注) このお話は『Slow Luv Op.3』の前後の話です。




              Shine your light on me..



タ・カ・ユ・キ・サ・ン…
 酸素マスクの中で唇が、声も無く綴る言葉は、彼女を捨てた男の名前。
タ・カ・ユ・キ・サ・ン…
 管に繋がれた細い腕は、指先だけがもどかしげに動き、
タ・カ・ユ・キ・サ・ン…
現実を映さなくなって久しい目が、笑んだ表情を浮かべて、ただ一人を見つめている。
 自分を捨てた男と、自分が生んだ息子の区別もつかないくらいに病んだ女。痩せこけて、かつて周りを魅了した美貌は、年齢以上の老いに食い尽くされていた。それでもうっとりと潤んだ瞳は、恋をしていた頃の『女』の面影を残し、愛した男の姿を追い求めるのだ――目の前の、自分の息子の面差しの上に。
――醜悪
 りく也は心の中で吐き捨て、彼女の視線からズレた。
 一生、会うつもりはなかった母親だ。ボストンで入院生活を送る彼女が危篤だと、兄のさく也から連絡を受けたのは三日前。どうせ間に合わない。生きているうちに…ではなく、その死を確認するために渡米した。
 しかし現代医療で、彼女は持ち直してしまった。まるでりく也が来ることを、待っていたかのように。
 自分の視界から外れたりく也を、唯一自由になる目で、懸命に彼女は追う。…と、その時、けたたましい機械の警告音が鳴った。容態が急変したのだ。
「どいて下さい!」
 医師や看護師が駆けつけた。
「息をしていない。挿管する」
 マスクを外して口をこじ開ける。心拍の乱れと血圧の下降を示すモニターを、りく也は見つめた。看護師から挿管セットを受け取るべく、伸ばされた医師の腕をりく也は掴んで言った。
「延命は拒否する」
 医師は腕を振り解いた。
「出来るだけのことをするように、言われています」
「こいつが助からないことはわかってる。するだけ無駄だ」
「それはあなたが判断することじゃない」
 別の医師が挿管を始めた。
「俺は息子だ。延命拒否の書類をくれ。サインする」
「有効なのはサクヤ・ナカハラのサインだけだ。さあ、邪魔です。エミリー、彼を外に出して」
 指示された看護師が、りく也の腕を取って入り口の方に誘導する。彼は押し開けたドアから外に出されてしまった。
 ドアの窓から、りく也は中を見る。蘇生されて、一度止まった心臓が動きだしたことがわかった。


「延命拒否しろ」
 兄・さく也が戻るなり、りく也は言った。
 さく也はここ数日、病院に詰めっぱなしで、コンドミニウムに帰って休むことを、りく也が勧めた。容態が急変した時には、その場にいなかったのだ。
 ICUの中が見える廊下、さく也はすぐには答えず、生きている母の姿を見ていた。その横顔に表情らしいものはない。この兄が母の生命維持を望んだなど、りく也には信じられなかった。
 二卵性双生児の兄弟は、日本屈指の財閥御曹司と、才色兼備で将来を嘱望されたソプラノ歌手の、不倫の末に生み出された。
 父親である男は、子供が出来たと知るや去って行った。中絶せずに産むつもりの母親を、世間体を慮った祖父母が、ボストンの別邸に押し込んだ。
「さく也」
「出来ない」
 ICUの中に視線を残したまま、さく也が答えた。
 兄弟が八才になった時、後継ぎとして弟が父に引き取られた。彼が父の子供の頃に生き写しだったからだ。りく也が離れるまで、母に溺愛されたのも、彼女の愛した男に似ていたからである。
 一方、兄は残された。彼は母によく似ていたから、本妻の心情を考慮した…と、りく也は後に聞かされた。
「彼女は母親だから」
「母親? 母親らしいことをしてくれたことがあったか?」
 りく也はさく也の隣に立った。ICUのベットに横たわる母は、規則正しい鼓動をモニターに刻む。
「息子の首を絞めるのが母親なのか? 息子に欲情するのが母親なのか?」
 語調は冷静だが、言葉を吐く息には熱があるのか、ガラスが曇った。
「産んでくれた」
「頼んだわけじゃない。家庭のある男の子供を産んで、幸せになれると思うか? 子供の人生を背負って生きて行く根性もないくせに、好きな男の子供ってだけで産んで。生まれた子供にはいい迷惑だ」
 父親に引き取られたりく也は、歪な周囲の目の中で暮らすことになった。正妻と異母姉妹達は、徹底して彼を無視し、仕事を理由に戻らない父は、たまに戻ると後継ぎとしての自覚を、幼いりく也に求めた。誰も味方のいない空間。何度、家出を試みたか知れない。
 残されたさく也は、徐々に精神を蝕まれつつあった母親の、行き場のない感情の捌け口とされた。愛情を与えられることもなく、精神的、肉体的に虐待される日々は、子供らしい表情を彼から奪い去った。ついに十才になった時、彼女はさく也の首を絞めたのである。そして、完全に正気を失った。
「俺は、産んでくれて感謝している」
 さく也はりく也に向き直った。
「自分の恋の為に、全てを不幸にした女だ」
「それでも」
 さく也と再会したのは、入院先の病院でだった。母子の生活費を出していた父には、連絡が来たはずであるのに、りく也には知らされなかった。ボストン時代の友達からのメールで知ったのは、事件から一ヶ月近く経ってからだ。ボストンに行くことが許されるはずはなく、勉強の為に与えられた株をネットで売り、自分のパスポートを盗み出して、りく也は渡米した。
 二年ぶりに会った兄には、表情がなかった。弟が話しかけても、ぼんやりと頷くだけだった。殺されかけてから数日間は意識がなかったと聞いた。脳に障害はなく、精神的なショックからくる一時的なものだと、子供のりく也に医師は優しく説明してくれた。ただ抱きしめてやることしか出来なかった。
「こうして、リクと兄弟でいられるから」
 退院してからさく也は、父が遣わした人間達と暮らすことになった。母方の祖父は既に亡く、痴呆の始まった祖母は入院していて、他の親族は引き取りたがらなかった――祖父江コンチェルン社長という立派な父親がいたからだ。そしてその祖父江家では、母親そっくりに成長しているさく也の引き取りを、正妻が許さなかった。
 父は、りく也の後継ぎとしての自覚を条件に、中原親子の生活を保障した。わずか十才の子供に、将来を選択させ、その小さな肩に、中原親子の生活を担がせたのである。元の別邸を引き払い、ボストンの高級住宅地のコンドミニウムを与えた。
「ヴァイオリンに出会えた。好きな音楽の世界で生きている」
 事件からしばらく、さく也は口をきけなかった。小児精神科の治療プログラムの一環に、ミュージック・セラピーがあって、そこでヴァイオリンに触れたことが、回復の兆しだった。母親から音楽の素養を受け継いだのか、ヴァイオリンの上達は凄まじく、それに伴って社会適応能力も同年齢の子供に追いつき、普通の生活を送れるようになった。それでも感情をうまく表現出来ず、言葉数はずいぶんと少ない。
 後継ぎとしてりく也は、帝王学を徹底的に叩き込まれた。勉強も運動も、すべての事柄についてトップを義務付けられ、友人も各界の名士の息子達を宛がわれた。こちらも父親の明晰な頭脳を継いだらしく、日本最難関の国立大学を首席で卒業。否応なしにグループ企業に取り込まれるのを嫌って、アメリカの大学に留学した。許されたのは、世界最高の頭脳が集まり、最も進んだ経済学を学べる所だったからだ。りく也がりく也らしくあったのは、この時期だけだったかも知れない。
「りく也には、辛い思いをさせただろうな」
 さく也の細い手が、りく也の頬に触れた。
 兄の事件があって程なく父の愛人に、それから一年後には、あきらめかけた正妻に男児が生まれ、日本有数の財閥総帥の地位を巡って、母親達の熾烈な戦いが始まった。後継者として正式に認められたりく也だが、それぞれの取り巻きが追い落としの機会を狙って、足を掬われかねない状況に置かれた。自分の失脚は、兄の生活をも危うくする。隙を見せるわけにはいかなかった。
 頬に触れるさく也の手の上から、自分の手を重ねて握りしめる。
「辛いなんて、思う暇もなかったさ。さく也の辛さに比べたら」
 辛かったのは、無表情のさく也を見た時だ。長期休暇の度に、りく也はボストンのさく也を訪ねた。また父の了解も取らずに、兄を東京に呼んだりもした。『弟』と『ヴァイオリン』を媒介にして、人と接するようになったおかげで、さく也は精神的にも回復して行ったが、喜怒哀楽はほとんど見せなかった。それが辛くて、その口元を綻ばせるために、りく也は何でもした。
 マシになったとは言え、それは成人しても変わらない。アルコールが入って、やっと人並だった。
「辛かったことはもう、ほとんど覚えていない。リクが与えてくれた幸せの方が、時間も量も多いから。俺は幸せだよ。生まれてきて、良かったと思ってる。だから、あの人に出来るだけのことはしたい。それは理由にならないか?」
 りく也は手を離した。さく也の手も彼の頬から離れた。
 さく也の口数が、アルコールなしに増えている。不思議な物を見るように、今度はりく也の手が、さく也の唇を触った。
「変わったな。ちゃんと思ったことを話せるようになってる」
 兄の口元が、少し綻んだ。
「言葉にしないと伝わらないって、わかったんだ」
 さく也は薄っすらと微笑んだ。
 りく也は浅く息を吐いた。それからICUの中に目を戻す。
 憎みつづけた女がいる。自分に足枷を嵌めた元凶だった。彼女の死を、どれだけ願っただろう。その死を確認することによって、りく也は解放される気がしていた。彼女の生があるかぎり、忌まわしいあの事件を兄は忘れられない、彼の姿を病院で見た時の、言い知れぬ感覚と怒りを、弟は引き摺りつづける――ずっとそう思ってきた。握った拳に力がこもる。さく也が何を言っても、心に沈殿したものは簡単に浚えなかった。りく也の口は、延命処置を拒否する言葉しか吐けない。
 だから彼は沈黙することで、許諾した。
 
 

 ベットの軋む感覚に、りく也は薄く目を開けた。
 遮光カーテンのせいで、部屋の中は暗く、夜なのか朝なのかわからないが、ベットの端に座る人間はわかった。
「さく也?」
 そう呼びかけると、おはようのキスが軽く唇に落ちた。目が慣れて、兄の顔が見えた。
「もう戻ったのか。ゆっくりしてくれば良かったのに」
 手を伸ばして、ベット・サイドのライトをつけた。腕時計を見ると、午前九時を回っていた。
「用は済んだから。それにリクが寂しいと思って」
「何、言ってんだ」
 起き上がりながら、笑い含みでりく也は言った。
 急な仕事が入って、さく也が日本に出かけたのは三日前。往復の時間を考えると、とんぼ返りしてきたことになる。
「連絡くれれば、迎えに行ったのに」
「朝に弱いことは知っている」
「予定があれば、ちゃんと起きるぞ」
「次は連絡する。起きるなら、コーヒーくらい入れるけど?」
「朝飯、食いに行こう。支度するから」
 さく也が頷いたのを確認すると、ベットから下りた。
 浴室に向う為、居間を横切ったりく也の目に、黒い箱が入ってきた。
無雑作に部屋の片隅に置かれた箱。その中には白い『砂』が入っている。先日まで、彼ら兄弟の母親だったモノである。何の感慨も浮ばない。冷たい目で一瞥した後、立ち止まることなく浴室に足を進めた。
 母・中原可南子は、全身に転移した癌細胞による、多臓器不全で逝った。兄弟が彼女の延命処置について話したその日の内、意識を戻さぬままに。
 二人きりで葬儀を済ませた後、遺体は荼毘に付し、散骨することにした。実家の中原家とは絶縁状態だったし、墓という形にして残すことに拘らなかったから…と言うより、残したくなかったからだった。
 散骨の手続きの最中に国際電話が入って、さく也は日本に渡った。日帰りのような日程で太平洋を往復するのは、加納悦嗣絡みの仕事だったからだ。今、さく也は彼に恋をしている。
 りく也も面識のある曽和英介の、同い年の友人だと言うから三十二、三だろう。本職は調律師の、無名のピアニストだと聞いた。親子ほどの年齢差、名士の肩書きを持った今までの相手と違い、年相応の恋だ。
 それに、セックスもまだだと言う。さく也は恋愛対象として好意を持った相手には、体を与えて引きつけようとするところがある。言葉での意思疎通が苦手な彼の、恋愛アプローチなのだ。さく也のその容姿に屈しない人間は、いないと言って過言ではなく、たいてい彼の恋は成就する。『恋』と言っていいものなら…だが。             
 りく也には痛々しくて堪らなかった。
 しかし加納悦嗣は、兄のその慣例から外れている。
「いったい、どこが良かったんだ?」
 すぐ近くのカフェで朝食を取りながら、りく也が尋ねた。甘やかすほどの地位でも、名誉でも、セックスでもないとすれば、何がこの兄を惹きつけているのか。
「『さっさと位置に着きやがれ』」
 さく也は、およそ似つかわしくない言葉を言った。
「そう怒鳴られた」
「おまえが?」
「うん。ああいう風に怒鳴られたのは、初めてだった」
 大人だった過去の恋人達は、さく也を怒鳴ったりはしなかったろう。
「エースケの為に怒鳴ったんだ。自分のテリトリーに入れた人間は、必ず守ってくれるって思った」
 頬に少し赤味が差した。無意識の照れ隠しが、口にパンを運ばせる。
「それだけ? もっと完璧な相手が、今までにもいただろう?」
「迂闊なところがあって、面白い。優しいけど、甘やかさない。俺と同じくらいに音楽が好きで、ピアノが好きで。普通の人なんだ。一緒に肩を並べて歩いて行きたい、同じ音を追いたい、そう思える人」
 初めての恋を語る少年のように、さく也が加納悦嗣を語る。『普通の人』――だからさく也は、思ったことを言葉にするようになったのだ。彼が話す前に先回りして、理解してくれるほど大人ではない加納悦嗣に、わかってもらいたいために。
「そいつは、さく也のことを、どう思っているんだ?」
「…わからない。でも、嫌がらずに会ってくれる。嫌われてないなら、それでいい」
 母親に虐げられて育った兄は、自分を望まなかった父親の面影を、他人の中に追いつづけて来た。その呪縛からようやく解かれて、見合った相手を見つけた。たとえそれが同性であっても、そして片想いに終わったとしても、さく也にはいい傾向だ。話を聞く限り、加納悦嗣は友人として、さく也を扱ってくれているようだから。
「一度、会ってみたいな、その加納悦嗣」
「会おうと思えば、リクはいつでも会える。同じ日本に住んでいるし、同じ東京にいるから」
「そうだな。バカ姉妹が置いてったピアノでも、調律してもらうか」
 父親の汚い面を見せ付けられて育った弟は、憧れつづけた瞼の母が、兄の首を絞めたことを知って、人間に対して幻影を抱くことをやめた。選ばれた友人達に友情は感じない。次代の長としての自分に媚びへつらう重役達、財閥夫人の座を目当てに近づく女達。兄のように、慕う誰かを語る時が来るのだろうか? 兄を守りたいと思う気持ちと同じものを、他の人間に持てる日がくるのだろうか?
「どうかしたのか?」
 さく也が声をかける。口元にカップを寄せたまま、りく也が黙り込んでしまったからだ。
「兄貴が美人で見とれていた」
と答えると、「何を言ってる」と言う表情がさく也に浮んだ。口元に笑みがある。本当にこの兄は、感情を出すようになった。いつか声を上げて笑う日が来るかも知れない。その笑顔を想像しながら、りく也はうっとりとさく也を見つめた。
 兄はもう自立している。経済的にも精神的にも。守るべき存在を、心配する必要もなくなった――とうにその必要はなかったかも知れない。中原可南子の死はそれを教えてくれた。そして思った通り、りく也を解放してくれる。
 もう後ろを見なくても、いいのだ。



 祖父江家の長男であり、次代のコンツェルン総帥・祖父江りく也が失踪したのは、八月の終わりのことだった。長期休暇をアメリカで過ごした後、帰国したらしいのだが、空港からの足跡が消えていた。彼の持っていた株は、自他社すべて自らの手で売却されていて、彼名義の預金は、解約されていた。明らかに、計画的な失踪だった。
 後継者の失踪は、一大事である。特にりく也は三人いる息子達の中で、抜きん出て優秀だったから、コンツェルン独自の情報網を駆使して、その行方を捜すはずだった。しかし、捜すどころではなくなった。
 それ以上の大事が祖父江財閥に勃発したのだ。内部告発と言う名目で、株のインサイダー取引、政治家への贈収賄などと言った裏の部分が文書化され、疑う余地のない証拠とともに、検察庁と新聞各社へ送られてきたのである。送り主は偽名で、忙しい宅配センターを数ヶ所選んで、荷物は持ち込まれていた。
 祖父江グループでは芋蔓式に逮捕者が出て、連日、どこかの社屋に検察が入っては、数個のダンボール箱が押収されて行く様子が、テレビのニュースを賑わせた

やっと自由になれたから、中原りく也に戻ることにした。ほとぼりが冷めた頃、連絡するよ。それまで元気で

 ウィーンのさく也の元に、りく也からハガキが届いたのはその年の終わり。ニューヨークの消印がついていた。
 兄弟が再会するのは、それから三年後のことになる。




                                                
end


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