※ このお話は、二人が出会って9年目のお話です。
  甘味が強うございますので、ご注意ください(笑)
  また、『真嶋透』『西村奈緒』を始め、この二人に関わる人物は、
  宮城あおばさん作『輝』の登場人物をお借りしました。





[ You are so sweet. ]                          



 時間は午後五時五十五分。開演まで五分しかない上に、目的地までは最寄り駅から徒歩八分。これはもう、必然的に走るしかない。真嶋透と西村奈緒は電車がホームに着くなり、駆け出していた。
 透の手には簡単な地図が書かれたチケットが握られている。コピー機で刷られた手作り感たっぷりのそれは、とある教会で開かれるチャリティー・コンサートのものだった。額面は千円で見かけ通り慎ましい金額なのだが、実際はその数倍で透のところへ回ってきた。
「そのチケットはプラチナなのよ。いくら払っても行きたいって人間がたくさんいるんだからね」
とは、このチケットを押し付けてきたテニス部OB・滝澤の言である。コンサートの出演者の一人に世界的なヴァイオリニストが含まれていて、活動拠点がヨーロッパである彼の演奏は、日本では滅多に聴けなかった。唯一、確実に聴くことが出来るのがローカルな音楽教室主催のクリスマス・コンサートなのだが、会場がこれもまたローカルな街の教会で収容人数が少なく、毎年、そのチケットは争奪戦となる。勿論、そんなことはクラシック音楽に特別興味のない透の知るところではなかった。
「一年の時も、二年の時も、な~んにもしてあげてないんでしょう? 高校最後のクリスマスくらい、らしく過ごしてみたら? 女の子はね、いくら彼氏の部活に理解があるって言っても、案外、イベント好きなのよ」
 大学部に入っても相変わらず柔らかい『物腰』の滝澤は、女心もよくわかった風に言った。確かに一理ある。しかし彼がチケットを回してきたのは、透と奈緒のカップルを慮ってかどうかは、実に怪しかった。チケットの出所は滝澤の先輩――透にとっては大先輩――で、滝澤自身も数倍の値段で押し付けられたと考えられる。その上、日が大問題。十二月二十三、二十四、二十五日はテニス部の大事な行事があって、これは部を引退しようが、受験を控えていようが、関係なく強制参加なのだ。名将・日高コーチに育てられた大学部在学中のOBも例外ではなく、当然、滝澤も参加者の一人である。コンサートの日付はその初日の二十三日、最も抜け出しにくい日だった。高額なチケットを無駄にしたくないと思うのが人情だろう。
――五時には終わるだろうし、一時間もあれば余裕で行ける。
 高校生にしては破格のチケット代だが、払えない額ではない。さすがに滝澤も、二枚をその値段で押し付けることには気が引けたのか、一枚は半額にしてくれると言った。帰りにケーキでもご馳走出来るくらいには手元に残り、滝澤の言うところの「らしく」過ごせそうだったので、透はチケットを買い取ったのである。
 ところが初日で終了時間がずれ込み、余裕であるはずの時間は一気に削られた。まったくいつもいつも、計画通り、思惑通りに事が運ばない。そう言う星の下にでも生まれたのかと、思わずにいられない透であった。
 数本のラケットが入ったバッグが肩から提げられているにも関わらず、透の方が足は速い。つらつらとこれまでの経緯を思い出していると、いつの間にか奈緒との間に距離が出来ていた。透は速度を落とし、彼女が追いつくのを待ってやる。
「貸せよ、カバン」
 隣に並んで息を整える奈緒の学生カバンに手をかけた。
「軽いからいいよ」
と彼女がやんわりと断るのを無視して、それを取り上げた。カバンは結構な重みがある。冬休みに入っていたが、彼女は部活の透を待ちがてら、図書館で受験勉強をしていたのだ。
 街を歩く他のカップルは華やかに見えた。透はジャージ姿のままだし、奈緒は制服にスクール・コートで、二人にクリスマス・シーズンのカップルの様相は、欠片もない。
 走ったおかげで乱れた髪を、どうせまた乱れるにも関わらず、彼女は手櫛で直す。その仕草が何だか可愛くて、同時に切なかった。
「走らないの?」
 彼女は円らな瞳を透に向けた。
「音楽会って、一曲終わらないと入れてもらえないんだろ? だったら歩いて行こ」
 もうそこに教会が見えていたが、どっちみち一曲目は始まっているだろう。大慌てで走り込んでも、すぐには入れてはもらえない。それならゆっくりと雰囲気を味わいながら歩いても一緒だ。表参道ほどではないにしろ、街路樹はライトアップされているし、道沿いの家の玄関にはリースがかかって、目にもそれらしい。
 ここで手を繋げば完璧なのだろうが、きっかけが掴めなかった。それより何より透の両手は、二人分のカバンで塞がっている。自分の要領が悪さに、つくづく呆れる透だった。




「残念だわ、サクちゃん。明日の便でウィーンなんですってね? 今年こそ七面鳥に挑戦しようかと思っていたのに。終わってからだとバタバタするから、先に渡しておくわね。お誕生日、おめでとう。良い一年でありますように」
 悦嗣の母・律子はそう言うと、リボンのかかった紙袋をさく也に手渡す。それからスタッフに呼ばれて、コンサート会場となる聖堂に向かった。さく也はその紙袋を、しばし不思議そうに見つめている。多分、彼が考えていたクリスマスの予定と違っているのだろう。
 十二月二十五日は中原さく也の誕生日だった。もともと誕生日など頓着しない性質(たち)だし、彼と同じ日が誕生日である世界一の有名人イエス・キリストのために、ヴァイオリンを弾いていることの方が多かった。
 悦嗣が彼の誕生日を知ったのは、知り合って四年も経った頃。悦嗣もさく也同様、そう言った記念行事的なことに疎い上に、プロの演奏家である彼本人がクリスマス・シーズンは忙しく、日本にほとんどいなかったから知る機会がなかったのだ。
 二人の友人のピアニストのユアン・グリフィスが、彼の想い人が何をプレゼントしても見向きもしないとぼやいたのを聞いて、さく也の誕生日を知った。ユアンの想い人はさく也の双子の弟だった。
「今年は店を予約したんだ。だからうちでの誕生日会はなし」
 多忙なさく也であったが、カノウ音楽教室主催のクリスマス・チャリティー・コンサートには必ず出演する。悦嗣と時を同じくして彼の誕生日を知った律子が、コンサートの翌日にささやかな誕生日会を加納家で催した。それがここ数年、年中行事としてすっかり定着していたのだ。その席で渡されるはずのプレゼントが手の中にあるのだから、さく也が「あれ?」と言う表情をするのも無理はない。
「店?」
「毎回、『子供のお誕生日会』ってのも、どうかと思って」
 物に執着がないさく也は、何も欲しがらない。どちらかと言うと、悦嗣と一緒に過ごす時間を望んだ。二人とも別々の仕事を持ち、休みは重ならないことが多かった。さく也がオフで日本にいる間は、なるべく合わせるようにしている悦嗣だが、年末ともなると演奏会シーズンで調律の依頼も立て込み、調整は難しい。またクリスマス近くになると、音楽教室主催のチャリティー・コンサートがある。その準備も含めてますます忙しくなった。コンサートが終わって悦嗣が一息つく頃には、今度はさく也がヨーロッパに発ち、年が明けてしばらくするまで戻って来られない。
「いつもの誕生日会でも、構わないのに」
 チャリティー・コンサートが唯一、この時期に二人が合わせられる時間と言えばそうだったが、母の律子や妹の夏希がさく也のために、『家庭的』な誕生日会を用意した。さく也は嫌がりもせず、むしろそちらを優先する。家族の縁に希薄だった彼には、形の悪い手作りのケーキや、主役の好きなもの…と言うより、料理する側の得意料理が並ぶ和洋折衷な食卓もまた、楽しみのようだった。決して社交辞令ではなく。
「俺がそうしたいんだよ。たまには二人で過ごしたいと思うだろう?」
 悦嗣の言葉に、さく也の頬は薄く発紅した。微かに上がった唇の両端――ほんの微かな感情表現だったが、彼が今回の『プレゼント』を嬉しく思ってくれていることが悦嗣にはわかった。
 実はこれは、親友の曽和英介の入れ知恵だったりする。今までのさく也の誕生日の有様を聞いて、
「いい年の大人のカップルが、親主催の『お誕生日会』だなんて、何て色気がない。たまにはロマンティックに、らしく過ごしてみたらどうなんだ? いくら何も言わないからって、さく也だって、その方が嬉しいに決まっているぞ?」
と英介は呆れたように言った。それから予約が取れないので有名なフレンチ・レストランと、美しい夜景で人気のホテルの都合をつけてくれたのだ。ご丁寧に母に対する適当な言い訳まで用意してくれる周到さだった。
――まったく、エースケには当分、頭、上がんねぇな…。
 さく也の嬉しそうな様子を見ると、英介が正しいと思わざるを得ない。お任せにしたおかげで、悦嗣の財布への配慮はまったく為されていないのだが。
「どうかしたのか?」
 一人苦笑する悦嗣に、さく也が気づいた。
「いや、何でもない。おふくろのプレゼントは何だ?」
 さく也は律子から受け取った包みを開けた。中から取り出されたのは、柔らかい革製の黒い手袋で、ヨーロッパの冷たい冬に耐えるよう、裏に薄く起毛処理がされている。
「出番までしてろ。指が冷えるだろう?」
「エツの方が冷たい」
 さく也が悦嗣の手に触れた。悦嗣は本番前になると指先が冷たくなる。本人にとりたてて緊張の自覚はなく、一種の癖のようになっているのだが、さく也との共演の際はやはりそれを否めない。あのヴァイオリンの類まれなる音色と合わせられる喜びと、引きずられる畏怖。まだ時間があると言うのに、すでに指先は冷たくなっていた。
 悦嗣の右手を包み込むようにして握るさく也の手もまた、熱がなかった。悦嗣の左手がそれに重なる。重なることで少しずつ、互いの手に熱が戻った。




 『タイスの瞑想曲』 Andante religioso(アンダンテ レリジオーソ) ニ長調四分の四――今年、さく也が選んだのは、マスネ作曲のオペラ『タイス』の中で最も有名な間奏曲だった。
 娼婦タイスが修道僧アタナエルによって改悛するシーンに流れる。流麗で甘い旋律が聴く耳を惹きつけて止まず、この一曲が存在するがゆえに、オペラでありながら他の曲は影が薄かった。オペラに興味のない人間でも、どこかで一度は耳にしたことがある名曲だ。
 ピアノによる二小節の前奏から入るヴァイオリンの音色は、程よく暖まった空気に乗って、聖堂の高い天井に向かう。レリジオーソ(敬虔に)と言う表現記号に相応しい崇高で美しい音楽は、まるで人々の上に降り注ぐかのように響いた。
 誰もがうっとりと静謐な楽に身を浸す中、さく也は自分を抑えるのに苦労していた。常に目の前にいる人々を意識しておかないと、必要以上に感情的に弾いてしまいそうになるからだった。演奏中、音楽に同化はしても、自分を見失うことはない。しかし今夜はどうしてもコントロール出来なかった。
 滑らかなフレージングの曲であるのに、弾んではいないだろうか? 
 共に音楽を創るピアノの音色を、不必要に追っていることがわかりはしないだろうか? 
 魂の浄化を表現する清らかな旋律は、最も人間くさい感情のそれに変化してはいないだろうか?
 感情の高ぶりを持て余しながらも、奏者であることに終始しようと努めるさく也の『タイス』は、切なさを加えた更なる効果で、聴衆の陶酔を誘っているのだが、本人に気づく余裕はなかった。
 演奏が終わって一瞬の間が空いた後、今度は拍手が聖堂に響き渡る。
 さく也は悦嗣を見る。彼もまたさく也を見ていた。驚きを隠せない呆然とした表情で。それでもさく也と目が合うと我に返ったようで、緊張した顔の筋肉を緩ませた。
 拍手は止む気配を見せず、アンコールを促していた。このコンサートでさく也はアンコールを行わない。国際的なプロのヴァイオリニストとしてではなく、音楽教室の講師の一人として出演しているので、他の奏者と同様の扱いになっていた。それにこの後の合同演奏やコンサート終了後の客の送り出しまで参加するので、音楽教室側が恐縮してそれ以上を望まなかったのである。
 毎年、アンコールへの拍手は起こるが、スタッフが出てくると自然に止み、次のプログラムに移っていった。今年はどうしたことか、司会進行役の夏希――悦嗣の妹――の声は無視され、かき消される勢いで拍手が続く。いつもと違う心情で作り出されたさく也の音楽は、いつも以上に彼らの耳を惹きつけているのだ。
 さく也はヴァイオリンを構える。途端に、聖堂内は静かになった。
 振り返ると、さく也は今まで、クリスマス・プレゼントを悦嗣に贈ったことがない。十二月二十五日はさく也の誕生日と言う意識でしか、悦嗣も、悦嗣の家族も見なかったからだ。今年も何も用意していなかった。
 だからアンコールではなく、悦嗣のために弾く。
 さく也の弓は、『White Christmas』を無伴奏で奏でる。クリスマスになると、必ず流れる定番中の定番。『タイスの瞑想曲』とは違い、さく也は感情を抑えなかった。旋律は尚甘く、自分の持てる技巧の全てで音楽にする。無伴奏でありながら、華やかさに欠けるところは少しも感じさせなかった。
 最後の一音を弾いた時、悦嗣がそれを受けた。新たに前奏が始まり、今度はピアノが『White Christmas』を奏する。華やかに弾ききったヴァイオリンの演奏のイメージそのままに。2フレーズ目からヴァイオリンが入り、オブリガード(助奏)として添った。次のフレーズでは主旋律をさく也が弾き、悦嗣は伴奏に回る。息の合った二重奏は、即興的なものと感じさせない。予め用意していたアンコール曲のように完成度が高く、聴衆を中原さく也の世界に引き込んだ。
 短いその一曲は、「あっ」と言う間に終わった。またしても起こった拍手は、あきらかにもう一曲を期待しているものだったが、さく也はそれには応えず、ペコリと礼を取ると、今度はさっさと退場してしまった。
 さく也は顔から火が出ているのじゃないかと錯覚する。こんなに感情に支配されて演奏したのは、生まれて初めてだった。指先の震えが止まらない。そして廊下の冷たい空気は、さく也の頬の火照りを鎮めるのに、ちっとも役に立たなかった。
「どうした?」
 さく也を追って、悦嗣が聖堂から出てきた。手には合同演奏で使う赤いサンタ帽が握られている。さく也は「何でもない」と首を振った。
「アンコールするなんて、ビックリしたぞ」
「…プレゼントを、用意してなかったから」
「プレゼント?」
「あんたに。だから、弾いたんだ。急に思い立ったから、上手く弾けたかどうか自信がない」
 悦嗣が少し目を見開く。さく也は顔の火照りが、全身に伝染するのを感じた。
「そんなことないさ。みんなの拍手、聞いただろう?」
「…エツは?」
「すごく贅沢な気分だ。ありがとう」
 悦嗣は手にした帽子をさく也に被せた。その言葉が、更に熱をもたらす。キスしたい…とさく也は思ったが、二人を呼ぶために夏希が顔を覘かせ、それは叶わなかった。最後の一曲である合同演奏が始まるのだろう。
「今行く」
と悦嗣は簡単に答え、夏希が引っ込んだ聖堂への入り口へと踏み出す。さく也は浅く息をつき、彼の後に続いた。
 ドアノブに手をかけたまま、不意に悦嗣が振り返った。真後ろにいたさく也は危うくぶつかりそうになる。目の前に彼の顔が迫り、次には二人の唇が重なった。それは啄ばむような短い口づけ。
 一瞬で唇を離した後、悦嗣はさく也の片頬を撫で、微笑んだ。それからドアを開けて、先んじて中に入る。
 さく也は――再び夏希が呼びに出てくるまで、動けなかった。




 高校最後のクリスマス・シーズンをこんな風に透と過ごせるとは、奈緒は思ってもみなかった。
 推薦での合格が決まっている者を除いて、三年生にとっては受験の追い込み時期である。大学に付属している光陵ではあったが、内部進学するにも進級学力テストを受けなければならなかった。テストは冬休み明け早々に実施されるので、他の受験生と状況は大差ない。それに透が所属するテニス部の行事もなぜかこの時期にあって、部活最優先の彼が、奈緒のために時間を割くことは考えられなかったからだ。
 一年生も二年生の時も、奈緒の存在は忘れられていた。透は「そんなことは無ぇ!」と否定するだろう。心の片隅には留めてくれていたかも知れないが、現実に彼は冬休み中、朝から晩までクラブ三昧だった。
 そんなわけで今年もまた、同じに違いないと諦めていたところに、今日のコンサートである。「部活の帰りにケーキでも」ではなく、教会で催されるクラシック・コンサートへの誘いだった。あまりに意外なことだったので、自分の耳を疑って、奈緒は即答出来なかったくらいだ。
 コンサートは、夢のような時間だった。
 クラシックなんて滅多に聴かない。生演奏でとなると尚更に。もっと堅苦しいものかと奈緒は想像していたが、今回のコンサートはとてもアット・ホームで、演奏された曲もどこかで聴いたことのあるものばかり。無意識に構えていた彼女の気持ちはすぐに解れた。
 プログラム最後の演奏者全員による合奏は、観客にも参加させると言う趣向で、透と奈緒が選ばれた。鈴を手に二人してピアノの脇に立ち、演奏に加わる。同じテンポでただ合図のままに鈴を振るだけだったが、演奏が始まると音楽に取り込まれ、同化したように感じ、とても心地良かった。透のリズム感が思いの外に良く、ズレそうになる奈緒を度々フォローしてくれた。新しい彼の一面を知って、それもまた嬉しかった。
 コンサートが終わっての帰り道、夜になって冷え込みが強くなっていたが、心が温かいままの奈緒は寒さを感じない。隣を歩く透も同じ気持ちなのかな…と思った時、
「すっかり遅くなっちまったな。家まで送ってやる」
と、透はぎこちなく手を差し出す。そのタイミングの良さに奈緒は驚いた。
 本当に今日は何て日なんだろう? 
 隣にいるのは透なんだろうか?――奈緒はチラリと彼を見やった。照れているのか、こちらを見ようとしない。ああ、いつもの透だ…と変に安心する自分に苦笑し、奈緒は手を重ねた。
 外気で冷たくなった二人の手に、体温が戻ってきた。同時に、奈緒はカバンの中を意識する。透のために用意した、手に関係するクリスマス・プレゼントが入っていたからだ。
 赤と緑のクリスマス・カラーの包みには、手袋が入っていた。指先が自由に使えないからと手袋を嫌う透のために、第二関節から先のない半指のものを選んだ。軽くて暖かいフェルト製で、ウォーミング・アップをするのにも邪魔にならない。
 実は奈緒が手袋をプレゼントにするのは、今回が初めてではなかった。高校一年生の時にクリスマス・プレゼントとして、厳選に厳選を重ねて贈った。透は大層気に入って、渡したその日から使ってくれたのだが、三日目には素手に戻っていた。もともと手袋をする習慣のない彼は、一度外すとポケットに入れたまま翌日まで使わない。それでロード・ワークに出た時にでも落としてしまったらしく、気がつくと片方しかなかったのだ。
「ごめん。せっかくのプレゼントなのに」
 恐縮する透に、
「まったくだぜ。彼氏失格だ」
と仲の良い先輩の千葉健太がまず突っ込み、それに便乗して他の部員も次々と続いた。奈緒が取り成さなければ、永遠に突っ込まれ続けただろう。
 それで二年のプレゼントも手袋にした。それもまた、ほぼ同じ理由で使い物にならなくなった。今度はクールなライバル・日高遥希が、
「同じことを繰り返すなんて、学習能力ゼロだね」
と冷ややかに突っ込みを入れ、二度も同じことをしでかした透は、春の新入部員歓迎会で話のネタにされて、一年生を和ませたらしい。
 そして今年。プレゼントを選ぶ時に、奈緒はやはり手袋しか思い浮かばなかった。今度こそちゃんと役目を全うして、彼の手を暖め続けて欲しいと言うリベンジな気持ち。
 包んでもらってカバンに入れた後、奈緒は後悔した。
――もしかして、しつこいと思われるんじゃ…。
 二度も失くしたプレゼントは、透にとって忘れたいことなのではと思ったからだ。これでまた同じものでは、物笑いの種にされても仕方ない。きっと誰かが、「二度あることは三度ある」とからかうに違いなかった。
 そう考えると、何度も渡す機会はあったのに躊躇って、未だにカバンの中にある。
 透は思いがけないプレゼントをくれた。今までの彼では考えられない、女の子が好きなロマンティックな時間。誰かの助言をもらったにせよ、自分のことを忘れずにいてくれたことが、奈緒には嬉しかった。それなのに、またしても手袋をプレゼントしようとしていることが、何だかすごく恥ずかしい。
「今日はありがとう。とっても楽しかった」
 奈緒の家がほんの十メートル先に見えて、二人は立ち止まった。繋いだ手が離れる。
「俺も。ケーキはまた今度な」
「ケーキ?」
「うん。食って帰ろうと思ってたんだけど、遅くなったから。えと…だから、明後日、その…、図書館に来るのか?」
 透は口の中でモゴモゴと言いながら、テニス・バッグのポケットから何かを取り出した。それは半指の手袋で、一瞬、奈緒はドキリとする。もしかして彼が自分で買ったのかと思ったからだ。ところがよく見ると、左右でデザインが微妙に違う上に、見覚えがあった。
「それ…?」
 奈緒が指差す。
「ああ、これ? ほら、失くしたのが上手いこと左と右でさ、あったかいし、使ってんだ」
 右は一年生の時に、左は二年生の時に奈緒がプレゼントしたものだ。何となく草臥れて見える。普段も使ってくれているのだとわかった。
 本当に今日は、何て日なんだろう。
 奈緒はキュッと唇を引き結び、それからカバンを胸に抱きしめた。
「明後日、行くよ、図書館。それでね、透、」

 

 
 その夜は、雪の匂いを空気の中に感じるほど冷たくなった。しかし――――
 

 テニス・バッグのポケットから覗く真新しい手袋は、見るだけで透を温める。
 本棚の中のコンサート・プログラムは、そこに在ると思うだけで、奈緒を温める。
 目の前に座る薔薇色の頬のさく也の、嬉しそうなその笑みは、悦嗣を温める。
 誕生日のために悦嗣が用意してくれた時間は、向かい合うだけでさく也を温める。
 
 ……想いの重なる夜が、それぞれの心を優しく温めた。




                                       end.
 
                                  
2007.12.23



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