「ねえねえ、そこの彼氏ぃ」
「自分や、自分」
「良かったら、覗いてかない?」
「体格関係ない運動部もあるけど?」
「弓道部なら即レギュラー」
「退屈せんと思うけどな」
私立遥明学院高等部では、入学一週間目に新入生歓迎会が催される。新一年生に充実した三年間を過ごしてもらうために部活動を紹介する、早い話が大勧誘大会であった。午前中は体育館で、各クラブが持ち時間七分のプレゼンテーションを展開し、午後からはそれぞれの部活動の場で、見学者や入部希望者を『おもてなし』する予定になっていた。
どのクラブも一人でも多く部員を獲得しようと奔走する。部員の増加はイコール活発な部活動を意味し、予算委員会での発言権を微妙に左右した。従って毎年、熾烈な部員獲得合戦が繰り広げられる。
「小橋ぃ、どっか入んの?」
「まだ決めてない。でも多分、入るなら文化部かなぁ。体力ないし」
小橋裕也はさして興味もなさげに、パンフレットをめくった。部活参加が義務付けられていた中学時代は、囲碁・将棋部に所属していた。身体がまだまだ小さく、どんなに食べても肉がつかない体質の彼は、運動神経は良い方だったが、運動部には不向きな体格をしていた。囲碁・将棋部ならコンピューター・ゲームの先祖のようなものだし、きっちり時間通りに部活も終わる。練習や試合で休みの日がつぶれることもなかった。選んだ理由はその程度のもの。高校でも、きっと同じような理由で部活を選ぶだろうと、他人事のように考えていた。いっそ帰宅部でも構わないくらいだ。一応、午後から部活見学はしてみるつもりではいたが、運動部は眼中になかった。
杉浦祥吾は迷っていた。小学校の頃からサッカー一筋、中学ではキャプテンを務め、地区代表選手に選ばれたこともある。高校もサッカー部に入ろうと決めていたが、遥明のサッカー部は全国的に有名で部員数も多く、スポーツ推薦枠で入学してきた生徒が半分以上を占めていた。チラリと見るだけでも、一人ひとりの実力の高さがわかる。一般入試で入った上に、地区大会上位入賞程度しか経験していない身では、準レギュラーになるのさえ至難の業に思えた。三年間、ただレギュラーを獲るためだけにサッカーをするのは、何だか虚しい気さえする。杉浦はサッカーが好きだが、プレイを楽しみながら試合の緊張感を味わいたいのであって、ポジション争いに終始したいわけではなかった。
「どうするかなぁ」
と金網越しにグラウンドを見ながら、杉浦は独りごちた。
小橋は適当に部活を見学して回った。見学者が少ないところは、とりあえず避ける。見学、即、入部になりかねないからだ。男子校はそこのところが容赦ない。
覘いた部活はどれもこれも似たり寄ったりな雰囲気で、入ってもいいと思えるほど魅力的でもなかった。だんだんと部活巡りも飽きてくる。一緒に回っていたクラスメート達は運動部へと流れたが、小橋はそれに付き合わず分かれた。
小橋は学食(学生食堂)に入り、缶ジュースを買った。一通り見て回ったし、入部するにしても今日で決める必要はない。終わりのHRまで、学食で過ごそうとイスに腰を下ろした。
持ち歩いていた部活紹介のパンフレットを見るとはなしに見ていると、視界を小橋の日常では見慣れない格好の、上級生と思しき生徒が横切った。紺色の袴姿。小橋の目は物珍しげにその上級生を追う。
(剣道部かな?)
袴と言えば剣道部しか思い浮かばない。何にしろ自分には縁のない部活だ。小橋はパンフレットに目を戻した。
「おい」
誰かが誰かを呼んでいる。自分に向かってのものだとは思わない小橋は、聞き流した。
「おーい」
少し大きくなって、今度は小橋の気を引くには充分だった。顔を上げて見回す。左右両隣や真後ろに人の姿はない。やはり自分を呼んだものではないのだろうと思い直した時、一列空けて向かいに座る生徒と目が合った。
「自分や、自分」
さきほどの袴姿の上級生だ。姿同様、関西弁が珍しい。片肘をついて小橋を見ている。それかひらひらと空いている方の手で、小橋を手招いた。
見ず知らずの人間に片手で呼ばれる筋合いはないと思ったが、入学早々、上級生に逆らって目をつけられても困るので、小橋は大人しく従い、彼の前に立った。銀の細いフレームの眼鏡がインテリっぽく、どちらかと言えば痩せ気味の体格は、小橋ほどではないにしろ運動部のものには見えなかった。
「新入生やな? もう入るクラブ、決めた?」
「まだです。帰宅部でもいいかと思って」
「でも熱心にパンフ、見てたやん。興味あるんとちゃうんか?」
「別にそう言うわけでも。これって思える部活はないし」
「どっか見学に行った?」
聞かれて小橋は、見学した部活を列挙する。なぜか自然と後ろ手になり、直立不動の体勢になっていたが、小橋自身はそれに気づいていない。
「文化部ばっかやな。運動部は?」
「身長ないから、向いていないと思います」
これはもしかしなくても勧誘かも知れない――小橋はあらかじめ予防線を張った。運動部ともなれば体格がものを言う。まだまだ子供体型で、見た目にも文化部もしくは帰宅部系なのだから、よもや本気で勧誘する気はないだろうが。
「何センチ?」
「百五十…八センチ」
五日前の身体計測では百五十七センチ足らずだったが、一センチくらいのさば読みは許されるだろう。上級生の口元が初めて緩んだ。百五十と八の間が少し空いたので見透かされたかと思い、小橋は緊張する。
「俺、今は百七十ちょいやけど、一年の時は『百五十八』なかった。これから大きなるよ。それに体格関係ない運動部もあるけど?」
「剣道部ですか?」
「何で剣道部やねん? ああ、これか」
上級生は自分が穿いている袴を見た。
「あんな汗臭いんと一緒にすんなよ。俺は弓道部」
「弓道部?」
「そ。気合で勝負するやつ」
弓道部など、小橋の部活の概念の中には存在しなかった。そんな部活があったのかと、午前中の『プレゼンテーション』を振り返る。そう言えば袴姿の部活を見たような気がするが、剣道部だったかも知れない。興味のない運動部の部活紹介は聞き流していたから、記憶に残っていないのだ。
「もう少ししたらデモンストレーションするから、見て行きぃや。ここで時間潰すより退屈せんと思うけどな」
「居た! 上芝!」
上級生の声に、別の声が被さった。学食の入り口に彼と同じような袴姿が立っていて、まっすぐこちらに向かってくる。
「またこんなところでサボりやがって」
「ちょっと休憩してただけですやん」
「ずっと休憩しっぱなしじゃねぇか。森野も目を離したらすぐにブッチしようとするし。まったくお前らは」
どうやら上級生の上級生らしい。小姑よろしく言葉をたたみかけるが、上芝と呼ばれた先の上級生はのらりくらりとかわして聞く耳を持たない風に見える。運動部の上下関係と言えば先輩の言葉は絶対であり、後輩は直立不動で聞き従うイメージが小橋にはあった。それから言えばかなり外れている。
「もうすぐ演武だぞ。戻って仕度しろよ」
と後からきた上級生は、そこで初めて小橋に気づいた。「誰だ?」と上芝に尋ね、「入部希望者」と彼は答える。
「まだ入るって決めていません」
小橋は慌てて否定した。
「そやった。見学希望者。ノルマ達成です」
立ち上がった上芝はくつくつと笑った。
小橋にはノルマの意味するところはわからなかったし、見学する気もなかった。しかし二人の上級生に挟まれ、逃れようもない構図になってしまったので、仕方なく上芝の言う弓道部の『デモンストレーション』を見に行くことにした。
「ねえねえ、そこの彼氏ぃ」
呼び止められて杉浦は振り返る。チェックした運動部を見終えて、缶コーヒーでも飲もうと自動販売機のある学食に入るところだった。脇に入る通路に長机が据えられていて、生徒が一人座っている。道着に袴姿は剣道部かと思ったが、机の前にセロテープで無造作に止められたA4の用紙には『弓道部』とあった。
杉浦は身体を動かすスポーツが好きだ。サッカー部以外で見学の対象にしたのは、どれも競技中、動き続けるものばかり。その基準から言えば、弓道部は意識下にない。『弓道』と言う言葉は知っていても、見たことがなかった。
「良かったら、覘いてかない?」
そう言われても、興味のない部活に用はなかった。
「いいッス」
と断って、その場を去ろうとした。するとその上級生は立ち上がり、杉浦の目の前に立つ。断り方が素っ気無かったので、相手が気を悪くしたのかと、杉浦は一瞬、身構えた。
背は同じくらい。天然パーマで少し茶色がかった柔らかそうな髪が、ほわほわと風に揺れた。表情からは怒った感じを受けなかったが、『普通の子』が危ない昨今、油断は出来ない。杉浦は唇を引き結んだ。
その上級生は杉浦が持っていた新入生歓迎会のパンフレットを手から取ると、中をパラパラめくる。杉浦は回った部活に印をつけていた。
「サッカー部に、バスケ部に、水泳部に…、へえ、結構、回ったんだな? イマドキの新入生には珍しいこった。どれもこれもそこそこのとこだけど、やったことあんの?」
「サッカーは小学校からやってます」
「サッカー部かぁ。うちの、強いよ? 特粋(特別推薦枠)で入ったヤツらばっかりで、百人近くいるし」
そんなことはとっくに知っている。だから別のクラブも見て回っているのだ――杉浦はしかし黙っていた。
「経験なかったら、運動部はまず基礎練ばっかだし、新入生はまあ下働き専門で、一年を無駄にするよな。我慢出来んの?」
「最初はどこだって、そうだろ?」
「ところが弓道部なら、即レギュラー間違いなし」
彼はパンフレットの弓道部のページを開けて、杉浦に見せた。ページ四分の一を割り当てられた紹介欄には、部活風景を映した写真と、創部歴、最近の競技成績が載せられていた。創部は学校創立とほぼ同じだ。成績は前年度のもので、地区大会団体戦準優勝、個人戦四位。これらの成績が良いのか悪いのか、杉浦にはわからなかった。ちなみにサッカー部は全国高校サッカー選手権大会のベスト8だ。つまり全国八位以内。
「でも俺、弓道って見たことないし」
「今から演武があるから」
「演武って?」
「簡単に言えば、デモンストレーション」
「やったことないし」
バスケットや水泳、陸上などのメジャーなスポーツなら、体育の授業でやったことがある。しかし弓道となると、未知の世界だった。武道系でも剣道や柔道ならまだしもだ。弓道は杉浦が想像するにかなり腕の筋力が要りそうで、今まで足でしか勝負してこなかった自分には、ますます無理だと思えた。
「全然、平気。いい見本が俺。ド素人で出た去年の地区大で八位だぜ」
(それって、大会のレベルが低いってことじゃ…)
まったくの初心者でも即戦力になれるのだとしたら、弓道部の実力はたかが知れている。ある程度、しっかりした運動部の部活を経験してきた杉浦には、物足りないに違いない。
「弓道部って、チョロイんですね?」
思わず本音が口をつく。「しまった」と杉浦は口を歪めたが、その上級生は、
「そうそう、チョロイのよ」
と気にする風でもなく笑った。
予定したところは見学し終わった。後は終わりのHRまですることもない。どうせどこかで暇つぶしをするつもりだったから、弓道部の見学でそれをしたって同じことだ。
「森野、おまえも支度しろよ」
学食の方から袴姿の二人が歩いてきた。そのすぐ後ろには見るからに新入生が一人、付いてきている。杉浦と目が合った。どうやら彼も、弓道部の演武とやらを見に行くらしい。彼の前を歩いていた上級生が杉浦に目を止めた。
「入部希望者」
森野と言う先ほどの弓道部員が、杉浦を指差して得意げに言う。
「見に行くだけッスよ」
杉浦は速攻で否定した。森野はニヤリと笑い、「そうそう、暇つぶしの見学希望者」と訂正した。
「二人は俺が案内するから、おまえ達は着替えてこいよ」
三人の袴姿のうち、一番年上だと思われる部員に促されて、森野と眼鏡をかけた上級生は彼にぺこりと頭を下げ、長机の後ろから奥へ延びる廊下を進んで行った。
杉浦の目は再び、もう一人の新入生を見た。運動部とかけ離れたタイプだ。杉浦と同様、どこかで彼らにひっかかり、とりあえず見学に行くことになったのだろうことが想像出来た。
「俺、杉浦」
「小橋」
「弓道部、入んの?」
残った上級生の手前もあってか彼は大っぴらに否定せず、そのかわり意味深に笑った。
(やっぱり)
杉浦も同じ意味合いの笑顔を返し、それから彼と並んで先を歩き始めた上級生に続いた。
「それではただ今から、射礼を行います。射礼とは演武の一つで、礼法にのっとり行射するものです。我が遥明学院弓道部では、二人が並んで交互に弓を引きます」
杉浦と小橋は三年生になっていた。いつもの筒袖の練習用道着ではなく、着慣れない黒紋付黒袴の正装姿で待機していると、妙な緊張を感じる。新入生歓迎会のみならず、人前での正式な射礼は初めてだった。二年生の時は、前主将・副将が行った。そう言えば杉浦と小橋が新入生の時も、まだ二年生だったその二人が弓を引いた。
「あの中に、俺達もいたな?」
見学のために控えの席にいる新入生の一群を指して、杉浦が言った。小橋は彼の肩越しに中を覗く。
今年は二十人以上が見学に訪れていた。杉浦と小橋が新入生として見学に来た年は五人で、それは部員がノルマで無理矢理引っ張って来た最小人数だった。翌年は自ら見学に来た七人と、勧誘した五人。今年は呼び込みをしなくても、自然と人数が集まった。これは前年のインターハイで個人・団体とも総合優勝したことが宣伝効果となっているのだ。そしてそれは、前主将と副将の功績が大だった。
前主将は森野皓(もりの・ひかる)、副将は上芝知己(うえしば・ともみ)で、杉浦と小橋はこの二人に導かれて弓道を知った。
「どうしようもない人たちだったけど、弓だけはすごかった」
小橋は呟く。独り言のつもりだったが、杉浦が「うん」と相槌を打った。
森野と上芝は遥明学院高校弓道部史上最強の射手にして、最悪の主将・副将コンビだった。長らく低迷し廃部寸前だった弓道部を建て直し、在校中の三年間で一躍全国区に押し上げたのだが、二人とも隙あらば練習をサボり、部活時間中を弓道場で全うしたことがない。故についたあだ名は森野が『サボり魔王』、上芝は『マイペース大王』、二人一緒では『極悪コンビ』と称された。杉浦と小橋は彼ら二人が勧誘したこともあり、入部早々、見張り役を押し付けられた。森野と上芝が引退するまで、その尻拭いばかりしていたようなものだ。
「弓道部なんかに入る予定、まったくなかったのにな」
杉浦は他の運動部に入るつもりだった。弓道部は新入生歓迎会の時に、暇つぶしで見学したに過ぎなかった。
「俺は帰宅部でいいと思ってた」
小橋は貧弱な体格ゆえに運動部の部活に縁がないと思っていた。弓道部へは成り行きで見学に行った。それが各々、森野と上芝とに出会い、見学者のためのデモンストレーションである彼らの射礼を見たのだ。
あの時の感覚は忘れられない。
礼をとって射位に立つ。上芝が上手、森野は下手。まずは上芝が的を突く(弓で的を指し見据える)と、左片肌を脱ぎ、射法に入った。一呼吸置いて、森野が同じ動作で続く。
風が矢道から射場に吹き込んだ。射手二人の前髪を揺らすが、彼らは『気』を散らすことなく、ただ静かに前を見据える。
弓道場は運動場の一角にあり、他の部活の音が常に聞こえているはずなのに、すべてが消え去ったかと錯覚した。自身によって創り出された無音の中で、ゆっくりと弓を引く森野と上芝の姿は、一年生の国語力では喩えようがなく、ただ「流れるような」と言う形容が、その一連の動作のために存在しているのだと思えた。
一目で魅了された。知らなかった弓道が、身のうちに入り込んだ。思い出すだけでも身震いがする。
あの時の自分達の姿が、見学者の中にあった。
「射手は主将の杉浦と副将の小橋が務めます」
進行役の二年生のその言葉を合図にして、射位に向かう段取りになっている。
「やべ。緊張してきた」
杉浦が袴で掌を拭いた。
「言うなよ」
小橋だとて、さっきから掌が熱い。
何事に動じず、飄々とした『極悪コンビ』――杉浦と小橋は、彼らの後姿を確かに弓道場の中に見ていた。
「行くか」
どちらともなく呟いて、二人は新しい一年を踏み出した。
<end>2008.05.10
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