――やっぱり来ていないか
二十畳以上あるリビングでは、浴衣姿の男女が談笑していた。篁亜朗は視線を右から左へと流す。案の定、森澤馨の姿はなかった。
外資系総合商社ノーブルウィング社専務のデイヴィッド・エヴァンスは、自宅マンションで時々、ホーム・パーティを開く。親しい友人や知人が各々に酒やつまみ、ちょっとした手料理を持ち寄って、カードゲームに興じたり、雑談を楽しんだりする気の置けない集まりだった。業界内ではそこに招かれることが、取引先としてステイタスが高いとされている。しかし実際には仕事を挟まない完全なプライベート・サロンであり、かつて取引先関係者が呼ばれたことがないために、憶測された噂に過ぎない。
その点で言えば篁亜朗は例外と言える。彼が取締役専務を務める篁エレクトロニクスは、ノーブルウィング社とバイオ関連事業で提携していた。エヴァンスとの接点も個人的にではなく、仕事絡みからスタートしていたからだ。
実しやかに流れる噂は篁の耳にも入っていた。だから初めて声がかかった時、少なからず緊張したのだが、いざその中に入ってみると取引先関係者の姿はなく、会話に仕事の話など一言も出ない。それほど親しいと言うわけでもない自分がなぜ呼ばれるのか、今一つわからない篁ではあったが断る理由もなかったし、いずれは何らかのメリットもあろうかと思い、極力時間を作って出向いていた。
それに、エヴァンスの秘書・森澤馨が来ているかも知れない。他社の人間の姿はなかったが、ノーブルウィング社の人間はチラホラと見られた。森澤馨は秘書として有能であり、エヴァンスも彼を非常に可愛がっている。顔を出してもおかしくないと思うのに、未だに篁はこの席で、彼を見かけたことがなかった。そのことをエヴァンスに尋ねたら、
「声はかけているのだがね。これはプライベートな集まりだし、私は上司だから無理強いはしないようにしているんだ」
と残念そうに答えた。
それでもエヴァンス付きの秘書になった当初は、顔を見せたこともあると聞き、篁は少しばかり期待している。
――青臭いガキか、俺は
篁は自嘲気味に笑った。
「楽しんでいるかね?」
背後で声がして、振り返ると浴衣姿のエヴァンスが立っていた。
今夜のコンセプトは『日本の夏』――二十五階のリビングから花火大会を見ながらの納涼会で、浴衣着用がルールになっていた。もちろん篁も浴衣で出席している。
「ええ、まあ。それにしても、珍しい柄の浴衣ですね?」
エヴァンスの浴衣は珍しいと言うよりもユニークな柄だった。白地に千鳥柄と『多賀ノ湖(たがのうみ)』のロゴ。江戸文字と呼ばれる独特の書体から、相撲界のものだと知れた。
「そうだろう? 春にスモウを見に行った時に、生地をプレゼントされてね。夏のキモノ用だと聞いて、仕立ててもらったんだ」
エヴァンスは得意げに両手を広げた。
よく見ると、数人のゲストもエヴァンスと似た浴衣を身につけている。確か、自前の浴衣がない場合は用意すると聞いていた。この手の浴衣のことだったらしい。篁は浴衣を持っておらず借りるつもりでいたのだが、秘書の近森理沙が手配し、オフにもかかわらずその朝、届けてくれたのである。外国人であるエヴァンスが選ぶ浴衣のセンスを疑問視していた。自分の上司がどんなものを着せられるのかわからないのは嫌だと言う彼女の勘は、当たったというわけだ。
「君もいい浴衣だね? 髪と同じ色で、とてもよく似合っている」
篁の浴衣は黒地に爪痕に似た大きな縦縞柄が、青みがかった濃灰色と漆喰色で染め抜かれている。急遽用意された既製品にしては、篁のために誂えたかのようで、リビングに通された時、ゲストの目が集まった。
「ありがとうございます。秘書が用意してくれたものです」
「ミズ・チカモリはセンスがいい。彼女が私に選んでくれたネクタイの評判も良いよ」
「伝えておきます。きっと喜ぶでしょう」
「おや?」
と、不意にエヴァンスの顔が篁の鼻先に近づいたかと思うと、目を覗き込む。
「何か?」
「君の瞳は変わった色をしているね? 光の加減で青く見える」
「ああ、生粋の日本人じゃないので、目は黒くないんですよ」
「ハーフだとは聞いていたが、目の色が違うことには気がつかなかった。こうしてキスの距離でわかるなんて、なかなかそそるね」
彼は極上の笑みを浮かべた。気障なことを嫌味なく言えるのは、さすが外国人だ。エヴァンスはバイセクシュアルだとの報告を受けている。口説かれているのかどうなのか、ともかく篁は「それはどうも」と短く答えて、そ知らぬ風に受け流した。
しばらくすると感嘆の声が上がり、皆の意識が窓の外に行った。夜空に大輪の光の花が咲いている。花火大会が始まったのだ。部屋の明かりが落とされると、花火は一層鮮やかに闇に映える。
今夜のメイン・イベントが始まり、ゲストはそれぞれに好みのドリンクを手にして、窓の傍に移動した。篁はその輪には入らなかった。花火に興味はない。無駄なお喋りで疲れるのはごめんだった。
篁はホームバーでドリンクを補充すると、そのままカウンターに背をもたせて、そこからでも十分に見える花火に目をやった。
森澤馨もこの花火を、どこかで見ているだろうか? 篁は自分がこんなに我慢強いとは思わなかった。どうも森澤馨相手となると、触手が鈍る。あの清廉潔白な雰囲気がそうさせるのかも知れない。常に冷静を旨としながらも、篁の一言一言にクルクルと変わる彼の表情が面白く、ついついそれを見ることを優先してしまうのだった。これでは好きな相手をいじめてしまう小学生と同じだ。
『生娘』は難しい。真綿で包む様に大切に扱うべきか、強引に全てを奪うべきか。そんなことで迷う自分が、篁にはおかしくてならなかった。
「ミスター」
「うん?」
すっかり別のところに意識が飛んでいた篁を引き戻したのは、いつの間にか腰に回された腕だった。隣にはまるで、一緒に花火を楽しんでいるかの風情でエヴァンスが立っている。
「腰に手を回されるのは、主義ではないのですが?」
夜目にもエヴァンスが微笑んでいるのがわかった。
「ほら、身長が変わらないから、腕を回すのにちょうどいい」
篁の言葉など半ば無視して、彼は耳元で囁きかける。普段の会話でもかなりの美声だが、こうして語尾をぼかす様な話し方をすると、色気が加わった。気のせいではなく、エヴァンスは篁を口説きにかかっている。吐息が耳朶にかかって、今しも唇が触れそうだ。
これぐらいで動揺するほど初心ではない。
「私を口説いているのですか?」
髪を掻き揚げる振りをして、さり気なく『吐息』を払った。
「そうとも言うね。君はとても魅力的だ」
「私は安くないですよ。メリットのない情事はしませんから」
「これはまた、想像しなかった答えだ」
エヴァンスは篁の答えに怯んだのか、腰に回した手を外す。それからカウンターに並べられた中からベルモットの瓶を取ると、新しいグラスに注いだ。グラスは二個。一つは自分の手に、もう一つを篁の前に差し出す。グラスを受け取る篁の指に触れ、
「それで、私は君にとってメリットのない相手だろうか?」
との言葉を添える。今度は篁の方が予想しなかった質問だ。
デイヴィッド・エヴァンスはビジネスにおいて、私情を挟む人間ではない。巧妙、且つ、攻撃的、時に容赦ない経営戦略を身上とする彼は、「NWには銀髪の悪魔がいる」と恐れられている。しかし座右の銘が『Take not a musket to kill a butterfly(蝶を殺すのに銃を持ち出すな)』だけあって、姑息な手段を使わず、常に真っ向勝負だった。色仕掛けなど、到底、通用する相手ではない。
これは、値踏みをされているのではないか? 身体の一つや二つ惜しくはないが、迂闊に彼の言葉を真に受けて答え方を誤れば、ノーブルウィングに切り捨てられるどころか、何が待っているか知れない。
――危ない、危ない
篁は勧められたグラスに口をつける。
「あなたが色仕掛けに左右される人でないことはわかっています。だから機会を与えてくれればいい」
「機会?」
「私はこの業界では青二才だ。まだまだ顔を売らなければなりません。そのためには様々な場所に、まず出なければ始まらない。あなたは『機会』を作ってくださればいいのです」
そう、繋ぎが必要だ。新参者の、四十にもならない会社役員――それも創業者の遠縁――では顔見世も御座なりにされる。また、紹介がなければ出席出来ない会合もあった。
「私に君を売り込めと言うのかね?」
「いいえ、それは自分で出来ます。例えば、盆休み明けの外資系企業の会員制懇親会、あれは紹介さえあれば日本企業の人間も出席出来ると聞いていますが」
「なるほど」
エヴァンスは篁の手からグラスを取り上げてカウンターに置き、目の前に立つ。エヴァンスの肩越しに花火と、それを楽しむ彼の友人達が見えた。再び腕が篁の腰に回される。
「それなら私は、君の『メリット』足り得る存在になれそうだ。どうだね? 商談は成立するだろうか?」
エヴァンスは笑んで篁の身体を引き寄せる。彼が何を期待しているかわかった。
篁は決して華奢と言うほどではない。それでも、欧米人と比べると細身の部類に入るだろう。専務に就任して篁エレクトロニクスを担う一人となってからと言うもの、多忙な日々が続き、体重も減ったから尚更にそう見える。エヴァンスと身長はさして変わらないが体格的には差があり、彼の影に隠れてしまうほどだった。その上、他のゲストは花火に夢中で、誰もこちらに気を止めないでいる。
「ええ」
「では契約を」
近づく唇から漏れる吐息は、先ほど口にしたベルモットの、花にも似た香りがする。
唇が重なった時、篁は彼の首に片腕をかけ、その口づけを受け入れた。
身体ぐらいどうってことはない。篁が高みを目指すのに、エヴァンスの人脈は魅力的だった。
長い、長いキス。
エヴァンスの舌は、思わせぶりに触れては離れる篁のそれを追いながら、口腔内を余すところ無く愛撫した。
『気』を浚われる感覚が篁を襲う。と言うよりも、呼吸さえも絡めとろうとするかのような激しいキスに、酸欠になりかけたと言う方が正しい。まるで色気のない表現だが、篁にとってこのキスは契約のそれ以外の何ものでもなかった。
キスで刺激され高揚したのか、篁に回されたエヴァンスの手が腰から尾骨へ、そして更にそろりと撫で下がる。篁は空いている片方の手で、彼の手の甲を抓った。エヴァンスが小さく声を上げ、動きは止まった。
ようやく唇も離れ、エヴァンスは篁の瞳を覗き込む。
「君の瞳の色は、夜の色に溶ける青だね。闇の色だ。表情も思惑も隠れてしまう」
黒でも、青でも、緑でも、これほど暗ければ闇に溶けるだろうに、まったく、欧米人は変にロマンティストだ――篁の口の端に思わず笑みが浮かぶ。それをどう解釈したのか、エヴァンスは篁の笑みを舌先で掬い取った。
「おーい、デイヴ、そんなところで飲んでばかりいないで、メイン・イベントを楽しんだらどうだ?」
「そうよ、終わってしまうわよ?」
窓の傍で花火を見ている友人達が、エヴァンスに声をかける。彼は振り返って「わかったよ」と手を上げた。エヴァンスは人気者だ。本人が意識しているわけではないのに、自然と人の輪の中心となっている。そんな彼をひと時でも独占するのは、悪い気はしない。
「君は見ないのかね、アロウ?」
「ここで十分。それに美味い酒の方が楽しいですから」
名残惜しげに篁の腰から腕を外して、エヴァンスは窓辺に向かう。篁はその後ろ姿を見送りながら、彼が最後に触れた口の端を手の甲で軽く拭い、飲みかけのグラスを呷った。
エヴァンスとのギブ・アンド・テイクな関係は、きっと篁の損にはならないだろう。自分の身体が、女性相手でなくても『使いよう』のあることがわかったことも収穫だ。後腐れのない情事は、いいストレス解消にもなる。
それに――エヴァンスと公の場で会う機会が増えれば、森澤馨との接点も増えるに違いない。さぞかし『遊び甲斐』があろうかと言うものだ。
「くく…」
と笑った篁の顔を、ひと際大きな花火が照らした。
※エヴァンス専務のビジネス・スタイル関する記載は、
『Colors』の「森澤馨とその周辺設定」を参考にしています。
<end 2008.08.16>
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