鈍色〜Nibiiro〜 [ 暗 示 ]





 季節は梅雨に入り、すっきりと晴れる日は続かない。曇天の空は今しも泣き出しそうだった。




 ノーブルウィング日本支社の専務秘書・森澤馨の仕事は、その日のスケジュールの確認で始まる。新たなアポイントメントの有無やキャンセルをメールと電話メモでチェック。変更があれば調整、予定通りの件に関しては、先方のプロフィールや会合の内容に目を通し、必要と思われる相手には、カンニング・ペーパーを作成した。それは専務用で、移動の車中などで簡単に目を通せるメモ書き程度のものだ。
 森澤が担当するデイビット・エヴァンスは仕事に精力的だった。週単位で見れば少なくない人数と接触する。いちいち『彼ら』を覚えておくことは不可能に近いくらいだったが、彼は誰と会っても――特に一度でも面識のある相手に対して――優位に立てるように、最小限の情報は頭に入れておくことを望んだ。メモはそれに応えるためのものだった。
 些細なスケジュールの調整や他の仕事をこなしつつ、エヴァンスが出勤するまでの間にメモをタイプする。寸暇に目を通すため、「簡潔、且つ、的確」が要求された。その点で森澤は今まで、エヴァンスからクレームを受けたことがない。
 一番目の予定から順調に進められていた作業は、最後のアポイントメントのところで止まった。
『十九時 篁エレクトロニクスとの会食 彩月亭』
 森澤は周りにそれとは悟られないように溜息をつく。この予定にこそ、変更の連絡があって欲しかったのに。
 篁エレクトロニクスは、一年前に新しい専務取締役が就任した。名は篁亜朗(たかむら・あろう)と言い、篁エレクトロニクスが属する巨大グループ企業『タカムラ』創業者の曾孫にあたる。まだ四十にも満たないにも関わらず、序列も経験も飛ばして彼がその地位に着いた時は、よくある親族待遇故の人事だと噂された。しかし某レセプション・パーティーで彼を紹介されたエヴァンスは帰りの車中で、
「カオル、創業者一族だから今の地位につけただなどと思って、彼を侮ってはいけないよ。あれはなかなかの傑物だ。下手に接すると、噛み砕かれるかも知れない」
と挨拶を交わした程度の相手を、珍しく警戒した。それが賛辞に値する言葉だと森澤にはすぐにわかった。
 エヴァンスが見込んだ通り、篁亜朗はメキメキと頭角を現す。篁エレクトロニクスの中では比較的弱い部門であったバイオ・テクノロジーに力を入れ、歯牙にもかけなかったノーブルウィングが、対等の条件で共同研究プロジェクトを申し出るまでに至ったのは、彼の手腕によるところが大きい。
 その篁亜朗との会食が今夜に予定されているのだが、実のところ森澤は彼が苦手だった。
 



 森澤が彼と会うのは今回で四度目だ。
 最初の出会いは件のレセプション・パーティーの折。専務就任間もない篁が、顔見世のために出席していたことは周知で、彼が次々と挨拶する中にエヴァンスも入っていた。たかが秘書の森澤とは当然会話などない。ただ挨拶もそこそこに次へと回って行った彼と、妙に何度も目が合った。そして森澤が逸らすまで、彼からの視線は外れなかった。
――不躾な奴だ。
と思ったことを覚えている。
 二度目はその半年後。篁エレクトロニクスが研究中のバイオ関連の実験データが注目され、ノーブルウィングが共同研究を条件に資金援助する話が持ち上がった。その契約交渉を前提とする一回目の会合がノーブルウィング日本支社で行われ、先方の代表としてやってきたのが篁だった。
 『美丈夫』と言う形容が似合う彼は、たちまち衆目――主に女子社員の――を集める。秘書課の女子も同じくで、会合に同席する室長の豊田や森澤を羨ましがった。
「美人は森澤で見慣れているだろうに。それに秘書課は、イケメン揃いで有名だぞ」
 何かと用事を作っては特設ラウンジに様子を見に行こうとする連中を見て、豊田が苦笑する。休憩時間、会議の主役達は特設ラウンジに移動し、秘書連中も後半の指示を受けた後、それぞれ休憩を取っていた。
「美人は三日で飽きると言いますからね」
「何だ、『美人』だと言う自覚ありなのか?」
「室長の言葉を引用したまでです。『美人』と言われても嬉しくないですよ」
「なぜだ?」
「金髪美女は馬鹿だと相場が決まっていますから」
「いつの時代の話だ。それに森澤はブロンドじゃないだろう?」
 森澤の言葉を聞いて、豊田は吹き出した。
「一般的にそう言うイメージがあるってことです」
「五ヶ国語を操る秘書課のホープを、そう言う風に思う人間はいないさ。最近の天は、一人に二物も三物も与えるそうだから」
 豊田は軽く二、三度、森澤の背中を叩いた。ちょうどその時、彼が担当する支社長から呼び出しがかかり、慌しくその場から離れて行った。
 森澤は豊田の姿を見送る。背中には、彼の手の感触が残っていた。
 しばらくぼんやりと豊田が去った方向を見ていた森澤だが、会議が再開する前に秘書課で所用を済ませることを思い出し、反対方向に踵を返した、少し緩んだ口元のまま。その時――視線の先、喫煙スペースに篁亜朗を見つけた。
 いったい、いつからそこにいるのだろうか。出席者はみな、特設のラウンジで休憩を取っているはずだ。喫煙も出来るようになっているから、わざわざここまで出てくる必要などない。
 篁はやはり初対面の時と同様、一度合った目を逸らすことはなかった。森澤は口元を引き締め、歩速を早めて彼の傍を通り過ぎようとする。
 すれ違い様、頭を下げる森澤の耳に、低く印象的な声が滑り込んだ。
「なるほど」
 森澤の足は止まる。それは躓きとも取れる程の一瞬で、辛うじて振り返りはしなかった。そうしてそのまま、秘書課のエリアに足を進める。
 背中に豊田の手の感触はすでになく、代わって篁の視線が残った。
――何なんだ、いったい…
 三度目は、ノーブルウィングと篁エレクトロニクス双方の利害が無事一致し、正式にプロジェクト発足したことを祝う会食の席だった。森澤にとって思い出したくもない一日だ。
「その気(け)がないヤツに惚れても、虚しいだけだぞ?」
 レストルームで鉢合わせた篁は、開口一番、森澤にそう言った。
「何の話です?」
 彼と面と向かって話すのは初めてだった。プロフィールには載っていないが、エキゾチックな顔立ちが、森澤同様、外国の血が混じっていることをうかがわせる。
「確か豊田とか言ったな? あれは決して、君の想いに応えることはない。気づくこともないだろうよ」
 森澤の片眉がピクリと上がる。ポーカーフェイスは秘書の鉄則の一つだった。仕事上においてそれを貫くことには自信のある森澤だが、プライベートの、それも内面を見透かす思いもよらない篁の言葉には、さすがに反応を見せてしまった。
「仰る意味がわかりかねますが? 失礼、仕事に戻りますので」
 ここはさっさと切り上げて、席に戻るのが得策だと森澤は考えた。篁の横をすり抜け、ドアに向かおうとした時、彼の手が森澤の腕を掴む。振り払うより先に引き寄せられ、至近距離に彼の顔があった。
「あの男はやめておけ。報われない恋をしてどうする? 似合わないぞ」
「離してください」
「俺なら、君を満たしてやれる」
 息がかかるほどの耳元でそう囁かれ、森澤の理性は限界点に達した。
「離せよっ!」
 篁の腕を渾身の力で振り払う。自由になったその手が、篁の左頬を打った。これは不可抗力で、彼の手から外れた弾みでそうなったに他ならないが、取引先の相手を引っ叩いたことにはかわりない。森澤は謝らなかった。大事になったとしても、逆にセクハラを盾にするつもりでいた。
 篁は怒るでもなく、ニヤリと笑った。そして少し曲がったネクタイを直すと、「お先に」とまるで何事もなかったかのように涼しく言い残し、レストルームを出て行った。
 彼が出た後に柔らかな音でドアが閉まると、森澤の膝は諤々とわらった。




 あれから三ヶ月近くが過ぎ、幸いなことに森澤が篁と直接会う機会はなかった。エヴァンスはなぜか彼を気に入っていて、時々、ホームパーティーに呼んだりもしているようだが、プライベートと言うこともあり、森澤は用事を作っては同席を避けてきた。
 しかし仕事ともなると別だ。篁とのそれよりも優先する新たなアポイントメントはなく、今の段階では予定通りに会食が行われる。
「手が止まっているぞ、森澤」 
 豊田が出勤してきた。彼にしては少し遅い出なのは、一仕事終えてきたからだろう。翌週の頭から支社長が本社のアメリカに出向く。彼はそれに同行するため、ここのところ準備と調整に追われていた。
「すみません。昨日、遅かったもので」
「だったらコーヒーに付き合わないか?」
「ああ…いえ、そろそろ専務が来られる時間ですから。これを仕上げてしまいます」
「そうか。じゃあ、後で時間を取ってくれ。留守の間のことを詰めておきたいから」
「わかりました」
 森澤は室長の豊田渉を尊敬していた。秘書課に配属されて間もない頃から彼は森澤を目にかけ、新人には分不相応の場にも、同行させた。森澤が五ヶ国語に堪能なこともあっての重用だったろうが、同期の中でいち早く単独で専務付きとなったのも、豊田の仕事ぶりを間近で見て学ぶ機会が多かったからだ。森澤が「秘書課のホープ」と誉めそやされるのは、彼あってのことだと思っている。
 尊敬していた――今も尊敬している。ただ、豊田に対してそればかりではない感情があることを、森澤は最近、自覚し始めた。
 何とも言い知れぬ感情だ。
 

『あの男はやめておけ。報われない恋をしてどうする? 似合わないぞ』


 自分ですら計りかねているその感情を、勝手に『恋』と名付けて欲しくはなかった。篁から言われて以後、なぜか霧が晴れたようにすっきりしたことは確かだが、認めてしまうにはまだ抵抗があった。
 メモを打つ手は、頭の中で響く声の記憶に再び止まる。エヴァンスは篁を評価しつつも、警戒を緩めない。篁はカンニング・ペーパーが必要な、記憶に薄いその他大勢の一人ではなかった。そう言う相手の一挙手一投足、一言一句を、エヴァンスは完璧に覚えている。無駄なことに時間と労力を使う必要はない。
 森澤は篁亜朗に関するメモを破棄し、それ以外をプリント・アウトした。
「専務がお見えになりました」
 受付が内線でエヴァンスの出社を知らせてきた。森澤は準備した今日の書類を手にする。
 窓の外に目をやると、空は相変わらず曇っていた。自分の心を映しているかのようだ。夜までに重苦しい気持ちを払拭しておかなければ、あの男に付け入る隙を与えかねない。


『下手に接すると、噛み砕かれるかも知れない』


――わかってる。
 森澤は唇をキュッと引き結び、エヴァンスのオフィスに向かった。






                           <end>2008.05.18

 
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