視界を奪われることの頼りなさを、鈴川健一は初めて知った。
手首はネクタイで後ろ手に縛られている。多少の自由が利くように緩めではあったが、どのような結わえ方をしているのか、容易には外れなかった。あるいは目隠しをされベッドに転がされている不安から、そう思い込んでいるのかも知れない。
「啓さん、どこですか?」
部屋に音はなかった。確かにもう一人、この部屋にいるはずなのに、気配を感じられないのだ。鈴川の優しい恋人――橘啓の気配を。
どこにいるのだろうか…と両足をシーツに滑らせ、ベッドの上を探す。届く範囲には誰もいない。身を起すにも後ろ手に目隠しをされた格好ではバランスが取れず出来なかった、鈴川は次第に心細さを感じ始めていた。
と、胸元のボタンに手がかかる。気配のない空間から、突然に生まれた気配。ボタンを摘んだ小さな『衝撃』が、鈴川の全身に走った。橘以外の手でありようがない。それでも助けをもとめるかのように彼の名を呼んだ。
一本の指が、橘をか細く呼び続ける鈴川の唇を軽く押さえた。それからそのまま輪郭をなぞる。温かな感触が、その指が橘のものであることを鈴川に思い出させた。
薄く開いた唇の間から覗いた舌先が指を追う。指は歯列を割って差し込まれ、口腔の中を蠢いた。それを逃すまいと鈴川の唇は窄まり、舌はその動きを更に追う。
やがて胸元に風を感じて、鈴川はワイシャツのボタンが全て外されたことを知った。腰のベルトもその延長で緩められ、ズボンは下着ごと下げられた。口腔に集中していた意識が移り、唇が緩む。去ろうとする指を慌てて追ったが間に合わず、途端に蘇った不安に、「ああ」と鈴川は啼いた。それに呼応して、指の代わりに鈴川に安心感を与えたのは、橘の唇だった。
額、目隠しされた目、頬骨と、順にキスが下りてくる。
彼のキスは、鈴川が最も欲している唇を素通りし、首筋に移った。襟元を大きく寛げ、唇は首から肩への線を移動して肩先に達する。
ワイシャツは肩から脱げ落ちて、縛られた腕で止まった。たくし上げられたアンダーシャツの胸元に溜まる感じが、これから先の行為を想像させ、鈴川の気持ちを更に高揚させる。
大きな手が胸を滑る。脇腹を滑る。腰骨を滑る。太ももを割り、内股を滑る。
彼が触れるところから火照りが次々と生まれた。その手の動きに応えて鈴川の身体はうねり、下肢に纏わりついていたズボンは跳ね上げられる。
橘は着衣のままであることがわかった。
自分だけが脱がされて行くと言う羞恥が、そして思わせぶりに触れるだけで、核心に進もうとしない橘の手や唇の動きが、鈴川の昂りを逆に煽った。
相手の表情や動作を読ませない目隠しは、鈴川を敏感にさせる。
手首の戒めがもどかしい。橘の肩に腕を回したい。彼のシャツのボタンを外して、その広い胸板に触れたい。その熱い昂りを感じたい――しかし鈴川には許されなかった。
一方的に、中途半端に追い上げられ、それでいて少しの刺激にもいつも以上に感じてしまう身体が忌々しかった。
鈴川は自分の意志をコントロール出来ずに、懇願し、哀願し、憚ることなく啼きつづけた。
目を覚ますと、見慣れない部屋だった。
鈴川のベッドより倍以上も大きなベッドに、真っ白なシーツ。目だけでまず辺りを見回し、どうやらホテルの一室らしいことはわかった。
――ホテル…? ホテル?!
慌てて起き上がろうとした。しかし身体はひどく重く、すぐにもとの位置に戻った。二、三度深呼吸をして、今度はゆっくりと起き上がる。
何も身につけていない。ブランケットに包まり、あらためて周りを見回す。二人がけのソファに橘が横たわって眠っていた。鈴川はブランケットを身体に巻きつけたまま、ベッドを降りた。
鈴川は自分の身体から石鹸の匂いが立ち上るのに気がついた。いつバスを使ったのか記憶にない。
ソファの傍らに行き、ペタリとその場に座る。ソファは小さく、長身の橘の膝から下がはみ出していた。鈴川が顔を覗き込むより先に、彼の目が開いた。
「目が覚めたの?」
橘は身体を起して、ソファの半分を鈴川のために空けてくれた。ふわりと同じ石鹸の匂いがする。鈴川は頬に熱さを感じながら、彼の隣に座った。
バスに入れてくれたのは橘だ。その礼を言おうとしたが、鈴川の声は掠れてすぐには音にならなかった。
「よく泣いたからね」
と橘が微笑む。鈴川は顔から火が出るくらいに恥ずかしかった。自分がどれだけ声を上げたかを思い出した。見事に記憶が途切れているので、失神したのかも知れない。いつもなら、橘の腕の中で眠りに落ちる寸前まで覚えている。ますます鈴川は恥ずかしくなって、穴があったら入りたかった。
「大丈夫、ここは最新設備を備えているみたいだから」
などと言われて、ここがラブホテルであることも思い出した。
昨夜、仕事を終えて、食事をした。それから場所を変えて少し飲んだ。ほどよく入ったアルコールが鈴川をわがままにする。翌日が休みだと言うことも頭にあり、「もう一軒」「もう一軒」と店のハシゴをせがんだ。ほろ酔い加減に、更に気持ちは大胆になり、
「あそこに入りたい」
と指差した先にはホテルがあった。出張などで使うシティ・ホテルやビジネス・ホテルではなく、華やかな外見の、恋人達が利用するそれであることが一目でわかった。
それほど酔っていたわけではなく、さして「ヤル気満々」だったわけでもないが、興味はあった。時々、テレビの特集などで昨今のラブホテル事情を見知っていた。部屋はメルヘン調やテーマパーク調、シチュエーション調などがあり、ベッドの形状も様々で、実に楽しげだった。中には部屋の真ん中にジャグジー風呂が備え付けられていて、『プリティー・ウーマン気分で』と解説されていた。
そう言ったことを期待していたら、そこは人気がある世界各国のホテルのジュニア・スイートを模した上品な内装で、完全防音や大きな液晶画面の壁掛けテレビ等、最新設備の充実が売りのホテルだった。
基調色がそれぞれ部屋ごとにあり、二人が入ったのは白がコンセプト・カラーだった。他には黒や赤と言ったスタイリッシュなイメージの部屋もあったが、橘が鈴川に似合わないからと、白を選んだのだ。ライティングが部屋全体をほんのりピンク色に見せていた。それはそれでまた、鈴川らしいと彼が笑ったことを覚えている。失神するほどに乱れた自分の姿を想像すると、とても白が似合うとは思えず、再び恥ずかしさがこみ上げてきた。
「疲れただろう? もう少し眠るといい。朝までまだまだ時間があるから」
鈴川がぼんやり記憶を辿っていると、肩に手を回された。確かにいつもの橘との一夜より、数倍身体がだるい。なぜあれほどまでに熱い夜になったのか――酔い覚ましを名目に見たビデオがそもそもの始まりだった。女性を縛る縄師の話を扱っていて、内容はともかく、縛られた裸体が美しかった。目隠しで表情はわからなかったが、濡れた唇から覗く舌がとてもエロティックだった。
「縛られるのって、痛くないのかな」
鈴川のその言葉が引き金となって、この夜が始まったのだ。手首と視界の自由を奪うだけの、ずい分と簡単な『縛り』だったのに、どれほどに興奮したことか。掠れた声が、それを物語っている。
鈴川はそろりと手首を出して見た。縛った跡は残っていなかった。
「大丈夫?」
橘は労わるように鈴川の頭を撫でた。鈴川が頷くと、彼にそのまま横抱きにされ、ベッドに運ばれた。
横たわって、ブランケットを本来の用途に使う。自分は全裸だと言うのに、橘はネクタイこそしていなかったが、シャツとスーツのズボンを着用していた。今回、鈴川は彼の素肌を見ていない。きっとバスを使った時には同じく全裸であったのだろうが、残念なことに覚えがなかった。
あれほどに触れたかった身体が目の前にあった。ブランケットから手を出して、彼の胸元に伸ばす。自分がされたように、鈴川はボタンを一つ一つ外しにかかった。それをやんわり、橘が制する。
「今日はもうお休み。疲れているから」
鈴川は首を振り、再びボタンに手をかけた。クスクスと橘は笑う。
鈴川は両手を彼の首に回し、引き寄せた。彼の唇が、鈴川のそれに重なる。やっと、彼に触れることが出来た。
まだ朝は遠い。一方的に与えられるばかりのものではなく、今度は互いに満たしあう時間を過ごしたい――合間に掠れた声で橘の名を呼びながら、鈴川は何度も何度もその唇を求めた。
<end>2009.04.07
これって、R15で良いんですよね…
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