ノーブルウィング社専務のデイヴィッド・エヴァンスには、現在、三人のお気に入りがいる。
一人目は日本支社の秘書課室長・豊田渉。二年前にエヴァンスが専務として、ノーブルウィング日本支社に赴任した時からの付き合いだ。猫のようにしなやかで、決してプライベートを見せないミステリアスなところがエヴァンスを惹きつける。朝陽を共に見ることなく過ごす夜の、その甘えのないドライな関係も、情事の相手として申し分なかった。
二人目はエヴァンス付き秘書の森澤馨。入社二年目にして豊田の推薦を受け専務付きとなっただけあり、非常に有能で、これまでの二年、エヴァンスを失望させたことがない。それに外国の血が入った美貌を持ち、エヴァンスの目を楽しませてくれている。ただ、愛おしくは思うのだが、自分の子供に等しい若さゆえ、如何せん父性的な見方を否めず、本格的に口説く気にはならなかった。
そして三人目は篁亜朗。取引先の篁エレクトロニクス取締役専務である。弱冠三十七才にして、日本有数のグループ企業の一翼――それも弱いと言われた部門を担い、二年足らずで世界的な総合商社のノーブルウィングと技術提携するに至らしめた。その辣腕ぶりもさることながら、醸し出す鋭利な雰囲気がエヴァンスには魅力的だった。たとえエヴァンスの『誘い』に応じた彼の条件が、ギブ・アンド・テイク的なものであっても、笑って許してしまえるほどに。
目下の所、この三人目の篁亜朗が、エヴァンスの一番のお気に入りである。
ブランケットからは頭の先が辛うじて見えた。
「アロウ、朝だよ」
エヴァンスは耳の辺りまでそれを引き下げ、自慢の低音で囁きかける。今までの『恋人』は、うっとりとした表情で目を開けた。しかし彼、篁亜朗にはまったく効果がない。一度目はピクリとも動かず、二度目は煩わしげにブランケットを元の位置まで引き上げた。三度目は片方の目を開ける程度。四度目か五度目でようやく「ふ〜ん」と大きく伸びをして、抗議の視線をエヴァンスに寄越した。毎回、これの繰り返しで、覚醒するまでに三十分は優にかかる。
初めて二人で朝を迎えた時は、彼の身体に負担がかかっているせいかとエヴァンスは思った。だから次からは、極力、優しく、時間をかけて扱ったのだが、寝起きは変わらず最悪だった。
「…何時?」
「八時を回ったところだ。そろそろ起きないと、朝食を食べ損ねてしまうぞ」
「要らない。シャワーを浴びて、一度、帰る」
まだ意識がはっきりしない様子で、篁は半身を起こした。食欲よりも眠気が勝ると言ったところか。
「ダメだよ。朝はちゃんと取らないと、頭がフル稼働しない。一口でも食べなさい。ほうれん草のキッシュは好きだろう?」
そう言うとエヴァンスは、あらかじめベッドの脇まで引き寄せておいたワゴンから、朝食の乗ったトレーを取った。篁に座るように促し、トレーをベッドの上に置く。ポットのコーヒーをカップに注ぐと、淹れたての香りが部屋中に広がった。
もしこの光景を第三者が見たなら、さぞかし奇異に映るだろう。巨大外資系企業の専務が、格下を相手にしているとは思えない甲斐甲斐しさだ。
泊まるのはホテルのジュニア・スイート以上、朝食はルームサービス。篁との逢瀬ではこれが当たり前となっていた。彼が望んだわけではなく、エヴァンスがそうしたいからしている。月に数度もない彼とのひと時を、優雅に贅沢に過ごすために。篁はそんなエヴァンスの甘やかしに、気後れすることも、また嫌味もなく応えたが、但しそれはあくまでギブ・アンド・テイクの一環でしかない。二人の関係は、ビジネスの上に成立していたからだった。
破格の若さでビジネス界のトップエリアにデビューした篁亜朗は、手腕だけではままならないものを感じていた。資本主義とテクノロジーで培われたビジネスライクな世界であっても、人と人との繋がりは不可欠だった。面識があるのと無いのとでは、戦略も対処法も、そして何よりもスタートラインが変わってくる。周りと親子ほども年が離れ、親族待遇故の昇進だと取られかねない篁には、まず顔を売ることが急務だった。
『私はこの業界では青二才だ。まだまだ顔を売らなければなりません。そのためには様々な場所に、まず出なければ始まらない。あなたは機会を作ってくださればいいのです』
『それなら私は、君のメリット足り得る存在になれそうだ。どうだね? 商談は成立するだろうか?』
ノーブルウィングが日本に支社を置いて、まだ歴史は浅かった。しかしすでにビジネス界では、小さくない影響力を見せている。そして世界各地に支社を持ち、あらゆる分野に枝葉を広げるその総合商社は、篁にとって得がたい存在だったに違いない。
片やエヴァンスはと言えば、初めて挨拶を受けた時から篁に興味を持った。同族係累によって昇進した若い役員にありがちなひ弱さがなく、かと言って野心家然とした下品さも感じられず、バランスの取れた不思議な魅力にいつしか目が離せなくなっていた。ビジネスパートナーとしての彼の技量を見極めたいと思う一方で、プライベートでの顔も知りたいと思うようになる。
愛でる花を欲したエヴァンスと、いずれ生るであろう実を望んだ篁。二人の関係はそんな思惑から始まったのである。
「アロウ、クリスマス休暇の予定はどうなっているね?」
「クリスマス? また、先の話ですね?」
「クリスマスは毎年同じ日にやってくる」
「さすがキリスト教圏の会社だ、うらやましい」
朝食の一口ごとに覚醒が進むのか、篁の口調はビジネス・モードに徐々にシフトする。
こうして何度か時間を共有するたびに、エヴァンスは彼の様々な表情を知った。部屋に入る前にバーで過ごす時間での彼は隙がなく、洗練された大人の会話を楽しむことが出来た。情事の最中は、まるで妖艶な高級娼婦と言った風情。エヴァンスの腕に身を委ね、心地よい疲労を求めて躊躇無く身体を開く。そして寝起きの悪い朝の彼は、いつまでもベッドの中でグズる様子が少年のようで瑞々しかった。普段は完璧な発音の篁が、フランス訛りでふにゃふにゃと答えるのもチャーミングだ。エヴァンスは朝の篁を見るのが、実は一番楽しかった。
強気で抜け目のない印象が勝っている篁の、思わぬ一面を見るたびに、エヴァンスの中にビジネスだけでは割り切れない不思議な感情が芽生える。
もっと彼を知りたい…と。
「ニューヨークで過ごそうと思っている。二週間、ゆっくりするつもりだ。君も一緒にどうかと思ってね」
「今の段階では何ともお答え出来ません。第一に、そんなに長く日本を空けられない。第二に、それだけの時間、拘束される私のメリットは何ですか?」
コーヒーの最後の一口を飲み干した篁には、もう『少年』の欠片は残っていなかった。
「メリット…ね」
「言ったでしょう? 私は安くはないと」
事も無げに答える篁に、エヴァンスは肩を竦めて見せた。
その時、サイドテーブルの篁の携帯電話が鳴った。「失礼」と断りを入れて彼が電話を取る。日本語での会話が始まった。すっかり仕事の顔に戻っている。相手は彼の秘書だと推察出来た。
「三十分後に出るので、シャワーを先に使います」
電話を切ると、篁はベッドから下りた。裸身を惜しげもなくさらして、バスルームへ踏み出す。
「一緒に入っても構わないかね?」
彫像のような後姿にエヴァンスが問いかけると、彼は振り返り、ニヤリと笑った。
「それはご遠慮願いたいな。あなたと一緒だと、三十分後に出られなくなりそうだから」
そう言い放つと、篁は止めた足を進め、バスルームへと消えた。確かに、ただ一緒にシャワーを使うだけでは済まないかも知れない。それに関してエヴァンスには『前科』があった。この関係が始まった最初の朝のことだ。二人とも、予定の出社時間に間に合わなかった。
思い出し笑いを口元に浮かべながら、エヴァンスは二杯目のコーヒーをカップに注ぐ。
「あの花は、何と言ったかな?」
花弁に乗せた朝露が乾く前に凋んでしまうその青い花は、Morning Glory=朝の栄光と呼ばれるほどに印象深いにもかかわらず、清楚で手折ることを躊躇わせる。そっと触れて、その柔らかさを指先に感じるだけに留めたい――あの花は、覚醒する前の篁に似ている。彼の限りなく黒に近い青い瞳は、うっすらと開く一瞬、微かな光を吸って青みを増した。朝にしか見られない色だ。
篁がくるまっていたブランケットの端を手に取ると、エヴァンスは愛おしげに口付けた。
<end>2008.09.26
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