注) このお話は『Slow Luv Op.1』前半部の中原さく也視点です。 






[ Overtura ]                          



 
練習用に借りたスタジオの入り口に、彼は立っていた。曽和英介が手配した新しいピアニストらしいのだが、中原さく也の知る数多のピアニストと少々、趣が違っている。
 肩から提げた鞄は重そうで、とても楽譜だけが入っているようには見えない。なぜか不機嫌な表情を浮かべていて、それは緊張からくるものとは思えなかった。英介がにこにこと笑って迎え、みんなを紹介していくのに対して、あきらかに怒った口調でそれを遮る。
 すぐに練習が始まらないと判断したさく也は、部屋の隅に用意された机に足を向けた。始まる時は声がかかるだろう。
 これと言って特別な印象はない。日本人にしては長身だと思うくらいで――それが中原さく也の、加納悦嗣に対する第一印象であった。




 三日前の土曜日。
 日付が変わる少し前に英介がホテルに戻り、
「腹膜炎を起こしていて手術したから、次のステージは無理だな」
と言ったのを、寝転がったソファの上で、さく也はぼんやりと聞いた。
 第一ヴァイオリンのさく也とチェロの英介、ヴィオラのウィルヘルム・ブルナー、第二ヴァイオリンのミハイル・クルセヴィッツの四人は、ウィーンのオーケストラに所属している。プライベートでアンサンブルを組み、サロン・コンサートを開いたり音楽祭に参加したりと、暇な時に趣味として活動していた。英介が六月の休暇を所用もあって日本で過ごすと言うので、他の三人もそれに合わせて休暇を取り、せっかくだからと演奏旅行を兼ねることにした。
 メインは弦楽四重奏で、それに現地調達のピアノを加えた五重奏の小曲を一、二曲プログラム。好評のうちに神奈川・埼玉でのコンサートを終えたが、埼玉公演直後にピアニストが倒れた。東京での最終公演一週間前のことだ。
 英介は今回のツアー・マネジャーと共に付き添って病院に行き、さく也とウィルヘルム、ミハイルの三人はホテルでその帰りを待っていた。ルーム・サービスで頼んだワインを一杯飲んだところで、もともとアルコールにさほど強くなく、演奏会後の疲れもあったさく也を、眠気がすぐに襲った。うとうととしかけたところに、英介が戻って来たのである。マネジャーはそのまま、病院に残ったようだった。
「どうするんだよ、エースケ? ま、ピアノが無けりゃ無いで、抜きの曲をやれば済むことだけどな?」
 ウィルが横柄に言った。彼のそんな物言いは常のことで、酔いからではない。英介はテーブルの上のピザを一切れつまみ、頬張った。
「何人かアテはあるんだ。声をかけてみるよ」
「マシなの、頼むねー。彼も悪くなかったけどさー、技術が正確なだけじゃダメなんだよねー」
 ミハイルの呂律が怪しいのは、あきらかにアルコールのせいだ。
「うちにはわがままな第一ヴァイオリン(ファースト)がいるからさー」
 ソファに背をもたせて床に座っていた彼は、さく也の頬を指で押した。さく也は目を開ける。頬を突いていたミハイルの指が、鼻をつまもうとするのを感じて、手で掃った――「止まらず弾けるなら、誰でも同じ」と答えようとしたが、瞼が重くて言葉にならない。
「大丈夫。本命のヤツなら、きっとみんな気に入るさ」
 英介が自信あり気な声で答えたのを聞いて、さく也は目蓋を完全に閉じた。




 そして火曜日、「アテがある」と言って音沙汰がなかった英介から召集がかかった。
 本番まで一週間を切った中でのピアニスト探しは、さすがに難航しているようだったので、メンバーも今回関わっているスタッフも、五重奏(クインテット)はないと半ば思っていた。それが見つかったというのだから少なからず驚かせたのと、同時にミハイルを落胆させた。
「えー、本番まで練習に付き合えっての?! アサクサは?!」
 新しいピアニストが来ないとなると、音合わせの練習は必要ないので、彼の頭はすっかり東京観光モードになっていた。
「そんでもって、何でブラームスなんだ?! 前回と同じプログラムでいいだろ?!」
 前日の連絡で、クインテットはブラームスのピアノ五重奏曲に変更された。ブラームス唯一のピアノ五重奏曲で、神奈川と埼玉でプログラムされた小品とは比べ物にはならない五重奏の名曲中の名曲。これ一曲でメインが張れる楽曲だった。ウィーン組は勿論、演奏したことはあったが、多少はさらっておく必要のあるほどには久しぶりの曲だ。それで少し早めに集まって、ピアニストが来るまでの間に合わせることになったものだから、ミハイルの午後の予定は更に狂ってしまったのだった。
「せっかく弾かせるんだから、小曲ではもったいない」
 サラリと言った英介に、ウィルが「すごいのが来そうだな?」と尋ねる。ミハイルも散々文句を垂れていた口を噤んで、それに対する英介の答えを待った。
「すごいかどうかは主観の相違があるから何とも言えないけど、少なくとも俺は彼のピアノが好きだよ」
「そんなに惚れ込んでいるなら、最初からそいつにすれば良かったんじゃないのか?」
「そうだそうだ。そしたら、こんな天気のいい日を練習にあてる必要もなかった!」
 ウィルとミハイルの言葉に、英介は意味深な笑みを浮かべた。訳ありなのはそれで想像出来たのだが、果たして夕方、スタジオに姿を見せたピアニストは、ピアノが本職ではなかった。
「調律師ってどう言うことだ、エースケ? ピアニストじゃないのか?」
 休暇を潰されたことには寛大だったウィルが、抑えてはいるものの語気を荒くして言った。彼は人前での演奏には妥協しないタイプだったので、プロの演奏家ではない代役の登場には納得し難い様子だった。このカルテット内では、口数の少ないこともあって、さく也が一番、演奏に関して拘っているように受け取られていたが、他のメンバーだとて大差はない。むしろ、世界最高峰と言われるWフィルに所属しているウィルやミハイルの方が、演奏家としてのプライドは高かった。
「本職じゃないのに、ステージに立たせるつもりなのか、エースケ?」
 矢継ぎ早のウィルの質問に英介は困ったような笑みを見せる。ミハイルが加わり、英介は二人がかりで詰め寄られる恰好となった。
「とにかく演奏を聴いてくれないか? クレームはそれからいくらでも聞くから」
 しかし彼の答える声にさく也は、少しも困った感じを受けなかった。
――ずいぶんと、エースケはあの調律師を買っているんだな?
 さく也は視線を、放置状態の背の高い調律師に向けた。
 固く結んだ唇をへの字にして、彼は英介達のやり取りを見ていた。だんだんと表情がきつくなって行く。一瞬、その目はこちらを見た。さく也は話の輪には入らずにいたのだが、それはそれで彼の癇に障ったのかも知れない。鋭い視線は、さく也の目が逸れるのを許さなかった。ウィルとミハイルに言葉を畳みかけられ、小柄な英介は傍目には防戦一方に見える。調律師からしてみれば、静観しているだけのさく也が、腹立たしく思えるのだろう。話の内容は決して、英介の形勢不利とばかりは言えなかったのだが。
 調律師のそんな風情は、さく也の意識を捉えて離さなかった。
「楽譜、寄越せ、エースケ!」
 日本語がスタジオ内に響いた。それを発した調律師は、上着を脱ぎ捨てピアノの前に座る。怒りが頂点に達したと言った風だ。英介が満面に笑みを浮かべ、すぐに楽譜を譜面台に置いた。
 調律師は鍵盤を、次に自分の指を見つめた。それからグッと拳を握り込んで、顔を上げる。
「とっとと位置につきやがれ!」
 怒鳴り声はさく也の耳にストレートに届いた。全身で、友人の為に怒っている。確かに怒りの声であるのに、不思議と嫌な感じを、さく也は受けなかった。だから自然に足が自分の立ち位置(ポジション)へと動いた。



 
 音は周りを黙らせる。
 調律師・加納悦嗣のピアノは、決して完璧な出来とは言えなかった。ミスタッチも多く、ダイナミクスやアーティキュレーションの感じ方も合わない。ただそれらを補って余りあるものが、彼のピアノからは感じられた。
 四楽章を通して一度も、加納悦嗣は止まらなかった。ミスタッチをミスタッチと感じる暇を与えない。四つの弦のどの音を聴くことにより、現段階で最良の音楽を創り出せるかを瞬時に判断しているようだった。そして彼が追った音は、第一ヴァイオリンの――つまりさく也の音であるらしく、遅れることなくついて来た。
 さく也もまた、彼の音を聴く。
 英介とのやり取りから、今回の代役の件を彼が承知していないことが知れた。ここに呼ばれたのも調律の仕事だと思っていたのだろう。寝耳の水の状態で、怒りに任せて座ったピアノである。それなのに、彼の音は他を邪魔することなく、旋律の中を泳ぎ、調和した。
 ブラームスのメランコリックで情感豊かな音楽が、部屋中を満たす。多少の荒さは仕方がないとしても、彼の実力を見るには十分な出来だった。
 終わってみれば平常心でいられなかったのはウィーン組、正しくは彼の演奏に全く期待していなかったヴィオラと第二ヴァイオリンで、予想以上に鳴るピアノにしばしば圧倒された。どんな演奏をするのかとの興味から聴き入ってしまったこともあるが、音は精彩を欠き、足を引っ張った印象が残る。
 弾き終わると加納悦嗣は、商売道具を抱えてまっすぐドアに向かった。ロビーで待つように言った英介の声が聞こえたかどうか。振り返りもせず出て行く彼の後姿を見送りながら、残された四人は部屋の隅の机に集まった。
「どう、あいつ?」
 英介は一人一人に感想を聞く。ウィルは「悪くない」と答え、ミハイルは第一ヴァイオリンとの相性の良さを口にした。そしてさく也は、
「何でもいい。人前で弾けるなら誰だって」
と答える。
「サクヤはあのタッチ、好みだろ? 途中で止めなかったじゃん?」
 ミハイルは探るように言った。しかしさく也は反応しない。ミハイルは肩を竦めて、英介に向かって続けた。
「それにしても驚きだね。何? 彼、演奏活動だけじゃ食えないから、調律師をやってんの?」
「調律師が本職だよ。ピアノは趣味。ずっとピアノ畑で来たんだけど、演奏家の道には進まなかったんだ」
「己の限界を早々に悟ったってわけだ。賢明だな」
 ウィルが口を挟むと、英介は首を振った。
「違う、彼は逃げただけさ。悟るも何も、向き合ってさえいない。今回の件はね、良いチャンスだと思っているんだ。俺はエツを表舞台に引きずり出したい。あいつの才能を、あいつ自身に認めさせたいんだ。だから絶対、弾かせる」
 常に柔らかい物腰の英介には珍しく、ウィルとミハイルがたじろぐほど真剣な眼差しだった。さく也も彼を見た。三人の様子に「らしくない」と英介は自分でも思ったのか、すぐに口元の力が抜ける――「ま、そう言うことさ」と付け加えた時には、いつもの彼に戻っていた。
「練習させとけよ、俺達の足を引っ張らないようにな」
 最初にあれほど食ってかかったウィルは皮肉混じりに言ったものの、一緒にステージに乗ることを拒否しなかった。それを聞いた英介は不敵に笑って、加納悦嗣の後を追って部屋を出た。
「嬉しそうな顔しちゃって。僕達が反対したところで、エースケは彼を外さなかったんだぜ、きっと」
 ミハイルの意見にウィルは頷いた。二人は先ほどの演奏について話始めたが、さく也はそれに加わることなく、ブラームスの楽譜に手を伸ばした。
 譜面から音楽が蘇る。
 喧嘩腰とも言える演奏――と言って耳障りな荒さでは無く、音は冷静だった。繊細なタッチの片鱗をも見せる。もし完璧な状態であったとしたら、せめてもう少し練習した状態であったなら、あのピアノはどれほど歌うのだろうか? 
 部屋の中央に、先ほどまで加納悦嗣が座っていたグランドピアノがある。彼の奏でた音が、まだそこここに残っているように、さく也には感じられた。
「あれは、誰だ…?」
 さく也の無意識の呟きは、誰の耳にも拾われることなく、空間に吸い込まれた。





Overtura
(オヴェルトゥーラ)=歌劇などの序曲(伊)。

                                          
end.
 

                                     2007.10.26



top