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深淵   





※24話のジェニー・円と、彼の腕に崩れ落ちた久島の姿で妄想。





「すまない、ジェニー」
 そう言った久島永一朗の表情は、いつもと変わらない。事務的で、感情の欠片も感じさせずに、ジェニー・円を見つめた。それは譲歩しない彼の姿勢を示している。
 人工島の新たな産業の軸=気象分子は、全世界が注目する中、人工島完成二十周年記念式典において散布実験される。その直前になって、久島は気象分子プラントの稼動停止を評議会で提案したのだった。
 二人で立ち上げた気象分子計画が漸く形となり、認められるところまできたと言うのに。メタリアル・ネットワークの生みの親・久島による直前での稼動停止の提案は、波紋を呼ぶ。プレゼンとしての信用性を損なうと同時に、これまでの時間を無駄にしかねない。
 停止提案の理由を聞いても、久島は明らかにしなかった。やっと「確証がない」との言葉を引き出せたものの、円には納得出来る根拠となりえない。
 分子工学博士として、円は気象分子の研究に全てを費やしてきた。久島は計画推進者の一人として、理解してくれているものと思っていた。この研究は、メタリアル・ネットワークの存在なくして――つまり久島との共同研究なくして成立しなかったからだ。
 長い年月をかけて作り上げたシステムが瓦解するかも知れない。どうしてそうも冷静に、「すまない」の一言で済ませられるのか。
 円は心の中で絶望した。
――こんな時ですら、君は感情を見せないのか
 円は目の前の久島の顔を掴む。こんな手荒な真似はしたくなかったが、仕方が無い……と自らに言い聞かせながら、その意識を奪うべく力を込めた。久島のささやかな抵抗など、軍用義体である円には何ほどでもなかった。
「君と祝杯を挙げることが、私の夢だった」
 ほどなく久島の身体は、円の腕の中に崩折れた。




 円が波留真理の姿を初めて見たのは、人工島が完成した翌年だった。
 その日、義体の定期メンテナンスのため、円は電理研メディカルセンターを訪れていた。滞りなくメニューを終えてロビーに出た時、一台の救急車から患者が運び込まれるのが見えた。遮蔽型ストレッチャーに乗せられてはいるものの、緊急と言うには切迫感がなく、大方どこかのVIPが転院してきたのだろうと円は思った。
――久島?
 付き添う数人の中に、久島の姿があった。彼の片方の手は、ゆっくりと進むストレッチャーにかけられていて、よほど近しい親族ではないかと推測される。
 円は通りかかった看護師に「あの患者は?」と尋ねてみたが、守秘義務の関係で答えは得られなかった。
 さほど離れたところにいたわけではないのに、久島は円に気づかない。円もあえて声はかけなかった。と言うより、かけ難い雰囲気であった。久島のポーカーフェイスは今に始まったことではないが、いつもに輪をかけて壁が感じられる。時々、ストレッチャーの方に目を向ける様子が、沈鬱と行かないまでも、それに似た微妙なものに見えた。
 初めて見る久島の表情に興味を引かれ、円は彼に気取られぬようにして後に続いた。
 ストレッチャーは一旦、ICUに運び込まれた。ガラス張りなので、遮蔽蓋が開けられて患者がベッドに移される様子が、外からも見られる。患者の鼻孔にはすぐさまエア・チューブが取り付けられ、心モニターも開始された。規則正しい拍動が画面に映し出されて、一連のチェックが為される。医師が何やら説明するのに、久島はその都度、頷いていた。
 円や久島同様、東洋人であるが、肌の色は白が勝っていた。長い間、陽にあたっていない故だろう。グレーがかった頭髪は、加齢によるものだとわかる。年齢を推察するに、六十歳前後というところ。久島の実年齢に近い。
――あれが、波留真理か
 その存在は知っていた。建設途中の人工島を破壊した謎の海洋異常現象――通称『海が燃える』現象に海底調査中に遭遇し、以来、三十年近く昏睡状態にあるダイバーだ。同時に、電理研統括部長である久島の友人であることも聞き知っていた。
 説明を終えて医師がその場を離れ、久島はベッドの脇に用意された椅子に座る。転院搬送の際の異常は何もなかったようで、久島の表情は幾分、柔らかくなっていた。眠る波留に向けられる彼の目は微笑んでいた。彼がこれほどに表情豊かなところを、円は見たことが無い。
 久島は謎の海洋現象、ひいては地球律を解明するため、『海が燃える』現象を体感した唯一の存在である波留の覚醒を待っているのだと、研究対象物の一つだと思っていた。普段の彼を知るかぎりは、それが妥当な見解だ。久島は根っからの研究者である。全身を総義体化しているのも、貪欲な探究心を満たす時間のため。それは円も同じだった。だからこそ、性格も研究分野も違う彼に親近感を持ったのだ。
 あんな久島を円は知らない。柔らかな眼差しも、微笑みも、かつて誰にも向けられたことがない。少なくとも、円には見せたことがない。
 言い表せない何かが、円の心の深淵に澱を生む――あの表情が自分に向けられることはあるのだろうか?
――久島……
 円は『自分の知らない久島永一朗』に背を向けると、その場から離れた。




 あれから二十年が経つ。久島のあの表情は、未だに見ることが叶わなかった。いや、見ることは出来る。がそれは、波留真理と過ごす時間の中でだけだ。
 波留は半年前に昏睡から覚めた。久島は彼の生活環境を整え、電理研嘱託のメタル・ダイバーとして迎えた。生身で八十余歳の高齢。長い昏睡の影響で車椅子の生活を余儀なくされている。しかしメタル内でのダイビング・スキルは、他の若いダイバー達と比べて遜色なく、電理研からの仕事の依頼をそつ無くこなしているようだった。
 休日に時折、波留の車椅子を押す久島を見かけたことがある。決して他に見せることのないあの表情が、久島の顔に浮かんでいた――波留にだけ向けられる、波留にだけ与えられるものなのだと痛感した。
「研究者としての君だけでも、私は良かった」
 腕の中の久島は項を無防備に晒したまま、ピクリとも動かない。その内側には、彼自身とも言える脳核チップがある。気象分子プラントの稼動と速やかな商品化のためには、彼を彼のままにしておくことは不可能だ。不要な記憶は消さなければならない。研究者であり、電理研統括部長としての、彼でさえ在ればいいのだから。
 記憶をリセットされた久島は、自分に微笑むだろうか。
 円は彼の項にそっと唇を寄せ、口づける。微かな温もりが伝わった。
 それからその部分に手をかけ、力を込めた。


 
 


                                         
2008年作


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