僕にはミューズ(詩神)が必要だった。
「葉山君、ピアノに興味があるのかい?」
一人目のミューズとの出会いは小学2年生の時。産休の担任に代わってクラスを受け持った、若い男性教諭だった。趣味がクラシック・ピアノだと言う彼は、放課後の音楽室で一人でよく弾いていた。
その音色に惹かれたからか、彼自身に惹かれたから興味を持ったのか、子供の時のことだから覚えていない。気がついたら放課後、彼にピアノを教えてもらっていた。僕のピアノの原点だ。
代用期間が終って彼は学校から居なくなったけど、僕にはピアノが残った。
彼を『失った』寂しさを慰めてくれたのもピアノだ。
「僕もコンクールは初めてなんや。緊張するね?」
中学一年生の時に出場したピアノ・コンクールで、僕は二人目のミューズと出会う。相手は一つ年上の関西の中学生。そのコンクールのピアノ部門で男子は僕たち二人だったので、どちらからともなく声をかけた。人懐こい笑顔が印象的。関西人特有のノリ・ツッコミは大らかで楽しく、僕らはすぐに打ち解けた。
彼の奏でる音色は、意外と言っては悪いけど繊細だった。僕は一次で落ち、彼はその次まで進んだ。
コンクールが終ったらピアノと縁を切るつもりだった。でも思いとどまってそのまま続けた。彼との接点を失くしたくなかったからだ。
ところが彼は高校入学を機にピアノをやめてしまい、部活の吹奏楽へとシフトしていった。そこでガールフレンドを作り――ごく普通の男子高校生だったので――、そうして二人目のミューズも去って行った。
彼へと傾倒している間、気を引きたくて僕はピアノに没頭した。学校の成績は散々で、その偏差値ではとうてい三流高校にも引っ掛からなかったけど、音楽部があるところなら推薦を受けられるほどに、ピアノは上達していた。
「ピアノを続ける気なら、このアップライトは買い換えた方がいい。またすぐ狂うよ」
三人目はピアノの調律師。と言っても、Wフィル・メンバーで構成されたクインテットに倒れたピアニストの代役で参加し、アンサンブル・コンサートをこなしたツワモノだ。
音楽系高校に入学したばかりの僕は、課外授業の一環でそのコンサートをたまたま聴きに行っていて、一聴にして彼のピアノの虜になった。本職が調律師だと聞いてますます興味が沸き、お近づきになりたくて『調律されたばかり』のピアノの調律を依頼した。
高校三年生の時、彼は実家の音楽教室で受験コースを開設する。僕は付属大学に進むつもりだったが、一つ上のランクの音大を受験したいからと親を説得、彼の教える受験コースに申し込んだ。基本のコースに個人レッスンを追加したが、それの口実のためには大学のランクを更に上げなくてはならなかった。彼は最初、「俺の指導範疇を超えている」となかなか受けてくれなかったが――彼の母校受験を想定してのコース開設だったので――、押して押して押し捲って、何とか「うん」と言ってもらった。
彼は僕のために受験校の傾向を研究し、それに沿った特別レッスンをつけてくれた。僕は彼の努力と期待を裏切らないために必死にそれについて行った。結果、実技では首席で合格した。
この頃になると、さすがにミューズが同性ばかりなことに気づいていた。普通、画家でも音楽家でも、創作意欲を掻き立てるのはたいてい異性だと決まっている。なのに僕の心を揺さぶるのは同性ばかり。そしてそれは、恋愛と同義だった。
恋をするとそれに溺れて何も手につかなくなるか、相手の気を引きたいが為に実力以上の力を発揮するかに二分される。僕の音楽の足跡は、明らかに後者の要素が強かった。つまり、恋をしている状態なのだ。
女の子とのコンパにも何度か参加したけど、普通の飲み会と何ら変わらなかった。むしろ、ヤロー共とわいわい飲み食いする方が楽しく、やがて誘いを待っている節の見える彼女達に見向きもしなくなる。ついには同性に惹かれることを隠さなくなった。芸術を生業としていることもあって、案外、すんなりと納得された。良かった、ピアノの道を選んで。
僕は調律師の彼にのめり込み、大学に入ってからも何かと理由をつけて教えを乞うた。彼のマンションに押しかけて、特別レッスンを続けてもらい、気を引いていつかは両思いになることを願った。
でも…、その恋も結局は成就することはなかった。
彼にはヴァイオリニストの恋人(=同性)がいたのだ。ウィーンを拠点にヨーロッパで活動していた。東京とウィーンと言う超遠距離をものともせず、その隙を狙って何とか振り向かせようとする近場の相手――つまり僕に、見向きもしないくらいの大恋愛だ。
ヴァイオリニストの恋人は数々の国際コンクールを総なめにし、モスクワを獲ったその足で日本に戻って来た。調律師はその恋人と暮らし始め、僕は完全に締め出された。
以来まだ、次のミューズは現れていない。
「孝太、何ダ、ソノ音ハ?! ヤル気、アルカ?!」
そして僕は、名高い国際ピアニストでもある師匠・カシニコフ先生に、怒鳴られる日々を送っている。モスクワが近づいていると言うのに、僕はスランプの中にどっぷり浸っていた。
音に精彩がないだの、ほとばしる感情が感じられないだの、最近、ダメ出しばかりだ。本命視されていた二度目の仙台も獲れず、『恩師』を名乗るお歴々はやきもきしている。しばらく休ませてくれと言ってみたが、二十代前半で大きな賞を獲らないと意味がない、君にはそれが出来る才能があるとか何とか言って、聞き入れてもらえない。
僕はまだ、加納先生を引きずっているってのに。加納先生とは、例の調律師である。
新しい恋を見つけようにも、その暇がない。こんな状態じゃ、いつまで経っても復活出来やしないじゃないか。
「私では、君のミューズになれないかい?」
カシニコフ先生は過剰で情熱的に『スキンシップ』を試みてくる。そんな時は英語だ。
でも先生、僕にも好みがあるんです。日本語で会話出来る方がいい。もう少し年が近い方がいい。抱きしめた時に腕は回る方がいい。体臭は薄い方がいい。知らずに出会ってしまったならともかく、出来れば妻子はいない方がいい。そして抱かれるのは趣味じゃない。
などとは面と向かって言えない葉山孝太二十四歳。カシニコフはピアニストとしては最高だから、レッスンを受けられないのは非常に困る。それにプロフィールの師事の欄に彼の名があるのとないのとでは、格も変わってくるし。
「先生は尊敬の対象ですから。それに恋に頼っていては、この先同じことを何度も繰り返すことになります。いつでも感情をコントロール出来るようにならないと」
本音半分。いつ降臨するかわからない次のミューズを待って、時間を無駄にするのはそろそろキツクなってきた。大人になると時は早く進む。ピアニストとしてのチャンスはどんどん遠のいてしまうし。
わかっているんだけど、ままならないのが世の常です。
「大丈夫か?」
久しぶりに飲みに出た。スランプも長引くと周りもそろそろ気を遣ってくれるようになる。カシニコフがロシアに帰国したこともあって、しばらく好きにさせた方が良いってことになったらしい。毎日、ピアノに座ることを条件に、レッスンからは解放してくれた。
なので悪友どもを誘って街に繰り出した。行き先は『お仲間』が集う界隈。普段はあまり来ないけど、たまに開放的に飲みたくなったら足を踏み入れる。気を遣わなくていいし、気が合えば大っぴらに誘えるし。
久しぶりってこともあって、飲みすぎてしまった。それもちゃんぽん。外の空気を吸いに出たのはいいけど、思わず縁石に座り込む体たらく。それでもまだ意識はしっかりしているほうだ…と思ったのは、どうやら僕だけらしかった。気がつくと、誰かが背中を摩ってくれている。
「…ありがとう。ちょっと飲みすぎちゃって」
「みたいだな。結構、無茶飲みしていたから。水か何か調達して来ようか?」
「大丈夫、少し休めばマシになると思う」
背中の手が止まって、彼の気配が消えた。酔っ払いにこれ以上関り合いたくなかったんだろう。話っぷりからして、同じ店で一緒に飲んでいた誰かかも知れない。きっと足元が危なかったから、様子を見に来てくれたのだ。
囁く声がちょっと好みだったな。摩る手の感触も悪くなかった。顔を見られなかったのは残念だけど、この状態じゃあね。
「ほら、水。冷たいから」
ペットボトルが目に入った。今、自販機から出て来たかのような細かい水滴が付いていた。声はさっきの声だ。
「さんきゅ」
受け取る時にやっと彼の顔を見る。外灯から外れていることもあって、イマイチ不鮮明。一口飲んでもう一度見ると、闇に慣れた目が少しははっきり彼を捉えた。骨格を感じさせない面立ちに、パーツがバランスよく配置されている。声同様、好みかも。
もっと彼を見たい。僕は酔いを早く覚ますため、ペットボトルの水を一気飲みする。あまりに一気に飲みすぎて、水は気管に入った。咳き込んで止まらない。
「慌てて飲むから」
僕の手からペットボトルを取りあげて、彼はまた背中を摩ってくれた。笑いを含んだ僕好みの声が気持ちいい。咳が止まると酔いもマシになり、それを感じたのか彼の手も止まった。
「もう大丈夫だな?」
覗き込む彼の顔はすぐ傍だ。
たぶん僕は、スランプからの疲れで人恋しくなっていた上に、ひどく酔っていて大胆だったのだと思う。それに彼の声も手も顔も、とても好みだった。さっきまで飲んでいた店では心惹かれる出会いはなかった。いや、彼はその中にいたかも知れないけど、印象に残ってないから、店ではほとんど喋らなかったんだろう。今、交わしている会話も二言三言。自己紹介をしたわけでもない。物騒な昨今、何者とも知れない男だぞ。親切に見えるこの行為も、下心ありかも知れない…と、欠片で残った理性は警告する。
でもなんだろう、この感覚。自慢じゃないけど、一目惚れの相手をハズしたことはないんだ。
「じゃあ、先に戻るから」
と彼は言った。え? 下心なしなの?
彼を引き止めなければ。この勘、信じていいんじゃないのか?
自問は僕にその手首を掴ませた。ああ、やっぱり、ちょうどいい太さだ。どうして引き寄せずにいられる?
引き寄せて、それから――。
その唇は冷たかった。
咳き込んだために、僕の顔が熱くなっていたせいもあるだろうけど。
夜の外気が冷やしたせいかも知れないけど。
心地よくってたまらなかった。
実はその後、どうやら彼を強引にマンションにお持ち帰りしてしまったらしく、目が覚めると二人してベッドの中だった。もちろん何も着ていない。でもヤル気満々だったわりには酔いが回りすぎて、僕のムスコはまったく役に立たず、彼を抱き枕よろしく抱きしめて眠っただけだと、状況が物語っていた。
そんな僕の不甲斐なさを、彼は責めもしなければ笑いもしなかった。ああ、少し笑っていたけど、それは馬鹿にしたものじゃなく、
「俺も疲れてたから、すごく気持ち良く眠れたよ」
との言葉に付けられたものだった。
腕から解放すると、彼はすぐに起き上がって帰り支度を始めた。日はすっかり昇っていて、時計を見ると十時を越している。
「日曜日なんだから、もう少しゆっくりしていけばいいよ。俺は予定ないし」
肩より少し長い髪を無雑作に結わえながら、彼は振り返った。背中の肩甲骨の動きがきれいだ…などと見とれてしまう。
「日曜は完全休業日にしてるんだ」
取り立てて目を引く美人じゃないけど、嫌味のない顔だ。暗闇で見たとおり、男特有のごつごつした骨格感がない。学生ではなさそうだ。髪型から見て普通の会社に勤めているようにも思えなかった。かと言って、水商売特有の媚びた雰囲気もないし、服もユニ○ロかABC○ート辺りのカジュアルって感じだし。
あれこれ想像している間に、彼の身支度はすっかり整えられてしまった。その間、会話はなし。僕のことを詮索しないってことは、一晩限りの相手だと割り切っているのか。僕の方はそれで済ます気はなかったから、当然、名前も連絡先も聞いた。
「決まった相手、いる?」
「今はいない。でもしばらく作る気もない」
「なんで?」
「う〜ん、いろいろ面倒だから?」
何でそこで疑問形なんだよ? はぐらかされた感じがして、思わず笑ってしまう。
彼は結局、越野環と名乗っただけで、携帯の番号も連絡先も教えてくれなかった。「時々は昨日の店に顔を出すから」と言い添えたから、機会があれば会っていいとは思ってくれているのかも。
だけど、どうやらそれは僕の自惚れだったらしい。
僕は三日と空けず、出会った店に通った。でも会えたためしがない。避けられているのかと思うくらい。
友人達の話によると、彼の姿は時々見かけると言うから、常連には違いないようだ。人当たりがよく、すぐ誰とでも打ち解けるところから、水商売系の仕事をしてるのではないかと言うのが大方の意見。けど、実際に彼がどこの誰で、何をしているかを本当に知っている人間はいなかった。意気投合すれば一晩付き合ってもくれるらしい。「色々面倒だから、特定の相手は作らない」と言う彼の言葉は、まんざら嘘でもなさそうだった。
「やっと調子が出て来たね? ミューズが見つかった?」
三ヵ月後にカシニコフ先生が来日。ニューイヤー・コンサートでN響と共演するためだ。その間、僕に特別レッスンをつけてくれることになっていた。久しぶりに僕の音色を聴いて、開口一番に前述の言葉をくれた。まったく、我ながら現金な指だと思う。
越野環には会えないままだけれど、僕のピアノは『歌い』始めた。原動力が彼であることは間違いない。
この一目惚れは本物だろうか? それとも気の迷いだろうか? 今まで刺激をくれた『彼ら』とは違い、越野環とは音楽抜きの出会いだった。
でも指は正直だ。彼と言う存在を得て、歌うことを思い出したのだから。
モスクワは惜しくも二位。けど一位該当者無しの…って付け足しておこう。それとザルツブルグはおかげさまで獲れました。あとまあ、細かいコンクールなんかも。国際コンクールはほとんどが海外、入賞者はガラ(コンサート)とかでその地に足止め食う。日本に戻っても記念コンサートとかリサイタルとかに追われて、時間を自由に使うゆとりがない。一年なんか「あっ」と言う間に過ぎた。
何とか時間を見つけては例の店に行ってみるけど、やっぱり越野環には会えなかった。彼が出没するのは土曜に限られていることはわかっていたのに、僕の土曜の夜はたいてい、弾くにせよ聴くにせよ、仕事の予定が入っていたからだ。
クラシックに興味がなければ、ピアニストの名前なんて目に止まらないだろう。どんなに国際コンクールで名を上げても、彼に届くとは限らない。
会えないから美化し続ける。会えたなら錯覚だったと思うかも知れないけど、今の僕を駆り立てているのは、とりあえず彼なのだ。
だから僕はあきらめなかった。
「葉山くんは甘いものは大丈夫かい? 面白い店があるんだけど、行ってみないか?」
とあるオーケストラ付きコンサートの打ち上げで、親しくなったオケの若いメンバー達が二次会代わりに次へ行くと言うので、僕はそれに付き合うことにした。後援会のお歴々と母校の恩師へのお礼奉公――年寄りとご婦人方の相手はもううんざりだった。
「そこはね、チョコレートが肴なんだ。これがなかなか、洋酒に合うんだよ」
「ちゃんと合わせて出してくれるしね。そこのママさんがまた、名物なんだ。君、ビックリするぜ」
店の名前はヴォーチェ・ドルチェ。チョコレートで酒を飲ませ、そして大人の男限定の店だ。だからと言って、そのテの人間が集まるところじゃないらしく、客筋も悪くない。仕事帰りに独りで飲みに来ていると言うサラリーマン風情ばかりだった。
連れて行ってくれたメンバーが言った通り、そこのママを見て僕はびっくりした。
「いらっしゃいませ、大野さま。ごめんなさいね、カウンター席しかご用意出来なかったのだけど、よろしかったかしら?」
『彼女』は実に良い声だけど、それは腰に来るくらいの低音だった。きっちりとアップにされた髪に着慣れた和服は確かに女物、仕草も言葉遣いも。でも体つきはおよそ女性からはかけ離れていた。体格は立派で贔屓目にも体育会系男子にしか見えない。
「こちらのお連れさまは初めてのお顔ですわね? ようこそ、ヴォーチェ・ドルチェへ。素敵な時間をお過ごしくださいな」
多分、僕は呆けた顔をして『彼女』を見つめていたに違いない。そう言う反応に慣れているのか、にっこりと笑って席を勧めてくれた。
「ね、驚いたろう?」
ここを予約した大野さんが耳打ちした。頷く以外に答えようがない。
最初は衝撃的だったけど、すぐに慣れた。静かで落ち着いた店の雰囲気が気に入ったし、ぼたんさん(ここのママさん)が話上手なので会話も弾む。チョコレートで飲むアルコールがこんなに美味しいとは新発見だ。
初めての僕は、店のオススメに頼るしかない。カクテルの種類にだって明るくないから、何から何までお任せだった。もともと飲むのは嫌いじゃない。どんどんピッチが進み、調子に乗って注文しつづける。
「カクテルを侮らない方がいいですよ。見た目ほど軽くないから」
何杯目かを頼んだ時に、バーテンが言葉と水を添えた。意外に若い声だ。聞き覚えがあると思うのは気のせいだろうか?
目を上げて彼を見て、僕は思わず息を飲んだ。次にはカウンター内に戻りかけた彼の手首を引っ掴んでいた。その太さにも、感触にも覚えがある。
「こ、越野環?!」
「はい?」
薄暗い店内、カウンターの中も雰囲気を壊さないように、極力照明が抑えられている。灯りがゆらゆら揺れているから、キャンドルかも知れない。揺れる淡い光が、彼をぼんやり照らしていた。僕は手近にあった客席用のキャンドルを引き寄せた。更に彼の顔が浮かび上がる――間違いない、忘れたことのない越野環だ。
「えっと、どこかでお会いしましたっけ?」
やんわりと彼は、握り締めている僕の手を外した。
大野さん達やぼたんさんが僕を見ているのに気づいたけど、気になんかしてられない。すべての視線なんか無視だ、無視。
やっと会えた、僕の原動力。
何を話そう。
何から伝えよう。
大事な時に、なんで言葉って出て来ないんだろう?
でもこれだけは言っておかなくっちゃ。
「俺にはミューズが必要なんだ」
きょとんとした彼の表情に僕は心底見惚れて、自分が恋をしていることを実感した。
end
戀ふる(こうる)=恋している
2006.11.08
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