「皓、どこに行く気だ。地区大会も近いってのに、サボってる暇ねぇぞ!」
昇降口まで辿り着いた森野皓の目に、仁王立ちした兄・顕の姿が入った。この絶妙なタイミングは、先回りして待ち構えていたに他ならない。こんなことなら上履きのまま裏門から出れば良かったと、森野は自分の馬鹿正直さ加減を呪った。しかしたとえ裏門に回ったところで、兄のことだ、次なる刺客(=先輩)を用意しているだろうし、入学してわずか二ヶ月の森野には、塀をよじ登って越える勇気も背丈もまだなかった。
「痛いよ、兄ちゃん」
胸倉を掴まれ、弓道場への道のりを引き立てられるようにして歩く。すれ違う生徒達の寄越す視線など、兄はおかまいなしだ。
「もうさぁ、四人目が入ったんだから、いいじゃん、俺が抜けたって」
「馬鹿たれ。素人ばっかの一年なんて、何人いても足りないくれぇなんだよ」
兄が主将を務めていることもあって、森野は入学と同時に弓道部に引きずり込まれた。小さい頃から時間や規律に縛られることが嫌いで、中学でも帰宅部だった森野の性分は兄も十分に把握しているはずだが、管理し辛いとわかっていても、彼がそんな弟を入部させなければならなかったのには、弓道部存亡がかかった事情があった。
学校創立と共に創部された遥明高校弓道部は、歴史と伝統だけは立派な部活だったが、戦歴は惨憺たるものである上に、近年、部員確保も競技会出場もままならない、弱小クラブに成り下がっていた。森野の兄を始めとする現三年生三人が入部した時、人数的には一時盛り返したが、翌年には途中入部も含めて僅かに二人。今年最低三人の部員獲得と、部活動の――つまりインターハイ等の地区予選に出場するなりの履歴を残さなければ、二学期からでも同好会に降格させると生徒会の体育部会から通告されていた。体育部会内での予算争奪戦は毎年熾烈になるし、その予算が下りる部活昇格を狙う同好会は引きも切らない。実績もなく、傍目から活動しているかどうかも怪しい弱小クラブに対して、あちこちからの風当たりがきつくなるのは仕方がないことだった。
森野と、自発的に入部した一年生二人で、何とか部員獲得数のノルマは達した。あとは六月中旬から始まる地区大会出場と言うことになるのだが、ここに来て出場メンバーの三年生一人が骨折で戦線離脱、新入部員からの出場を余儀なくされたのである。
新入部員は弓を持つのも、弓道を見るのも初めての素人ばかり。運動神経だけはそこそこあり、仕込めば何とかなりそうな森野が第一候補だったが、やる気まるでなしのサボり魔で、部活時間を全うしたことがない。
そんな頭の痛い状況下で、四人目が入部してきた。明日から六月と言うかなり外した時期に。父親の急な転勤で、入学が決まっていた大阪の高校から遥明に編入してきたのだ。ありがたいことに、弓道経験者だった。
「上芝って経験者なんだろ? 俺が抜けたって、あいつが何とかしてくれるって。だか…」
「ぐだぐだ言ってないで、さっさと着替えろ」
新入部員の上芝知己は、中学の時から町の弓道場に通っていたとかで、基礎はしっかり出来ていた。また彼の同門で先輩として指導したのが、中学の頃から全国区で、二年生でありながら今年のインターハイ個人優勝間違いないと目される倉橋尚孝なのである。
「皓、おまえもやれば出来るはずだ。上芝の射を見習って、本腰入れろよ。まだあいつが引くの、見てないだろ?」
だらだらと着替えに時間をかける森野に、兄が言った。
「興味ねぇもん」
弓道に限らず部活には興味がなかった。先輩・後輩の関係は煩わしいし、自由な時間を削られる。他の何よりも部活を優先している兄の姿を見ると、「他にすることないのか」と突っ込みたくなった。森野自身に「したい何か」があるわけではないので、口にこそ出さないが――言ったら倍返しで返ってくるのはわかっていた。
「それに、弓道なんて向いてねぇよ。覚えること、多すぎ」
ルールはもちろん、道場内での作法や用具の取り扱いも、森野の基準から言えば煩雑だ。弓道着だって、なぜもっと機能的なユニフォームじゃないのかと思う。着るのも畳むのも、面倒くさいことこの上ない。
「おまえは覚えなさ過ぎる。せめて三年間だけでも鍛えられとけ」
着替え終わった森野の襟元の緩みを直しながら、兄はすべての意見を却下した。
主将である兄に見張られながら、ストレッチや素引きなどの基礎練習を終えた森野は、記録表を付けると言う名目で弓道場の隅に座らされた。
地区大会が目前に迫っている。団体戦には二、三年生に一年の上芝を加えた五人が正選手、補欠は森野に決まり、個人戦には前述の六人が参加登録された。個人戦に出るには森野は他の一年同様、まだまだ技量不足だったが、無理やりにでも出しておかないと、弓道部から離れる恐れがある。と言うことで、本人にも学校にも恥をかかせるのを承知でメンバーに入れたのだ。
(スポ根は柄じゃねぇってのに)
等閑な態度で記録をつける森野の頭に、兄の拳骨が落ちた。
「ちゃんと座れ。神様の前だぞ」
上座近くに神棚があり、兄はその方向を目で示した。森野は「やれやれ」とばかりに浅く息を吐き、机についた立て肘を外して居住まいを正す。
森野の視界の端に上芝知己の姿が入った。次にでも的前に立つのだろう。
森野がこうして間近で彼を見るのは、入部以来だ。入部して来た時は制服のままで、弓も引かなかった。それからは森野自身が弓道場に居着かなかったので、まともに彼の射を見るのは、今日が初めてだった。
兄に「見ろ」と言われるまで、上芝の射など眼中にはなかった。上芝のみならず誰の射も、森野は意識して見たことがない。今だってそうだ。たまたま次に彼が引くだけであって、それでなければ、見るのはまだ先になっていたかも知れない。
射位にいた二年生が引き終えて下がり、上芝が前に進んで入れ替わる。彼は成長途上の体格で、一年生部員の中では一番小柄だった。顔つきにもまだ中学生くささが残っていて、上級生と並ぶと大人と子供ほどの差が歴然とあった。隣の射位には大柄な森野の兄が立っているからなお更だ。
森野はぼんやりと彼の後姿を見た。淡々とした動作で射法に入る。
(あんな小っせぇのに、中んのかよ)
腕も腰もまだまだ細い。さほど体型的に変わらない森野は、自分が初めて弓を引いた時のことを思い出した。初心者のため、弱い弓を使ったにもかかわらず、筋力のない森野の腕にはかなりの負荷がかかり、放たれた矢は無様な軌跡を描いた。以来、鉄棒を使った斜め懸垂やら、ストレッチ、ゴム弓での練習が主だ。地道で地味な練習が、更に森野の弓への興味を失わせた。
家では兄から逃れようがない。森野はここのところ毎晩、彼の監視下でゴム弓を引かされている。
「弓道は個人競技だ。自分自身が練習しないかぎり、上手くなんねぇんだぞ」
とは、兄の口癖だ。その強制自主練習が脳裏をよぎり、森野の眉間に皴が寄った。
的中の音。上芝は残心を終えるところだった。彼を見ていたにもかかわらず、森野はまったく射を見ていなかった。
(見逃したか)
上芝が二射目を番える。今度は見逃すまいと、森野は右斜め前方に意識を向けた。
射法八節は流れるような動作が理想だと、森野は兄から教わった。正しい姿勢、正しい力の配分が在ってこそ、矢はまっすぐ、遠くに向かうのだと。筋肉は身体を支えるために必要なのであって、パワーのためではない。弓に力は必要ない。
上芝は物見に入った。目線は板付きから矢道に沿って的を見据える。その様子は自然で力みがない。
打ち起こしから引き分け、そして会に至る一連の動作が、森野の耳から周りの音を消す。聞こえるはずのない上芝の呼吸が、なぜか感じられ、森野の耳を刺激した。
小柄な背中が、広げた腕が、大きく目に迫った。
微動だにしない体幹が十分に待った次の一射は、放つのでもなく、放たれるのでもなく的に向かう――スローモーションで。実際には一瞬のはず。しかし森野の目には、そう映った。
矢は的の中央に中った。光跡を視界に残すかのような強烈な印象に、森野はしばらく的中した矢から目を離せなかった。
「今のは…何だ…?」
森野は思わず立ち上がった。膝にあたって、文机が倒れ音を立てる。周りの視線が森野に集まり、その中には上芝のそれもあった。物音の原因がわかるとみんなの視線は散ったが、上芝だけはしばらく森野の方を見ていた。
森野を釘付けにした上芝の射は、一射だけだった。その後すぐに彼は射位から離れてしまい、結局、部活終了時間まで的前に立つことはなかった。
森野はと言えば、上芝の一射が忘れられずにいる。何度も彼の射を見ている兄は、あれほどの射だとは一言も言ったことがない。隣で引いていたはずなのに、帰宅してからも話題にはならなかった。上芝は一番下手の射位で兄の後ろだったから、気がつかなかったのかも知れないが。
それからの森野は、ゴム弓や巻藁で練習する時も、あの射が頭から離れなかった。
地区大会が一週間後に迫ると朝練習も始まり、初心者でもメンバーの一人に名を連ねている森野は、優先的に的前に立たされた。
まだまともに的中したことがない。しかし格段に森野の射は上達している。一昨日より昨日、昨日よりも今日、そして時間単位となり、周囲の目が気づくほどの早さで、矢筋は確実に的へと近づいていった。
森野は常に一番下手の射位に立つ。かなりの上達は見てとれるものの、その射法はまったくの我流と言って良かった。多少の軸のブレも、引き分けから離れまでの早気とも取れる動作も、封じ込めるような強引さで引ききってしまうのだ。このままではそのうち、上達も頭打ちになるのは目に見えている。少しでも正しい射法に近づけるために、諸先輩の引く様を見る…と言うのが目的だった。しかし森野には、『諸先輩』の射など眼中になかった。
(上芝)
連日、的前に立つ森野の目の前に上芝が射位を取ったのは、大会二日前のことだった。それまでも同じ時間に弓道場にはいたが、間には別の射手が入り、間近で彼の射を見る機会には恵まれなかった。
暫しその背中を見つめる。森野の脳裏から離れない一射が、目の当たりに出来るのだ。
上芝が胴造りに入った。自然で無駄な力は見えない。弓構えから打ち起こし、引き分け、会――その動作一つ一つを、森野の目が追った。
上芝の手から矢が離れたところで、森野は目を閉じた。一呼吸の後、目を開けると、矢を番え、手の内を整える。それから十分に時間をかけて物見の体勢に入った。
森野は集中していた。
吸う息で矢を水平に保ちながら打ち起こす。上芝は舞うようだった。静かで優雅な腕の動き、まだ森野にはそこまでの技量はない。上芝のそれには遠く及ばないのはわかっているが、イメージは出来る。
引き分けて会に入ると、ピタリと狙いが定まった。この頃になると、森野の脳裏から上芝の射は消えていた。それだけでなく全ての雑念が消え、ただ的の中心しか見えていない。
まさに気力と機が熟した状態で、矢は手から離れた。森野が見定めた方向に違わず、的へと向かう。
たん…と心地よい音がして、矢は真ん中に的中していた。森野にとって、初めての『的中』であったが、感慨に耽ることはなかった。会心とは言い難く、イメージしたものとは開きがあったからだ。
(違う、こんなんじゃない)
浅くため息をついて目を上芝の背中に戻す。
(思い出せ。『あの射』をイメージしろ)
森野はキュッと唇をかみ締めると、再び行射の体勢に入った。
柄にも合わず熱血してしまったことが、森野には気恥ずかしかった。周りは勿論、驚いている。森野の姿が長く道場にあることにもだが、前日までまともに的中しなかった彼が、今日は皆中させたからである。行射中の森野の集中力のすごさは、矢取りの指示を出すことすら躊躇わせた。
周りが見えないほどに高められた森野の集中力は、兄に肩を叩かれるまで切れなかった。
「調子ええな?」
矢取りのために行射は中断された。自分が使った矢を取っていた上芝が、森野ががむしゃらに中てた的を見て言った。言葉を交わしたのは、初めてかも知れない。関西弁だ。
「まあな。目の前に良い見本があったから」
「見本?」
「主将に上芝の射を見習えって言われてんだ。俺、初心者だから」
「そんで、見本になったんか?」
「う〜ん、途中から訳わかんなくなったからな。でもこんだけ中ったんだから、なったんじゃねぇ?」
上芝は森野の的をしばし見つめる。
「…そんでか。背中、穴、開くか思たやんけ」
上芝はそう言うと、さっさと矢取りを済ませ、看的場へと向かった。
森野は矢を引き抜く。そのほとんどが真ん中近くに集中していたが、実感がない。どれだけ引いても、引き足りない気がした。あの『射』が残した光跡を、何度も追って引いたのだが、ついに追いつけなかった。
それに確かに上芝は目の前にいて、同じ時間、引いていたと言うのに、今日のその射よりも、過日のあの『射』しか思い出せない。
あの『射』を、また見る事が出来るのか? 見るためにすべきことはなんだ?
森野は手の中の弓を見つめる。
「キャラじゃないっつーの」
とりあえず今日はここまでだ――矢を手早く片付けた森野は、油断している兄の隙をついて、弓道場から姿を消した。
インターハイへ至るための第一歩、予選を兼ねた地区大会に於いて、無名の遥明学院高校弓道部は、団体戦で準優勝した。また個人戦では、一年生ながら上芝知己が一射差で四位。そして弓道を始めて僅か二ヶ月の森野皓は、ベスト8に入る。
惜しくも本大会へは進めなかったが、ローカルとは言え名を知らしめるには十分だった。
やがて遥明学院高校弓道部を全国区に押し上げて行く、「創部以来、最強にして最悪」と称される主将・副将コンビの、これが軌跡の初めであった。
end.
2007.10.05
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