小旅行




 春の訪れが遅れていたその年の四月だが、ジェフリーがリクヤと共にラガーディア空港に降り立った日のニューヨークは、陽光に恵まれて暖かかった。
 これから向かうブルックリンの墓所が、今回のニューヨーク行の目的の一つである。そこには彼らの共通の友人、そしてリクヤ・ナカハラを生涯愛し続けたユアン・グリフィスが眠っていた。
 リクヤは年に一回程度、ボストンに出かける。ボストンには彼が子供の頃過ごしたコンドミニアムがあり、二卵性双生児の兄が管理していた。その兄が年に一度か二度、休暇、あるいはアメリカでの演奏ツアーで日本から渡米してくるので、会いに行くのだ。兄のサクヤ・ナカハラは世界的に有名なヴァイオリニストである。
 リクヤはたった一人の血縁――ジェフリーが知る限りだが――である兄を、傍目から見ても恥ずかしくなるくらい愛していた。それはマンハッタンのマクレイン総合病院に勤めていた頃から有名で、兄に対する愛情の深さを見ると、日頃、彼のベッドを温めていたガールフレンド達とは、遊びでしかないことがよくわかった。
 しかし兄が渡米して来るのは、たいてい演奏活動が比較的少ない夏季か、演奏会シーズンの秋か冬なので、春にこうして出かけるのは珍しいなと、ニューヨーク行の話を聞いた時、ジェフリーは思った。
「いや、兄貴は今回来ないんだ。ボストンの家がだんだん古くなってきたから、ちょっと様子を見に行こうと思ってな。サクヤが来た時、不具合でもあったら大変だ」
 同じ年の兄弟なのだから、サクヤだっていい年の大人であるはずだが、リクヤはいつも何も出来ない子供のようにサクヤを扱った。過保護に過ぎるくらいだ。アシェンナレイクサイドは辺鄙で不便だからと、未だに招待していない。
「ボストンか。マクレインを辞めてから、あっち方面にはすっかり足が向かなくなったなぁ」
 ジェフリーの脳裏に、マンハッタンの総合病院マクレインでの日々が懐かしく蘇えった。
 実はボストンにはそれほど思い入れはなく、ジェフリーが懐かしんでいるのは、広い意味で括られた「あっち方面」の中のマンハッタンを指していた。まだ離れて五年ほどだが、ずっと昔のように感じる。引っ切り無しに担ぎ込まれる急患、常に満員でごった返していた救急外来の待合室、ろくに休憩も取れず、過剰労働が当たり前で年中文句ばかり言っていたが、遣り甲斐のある職場だった。
「君も一緒に行くかい?」
「え?!」
 すっかり思い出に浸りきっていたジェフリーは、リクヤの言葉に現実に引き戻された。
「ニューヨークに寄り道してからボストンに飛ぶつもりだから、ジェフはそのままマンハッタンに行って旧交を温めたらいいさ」
「寄り道?」
「墓参り。いい加減、顔を出してやらないとな」
(四月…ニューヨーク、ああ、そうか)
 ジェフリーはリクヤを見た。
 八年前の四月に逝ったユアン・グリフィス。彼の家族はワシントンでの埋葬を望んだが、ユアンは「ニューヨークで眠りたい」と遺言を残した。リクヤがマンハッタンから離れないと思い、死んでも出来るだけ彼の近くに在りたいと願ったのだ――マンハッタンには適当な墓所がなかったので、ブルックリンになった。よもやリクヤがニューヨークを遠く離れジェフリーと同居するなど、想像だにしなかったに違いない。
 年に一度はボストンに行くリクヤだったが、おそらくブルックリンには寄ってはいないだろう。彼の口から直接聞いたことはなかったが。
「二人同時に休んでいいのかって話だけど?」
「アルバイトを派遣してもらうさ。毎日じゃなくても、二、三日おきに来てくれれば、後は群立病院に連携してもらうから」
 ジェフリーのその言葉にリクヤが笑った。
「おいおい、バカンスじゃないんだから、二、三日で戻るぞ」
 屈託なく笑う彼に、ジェフリーは内心「ホッ」とした。
 同居を始めてかれこれ四年になるが、その間、リクヤがユアン・グリフィスの名を口にすることはなかった。話題にならないから、言う機会がないと言えばそうだが、クリスマスのホームパーティーや、その時期にクリニックのBGMでユアンがりく也に贈った『Your birthday』をかける時も、ただのクリスマスCDの扱いだった。クラシック通でもないかぎり、ユアン・グリフィスの演奏したCDは取沙汰されることはなく、「それが何?」程度だ。
 リクヤとユアンの二人をずっと見てきたジェフリーには、色々な思い出がある。しかしそれは封印されたままだった。ユアンのことには触れてはいけない気がした――リクヤが話さないかぎり。リクヤが彼のことを自ら話すようになったなら、初めて彼は「思い出」になるのではないか。
 そしてリクヤはユアンのことを、ごく自然に口にした。名前は出さなかったがまるでいつものことのように、ジェフリーまでも誘って。
 少しずつ、リクヤも変わって来ているのかも知れない。アシェンナレイクサイドでの自分との生活が、影響していたなら嬉しいのにとジェフリーは思った。
 その昔、まだセントラルパークがなかった時代には、ナイアガラと並んで人気の観光名所だった公園のような墓地に入る。由緒があり、著名人も多数埋葬されていた。アメリカが誇る国際的なピアニストだったユアンには似合いの「永遠の寝床」と言える。
 墓石は『黄金の』と冠されて呼ばれていた生前の派手さはなく、緑の芝に映える乳白色の大理石で作られた至ってシンプルなものだった。ただ訪れるファンが今も絶えることがないと聞いていた通り、色とりどりの花束が供えられて、墓石もきれいに磨かれているので、どの墓よりも華やかではある。
 リクヤは真紅の薔薇の花束をユアンのために選んだ。彼が好きだった花だ。
(そう言えば、リックはよくもらってたよなぁ)
 リクヤは医学生の頃からユアンによく花を贈られていた。レジデントになっても、スタッフになっても、バレンタインや誕生日、あとユアン基準の「二人の記念日」に、両手に抱えるくらいの真紅の薔薇の花束を、病院に送りつけてきた。リクヤは「花なんて、腹の足しにもならない」とサインをして右から左、あちこちに押し付けて回り、「腹の足しになるものだって受け取らないくせに」と言うと、「甘ったるいケーキなんて、いくつもいくつも食べられるもんか」とシニカルに言い放ったことを、ジェフリーは覚えている。
 そんな扱いにあっても、ユアンは懲りずに色々と贈り続けた。きっとリクヤにプレゼントすることが楽しかったのだ。たとえ彼の口に入らなくても、一旦は彼の視界に入り、うんざりとした表情で受け取る様が、嬉しくて堪らないようだった。
 どうせ他に回るなら、女性陣が喜ぶものを…とでも考えたのか、普段の差し入れはケーキや焼き菓子が多かった。女性を味方に付ける方が、何かと便宜を図ってもらえることをちゃんと知っていたのだ。だからリクヤがどんなに忙しくて、病院内を走り回っていても、ナースたちの情報網で正確な現在地をユアンは知ることが出来た。自分の行く先々でタイミングよく現れるユアンを見て、リクヤは片方の眉を上げ、呆れた表情を浮かべたものだ。


『僕だけに見せる最高の表情さ』


 昔、ユアンはうっとりとそう言った。
(すまないね、ユアン。その表情、今は僕が独占しているよ)
 マクレインに勤めていた頃のリクヤは、愛想よしで知られていた。患者は言うに及ばす、スタッフにもナースにも、医学生に対しても、にっこり微笑んで嫌味を言っても、本気で声を荒げるところをジェフリーは見たことがなかった。あからさまに不機嫌な表情を見せ、流暢なスラングで文句をまくし立てるのは、ユアンに対してだけ。それだけにユアンはリクヤにとって特別な存在だったかも知れない。
 今のリクヤはマクレインにいた頃より、ずっと表情が豊かになった。機嫌の悪さを隠さなくなり、ジェフリーには歯に衣着せぬ勢いで嫌味を言う。とことん完璧主義なところがあるかと思えば、呆れるほどだらしない面もあり、二人が衝突することも珍しくない。言いつけを聞かない患者に対しても厳しくはなったが、それでもジェフリーに対してよりはずい分とソフトだった。自分と他の人間とで、リクヤの扱いの違いを感じる時、ジェフリーの胸の内に温かいものが広がった――それがユアンの自慢していた、「自分だけ」と言う特別感なのか。
(少しは愛されてると思っていいのかな。君ほどではないにせよ、大切な人間の一人に入れてもらえていると思うかい?)
 ジェフリーは白い墓石に心の中で話かける。
『僕は彼にとって大切な人間だったのかな?』
 ユアンの声が頭の中に響いた。ジェフリーの記憶にある、甘ったるいテノール。
(じゃないと「愛してる」なんて言うもんか。彼の「愛してる」は僕達が口にするのとは比べられないくらい重いんだ。サクヤと君にしか言っているのを聞いたことがない)
『君はまだなのか?』
(まださ)
『まだまだだね』
(なに、これからさ。それに君よりリードしたこともある。彼におはよう、おやすみのキスをしてもらっているからね。それもmouth to mouthだ。どうだい? うらやましいだろう?)
「ジェフ、何してるんだ? もう行くぞ」
 ジェフリーが墓石と語り合っているうちに、いつの間にかリクヤは歩道の方へと歩き始めていた。ジェフリーは苦笑した。本当に花を供えた程度。彼らしいと言えば彼らしい。
(リックは何か君と話したのかな?)
 ユアン・グリフィスは何も言わない墓石に戻り、ジェフリーの問いかけに答えなかった。リクヤが供えた薔薇の花弁が代わりに答えるかのように、微かな風に揺れた。






 二人がボストンのコンドミニアムに着いたのは、夜遅くなってからだった。
 ジェフリーはマンハッタンには渡らず、リクヤと共にボストンに飛んだ。マクレインに寄りたいとも思ったが、リクヤが行かないと言うので、ジェフリーも今回は見合わせた。
 こうして二人きりで旅行することは初めてで、ジェフリーは内心、子供のようにはしゃいでいた。これから先だって作ろうと思えば作れる機会だが、何でも「初めて」と言うものは特別に魅力的で、その魅力に、マクレインでの旧交などでは太刀打ち出来ない。それにボストンのリクヤの家にも行ってみたかった。彼が語らない子供の頃を、ひょっとすると垣間見られるかも知れないのだ。
 ただアシェンナレイクサイドからニューヨークへ向かう便が遅れ、必然的に墓地を訪れた時間もずれ込んだことが難だった。ボストンまでは飛行機で一時間半ほどの距離ではあるが、着くのはどう見積もっても日暮れた後になり、食事をしてからコンドミニアムに向かうことにしていたので、尚更到着が遅くなる。リクヤが前回ボストンを訪れたのは去年の夏前、それ以降、人が入っていないコンドミニアムだから、まず泊る準備をしなければならないのではと言う煩わしさがあった。
 しかしナカハラ家の住居はすぐに生活出来る状態で、掃除を覚悟していたジェフリーは拍子抜けする。
「きれいにしているんだな? 掃除しなきゃならないかと思ったよ」
「来ることを管理サービスに連絡しておいたからな」
 冷蔵庫には軽い食事程度の材料も用意されていた。
 ナカハラ家が入居するコンドミニアムは外観がビクトリア調の石造りで、ヨーロッパの古い邸宅を思わせる。五階建て、1フロアに一世帯と言う贅沢な部屋割りで、リクヤの部屋は最上階だった。外観は歴史的価値だか街並み条例だかで触れないらしいが、中は自由にリフォームすることが許されていた。リクヤのところも最新式の設備にリフォームされていた。リクヤが今回ボストンに来る理由として家の古さを上げていたが、ジェフリーから見てそれは感じられない。
 広いリビングにはお決まりの家族の写真が飾られている。と言っても被写体は兄弟二人だけで、両親や他の大人の姿はなかった。
 ジェフリーの知らない時代――ティーン・エイジャーの頃のリクヤが写っている。
「君にもこんな可愛い時代があったんだな」
「あまり見るなよ、恥ずかしいだろう」
 面影が残る。初めて出会った医大生の頃より、目の表情はきつく感じた。少年特有のこまっしゃくれ感もある。
(さぞかし生意気だったんだろうなぁ)
 想像するジェフリーの口元には、自然と笑みが浮かぶ。背後から頭を小突かれた。リクヤが「いい加減にしろ」と言いたげに、口をへの字に曲げていた。
「ゲスト・ルームってものはないんだけど、俺達の使っているベッドでもいいかな?」
「ああ、構わないよ」
「じゃあ、こっちがベッドルームだから。バス・ルームはあっち。先にシャワーを使ってくれ。バスに浸るかい?」
「そうだな、久々の長旅でちょっと疲れているし」
「わかった。じゃあ、用意をしてくるよ」
 リクヤはそう言ってバス・ルームの方に向かう。ジェフリーはもう少し、少年のリクヤの姿を見ることにした。






「確かに『俺達の使っているベッド』で良いとは言ったけど」
 バスで程よく癒された身体は、少しのアルコールですぐに眠気に襲われた。マンハッタン時代の思い出で語り明かしたいとジェフリーは思っていたが、寄る年波には抵抗出来ない。アシェンナレイクサイドでは、睡魔に負けてソファで撃沈するのはリクヤの方だと決まっていたが、今夜はジェフリーの方が先に音を上げてしまった。
 りく也に促されてベッド・ルームに移動したジェフリーの眠気は、ベッドを見た途端に吹っ飛び、前述の言葉が口から洩れ出た。
 兄弟のベッド・ルーム――それも大人の――だから、当然ベッドは二台あると思っていた。ジェフリーは兄・さく也の方を借りるものだと。ところがそこにはワイド・キング・サイズのベッドが、誇らしげに部屋の主然として一台あるだけ。
「これを僕が占領して君をソファに追いやるなんて、そんな申し訳ない。僕はソファでいいから」
 嬉しい…もとい、嫌な予感はしたが、違う可能性を探ってみる。勘違いしていたら恥ずかしい。
 ジェフリーの申し出に、リクヤは事もなげに答えた。
「これだけ広いんだから、ソファで寝る必要はないだろう? でも、ああ、ブランケットは別の方がいいな。今、取って…」
「待って、待ってくれ、リック!」
 ブランケットを取りに寝室を出ようとするリクヤの腕を、ジェフリーは慌てて掴み呼び止めた。
「僕はソファを使わせてもらうよ。あんなに座り心地が良いんだから、きっと寝心地も良いに違いないし、ソファで寝るのも慣れているし、や、むしろソファの方が眠りやすいと思うし、そりゃソファで寝るのは君の専売特許だけど、同居する前は僕の、えーっと、だから、えーっと」
 などと、わけのわからないことを口にしながら、ジェフリーはリクヤの前に回り込んだ。
「夜は冷えるぞ? それにソファじゃ疲れが取れないだろう? 何だい? 君って寝相、悪かったか?」
「いや、そう言うことじゃなくて」
 ジェフリーは観念したように溜息をついた。
「僕は君のことが好きなんだぜ?」
 ジェフリーは今まで同性に欲情したことはなかった。リクヤのことを恋愛的な意味で好きだと自覚して以後も、風呂上りの半裸の彼を見た時やmouth to mouthであいさつをもらう時、ときめきはあってもそこまでだった。先に進む可能性を全否定はしないが、同性同士の詳細な「夜の営み」はまだ知らないし、知ろうとしたこともなかった。
 しかし、同じベッドで寝るとなった途端、血の巡りの速くなったことや、あきらかに一点へと熱が下っていくのを感じている。アシェンナレイクサイドで開業して以来、その手のコトとはご無沙汰だった。田舎のほのぼのとした生活に、すっかり毒気を抜かれてしまってその気は起らなかったが、まだ男としての機能は現役だと言う証拠だ。二人きりで初めて遠出しているささやかな興奮が、助長しているのだろう。
 ジェフリーの言葉に、リクヤが吹きだした。
「何を言うのかと思えば。わかったわかった、蹴飛ばされても、いびきがうるさくても、君を責めないから、さっさとやすめよ」
 リクヤはまったく本気にせず、ジェフリーが寝相やいびきを気にして、そんなことを言っているのだとしか受け取っていないようだ。
 若い頃、リクヤは盛大に浮名を流した。欲情出来る相手と同じベッドに入った時の男の生理と言うものを知っているはずなのに、彼の頭の中に同性同士でのその手のことは、まったくインプットされていないと見える。三年前のプロポーズとも言えるジェフリーからの同居の申し出も、ユアンの死から立ち直れずにいる自分を救うための、方便程度にしかとっていないのかも知れない。
 あまりにナチュラルなリクヤに、ジェフリーの中の血流は速度を落とした。彼の中で自分はまだまだ友人の域を出ていないのだと痛感する。
「その言葉を明日まで忘れないで、寝不足を僕のせいにしないでくれよ」
 ジェフリーは観念して、ベッドに上がった。






 スプリングの利いたベッドが、時々きしむ。すっかり寝入っていたジェフリーだったが、睡眠サイクルがレムに入ったところだったのか、その微かな軋みにすんなりと目が覚めた。開けた目の先に「02:33」の緑色の数字が浮かんでいる。サイド・テーブルに置かれたデジタル時計の文字盤だった。まだ真夜中だ。もう一眠りも二眠りも出来ると目を瞑る。背後でまたスプリングが軋んだ。それで今、リクヤと同じベッドに寝ていると言う事実に気づく。ジェフリーは再び目を開けた。
 ベッドはワイド・キング・サイズで、幅は三メートル近くある。身長6フィートを超す男二人で寝ても広すぎるくらいだ。だから並んで横たわっているが、体温を感じるほど近くはない。それでもリクヤの気配は感じられるし、意識するとジェフリーの背中は、彼の体温さえ感じた。
 スプリングが軋む。寝返りをうっているのかなどと想像すると、ますますリクヤの存在感が増し、ジェフリーの目はすっかり冴えてしまった。
 それから何度目かの軋みは少し大きく、背後で空気が動いた。床に足をつく音がして、その後にドアの開閉が続く。リクヤがベッドを下りて部屋を出たことがわかった。トイレにでも行ったのだろうか。ジェフリーはその隙に、大きな動きで横臥から仰向けに体勢を変え、息を吐いた。
「まいったな、まったく。今更になって、こんなに意識するなんて」
 我知らず言葉が零れた。やはり『老いらくの恋』とは、皆が言う通り、激しいものらしい。
 リクヤはなかなか戻らなかった。暗闇の中でぼんやりとしているだけなので、時間を長く感じるせいもあるだろうが、先ほどの時計に視線を向けると、あれから二十分以上が経っているので、「なかなか」の範疇には入る。
(どうしたんだろう? まさか、倒れてやしないだろうな?)
 ジェフリーは身を起こした。リクヤは健康そのものの病気知らずだが、年齢から言って突然の卒中や狭心症の発作か何かで倒れないとも限らない。かつてジェフリーがそうだった。
 寝室のドアを開けると、フロアシェードランプをつけただけの中、リクヤがソファに座っていた。テーブルの上には今夜飲み明かすために買ったバーボンが、そしてリクヤの手にはグラスが在った。
 寝室のドアが開いたので、リクヤは目を上げる。ジェフリーの姿を見とめると、「どうした?」と聞いた。
「君が戻ってこないから、何かあったんじゃないかと思ってね」
「すまない。もしかして起こしてしまったのかな?」
「いや、多分、早く寝すぎたせいだと思う。君こそ、どうしたんだ?」
「目が覚めたら眠れなくなった。寝酒でもしたら眠れるかと思ってね」
 ジェフリーはリクヤの隣に座った。
 バーボンは瓶の半分以下になっている。昨夜、ジェフリーは二杯も飲まないうちにベッドに移動した。それから考えると、かなりの量をリクヤは一人で飲んだことになる。もともとはアルコールに強い彼だが、同居を始めてから嗜む程度に酒量は落としていた。ホームパーティーでは付き合いで飲むが、アルコール度数の低いビールが主だ。だからこんなに飲むのは珍しい。
 ジェフリーは彼の手からグラスを取り上げる。リクヤはそれをジェフリーが飲むと思ったのか、「グラスを持ってこようか?」と尋ねた。ジェフリーはそのグラスをテーブルの上に置いた。
「飲み過ぎだ」
 ジェフリーの言葉にリクヤが訝しげな表情を向ける。
「これぐらい大した量じゃないぞ?」
 リクヤがグラスに手を伸ばした。
「昔ならね。でも君は最近、飲まなくなった」
 彼の手がそれにかかる前に、ジェフリーはグラスをずらす。
「何か、話したいことがあるんじゃないのか?」
 リクヤは「ないよ」とジェフリーの目を見て言った。その目には躊躇いがなく、一見、彼の言う通りだと見える。しかしリクヤの場合、誤魔化しが入ったり嘘をつく時、相手から目を逸らさないと言うことを、長いつきあい…と言うよりも、同居を始めてからジェフリーは気づいていた。
 下手に目を逸らせば、追求される。だから嘘の場合は相手の目をまっすぐに見る。逆に真実を語る時には目を逸らす。逸らしたことについて何か言われても、真実ゆえに揺らぎなく対応出来るから平気なのだ。
「素直じゃないな。知ってた? 君は誤魔化す時、人の目をまっすぐ見るってことを」
 そんなことを言えば、次回から「修正」してくるに違いないのだが、今は彼に話させることの方が、ジェフリーには大事には思えた。
「今、君は僕の目を見ている」
 ジェフリーは彼の黒い瞳を覗き込むようにして見る。
 リクヤはゆっくり息を吸い込み、そして吐き出した。
「自分の薄情さ加減に少々嫌気がさしているだけだ」
 ジェフリーが位置をずらしたグラスに手を伸ばし、リクヤは中の液体を口に含んだ。
「いざ『プレート』の前に立ってみると、不思議なくらい何も感じなかった。来るのに時間がかかったわりに、何も。それで思い出したんだよ、あいつが言った言葉を」
「なんて?」
「『君は僕のことなど忘れてしまうだろう』」
 グラスをぐいとあおり、バーボンを流し込む。バーボンの瓶を掴むと、グラスに注いだ。
「俺はあの時、そこまで薄情じゃないって答えたが、結局、その通りだった」
「君は薄情なんかじゃないよ。それどころか、ずっと彼のことを忘れていない。紅い薔薇を選んだのは君だ。彼の好きな花だった」
 リクヤの口元に向かうグラスを、ジェフリーは再び取り上げる。今度はグラスも瓶も彼の手が届かない側に置いた。
「何も感じなかったんじゃない。無意識に感情をシャットアウトしているだけだ。その証拠に、君はさっさとあの場を離れようとした。まだ時間が止まっている。あそこに彼が埋葬された日のまま」
「いつから君はセラピストになったんだ?」
「セラピストでなくてもわかるんだ。君とは長い付き合いだから」
 そして友情以外の感情を自覚して以降は、ジェフリーはリクヤをずっと見てきた。
 アシェンナレイクサイドで穏やかな日常を過ごしながら、ユアン・グリフィスを思い出として語ることが出来ず、「ユアン」のユの字も口にしないリクヤのことも知っている。
 やっと向き合えるようになったかと思っても、いざ目の前にすると蘇る辛さがリクヤを苛む。何度も寝返りを打たせ、眠らせない。厄介なのは、本人に自覚がないこと。リクヤ自身が思う以上に、ダメージがあったと言うこと。
 彼には嘆くことが必要なのだとジェフリーは思う。
「忘れていない。ただ仕舞い込んでいるだけ。思い出すのが辛いだけ。それほど君は彼を愛していたんだ。ちゃんと『愛してる』って言ったじゃないか」
「いつ?」
「病室で。彼の誘導に引っかかって、『愛してる』って言った」
 リクヤが目を見開いた。
「立ち聞きしていたのか?」
「いや、僕はキスしていたのを覗き見しただけさ。その話はユアン本人から聞いたんだ。次の日、少し調子が良くなった彼を見舞って、『リックのキスが効いたかな』と言ってやったら、『愛してるって言わせた』ってね」
 ユアンが亡くなる月のことだった。夜中に手の空いたリクヤはユアンを見舞い、たまたまジェフリーも様子を見に行った。ユアンは軽い肺炎を起こして予断の許さない状態が続き、管理職で時間に余裕のあったジェフリーも、なるべく彼を見るようにしていた時期だった。
「確かに彼の誘導だったかも知れないけど、引っかかった振りをしたんだろう?」
「あんなわかりやすい誘導、わからない方がどうかしてる」
 でもだからこそ、あれは君の本心なんだよ――とジェフリーは心の中で言った。リクヤは軽々しく愛を囁かない。同情から誘導に引っかかった振りだけでは、愛の言葉を口にしないはずだ。
「愛の形はさまざまなんだよ。君の愛はユアンの愛とは種類は違ったけど、でも君は彼を愛していた。かけがえのない友人として、失いたくない人に違いなかった、そうだろう?」
「ジェフ」
「君は、ちゃんと彼を愛していたし、忘れることが出来ない。墓参りする勇気もなかったくらい、彼の死を悼んでいる。君が否定しても、それは紛れもない事実なんだよ」
 膝の上に乗せられたリクヤの左手を軽く握った。彼は黙ったまま、自分の手を包むジェフリーの右手を見つめている。ジェフリーはテーブルの端に追いやったグラスを、リクヤの前に戻した。
 ポタリと、リクヤの手を握るジェフリーの手の甲に水滴が落ちた。ジェフリーはリクヤを見る。向けた横顔の頬に、涙が一筋伝った跡が見て取れた。そして新たな涙が、それをトレースする。
(リック)
 リクヤはもう片方の手で頬を触った。指先に付く水滴を不思議そうに凝視する。「涙?」と呟いた。
「そうだよ。それは涙だ。君だって、泣いたことはあるだろう?」
「大昔過ぎて、忘れた」
「彼を送った時は?」
「ユアン…を送った前後の記憶はあいまいなんだ」
 ユアン――何年かぶりかでリクヤの口から聞く名前。その名が合図であるかのように、彼の目から次から次へと涙が流れ落ちる。
 ジェフリーは握っていた手を放し、代わりにリクヤの肩に回し抱き寄せた。
 声も立てずにリクヤが泣く。小刻みに震える肩が、たまらなく愛おしかった。






 どれくらいか時間が経って、リクヤが抱き寄せられた身体を離そうとするのがわかった。肩の震えは止まり、頬も乾き始めている。涙が止まって、我に返ったのだろう。
 しかしジェフリーは彼の肩を掴んだままで離さなかった。
「落ち着いたかい?」
 リクヤは俯いたまま顔をあげようとしないので、ジェフリーは少し覗き込むようにして囁きかけた。涙が止まったとは言え、目は赤いに違いない。
「…スッキリしたよ」
 くぐもった声でリクヤが答える。バツの悪い、照れくさい心境が読み取れた。さぞ顔を上げ難いだろう。
 ジェフリーはリクヤを自分の方に身体ごと向き直らせて、そのままソファに押し倒した。
「なんだ、この体勢は?」
 ジェフリーの目の下で、リクヤが問う。
「欲情した」
 赤味の残る目を彼が見開いた。
「欲情って、何で?」
「だから言ってるじゃないか、僕は君が好きなんだよって。つまりはそう言うことさ」
 リクヤが自分に迫る他人の胸を腕で突っ張り除けようとするのを物ともせず、ジェフリーは彼をソファに押し付けるようにして抱きしめた。
「俺達、いくつだと思ってるんだ」
 少々焦りの混じった声音が、耳元で聞こえる。ジェフリーは顔を上げた。
「そう言うところは、リックも日本人なんだなと思うよ。アメリカ人はいくつになっても男は男なんだよ。好きな相手が目の前にいたら、求めてやまないのさ」
「わ、ジェフ!」
 首筋に顔をうずめてペロリと舐めると、途端にジェフリーの身体の下でリクヤがじたばたと動いた。普段見られない狼狽ぶりに、ジェフリーから笑いが漏れる。さっきまでのシリアスな雰囲気は、どこかに吹き飛んでしまった。
「でも残念ながら、男同士のセックスってわからないんだよなぁ。それはおいおい学んでいくとして、今はキスしてもいいかな?」
 悪戯っぽく、冗談めかして笑って見せると、リクヤは呆れたように息を吐いた。
「まったく君ってヤツは」
 リクヤの身体の力が抜ける。「抵抗しないのか?」とジェフリーが尋ねると、「キスくらいどうってことない」と答えた。その答え方が、かつて百戦錬磨の――女性相手だが――リクヤらしい。
 二人は顔を見合わせて笑った。
(こうやって冗談にしてしまうから、ダメなんだろうなぁ)
 そう思いつつ、ジェフリーは笑みの消えないリクヤの唇に、自分のそれを重ねる。
 それはいつもの「おはよう」「おやすみ」のプレッシャーキスではない。恋人同士が交わすフレンチキスだ。
 重ねた唇から移動するリクヤの吐息は、かすかにバーボンの香りがする。ジェフリーに応えるように蠢き絡む舌は甘い。
 背中とソファの間に腕を差し入れ、ジェフリーはリクヤをきつく抱きしめた。離れる間を与えない激しい口づけと強い抱擁に、リクヤが堪らず口を外した。ジェフリーは構わずその逃げた唇を追う。
 リクヤの骨ばった大きな手が自分の後頭部に回されたのを、応えてくれている証だと喜んだジェフリーだったが、次の瞬間、髪を掴まれ、頭は後ろに仰け反った。
「Ouch!」
「息が出来ない。酸欠でくらくらする。もう少し加減しろよ」
 リクヤが抗議の表情を浮かべている。
「くらくらするのはキスが上手いからだろう? それに隙を見せたら、君、逃げるじゃないか。いたたたたた、痛いったら、リック」
 グイグイと髪を引っ張られ、ジェフリーが声を上げると、少しリクヤの力が緩んだ。
「ひどいな、禿げたらどうするんだ」
 ジェフリーも抱きしめる腕を緩める。真下にある黒い瞳がフッと笑んだ。
「逃げてないだろう?」
 リクヤはそう言うとジェフリーの後頭部を引き寄せる。
 二つの唇は、再び重なった。






 翌日、ブルックリンに戻った。二人でまたユアンの墓前に立つために。ジェフリーが「見せつけてやる」とリクヤを誘った。気持ちの整理がつきかけている今だから、もう一度ちゃんとリクヤはユアンと――ユアンの死と、向き合うべきなのだとジェフリーは思った。
 昨日と違い、リクヤは長いこと、墓前から離れなかった。ジッと白い墓石を見つめ、語らっているかのように見えた。だからジェフリーはそっとその場を離れ、歩道に設えたベンチに腰を下ろし、リクヤを待った。
 彼がユアンとどのような会話をしているのか想像出来ないが、きっと今度は何かを感じることが出来るだろう。
 どれくらいか経って、リクヤがジェフリーの許に戻り、隣に腰を下ろした。コキコキと首を回し、両手を上げて大きく伸びをする。軽い二日酔いの上に、ソファで寝たことで疲れが取れていないせいだろう。
「だから一緒にベッドに寝るように言ったのに」
 ジェフリーはあの広く快適なベッドで一人、ぐっすりと眠った。イレギュラーな睡眠のとり方だったにも関わらず朝の目覚めが良かったのは、寝心地の良いベッドのおかげばかりではない。色々と気持ちが満たされているせいだった。
 リクヤの熱を、ジェフリーの唇が覚えていた。気を抜くと記憶を持つ唇を、指先で無意識に触ってしまいそうになる。
「貞操の危機を感じながら、眠れると思うのか?」
(最初に一緒に寝ようって言ったのは自分のくせに)
 ジェフリーは心の中でリクヤにツッコミを入れた。
 あのキスでようやくジェフリーの本気を認め、リクヤは意識したのだろう。それは友人、あるいは家族から一歩踏み出したことを意味する。ジェフリーは頬が自然と緩んだ。
「せっかくだから、マクレインに寄って行こう」
 帰りは夕方の便だった。まだ午後いっぱいの時間があるが、予定は決めていない。ジェフリーの提案に、「そうだな」とリクヤは同意した。
 二人は立ち上がり歩き出す。話題は今から向かうマクレインでの思い出になった。
 医大生実習でスタッフやナースに下働きのごとくこき使われたことから始まり、どちらの連続勤務時間が長かったかの不幸自慢や、事件や事故で患者が集中した日のこと、人の生死にかかわる立場、大変な職場だったが辞めたいと思ったことは一度もなく、あれはあれで「青春だったかも知れない」と意見が一致した。
「まあ、君は青春を思う存分謳歌していたよなぁ。落とせなかった相手はいなかったんじゃないか? いまだに忘れられないよ、『疲れすぎて、自分で抜く気も起こらない』からセックスしてるって言葉」
 マクレイン在職中、病院中の女を相手にしたんじゃないかと噂されたリクヤの武勇伝をジェフリーが持ち出せば、
「人のことを言える立場かね。ワイフも恋人も切れたことなかったじゃないか」 
結婚と離婚を繰り返したジェフリーの私生活のことで、リクヤが反撃する。
 この四年、することのなかった、することが憚られたマクレインの思い出話は尽きることがない。いつか自然に語られる日がくるのだろう――リクヤのマクレインでの日々の中、最初からほぼ最後まで確かに存在した彼のことも。それはきっと遠くない。
「ミーシャがこの春から診療部長に昇進したってさ」
「へえ、縫合が一番下手だった『お子ちゃま』が出世したな」
「ずい分、額と横幅が広がっているらしい。紅顔の美青年も遠い昔だなぁ」
「額は前々からヤバかったじゃないか」
「そう言えばパティが――…」
 陽光は柔らかに煌めき、二人の上に降り注ぐ。





2013.01.17 (thu)


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