Lilac Gray  [ 錯覚、あるいは擬態 ]






 エヴァンスが子供の頃、隣家で飼われていたペットは、ライラック・ポイントと呼ばれるサイアミーズ(=シャム猫)だった。顔や耳、四肢、尻尾のポイント・カラーが一般的なシール(焦げ茶)ではなく、ライラック・グレーの配色になっていることから、特別にそう呼ばれている種だ。
 灰色を帯びた控えめな紫色は、きついサイアミーズの表情を柔和に見せる。しかしその性状は、もともとのそれと何ら変わらなかった。プライドが高く、何を考えているのかわからない。甘える仕草を見せるのは自らがそうしたいと思う時だけで、こちらから手を伸ばせば、しなやかな背中を向け、なかったことにして離れて行く。
 バス・ルームから戻り、サッサと身支度する情人に、エヴァンスはその猫の姿を重ねた。
「明日はオフじゃなかったかね?」
 逢瀬は金曜の夜と決まっていた。翌日が休みで、仕事に支障を来たさないからだ。
「月曜の会議の用意を。ロンドンからデータが送信されているはずなので」
 それでも彼がエヴァンスと一夜をまるまる過ごすことはない。何かと理由をつけては、夜のうちに帰って行く。
「ここから出ればいいじゃないか」
「昨日と同じシャツやスーツで出勤しろと?」
「クローゼットには、君のものを用意してあるのだがね」
 彼はうっすらと笑顔を浮かべ、答えなかった。
 エヴァンスが専務としてノーブルウィング日本支社に着任して間もなくから、二人の関係は始まる。それまでの相手にない毛色の変わった様子に触手が動き、軽い気持ちでモーションをかけた。日本ではまだゲイと言う観念が表立っては根付いていない。同じ職場で出会うことなどないと踏んでいた。男女問わずに口説くのはエヴァンスにとって挨拶のようなもので、彼の第一印象からはとても誘いに乗ってくるとは思えなかった。
 が、予想に反して、彼はあっさりと応じる。最初は食事、次にはバーで過ごし、そしてベッド・インするのに大して時間はかからなかった。
 同性には慣れていない身体。反応はぎこちなく、初々しかった。触れられたことのない、本来、触れられるはずのない場所――初めてではきついだろうと思いやるエヴァンスの躊躇いを、彼はやんわりと拒み、その身体を開いたのだ。出来るだけ優しくしたつもりだが、かなり負担はあったはず。それなのに彼は、夜明けを待たずに帰って行った。
 以来、二年になる。誘えば彼は拒むことなく応じ、何度、肌を重ねたか知れないが、相変わらず、一緒に朝を迎えたことがなかった。
 袖口のボタンを留める彼を、背後から抱き込んだ。耳の下の窪みに唇を寄せ、顎に手をかけ、後ろを向かせる。その唇にエヴァンスが口づけようとするのを、彼の手が抑えた。
「シャツが皺になります」
 自宅に戻って着替えるくせに、釣れないことを言う。エヴァンスは苦笑した。
「もうそろそろ、一緒に朝を迎えてもいい頃だろう、ワタル?」
「けじめがないのは嫌なんです」
 エヴァンスが腕の力を緩めると、彼は向き直った。
 ベッドで過ごす情人としての甘い表情は消え、影に徹し、表情を読ませず、不敵な穏やかさを纏う秘書室長・豊田渉の顔に変わっている。『豊田渉』に戻ってしまっては、何を言っても無駄なことをエヴァンスは知っていた。
 溜息に似た息が無意識に吐き出され、エヴァンスはベッドに戻った――と、ネクタイを締め上着を着た豊田が近づいてくる。
「おやすみなさい、デイヴ」
 そう言って、唇に軽いキスを寄越した。エヴァンスが再び抱きしめようと手を伸ばすが、一瞬で身体は離れ、ドアに向かう。
 追えば離れ、離れればまた近づく。気まぐれのようで、そうではないようで。駆け引きめいた彼とのひと時は、エヴァンスを惹きつけてやまなかった。
「君は本当に得体が知れない」
 一度振り返り、口の端に微かな笑みを残して、豊田は部屋を出て行った。
 隣家で飼われていたライラック・ポイントは、その美しさに魅せられて気を引こうとするデイヴ少年に、なかなか懐かなかった。伸ばした手を鼻先でかわす。かと言って完全に無視を決め込むのではなく、構うのを諦めて素通りする少年に蠱惑的な青い瞳で視線を送り、誘う素振りをさりげなく見せた。時々触れることを許されたボディの、柔らかな感触を忘れられない。どんなに切望しても、結局、自分のものにならなかった記憶も蘇る。
「さて、君はどうかな?」
 先ほどまで腕の中にいた彼の感触を思い出し、エヴァンスは独りごちた。






                           <end>2008.07.03

 
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