なべて世はこともなし 水曜日





 嫌な予感がしないではなかった。
 淳明が設樂の部屋の階でエレベーターを降りた時、若い男が入れ替わりで乗り込んだ。すれ違いざま、彼の髪からしたシャンプーの匂いに、淳明は覚えがあった。自分自身、昨夜、使った。設樂のところのバス・ルームで。
(設樂の…)
 もしかしたら違っていたかも知れない。しかし「シャンプーの匂い」と思った瞬間、恋する乙女――もとい恋する男の勘が淳明の足を止め、振り向かせた。
 すでにエレベーターのドアは閉まった後で、表示板の数字が下って行く。一瞬の邂逅で記憶された男は、端正な顔立ちで華奢だった。彼の手首なら、あのブレスレットが嵌まるだろう。
(あほな考え)
 そうは思いつつ、淳明の足は一番奥の設樂の部屋に向かって速度を上げていた。
 ポケットから合鍵を取り出す。いつもはドアベルを鳴らして設樂が留守だとわかるまで使わない。訪れる予定にしている日でも他人行儀にいちいちドアベルを鳴らし、鍵を開けさせる淳明に、「入ってきたらええのに」と設樂は言うが、そこは彼の部屋であり、勝手に上がり込むことには躊躇いがあった。それに出迎えさせるのは、ドアを開けた時の設樂の甘い笑顔が見たいからだ。
 しかし今夜はドアベルも鳴らさず、鍵がかかっていると見ると手にした合鍵をすぐさま使った。
 入ってすぐのダイニング・キッチン越しに、奥の部屋が見通せる。こちらに背を向けていた設樂が、玄関ドアの開閉に気づいて振り返った。
「え? アツ?!」
 あきらかに驚いている設樂の腕には、はぎ取られたシーツがかけられ、ベッドを整えている最中だとわかった。
 淳明は無言で玄関から中に入った。すぐにあるバス・ルームはドアが半開きで、換気扇の音とシャンプーの匂いが漏れていた。さっきまで使われていたことをうかがわせる。で、あるのに、淳明から見える設樂は上半身は裸でスウェット穿きであるが、風呂上りの様子に見えない。それは近づいて傍らに立っても同じだった。帰宅してシャワーくらい浴びただろうが、少なくとも「さっき」ではなく、髪も乾いていてシャンプーの匂いはしない。
 では、バス・ルームを使ったのは誰か。
「アツ、え? 何? 今日…」
 慌て気味の設樂を横目に、淳明の意識はパソコン机の上に置かれた灰皿に向いていた。
 灰皿の中には二種類の煙草の吸殻。一つは設樂の吸っている銘柄だが、もう一つは「男の吸うもんやない」と、常日頃見向きもしない細身のメンソールだった。
 黒い物体が視界の下隅に引っかかった。ベッドの下に落ちていたのは、例の黒いレザーのブレスレットだ。その脇には、使ったと思しきジェル・チューブ、開けられたコンドームの箱が。
 淳明の視線がそれらに走るのを感じて、設樂はベッドの下に蹴りこんだ。その時に足元にあったゴミ箱が倒れ、丸められたティッシュ・ペーパーや使用後感たっぷりのコンドームがこぼれ出る。設樂はすばやくゴミ箱の中にそれらを戻したが、淳明にはしっかり残像として記憶された。
「や、これは、その」
「さっき男とすれ違った。そいつ、おまえんとこのシャンプーの匂いがしてた」
「ちゃうんや、アツ、説明させてくれ」
「言い訳やろ?」
「ほんまに違うんや、アキトと俺はそんな仲やなくて」
「アキト?」
 設樂の「名呼び」に淳明は鋭く反応した。設樂はたいてい友人を姓名で呼んだ。たとえ誰もがその人間を名の方で呼んでも、よほど打ち解けない限りは姓の呼び捨てに留める。その習性は設樂自身もわかっているらしく、淳明の反応に更に慌てた。
「違うんや、あいつは、その、俺の『先生』っちゅうか…」
「先生? 何の先生やねん?」
「や、それはその…」
「料理でも教えてくれてんか?」
「まあ一種の『料理』の仕方には違いないけど」
 設樂のらしくない歯切れの悪い物言いに、淳明はショックを通り越して腹が立つ。
 浮気なら浮気だとはっきり言ってくれた方がマシだった。淳明に物足りなさを感じて、つまみ食いしたのなら、愛が無くても欲情する男の性としてわからないでもない。淳明にも過去、異性と付き合いのあった頃に心当たりがある。
 それを「先生」だの何だのと、うだうだと誤魔化す。
 もっと許せないのは、昨夜さんざんに甘く愛を囁き、同棲を促した同じベッドに別の男を引き入れたことだった。淳明のためにここを選んだと言っておきながら。ラブホテルにでも行くならまだしもである。
 やっとついた淳明の決心が、虚しく宙にぶら下がった。
「ほんまにあいつとは、何の関係もないから」
 歴然と事後を物語っている形跡――ゴミ箱の中に存在するティッシュとかコンドームとか――があるにも関わらず、まだ「関係ない」とほざくのか…と、淳明の握った拳は震えた。怒りを言葉に変換するのも腹立たしい。淳明は視線をゴミ箱に向けることで、その腹立たしさを表現した。
 淳明の視線の移動に設樂も気づいた。
「それはベッドを汚さんように」
「つまりは汚すようなことしたってことやな?」
「してないッ! や、したっちゅうか、その」
「したんやろ?」
「してません、最後まではッ」
 この構図は、まるで浮気を巡って対峙する男女のそれだ。浮気の現場を押さえられているにも関わらず、何とか誤魔化そうとする男と、問い詰める女――テレビや映画、巷の事件で描かれる、昔からありがちな展開。恋人のほんの出来心の浮気を、ヒステリックに詰るステレオ・タイプにデフォルメされた女の姿を見て、「こんな女、引くなぁ」と思っていた立場に、今、淳明自身がいる。
 口を開けばその女子キャラ同様に相手を責め立て、醜態を晒してしまいそうで、淳明はそんな姿を設樂に見せなくないし、見たくもなかった。
 惣菜とワインの入ったレジ袋を握りしめる手に、設樂がそっと触れてくる。
「これ、一緒に食べよう思て、買うて来てくれたんか?」
 拳を解せと言うように、設樂の大きな手が淳明の手を包み込む。淳明が力を抜いて緩めると、レジ袋は設樂が引き取って、床に置いた。彼の腕はごく自然に淳明の腰に回り、引き寄せる。
「ほんまに何もないから。ちゃんと説明させて」
 密着した腰の間で、設樂が緩く『主張』を始めた。
 こんな状況でよくソノ気になれるものだ。抱きしめたら次はベッドに押し倒すパターン。それでなし崩しになって機嫌が直るとでも思っているのか――淳明は解けた拳を握り直す。それから設樂の片足を踏みつけた。
「痛ッ!」
 痛みで怯み離れた彼の鳩尾にボディ・ブロー、くの字に折れた身体に下からアッパーカットを食らわす。設樂はベッドに仰向けに倒れた。
 一発目のボディ・ブローが鳩尾にきっちり決まったらしく、設樂は声も出せず、ベッドの上で丸まった。
「アホ、ボケ、カス、このエロ魔人が!」
 彼にそう罵声を浴びせた淳明は、唇をキュッと噛みしめ踵を返すと、そのまま部屋を飛び出した。
 


 
 階上で人が降りるとすぐに一階に戻るエレベーターが、まるで淳明を待っていたかのように止まっていた。それに飛び乗り一階に下りると、マンションの前にたった今客を降ろしたと思しきタクシーが見えた。流しのタクシーなど通らないところであるのに、間が良いのか悪いのか。乗り込んで駅まで頼むと、タクシーは静かに走り出した。
 一旦、シートに身を沈めた後、振り返った。たちまちマンションは小さくなっていく。設樂の姿をマンションの前庭辺りで見たと思ったのは、希望的観測かも知れない。
(何、甘いこと考えとんのや。あいつは裏切ったんやぞ)
 淳明は今日、残業を終えて一度マンションに戻って出直したため、設樂のマンションに着いた時間はかなり遅かった。月曜、火曜と平日に続けて会ったので、さすがに今日は来ないだろうと彼が考えたことは、想像に容易い。
(同棲にどうしても踏み切れんかったんは、どっかでこうなること感じてたんかも知れん)
 設樂は学生時代を含め、男女問わずによくもてる。だから数多いる対象者の中から彼に望まれて恋人同士になったものの、淳明には常に不安が付きまとっていた。昨日、それはただの杞憂で、設樂は本当に真摯に想ってくれているとわかると同時に、淳明自身も彼を無二の存在だと思い知った。だから今までの不安を払拭し、あの腕に飛び込む覚悟を決めたのに。それがわずか一日…、いや半日あまりで不安は舞い戻り、的中した。
 

『ほんまに何もないから。ちゃんと説明させて』
 

 たとえ何か事情があるにせよ、ジェルやコンドームを使うことをあの男としたのは事実だ。これから先も説明を要することがないとは言えまい。
 ボトムのポケットで携帯電話が震える。おそらく設樂からの電話だろう。しかし出てしまうと今度はタクシーの中であることも忘れて、淳明は彼を詰るに違いなかった。
 少し頭を冷やし、湿っぽい中にもどこか一線を引いたドライな関係に戻ろう。
(『別れる』とは思わんのか)
 完全に断ち切る勇気のない自分を、淳明は嗤った。
 駅に着いてタクシーを降りた時、淳明はふと周りを見回した。設樂が先回して来ていないかと、無意識に探している。
(ほんま、アホやな、オレ)
 ホームに入ると、ちょうど淳明が乗車する電車が進入してくるところだった。ラッシュ時以外は一時間に二本しかないダイヤであるのに、タイミングが良すぎる。エレベーターといい、タクシーといい、設樂との間を隔たせようとする見えない意志が働いているのではないだろうか。やはりこの関係は永く続かない運命なのではないか。
 電車に乗り込み座席に座って、手の中のパスケースを見た。市営地下鉄の通勤定期とICOCAが背中合わせに入っている。ICOCAは設樂のところに通うために購入したものだ。
 パスケースには他に、カードのようなものが入っていた。なんだろうと取り出すと、櫻井がくれた名刺だった。新しい会社の連絡先と並んで、携帯番号が印刷されている。
 顔を上げると、向かいの窓にどんよりとした表情の『男』が映っていた。
 淳明は独りの部屋に、まっすぐ帰りたくない気分になった。
 
                         

(『木曜日』へ続く)
 

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