰向けに横たわった。
少し西に傾いたとは言え、まだまだ高い太陽が目の端に入るので、腕を額に乗せてまぶしさを防ぐ。腕の隙間から見える青い空に、白い雲がゆっくりと流れて行くのが見えた。
ここの芝生の上に寝転び、こうして心安らかに空を見上げるなど初めてだった。『今日』が二年前だったら、お約束のごとく遠山チーフが飛んできて叫ぶことだろう。
「こらぁ、暮林!!」
慌てて暮林は飛び起きる。回想の中でのことが現実となり、幻聴ではない大きな声が暮林の耳を通って、青空へと抜けて行った。
「遠山チーフ?!」
屋上庭園の入口から笑いながら、恰幅の良い男が歩いてくる。バイオ部門二課の遠山だった。芝生のエリアまで来ると、そのまま躊躇いもせずズカズカと入り、暮林の傍らに腰を下ろした。
「出勤して来たらお前がこっちの棟に入るのが見えたんだ。エレベーターが十五階まで上がったから、ここに来てるんじゃないかと思ってな」
チーフとは呼んだものの、彼の今の肩書は課長代理であり、間もなく「代理」は外れる予定だ。本社で定期的に開かれる課長クラスのミーティングで顔を合わす時など、暮林の頭の中ではすっかり課長代理としての遠山が根付いていて、呼び間違うことはない。しかしこの場所で野太い濁声で怒鳴られると、たちまち時間は遡り、反射的に口から突いて出てしまった。
「すみません、課長代理でしたね」
「ここじゃ誰も肩書で呼ばないからいいさ」
「怒鳴られたショックでタイムスリップしましたよ。ここが立ち入り禁止のままなのかと思ったじゃないですか」
遠山は肩を竦める。
「立ち入り禁止なんかにしないさ。もう始末書攻撃は勘弁だからな」
彼の言葉を聞いて、暮林が苦笑した。
篁専務は計四回、遠山宛てに始末書を提出している。理由は「空があまり青いので」、「芝生の緑に誘惑されて」、「睡魔に負けて」などなど。そして最後に必ず「ここの芝は本当に気持ち良い。寝転ぶのに最高だ」とつけるのだ。
面白がられているだけではなく、早くみんなに解放しろと催促されているようで、管理していた遠山のチームは別棟実験庭で新たに芝の栽培を始め、ついに立ち入り禁止の札を外した。
「まったくガキのようなことするから。それで、今日は? ボスは一緒じゃないのか? ああ、土曜日か。だったら何でここにいるんだ?」
「午前中、専務のお供で横浜まで来ていたので、ちょっと寄ってみようかなって」
「え? じゃあ、やっぱり篁専務も一緒なのか?」
遠山は辺りを見回した。暮林が篁専務も自分も午後からオフなので横浜で分かれたと説明すると、「なんだ」と彼は一瞬入った肩の力を抜く。
「それにしても午前中は仕事だったんだろう? 篁専務は相変わらず忙しそうだな?」
「忙しいのがお好きなので困ります」
「まだ若いからだろう? 普通の社員だったら中心になって、バリバリ仕事をしている年頃だ。それに何でも知っておきたいタイプだからな」
遠山の言ったことに暮林は苦笑して「そうですね」と答えた。
「だけど、知っているからこそ無理を言わない。逆に知られているからこそ誤魔化しが利かない。それに、二課だってあの専務がバイオに力を入れろと言わなかったら、なかったかも知れないな。実際、すごい『坊っちゃん』だよ」
篁専務――当時は常務待遇だった――は古参役員が難色を示す中、バイオテクノロジー部門に力を入れ、それまでの一課体制を見直し、三課に細分化した。そのおかげで遠山は専門の農学を生かす研究に携わることが出来たのだ。
それまでは付属部門でしかなかったバイオ部門が、今や本業だったエレクトロ二クスと比肩するまでに成長した。「坊っちゃんの道楽」と言う当初の見解は忘れ去られている。
「あの専務について大変だな。せいぜい身体、壊すなよ」
「ありがとうございます」
互いの近況を少し話した後、遠山は休日出勤した本来の目的のために、自分のプラントに向かった。
彼が屋内に入ったのを確認して、暮林は再び芝生の上に寝転がる。脱いだ上着が頭の辺に触れて、篁専務と初めて出会ったあの日のことを思いだした。彼は上着を枕替わりにして、ここに寝転んでいた。昼休憩を取りにやってきた暮林に煙草をねだり、二人の会話が始まったのだ。
あれから二年。第二秘書としてスタートした暮林は、第一秘書の近森理沙が出産・育児休暇後、社長秘書に戻ったため繰り上がり、S工場時代とは比べ物にならない忙しい日々を送っている。ここにいたつい一昨年までの日々が、ずい分昔に感じられた。
(ここが全ての始まりだったな)
仕事の、そしてこの得体の知れない感情の。
あの時、ここで篁専務と出会わなければ、暮林はまだ研究と開発に明け暮れる技術棟の住人のはずだ。それはそれで面白かっただろう。実際、専務の秘書となった当初は畑違いの仕事に不安を覚え、『ホームシック』も経験した。しかし近森が妊娠を機に一線を外れると、ほぼ一日中、篁専務と行動を共にするようになり、泣き言を言う暇はなくなった。
そうした日々の中、専務の仕事ぶり、人となりを間近で見続けるうちに、暮林はどんどん惹かれて行く。尊敬する上司として篁専務は、暮林の中で何ものにも優先する存在になった。休日や公私の境目の曖昧な篁専務に付き、傍目からはプライベートの時間を削られているように映るらしく、同僚は大変がってくれるが暮林本人は負担に思わない。むしろ専務の姿を見られない休日を寂しく感じる。その感情が単なる尊敬なのか、暮林は近頃、わからなくなっていた。
今日、まっすぐ帰る気になれなかったのは、篁専務がフレンチ・レストランでノーブルウィング日本支社のエヴァンス専務と待ち合わせていたからだった。午後から明日にかけて、二人はプライベートな時間を過ごす。彼らはビジネスを間に介在させつつ、フィジカルな関係を結ぶ間柄だった。どのような過ごし方をするかを知っている暮林は、心中が波立って穏やかではいられない。もやもやとしたものが胸に広がる。
同性に対して抱くものとしては不可解なこの感情を、『恋』だと認めてしまうのは抵抗があった。しかし忠誠心と呼ぶのも不適切だろう。なぜなら、その感情には時に、色めいたものが混じるからである。
(あの人は男で、奥様もいる)
たとえ結婚以来別居した仮面夫婦であっても。
そして情事の相手――エヴァンス専務も。
篁専務のオフを独占するエヴァンス専務の、暮林を見る目と言ったら。まるで心の中を見透かされているかのようだ。篁専務の腰に腕を回してみたり、熱い眼差しで彼を見つめてみたりして、それを見る暮林の反応を楽しんでいる節がある。
(むかつく)
そんなエヴァンス専務に対して暮林が出来ることは、スケジュール管理を任せられているのを良いことに、彼からのアポイントメントを何かと理由をつけてキャンセルするくらいだった。巨大外資系企業の専務相手に細やかな嫌がらせだが、スケジュール帳に記されたエヴァンス専務との予定に二重線を入れる時、少なからず溜飲は下がる。
嫌がらせ目的だけではなく、多忙な篁専務のオフを少しでも長く確保したくて腐心しているのだが、そんな部下の気持ちを知ってか知らでか、当の専務本人がさりげなく時間を作ってしまう。今日などもそうだ。
エヴァンス専務に対し、篁専務が特別な感情を持ち合わせているわけではなく、ビジネスの為、飴と鞭的バランスを取っているに過ぎないとわかってはいても、そう言う時、暮林の胸のもやもやは、チリリとした痛みに変わった。
(俺は、ああ言う関係を望んでいるのか?)
一度だけ、篁専務の緩めた襟元に情事の痕跡を見とめた。第二秘書になって半年ほどしてのことだ。彼ら二人のそう言う関係は薄々知っていたが、目の当たりにすると少なからず動揺した。
そんな風に自分もまた篁専務に触れて、印を付けたいと思っているのか?
不可思議な胸の痛みに問いかけるが、肯定も否定もなく、答えは得られない。
芝生の上を春の風が流れて行く。妄りがましい疑問を払拭するかのように、都会のそれとは違う清かな空気を吸い込み、暮林は目を閉じた。
注1) オーバーシーディング
夏芝が衰退する冬に冬芝の種を蒔いて冬芝を繁殖させ、年中緑の芝を保つ方法
注2) トランディション
オーバーシーディングの逆。冬芝衰退期に夏芝の種を蒔く。
注3) 英訳協力:滝尾 秋様:BraddyBluePlus(別窓)
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