なべて世はこともなし 月曜日





 気にかかることがあったとは言え、別れ際の自分の態度は良くなかったと、その日一日淳明は反省頻りだった。同棲を望む設樂の気持ちはわからないでもないからだ。
 恋人としての付き合いが始まった時、二人は社会人になっていた。就職先は別、会社の所在地も違えばそれに伴って住む場所も違う。取引先同士であっても、互いに接点のない部署のため、職場で顔を合わせることはほとんどない。ゆえに二人が会うのは週末に限定される。その週末でさえ、いくら優先しても毎週必ずとは言えないのが社会人の哀しさだ。
 しかし根に少し天邪鬼な性質を持つ淳明は、「良くなかった」とは思いつつも、設樂にフォローのメールを送れずにいた。だから夜遅くの来訪者を確かめるべく覗いたドア・スコープの先に彼の姿を見て、驚く反面、嬉しくて頬が緩む。
「どうしたんや、こんな遅くに?」
 それでもチェーンを外してドアを開けた時には、片眉を上げて偏屈な態度を取ってしまうのである。これを世間一般では「ツンデレ」と称するが、淳明本人は決して認めない。たとえ表情に出ていたとしても。
 瞬時に展開されたであろう恋人の百面相を知ってか知らでか、設樂は「来ちゃった。エヘ」と笑ってドアを押し開け、続いて淳明を押し退け、部屋の中へとずんずん上がり込む。上着、ネクタイをポポイッと脱ぎ捨て、シャツの襟元を緩めるとベッドの上に座った――今、この段階だ。
「今日はオレ、無理や言うたはずやけど?」
「そやから俺が来た」
 設楽は隣に座れとでも言う風にベッドを軽く叩く。
「今週、始まったばかりやぞ。それにオレんとこではやめとこって…あっ、こら、何触ってる?!」
 淳明が隣に腰を下ろした途端に、太ももを撫で擦る設樂の手。その甲を慌てて抓った。
「や、泊めてもらうだけやから。ほら、酒臭いやろ?」
 設楽は触れんばかりに顔を近づけ、淳明の鼻先に息を吹きかけた。確かにアルコール臭はする。但しほんのり程度。下戸に近い淳明と違って笊な設樂にとっては、飲んでいないに等しいのではないか。大方、飲酒運転で引っかかるとか何とかの理由付けに缶ビールを一本、来る前に呑み干したのだろう。
 淳明は会社が法人借り上げで社宅代わりにしているマンションの一室に住んでいた。隣は設樂とも面識のあるシステム担当社員の部屋だ。加えて、築三十年のワンルームの壁は限りなく薄く、更に設樂から与えられる容赦ない快楽に、淳明は声を抑える自信がない。「週始まりの月曜日と、淳明の部屋ではセックスしない」が二人の間で決められたルールである。
 にもかかわらず、一度引っ込んだ設樂の手は淳明の肩に回り、そのまま引き寄せられた。
 耳の下から首筋、鎖骨へと、厚みのある唇が辿る。香り高い紅茶に似た彼愛用のコロンが微かながらも鼻腔を刺激し、たったそれだけで淳明に『週末』を思い出させた。陶然と意識がさらわれそうになる。Tシャツの裾からもう片方の設樂の手が滑り込み、くすぐったい感覚で淳明は我に返った。
「…って、ちゃうやろ!」
 シャツの中で蠢き這い上がる手を押し戻すと、「何がちゃうん?」と耳元で甘く深みのある声が聞き返した。
(なんで、こいつはベッドで豹変するんや)
 普段、淳明の前では色っぽさの欠片もなく、関西人が得意とするボケ・ツッコミのボケ役に徹しているくせに、ベッドの上では魅力的な色事師に変身する。淫靡な艶含みの声に囁かれると、淳明の身体からは力が抜け、良いように翻弄されてしまうのだった。今もまさに崖っぷち状態。
 設樂の声に惹かれた一瞬が、胸の辺りで攻防戦を繰り広げていた淳明の手の動きを止めた。すかさず設樂は淳明の左胸にある官能スイッチに触れる。
「あ…」
 意思に反して声を漏らす自分の口を慌てて手で塞いだ。クスクスと設樂は笑って、淳明の手首を掴み口から引きはがすと、ベッドに押し倒す。
「口は俺が塞いでやる。だからこの手はここな」
 手は頭上のシーツに縫いとめられ、唇は設樂の口づけで塞がれた。
 手首に感じる彼の手の存在で、淳明の脳裏にある物がフラッシュバックした。
 黒いレザーのブレスレット。
「Stey!」
 顔を何とか背け叫ぶ。設樂が顔を上げた。
「ステイ? なんや、それ?」
「ボビーはそれで動きを止める」
「ボビーって?」
「オレんちの犬」
 淳明の答えに、設樂は眉間に皺を寄せた。顔中にハテナ・マークが浮かんで見える。
「俺は犬か?」
「来て早々飛びかかって来るんはボビーと同じや」
 設樂は喉の奥でくつくつと笑った。
 一時的にも彼の気を逸らすことには成功したので、この隙に何とか体勢を立て直そうと淳明は身をよじるが、設樂の身体はびくとも動かない。
「往生際、悪いぞ?」
 設樂はまたあの魅力的な声で囁く。
「今日は泊るだけちゃうんか!?」
「そのつもりやったけど、お互い、ソノ気みたいやし」
 二人の間で兆しを見せる互いの『ソノ気』。設樂の大きな手が淳明のスウェットパンツの中を直に捉えた。息を詰めた淳明の唇に啄むようなキスを落とし、彼は「な?」と言った。
 設樂の手の緩やかな動きによって、淳明の『ソノ気』は兆しから主張へと変化し始める。そうなってしまうと抵抗することは難しい。しかし、淳明は拒まずにはいられなかった。
「あ、明日、朝から、ほんまに会議…」
「わかってる。そやから触るだけ」
「嘘つけ…っ」
「ほんまに触るだけやから」
 耳朶に、頬に、唇に、鎖骨――設樂の繰り出す怒涛のキス攻撃に、淳明の頭が左右に揺れた。
「オレ、おまえに、聞きたいことっ…」
「聞きたいこと?」
「あの、黒い、ブレス…レット」
 切れ切れながらもようやく繋がった淳明の言葉に、設樂は答えの代わりに笑みを返した。それから手の中の『淳明』を少し強く握る。堪らず淳明は声を上げた。
「もう黙らんと、隣にその色っぽい声、聞こえるで?」
 淳明は唇を引き結んだ。連動して瞼もギュッと降りる。
「可愛いなぁ」
 そう言った設樂の唇が、力の入った淳明の瞼の上に落ちた。
 


 
 淳明が目覚めた時、設樂の姿はなかった。
 時計を見るとまだ起きる時間には早すぎる。もう一度寝なおすために目を閉じた。
 追い上げられて煽られて、理性の箍が外れそうになるのをどうにか抑えられたのは、折々で設樂が「隣に聞こえる」と耳元で囁いたからだった。それでもいよいよ切羽詰まると抑えきれない。情欲の高い声が漏れる寸前、設樂の唇がそれを吸い取る。そんなことが何回繰り返されたか、途中でほとんど意識がなくなった淳明は覚えていない。
 設樂は言った通り触るだけだったので身体の負担は少ないものの、「朝イチで取引先に出向くから」と夜も明けきらぬうちに部屋を出る彼を、淳明は夢うつつの中でしか見送れなかった。
 だから結局、黒いブレスレットのことは聞けず仕舞いである。そのことは淳明の二度寝を阻んだ。
 それなりに大人の年齢だから、あれがただのアクセサリーではないと知っている。問題は、なぜ設樂が持っているのかと言うことだ。
 設樂にそんな趣味があるのだろうか?
(そんな素振り、一度もなかった)
 同性同士の道が初心者の淳明を慮ってか、設樂の施すセックスは優しい。
(いや、待て。あれって優しい言うんか?)
 彼が与えてくれる快感と言ったら、とにかく極限まで淳明を心地よくしてくれる。しかしその極限は、さんざん焦らし、煽り、淳明の意識が飛ぶ寸前で、やっと与えられるものなのだ。
(考えようによっては、いじめに似てへんか?)
 ああ言うレザーバンドを使う性癖があってもおかしくないと思えてきた。
 百歩譲って、
(譲るんか、オレ?)
 あれを使う相手が自分ならともかく、誰か別の相手だったら?
 付き合って二年と言っても、二人で過ごす時間は男女の仲より少ない。慣れない淳明は設樂任せで、自分が満足するほどに、彼を満足させているのかどうなのか。とても満足させているように思えない。それを他に求めて得ているのだとしたら?
 淳明は飛び起きた。一晩中、設樂によって生み出され、身体に纏わりついていた熱が、怖い疑問で一気に引く。たった一組のブレスレットが、どんどん不安を派生させた。いつの間に自分は、こんなに設樂に傾倒してしまったのだろう。
 淳明の背筋は震えた。
 一緒に住めば、自分はますます設樂と離れられなくなるかも知れない。反対に設樂は、そんな自分に幻滅するかも知れない――それを思うと、とても同棲に踏み切れない。
 毛布に包まり、再び身体を横たえる。
 窓の外が明るくなるのに比例して車の往来する音が増えてきた。淳明の住むマンションはオフィス街の一角にあり、アスファルトに囲まれている。聞こえてくるのは生活感のない、無味乾燥な音ばかりだ。
 翻って設樂のところは海が近く、夜になって辺りが静かになると、テトラポットにあたって分散する波の音と、沖を行く船が時折発する微かな汽笛が聞こえてくる。それらを設樂の腕の中で微睡みながら聞く心地良さと言ったら。
 離れてまだ一時間も経っていない設樂の体温を、淳明はもう恋しく思った。
 


(『火曜日』へ続く)
 

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