※原作につきましてはこちら(wik・別窓)をご参照ください。



Clumsy flirtations(不器用な媚態)   





 久島の部屋は無駄なものが一つも無い。不意に訪れてもきちんと片付けられていて、まるでモデル・ルームのようだ。リビングのテーブルの上に時折、読みかけの学術書や科学雑誌が無造作に置いたままのこともあったが、それさえもインテリアに見える。来客がある度に慌てて片付ける波留とは大違いだった。
「相変わらず生活感がないな」
 ソファに座り波留が独りごちると、
「寝に戻るだけだからな。それにここに来るのは、おまえくらいだ」
冷蔵庫からビールを取り出しながら、久島が答えた。
 日本とASEAN諸国の共同出資で建設中の経済特区メガフロート=人工島の近海に、微かな海底兆候が見受けられた。それが何であるか説明出来なかったが、だからと言って無視も出来ない。あまりにも人工島に近い海域であり、影響が出るのか出ないのかを確認する必要があった。急きょ、海底観測と調査が実施されることが決まり、久島はそのリーダーに就いた。そして波留もダイバーとしてメンバーの一人に名を連ねている。
 人工島の工期はそれでなくとも遅れていた。観測の長期化は評議会の歓迎するところではなく、調査期間は限定を余儀なくされる。調査を無駄なく円滑に進めるため、久島は休日返上でその準備に忙殺されていた。夜遅くまでかかることがほとんどで、ラボの仮眠室に泊まることも珍しくない。久島自身が言う通り、自宅にはただ寝に戻るだけの日々が続いていた。
「疲れているんじゃないのか? せっかくのオフなんだから、俺なんか呼ばずにゆっくり休んだ方が良かったんじゃ? 昨日もラボに泊まったんだろう?」
「仮眠室ではよく眠れたよ。久しぶりに起されなかったし」
 言葉とは裏腹に、久島は心なしか疲れて見えた。彼にとって久しぶりのオフは、すでに半日が終わっている。昨夜もラボに泊まり込み、朝は帰り際に呼び止められて、最新データの解析で半日を潰してしまったと、波留は聞いていた。
「波留の方こそ、予定はなかったのか?」
 波留は間近に迫った調査ダイビングのため、同じ敷地内のメディカル・センターで最終的なボディ・チェックを受けていた。チェックは午前中で終わり、午後からはオフになった。センターを出たところで久島と偶然一緒になり、今に至る。
「ダイバーは優遇されているから、完全休業と行かなくても時間的な余裕は、結構あるんだよ。それに、おまえとオフが同じってこと以上に、優先する予定はないさ」
 缶ビールを差し出す久島の手が、中途半端に止まる。波留が自ら手を伸ばし、そのビールを受け取ると、久島は笑んで隣に座った。
 今日は珍しいことばかりだと、波留は思った。どちらの部屋で過ごすにせよ、声をかけるのはいつも波留の方から。そして久島が隣に座ることも滅多にないことだった。それが今日は彼の方から部屋に誘い、さりげなく隣に座る。そんな彼の行動に、波留は自分の心拍数が少しずつ上昇していることを感じた。
 予定外のこの海底調査が決まってからと言うもの、お互いに時間を合わせることが出来ずにいる。もうずいぶん、波留は久島に触れていない。
――こんなに近くに来られたら理性が持たないよ、久島
 久島がどれだけ忙しくしているか知っていた。厳しい体調管理を課せられ、休養を強制的に摂らされるダイバーと違って、ラボの人間には昼夜がない。そんな彼に余計な負担はかけられないと、波留は自制していた。健康な成年男子にとっては、かなりきつい状況ではあるが。
 ラボではポーカーフェイスで陣頭指揮にあたる久島が、無防備に疲労の色を隠さずにいる。体温を感じるほどに近寄られては、波留の理性も吹っ飛びかねない。彼の横顔のそこかしこに疲れを見てとることで、辛うじて踏みとどまる――久島はかなり疲れている、今日は身体を休められる貴重なオフなのだから……と。ただ、その疲れた表情が妙に艶めいて見えるのも、否めない事実だった。
 波留は緊張する。必要以上に饒舌になる自分は、不自然ではないだろうか?
「なかなか、難しいな」
 会話が途切れて、ほんの少しの間が空いた。先に口を開いたのは久島だった。
「え?」
 振り返った波留の、鼻先すぐのところに久島の目がある。思わず身を引くと、彼は苦笑した。
「誘い方がわからない」
「久島?」
「せっかくのオフだから、おまえと過ごしたいと思うのは変かな」
 想定外の言葉に、波留は久島を凝視するしかなかった。
 これまで久島は波留を拒まないかわり、積極的に求めることもなかった。どちらかと言えば淡白とも言える反応で、強引なアプローチに流されているだけなのではと思えるくらいだった。
 まさか今日の、久島らしからぬ珍しい所作の数々が、波留を誘ってのことだとは。
「疲れているだろう?」
 一応、確認してみる。
「フェロモンを出しているつもり」
「え? フェロモンなの?」
「疲れた表情は、隙があるように見えるかと思って」
「わかりにくいよ、久島」
「わかりにくいか?」
「わかりにくいさ」
 わかりにくいが実に久島らしくて、波留は笑った。つられて彼も笑い、二人の声が部屋に響く。
 ひとしきり笑った後、波留は喉に潤いを求め缶ビールに手を伸ばした。隣では久島が、ソファに深くもたれ掛って、まだ笑っている。波留は手をビールにではなく、彼の顎にかけた。笑顔のままで久島がこちらを見る。その唇に啄ばむように口付けた。
「わかった。じゃあ、その隙を突かせてもらおうかな」
「波留」
「実はセンターの出口で久島を見かけてから、誘われっぱなしだ」
「そうか。待ち伏せた甲斐があったな」
 波留は目を見開いた。メディカル・センターの出口で出会ったのは、偶然ではなかったと言うことか。
 久島の指が波留の頬に触れ、次には誘うように彼の口元が綻んだ。
 波留の腕は久島の肩に回され、彼を引き寄せた。それから今度こそ、深い口付けを贈った。




「ハルさん? ハ〜ルさん?」
 少女の声に波留は目を開けた。いや、目は開いていて、瞬きをしたと言った方が正しい。目の前には自称アシスタントの蒼井ミナモが立っていた。
「あ、すみません、ミナモさん。何か?」
 つい今しがたまで、彼女と彼女の兄・ソウタと、介助用アンドロイドのホロンの四人で話していたはずだった。話題はミナモが持ち込んだヴァイオリンの件。ヴァイオリニストの一之瀬カズネから、元の持ち主である久島永一朗に返して欲しいと頼まれたものだ。しかし久島は受け取らず、一之瀬もまた「どうしても彼に返して欲しい」と譲らなかったため、ヴァイオリンはミナモのところに残ったままになっている。
 久島に音楽の心得があったことを波留も知らなかった。かつて頻繁に訪れた彼の部屋には、それに関するものが何もなかったと話していたら、その頃のことが急に思い出されたのだ。話はそのヴァイオリンをどうするかと言うことに移ったが、波留は懐かしい記憶の中にトリップしてしまったようだった。
「もう少し考えてみます」
「そうですね、ミナモさんは自分の気持ちに素直であればいいと思いますよ」
 ミナモはペコリと帰りの挨拶をして迷いの消えない表情のまま、ドアの方に向かう。その手には久島のネームが入ったヴァイオリン・ケースがあった。
 目を閉じれば昨日のこととして思い出される。しかし五十年の時が経ってしまった。久島と過ごした日々が恋しくてならないのに、未だ以前のように彼には触れることが出来ない。触れればきっと思い知らされる。時の長さを。
 それでも――
「素直であるべきなのは、僕の方かも知れないな」
 波留は今、堪らなく久島に会いたいと思った。

 
 


                                         
2008年作


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