空の高いところ、雲の切れ間から姿を現した蒼白い満月は、つい先ほどまで降っていた雨に洗われたかのように、皓々と光を放っていた。
「ふふ…」
車の窓を開けて、その月を見上げた篁亜朗は、思わず笑い声を漏らした。車内は狭い。声は隣に座る秘書の近森理沙の耳にも届いたらしく、彼女は篁を見る。
「どうかなさいました?」
篁は横目で彼女を一瞥すると、
「思い出し笑いさ」
と答えて、また月に目を戻した。
窓から入る風は篁の髪のみならず、美しくセットされた近森のそれまで容赦なく揺らす。抗議めいた彼女の視線を感じたが無視した。今日の予定は全て終わり、このまま直帰だ。髪の乱れなど気にすることはないだろう。たとえこの後、彼女にデートの予定があったとしても、篁の関知するところではない。
今夜はノーブルウィング社との会食だった。三ヶ月前にバイオ部門での共同研究プロジェクトが発足され、正式な会食は今回で二度目となる。共同研究とは名目で、ノーブルウィングは篁エレクトロニクスが行っているバイオ関連の研究の有用性に目をつけ、将来的には研究チーム共々、自社に取り込もうとの思惑絡みであることは明らかだった。下手を打つと、吸収されかねない危険なプロジェクトであり、当初、篁以外の役員は慎重論を唱えた。しかし進行中の研究には莫大な費用がかかる。資金繰り如何では途中で頓挫しかねず、そうなれば何のメリットもないままどこかに研究は引き継がれ、手柄を浚われてしまうことが容易く想像出来た。それこそ目もあてられない。
「相手に何らかの思惑があるのなら、それを先に読めばいい」
篁はそう言って慎重派を一蹴した。
駆け引きは嫌いじゃない。むしろ心理戦は望むところだ。創業者一族のお飾り専務として、オフィス内や接待で無駄に時間を過ごすのはまっぴらだと思っていた矢先のノーブルウィングからの申し出は、きっと自分を退屈させないだろうと篁は思った。
対面を張るのは、ノーブルウィングでも切れ者と有名なデイヴィッド・エヴァンス専務。相手にとって不足はない。
――それに別の楽しみも出来たし。
篁の脳裏に、一人の青年が浮かぶ。エヴァンスの秘書の森澤馨の顔だ。濃い栗色の髪と瞳は偽物ではなく、篁同様、どこか外国の血が入っているのか、面立ちもそれを思わせる造りだった。
出会ったのは専務取締役に就任したばかりの篁が、顔を売り込むために出席した某大手メーカーのレセプション・パーティー。森澤馨はエヴァンスに随伴していた。
美形なら見慣れている。男でも女でも、篁の周りは昔から常に華やかだった。そんな篁の興味を引いたのは、彼の目。関心を引こうとする他の連中の媚びたものとは違い、冷静沈着、それでいて挑むような表情が見え隠れする。目の前の人間をさりげなく観察し、見極める目だ。ただスケジュールを読み上げて管理するだけの、お綺麗な秘書とは違うことがわかる。「面白い目だ」との印象が強く残った。
知らず知らずにパーティーが終わるまで、森澤馨の姿を会場内に追う。時々視線が交錯した。篁が目を逸らさずにいると、彼もまた受けてたつ。訝しげな表情から、さぞ不躾な奴だと思ったことだろう。その事が読み取れて妙に可愛らしく、篁の口元に笑みが浮かんだが、それもまた彼には不遜なものに映ったかも知れない。
次に再会した時の彼の目は、恋をしている凡人のそれだった。相手は上司で、ノーブルウィング日本支社長の秘書である。穏やかな物腰で誤魔化されているが、篁には油断ならない男に見えた。森澤馨は彼から仕事のイロハを学んだようだ。存在を殺す点ではまだまだ及ばないが。
上司に対する憧れと尊敬の眼差しか、それとも恋愛感情の一端か。
そんな表情は森澤馨に似合わない。だから三度目に会った時に、篁は彼を牽制しておいた。
「あの男はやめておけ。報われない恋をしてどうする? 似合わないぞ」
「離せよっ!」
篁が掴んだ腕を振り払う。弾みでその手が篁の左頬を打ったが、彼は謝らなかった。一瞬の激昂が、彼の目に生気を取り戻させる。鎧をまとい、臨戦態勢を布き、尚且つ、気取られまいとその熱さを隠す。
――ああ、この目だ。
ニヤリと笑った篁の表情を、彼は何と読んだろうか。何にしても森澤馨の記憶に、特別な存在として篁が刻まれたに違いない。
そして今夜、三ヶ月ぶりに彼と会った。あの時の一件がよほど気に障ったのか、最初に交わした挨拶以外はほとんど口をきかなかった。もちろん会食の相手はエヴァンスであって、一介の秘書が話に加わることはあり得ないし、英語が堪能な篁には通訳も不要だったので――普段は日本語を解さないエヴァンスの通訳も兼ねているらしい――森澤馨はただ後方に控えて、会食を見守るに止まっていた。
秘書としての職務を淡々とこなす彼の様子に篁は話を振ってみたが、当たり障りなく短く答えるだけ。言葉をかける度、微かに反応する片眉に、意識の欠片の見えるのが面白く、篁は何度目かにわざと日本語で話しかけた。
「今夜の予定は? 俺は独り暮らしなんだが?」
盛大に彼の右眉が上がったのは言うまでもない。
その時の表情を思い出すと、自然に篁の口から笑いが漏れるのだった。
「あまりいじめたら、余計に嫌われますわよ?」
近森が髪を押さえながら言った。今夜の席で自分の上司が、必要以上に相手の秘書を構うことに、気づいていた口ぶりだ。
「興味がおありなら、優しくしてあげないと。口説くのはお得意でしょ?」
「簡単になびく尻軽に用はない。それに正攻法は通用しない相手だ、あれは」
森澤馨の心には、今はまだ別の人間が棲んでいる。優しさだけでは、その存在を追い出せない。あの白皙の横顔に、冷たくあしらわれるのが関の山だ。それに優しさで堕ちるような彼なら、きっと篁の興味は引かなかった。
一目ぼれを体感したのは、生まれて初めてだった。
「もしかして、本気で口説くおつもりなんですか?」
と言う近森の意外そうな問いに、篁は月を見上げたままで答えなかった。
月の青白い光は森澤馨に似ている。儚く蒼いと形容されるそれではなく、真夜中の地上に影をも作って見せるほどの強い月光に。
それは彼の瞳のうちにある冷たくも熱い感情を連想させ、知らず知らずに篁の口元を綻ばせた。
駆け引きは嫌いじゃない。心理戦は望むところだ――
<end>2008.06.11
|