たまに早く目が覚めると、悦嗣はジョギングに出るようにしている。屋内での仕事を生業としているので、どうしても運動不足になりがちだった。太る体質ではないにしろ、中年の域に差し掛かりつつある身の上としては、新陳代謝の衰えは気になるところなのだ。本当は毎日、続けるのが理想だが、起床の辛さだけは未だ『育ち盛り』を脱し得ない悦嗣だったから、せめて早起きした時くらいは…なのである。
戻って冷蔵庫を開けると、お目当ての冷たい牛乳は、ほとんど空の状態だった。
「やっぱりコンビニに寄れば良かった」
悦嗣が独りごちた時、背後で物音がした。振り返ると居間の入り口にさく也が立っていた。目が半分しか開いていない。
「まだ早いぞ」
時計はようやく七時を指したところだった。昨夜は録り溜めたDVDを観るのに、二人で夜更かしをした。睡眠時間は充分に摂るタイプのさく也は、寝足りないに違いない。
「今からジョギング?」
「いや、帰ってきたとこ。でも牛乳が切れたから、コンビニに行こうかと思って」
「俺も行く。着替えてくるから」
さく也はそう言うと、踵を返した。悦嗣は「すぐ戻ってくる」とフラフラした背中に言ってみるが、答えはなかった。
さく也が帰国したのは三日前だ。まとまったオフが取れたのは半年ぶりである。一昨年、モスクワの国際コンクールを獲った後、彼のヨーロッパでの人気は高まる一方で、演奏のオファーが切れない。名だたる国際コンクールを総なめにしたさく也の有名は、以前から知られてはいたのだが、普段はウィーンのオーケストラの一員で、ソロの活動はほとんどなかった。それがモスクワを機にオーケストラを退団。日本に戻って本格的なソロ活動を始めた途端に、ヨーロッパからの演奏依頼が殺到したのである。「日本を拠点に」とのさく也の思惑は外れて、一年の半分は欧州生活を余儀なくされていた。オーケストラに所属していた頃と状況は変わりがなく、そのせいか帰国すると、なるべく悦嗣と一緒の時間を取りたがった。依頼を受けた以上、どんなに多忙なスケジュールでも愚痴を零さない彼の、唯一、オフの時に見せるわがままな表情だ。悦嗣に拒めるわけがない。それに「何でも聞いてやりたくなる」は、さく也の不思議な魅力の一つでもある。
コンビニはマンションからすぐのところにあった。その短い道のりでさく也も覚醒したようで、店に着くと色々なものに目を止めた。
「さく也?」
悦嗣が目的の牛乳パックを二本持ってレジに向かうと、さく也の姿は入り口近くのワゴンに移動していた。ワゴンには季節物の売り尽くし商品が乗せられ、彼が物珍しげに見ているのは花火のバラエティー・セットだ。
「ああ、花火か。もう夏も終わりだからな」
「やってみたい」
「俺達のとこはマンションだから、出来ないぞ? 近くの公園も花火禁止だし」
ワゴンにあるのは売れ残り品だけあって、おとなしめの手持ち花火のセットだった。それでも、禁止の対象には違いない。
さく也はしばらく名残惜しそうに見つめていたが、悦嗣が支払いを済ませて戻ると、あきらめて横に並んだ。
悦嗣の母・律子から電話が入ったのはその午後。さく也が帰国していることを聞きつけたらしく、連れて来いというものだった。
二人が恋人同士であることは、さすがに両親や兄弟は知らない。一緒に暮らしていることも、友人同士のルームシェア程度にしか思っていないのだ。
律子はさく也が日本に身寄りが無い――と思われている――ことを不憫がり、帰国の都度に家庭的な雰囲気を味あわせたがる。彼女にとって、新しく息子が一人増えた感覚なのだろう。さく也も律子のそんな心遣いを好ましく思っているのか、嫌がらずに呼び出しに応じた。音楽教室の生徒の前で模範演奏をすることもあったし、悦嗣が仕事で忙しい時には、荷物持ちとして買い物に付き合うこともあった。
「五目寿司するから食べに来いって言ってるけど、どうする?」
さく也が実母から虐待を受けていたらしいことは、悦嗣は彼の弟のりく也からそれとなく聞いている。感情の起伏が乏しいのは、その生い立ちに由来しているのだと。律子にそれを話したことはないが、『母親』の立場から感じ取っているのかも知れない。だからさく也が戻った時は、彼女なりに家庭的なものを作るように心がけていることが、悦嗣にはわかった。
「行く。律子さんの五目寿司、食べたい」
「味は保障出来ないぞ?」
律子は料理上手とは言えなかった。
「律子さんの作るものは、いつも美味しいよ」
「不味い時は正直に言っていいからな」
悦嗣の言葉に、さく也が笑う。受話器の向うで律子が「聞こえたわよ」と言った。
律子の五目寿司は、甘味が勝っているものの、それなりには美味く出来ていた。「それなり」と言う加納家の男共――夫の智成と悦嗣の評価に、律子は少々不満げだったが、さく也の「美味しい」の一言で機嫌はすぐに直った。
夕食の後、悦嗣とさく也は智成の晩酌に付き合う。アルコールが入るので、泊まって行くのがいつものパターンだ。
「エツ兄、どこー?」
残業で遅くなった夏希が、賑やかに帰ってきた。縁側で涼んでいる悦嗣とさく也の姿を見つけると、コンビニの袋を差し出した。中には花火のセットが入っている。
「はい、買って来たよん。早速、やろうよ。花火なんて、久しぶりー」
「先に着替えてらっしゃい。スーツが火薬くさくなるじゃないの。ごはんは?」
縁側にはつきものの、スイカのスライスを手にした律子が窘める。
「食ってきた。始めないで待っててね、エツ兄!」
夏希はバタバタと足音を立てながら、自分の部屋へと向かう。
「『食ってきた』だなんて。あれがもうすぐ結婚しようかって娘の、使う言葉かしらね」
律子は嘆息した。悦嗣は苦笑で返す。
さく也は夏希が持ってきた袋の中を覗き見て、次に悦嗣を見る。
「花火?」
「今朝、やりたいって言ってただろう? ここは一戸建てだから、遠慮なく出来る」
悦嗣は花火を取り出した。夏希はちゃんと心得ていて、家庭で気軽に楽しめるものを購入していた。今朝、さく也がコンビニで見ていたものと同じような、手持ち花火のセットである。律子にバケツを頼んで準備万端だ。
「…花火、初めてだ」
一本を手に取って、さく也が嬉しそうに呟く。
「そっか」
悦嗣はポケットからライターを取り出し、彼が持つ花火に火を点けた。
「ナツキが待ってろって言っていたけど?」
「いいんだよ。あいつはおまけなんだから」
勢いよく火が散った。悦嗣も一本手にして、その火を移す。さく也のものは青く、悦嗣のそれは黄色に光を散らした。
「手、気をつけろよ」
「大丈夫」
「あ、ほら、端、持って。斜め下向けろ、下」
アルコールが入っていることもあって、さく也は子供のようだった。人にこそ向けないが、花火が残す光跡が面白いらしく、夜空に翳してみたり、指揮棒に見立てて振り回したりする。火の粉が不規則に散ってそれはそれで美しいのだが、火傷でも負わせたら、音楽ファンからどれだけ悦嗣が恨まれるか知れない。
「ひっどーい、待っててって言ったのに!」
二人が二本目に火を点けようとした時、夏希が着替えを終えて戻って来た。帰宅時同様に落ち着きのない足音を立てるので、居間から律子の注意する声が飛ぶ。夏希はぺロっと舌を出して、庭に下りた。反省の色のない妹の頭を、悦嗣が軽く小突く。
悦嗣は二本目が消えると縁側に座り、『子供』二人が無邪気にはしゃぐ様子を見ていた――夏希に比べたら、さく也などまだまだおとなしい。それでも派手な噴出し花火に、珍しく声を上げたりもした。そんな彼を見る悦嗣の口元は、自然に綻ぶ。
何気なく振り返ったさく也と目が合った。花火が彼の微かな笑みを照らし出す。
「余所見すると、危ないぞ。ちゃんと前を見てろ」
悦嗣は花火を指差した。さく也の意識は花火に戻る。子供に対するような悦嗣の物言いは、多少の照れ隠しも否めなかったが、彼は気づく風でもなかった。
先のさく也の笑顔に悦嗣が思わず見惚れたことは、だから秘密だ。
悦嗣が風呂から上がって客間に入ると、敷かれた布団の上にさく也が転がっていた。朝が早かったのと、晩酌と、入浴の程よい疲れが眠気を誘ったのだろう。心持ち開いた唇から、静かな寝息が漏れていた。
タオルケットをかけてやる。うっすら片目が開いたが反射的なもので、すぐに閉じられた。ただ手が、隣にいるべき人間を探してか、シーツの上を滑った。悦嗣はその手を取って、一度、柔らかく握るとケットの中に入れた。
九月には、さく也はまたヨーロッパだ。次に戻るのは十月。夏希の結婚式に出席するためだが、それ以後はクリスマスとニューイヤー・シーズンに入るため、年明けまでスケジュールが詰まっていた。悦嗣も演奏会シーズンで、本業の調律の仕事と、所属する市民オーケストラの活動で忙しい。それに音楽教室の受験コースを受け持っているので、春まで何かと時間を取られ、さく也を優先することが難しくなる。
――ディズニー・シーに行きたいって言ってたな
さく也の右目のほくろに触れたいのを抑え、しばらくその寝顔を見つめた後、悦嗣は部屋の灯りを落とした。
end (2007.08.20)
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