注) このお話は『Slow Luv Op.2』の後の話です。




              And, it falls in love slowly.



(1) 


 3月3日は雪になった。
 未明から降り始め、朝にはうっすら積っていた。春とは名ばかりのこの時期だが、それでも雪景色は珍しい。気温が上がらない所為か、雪は夕方になっても其処此処に残っていた。塾通いの子供達が、それを嬉しげに丸めている様子を、仕事終わりの一服をしながら悦嗣は見ていた。
 仕事は予定通り終わっていた。夜に入れていたローズテールのピアノ弾きのアルバイトは、急遽、桃の節句Jamに振り替わって無くなった。それで帰国中の英介を誘って飲みにいこうかと携帯電話を取り出したが、最後の結婚記念日を小夜子と過ごすと言っていたことを思い出した。
――とうとう、離婚かぁ…
 その話を聞いたのが去年の6月。お互いの多忙を理由に、だらだらと先延ばしされた彼らの結論は、結婚記念日であり、小夜子の誕生日でもある桃の節句に出される…ということになったらしい。
 二人は憎み合って別れるわけではない。英介はまだ小夜子を愛している。言って止まるものなら止めてやりたい。しかし独身の悦嗣が口出し出来るもではなかった。
 それに、
――詭弁だ、俺が言っても。
 友達以上の想いを英介に対して抱いている自分の言葉に、説得力があるとは思えない。などと考えると、部屋でただ過ごす気持ちになれず、おもむろに携帯のアドレスを開いた。
「あいつも一緒に帰ってきてたっけ」
 中原さく也の名を見つけた。彼も今、帰国している。
 時間が出来ると、一緒に食事や演奏会などに出かけるのだが、悦嗣から誘ったことはなかった。
『中原さく也』の名前を選択して、電話をかけた。
「もしもし、加納だけど」
あ、はい
 寝起きのような掠れた声で、さく也が出た。
「悪い、寝てたのか?」 
うたた寝してたみたいだ
「そっか。ちゃんと布団かけてんだろうな? 今日は寒いぞ」
部屋はエアコンがついてるから
「ならいいけど。今晩、何か予定あるか? バイトが無くなったから、一緒にメシでも食いに行かないか?」
…予定、ないよ
 待ち合わせの場所と時間を伝えると、電話を切った。それから商売道具を抱えると、車に向った。
 



 さく也は携帯電話の着信履歴を確認していた。ちゃんと加納悦嗣の名前が出ている。うたた寝して寝ぼけていたわけではなさそうだ。
 電話番号を教えてから九ヵ月経っていたが、彼からの電話は初めてだった。
 それから食事に誘われたのも。
 もう一度、着信履歴を確認する。やはり加納悦嗣の名前が出ている。
 ベットから下りると、床には楽譜が散乱していた。Wフィルに移籍して初めての演奏会が五月にある。楽譜はその演目の一曲で、今まで演ったことのない曲だ。明け方までCDを聴きながら、楽譜面を追っていたので、一日うたた寝していたようなものだった。今だパジャマ代わりのトレーナーのまま。頁順に揃えて無雑作にベットの上に放り置くと、携帯電話がそれに隠れた。
 楽譜を払いのけて電話を手に取り、また着信履歴を確認する。加納悦嗣の名前を見つめる自分の顔に、うっとりとした笑顔が浮んでいるのを、さく也本人は自覚していない。
 サイドテーブルに電話を置き、バスルームに向った。




(2)


「あれ、エースケ、どうした?」
 マンションの駐車場に入ったところで携帯電話が鳴った。取ると英介からだった。
 声の様子がいつもの彼らしくない。
「小夜子と一緒なんだろ?」
 悦嗣の言葉にも、曖昧な肯定しか戻って来なかった。
「おい、どうしたんだ?」
今から出て来れないかな、ローズテールにいるんだ
「小夜子は? おまえ、今日あいつと会ってるんだろ?」
彼女は帰ったよ。離婚届、出してきたんだ
 声音は沈んでいた。離婚届という部分が低く、やっと聞き取れたくらいだ。話し方がいつも通りなだけに、違和感があった。こんな英介の声は聞いたことがない。
今日は飲みたい気分なんだ。つきあってくれないかな?
「わかった。着替えてすぐ行く」
 さく也との待ち合わせまで少し時間がある。英介の様子を見て、なんなら彼も呼んで一緒に飲んでもいいかと考えた。
 とにかく英介のことが気にかかる。小夜子と何かあったのかも知れないし、調停中と成立では、やはり精神的ダメージが違うのかも知れない。
 仕事着から急いで着替えて、タクシーを呼んだ。
 



 ローズテールは今夜、桃の節句と言うことで女性は半額。ジャズのプログラムも女性に受けが良い選曲となっていた。会社帰りのOLが華やかにテーブル席を占拠している。
 英介はカウンター席で既に飲み始めていた。悦嗣が隣に座ると、物憂げに顔を上げた。
 グラスの中身をさり気に見ると、普段は彼が口にしないような度数の高いアルコールがチョイスされている。
「何かあったのか?」
「別に」
「別にって顔か。どんよりしてるぞ」
 悦嗣はなるべく明るい口調で言った。少し英介は目元に笑みを見せた。それもすぐに消え、グラスに口をつける。
 悦嗣は軽いカクテルをオーダーして、再び英介に話しかけた。
「エースケ」
 英介は大きく溜息をついた。
「…離婚届にサインして、二人で区役所に出しに行った。小夜子の誕生日で、結婚記念日で、離婚記念日」
 ひじ立てついた手に顎を乗せ、英介はあらぬ所を見ている。悦嗣はその横顔を見つめた。顎の線が細くなった感じがする。
「離婚することは決まっていた。でも…心のどこかで、もしかしたらやり直せるかも知れないと思ってた。ケンカしたわけじゃないし、俺はまだ小夜子が好きなんだ」
「だったら、そう言えば良かったじゃないか。ちゃんと話合ったのか?」
「言えない。俺は彼女の前ではいいカッコしか出来ないんだ」
「カッコつけてどうすんだ、夫婦だろうが」
 英介はうっすらと笑った。「そうだな」と答えて、グラスの酒をあおった。泣いてこそいないが、それは涙が出ていないというだけだ。女々しいほどに落ち込んでいる姿に、悦嗣はかける言葉を詰まらせた。
 時計を見ると約束した時間が近づいていたが、こんな英介をさく也には見せられない。かと言って、彼をこのまま放って行くわけにもいかなかった。




と言うわけで、出られなくなった。埋め合わせはまた今度するから。ごめん
「わかった。エースケによろしく」
 悦嗣からの電話を切って、さく也はそのままベットに転がった。体の下で楽譜がカサリと音を立てる。乾いたその音で、部屋の温度が下がった気がした。
 ものわかりのいいフリは慣れている。駄駄の捏ね方はわからない。
 英介は悦嗣にとって高校からの親友だし、現在進行形で片想い中の相手でもある。さく也はといえばまだ、友人の一人でしかないのだし。たとえどれだけ自分が彼を想っていても。
――気にするな
 それに英介は離婚で傷ついている。悦嗣の立場が自分であったら、きっと傍についていただろう。
 頭では理解していた。しかしこの寂寥感は拭えない。
 ベットから起き上がると、楽譜を揃えてカバンに突っ込んだ。上着をクローゼットから取り出すと、部屋から出て行った。




(3)


 呼んでもらったタクシーに英介を押し込むと、悦嗣もそれに乗り込んだ。英介の実家の住所を告げる。車はゆっくりと走り始めた。
「もう一軒、いこう。カラオケがいい、カラオケ」
 呂律の回らない口で、英介は陽気に喋った。
「今日はもうお開き。おまえ、呂律が回ってないぞ。そんなんで、何を歌う気なんだか」
 宥めるように悦嗣は言った。
 英介の飲むピッチは早く、一時間も経たないうちにすっかりこの有様だった。あとの二時間、隣で悦嗣は英介のグラスの酒を水で薄めながら、他愛ない彼の話を聞いていた。小夜子との話はほとんど出ないあたりが、英介の落ち込みを表しているようで、限界を超した酒量であっても嗜めることが出来なかった。時計が午後11時を指す頃に、彼がとうとうカウンターテーブルと『なかよし』になったので、車を呼んでもらった。
「まだまだ飲める!」
と抵抗していた英介だがタクシーが走り出すや否や、悦嗣の肩に頭をもたせて眠ってしまった。その頭をそっと撫でて、悦嗣は流れる外の景色を目をやった。
 S公園の前の赤信号でタクシーが止まった。大きな噴水が歩道のすぐ向こうに見える。今日の7時に、さく也とここで落ち合うことになっていたことを思い出す。
――いつまで日本にいるんだっけ? 
 自分のスケジュールを頭の中に浮かべた。帰ったらもう一度確認して、連絡しようと思った時、水の止まった噴水の傍のベンチに、ポツリと座る人影に気づいた。
「え?」
 信号が青に変わりタクシーがまた走り出した。悦嗣は窓に顔を擦り付けて、流れるその人影を目で追う。
 さく也の姿に見えた。彼のことを考えていたので、錯覚かも知れない。待ち合わせた時間から四時間近く経っていたし、街灯が朧に照らす顔ははっきりしなかった。第一、今日の約束は無くなっている。
 それでも心には引っかかった。
「あらあら英介、しっかりしなさい。ありがとねえ、エツ君。よかったら寄って行って。酔い覚ましのコーヒーでも入れるから」
 だから英介の母親が寄って行くように勧めてくれたのを断り、待たせていたタクシーに乗って元来た道を戻った。




 別に期待しているわけではない。今日の約束はダメになったことははっきりしていたし、理由が英介では変わりようがないこともわかっている。
 それでも来てしまったのは、悦嗣が初めて誘ってくれて指定した待ち合わせ場所だったから。
 さく也はカップルが去ったベンチに座った。噴水の水音が寒々しかった。気にならなかった。
 表情が変わらないせいか、さく也は感情がないように思われがちだったが、人並には持ち合わせている。芸術の世界に身を置いているのだから、感受性はそれ以上だったし、むしろ感情的な方だった。ただ表し方が下手で、上手く相手に伝わらない。伝わらず誤解を受けるぐらいなら、引いて内面に押し込めてしまう。
「この性格、直さなきゃ」
 加納悦嗣に出会って、切実にそう思った。
 何も言わずにいたら、彼は自分のことなど忘れてしまう。今までの恋はそれで良かった。しかし今度の恋は様子が違う――ウィーンと日本の距離が負担に感じるほどに。
 持参した楽譜を開く。街灯の黄色い明かりでは不鮮明だが、音楽はもう覚えている。部屋に飽きて外で勉強する…という、これは自分に対する言い訳のアイテムだった。




(4)


 噴水の傍のベンチに、まだあの人影があった。タクシーを降りて顔がわかる程度に離れたところから、悦嗣はそれを彼と確認した。
「やっぱり、あいつか」
 書類のような紙を、時折り街灯にかざしている。その横顔は中原さく也だった。漏れる息が白く見えた。 
 いつからこの場所にいるのだろう。いつまで居るつもりなんだろう。さく也の滞在するホテルから、この公園は近くない。散歩に出たにしては遠すぎる。
「もしもし、加納だけど」
 その場所から電話をかけた。ベンチのさく也が電話を取った。
「エースケを家に放り込んで来たんだ。今からでもよければ飲みに行かないか?」
うん、いいよ
「言ってた公園なら15分くらいで行けるけど、それでいいかな?」
俺もそれくらいなら行ける
「じゃあ、行くから」
 電話を切った。
 さく也は手の中の携帯電話を、じっと見つめている。口元が綻んでいた。さっきまで見ていた紙切れ――たぶん楽譜だと思うが――を、さっさと片付ける様が可愛らしい。カバンにそれを突っ込んだ後、また携帯を見つめた。とても嬉しそうに。彼はこんなに表情があっただろうか? 
 時間を見計らって、悦嗣は彼の元に向った。気づいてさく也が立ち上がる。いつもの無表情に過ぎる顔だった。
 悦嗣は何も言わず、彼の頬に両手を添える。頬の冷たさで『時間』を感じた。
 その唇に、そっと唇を重ねる。
 短い、一瞬のキス。唇を離すと、さく也の顔が見る見る赤くなった。つられて思わず悦嗣も赤くなる。
「な…なに?」
 耳まで赤くして、さく也が言う。
「可愛かったから」
 笑って悦嗣が答えた。正直な気持ちだ。
「今日は悪かったな。おわびにおごるよ」
「別に、気にしてない」
「俺が気にするの。と言っても、あんまり飲めなかったっけ。食事もうまいとこがあるから」
 そう言うと、先に立って歩き始めた。さく也がすぐ後ろに続く気配を感じる。
 人目がなければ、彼を抱きしめていたかもしれない。唇に触れたのだって、自分の理性の範疇を超えている。なのに躊躇いもなく口づけた。愛おしく思ったのは否めない。
 その気持ちに悦嗣は戸惑っていた。




 前を歩き出した悦嗣の肩先を、さく也は見つめる。
 頬が、唇がまだ熱い。その熱さは、目の前の彼が幻でないことを教えてくれる。
 指先の震えが止まらない。ギュッと握りしめてコートのポケットに差し込んだ。左のポケットには携帯電話が入っていた。 拳を解いて、替わりに電話を握りしめる。震えは止まった。
 さっきのキスはなんだろう? スローモーションで何度も再生される。その度に唇が熱を帯びた。
「どうした?」
 さく也の頭に、悦嗣の細長い手が乗せられた。知らず知らずに歩調が遅れていたらしい。その手に促されるように、さく也は彼の隣に並んだ。
「歩いてもいけるけど、タクシーに乗ってくか? 今日は冷えてるし」
「大丈夫、歩ける」
 悦嗣が触れたところが温かい。このまま並んで歩きたかった。
 さっきのキスはなんだろう? 『今度』ではなく、なぜ今日の内に電話をくれたのだろう? 少しは自分のことを気にかけてくれているのだろうか?
――だったら、いいのに…
 どんどん彼に惹かれて行く。会うたびにごとに、想いは深くなる。
 応えのない恋に取り込まれていく――さく也が自覚する以上に、確実に。
 自身も気づかないその『ストレス』は、更にさく也を『発熱』させた。そうして無意識に育っていく感情を、コントロール出来ずに持て余している。
 唇から漏れた息は微かに白く、目の前ですぐに消えた。
 有耶無耶したさく也の、心の内を表すかのように…。


                                             end


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