[ 恋に似ている ]                          



 
私には二つ違いの弟がいて、名を是枝孝正と言う。実は苗字が違うのだけれど、それは財閥系の跡取り娘と結婚して、相手の姓に入ったから。
 孝正は野心の塊のような男。計算高くて抜け目がなく、目的を最短で達成するためには徹底的に合理性を追求するタイプ。欲しいものは必ず手に入れるし、そのためにはどんな努力も厭わない。多分それは、善良を絵に描いた、お人よしな私達兄弟の父親の姿を見て育ったからだと思う。
 父は人に利用されやすく、他人の借金を背負わされたことも一度や二度じゃなかった。取立て屋にペコペコ頭を下げ通しの両親。子供心に恥ずかしかったことを今も忘れられない。
 働いて騙されて、また働いて騙されて、父は私が十四才、孝正が十二才の時に体を壊して死んだ。母が再婚したのはそれからすぐ。食べ盛りの男の子二人を抱えていたし、私の高校受験も迫っていたから、急がなければならなかった。
 再婚相手は資産家だったけれど三十以上も年上で、尚且つ、患った脳梗塞の後遺症で介護を必要としていた。言わば、家政婦が欲しかったわけで、その見返りとしての妻の座だった。財産目当てと陰口も叩かれたけれど、「重労働に対する正当な報酬」と母は割り切っていたみたい。おかげで私も孝正も、大学までちゃんと出してもらえた。
 私はもともと能天気な性格だったから、好きなようにすれば良いと言う母の言葉を鵜呑みにして、学生時代は好き勝手に過ごした。高校は部活のレスリングに夢中だったし、大学は文学部に進んで、何の役にも立たない哲学を専攻した。もちろん、レスリングはそのまま続け、学生チャンピオンのタイトルを獲得。その輝かしい成績が認められて、就職難だったけど体育大学の研究室助手の名目で、レスリング部のコーチに就くことが出来た。
 でも孝正は違う。大学は難関の国立大を選び、学部は経済学部に進んだ。その上、法学部でもないのに在学中に司法試験に合格。と言っても、法曹界に進む気はサラサラなく、法律に無知だったため騙され続けた実父と、同じ轍を踏むまいとの考えから。それに孝正は最初から財界にしか興味がなかったし。就職するアイテムとして、「在学中に司法試験合格」は有益だとの考えもあっただろう。結局、第一種公務員試験に合格して、彼は最初の就職先に財務省を選んだ。
 それも孝正にとって、スキルアップの一つでしかなかった。当時の霞ヶ関では、同期に事務次官が出た時点で定年前に退職、天下りが一般的だった。たった一つの椅子を狙うだけに長い年月を費やし、敗れ去っては元も子もない。最終目標がそれでは、あまりにも無駄が多すぎると考えた孝正は、まず三十才になるまでに「将来の事務次官」と目されることを目指した。
 それから有望な若手として、一番高く買い手が付きそうな時期を選んで結婚した。私と違って孝正は端整なので、好条件な縁談は引きも切らなかった。中には与党大派閥の領袖の娘や、元総理大臣の孫だかひ孫娘だかの名も。
「代議士なんて、選挙のたびに土下座するような職業はまっぴらだ。逆に総理大臣に頭を下げさせる側に立ってやる」
 そう言って孝正が選んだのは、日本有数の財閥係累。従順で、夫の邪魔にならないだけが取り柄の娘だった。これも母の再婚の時同様に打算的な結婚と揶揄された。でも彼はそれをねじ伏せるだけの実力を見せ付ける。省内での地位を上げ、家庭では妻への配慮を忘れない。もちろん仕事優先で家庭を顧みないことの方が多かったけれど、休日にはそれを補って余りあるほどの夫ぶりを演じて見せた。さっさと子供を作って、妻の関心をそちらに向けることにも抜かりがない。
 やがて妻の父が、この有能な娘婿を片腕と頼むのに、そう時間はかからなかった。省内・外で培った人脈を引っさげて退官、財閥ピラミッドの中核を支配する舅の下についたのは、三十三才の時。
 以来五年余、孝正は彼なりに定めた目標を、射程圏内に収めたようだった。種蒔のシーズンは終わり、芽吹いた草木が順調に成長し始める安定期に入ったのか、孝正は私の店・『ヴォーチェ・ドルチェ』に顔を出すようになった。
 



 Bar『ヴォーチェ・ドルチェ』はアルコールとチョコレートだけを提供する店。亡くなった義父から分けられた遺産で開いた。『男の隠れ家』をコンセプトに、女性客、嘴の黄色い学生はお断り。軌道に乗るまではしばらくかかったけれど、何とか自分と従業員一人が生活出来るくらいには、利益が上がるようになった。
 これは孝正の口コミ効果も過分にある。本人は顔を出さないまでも、さりげなく周りにここを紹介してくれたのだ――私はもともと男しか恋愛の対象に出来ない性質で、むやみやたらに大きい体格の割には、『大和撫子な女』でありたい願望が強く、店を開くにあたって、それらを隠さないことにした。自分の兄の性癖と、見慣れない姿に違和感を拭えなかったのか、孝正は開店してからは、ほとんど顔を見せなかった。
 人が人を呼び、客筋の良さが更に人を呼んでくれた。こう言う水商売にありがちな、その筋の人間が介入しようとしたこともあったけれど、常連客には警察関係者も少なくなかったので抑制されている。
 ここではどんなお大尽も、一介のサラリーマンも、ただ一人の人間でしかない。だからたいてい一人でお出でになる。孝正も、ひっそりと訪れては小一時間、過ごして帰った。見知った顔も時には在っただろうけれど、お互い会釈を交わすだけで、席を同じくすることはなかった。
 孝正の話し相手は、もっぱら『ヴォーチェ・ドルチェ』の二代目バーテンダーの越野環だ。彼は、初代で私と苦楽を共にしてくれた功さんが、寄る年波に勝てずに引退を考えた頃にここの常連となり、学生時代に居酒屋でバイトをしていたとかで、しばらく仕事帰りに手伝ってくれるようになった。その器用さを功さんが認めたのと、本人が転職を考えていたこともあって本採用にした。
 取り立てて美人ではないけれど妙に雰囲気のある子で、何気にお客様から人気がある。別に媚びるわけでもない。自分から話かけることもオーダーを聞くくらい。そして誰の誘いにも乗らなかった。男性専科を売りにしているせいか、お客様にはゲイの方も少なくない。その気のある人は必ずと言って良いほど、お茶や食事に、次の段階を期待して彼を誘うのだった。けれど、環ちゃんは決して外で会おうとしなかった。
「お客様とは、外で会わないことにしているので」
と、やんわり断る。誰にも等しく。それだからこそか、お客はわだかまりもなく、『ヴォーチェ・ドルチェ』を訪れる。彼を目当てにやっては来ても、一言挨拶を交わすくらいで満足し、後は自分の時間に埋没していくのだった。
 孝正はいつから、彼を話し相手にするようになったのだったか?
 最初はまず連絡を入れてから、ここにやって来た。私が用意した席に座り、決まったお酒を二、三杯、ゆっくりと味わって帰る。誰とも話すことはなく。それがフラリと予約も入れずに来るようになり、席もカウンターの決まった場所に取った。そしてカクテルをオーダーする。
「この前のは飲み易かったけど甘かったな。えっと、何て言ったっけ?」
「確かサイド・カーだったかと。ブランディ・ベースなんですけど、少し是枝様には甘かったかも知れませんね」
「そうだな、今日はもう少しシャープなのにしてもらおうか」
「ではギムレットを。ジン・ベースですが、よろしいですか?」
「まかせるよ」
 カクテルから始まった会話は、
「この前、付き合いでクラシックのコンサートに連れて行かれた」
「クラシック? お好きなんですか?」
「いや、俺はロックの方が好きさ」
「ロックですか? 何だか是枝様のイメージじゃないなぁ」
「俺のイメージだったら何なんだ?」
「そうですねぇ、ジャズとか、それこそクラシックとか」
好きな音楽などの趣味の話や、
「銀座の『レ・リーフ』の魚料理が美味いぞ」
「『レ・リーフ』? 三ツ星じゃないですか。そんな堅苦しいところ、俺には行けませんよ」
「いつもどんな所で食事してるんだ?」
「近所に安い中華料理屋が出来て、今はそこに入り浸ってますよ。ギョーザがとにかく美味くて、冷たいビールによく合うんです」
どこそこの料理が美味しいとか、そんな他愛もないことを話しているようだった。
 長く続くようでもなく、かと言って短く切ってしまうでもなく。ほどよい会話に、珍しく孝正の表情は柔らかだった。環ちゃんも――私は彼をこう呼ぶ――手が空いているようなら、孝正の前に立った。孝正が顔を見せるのはたいてい午前零時前後、終電の兼ね合いもあって、客の一番少ない時間帯なので、相手をし易いってこともあるだろう。
 孝正は仕事の顔を持ち込むようなことはしなかったけれど、それでもほんの時折、疲れや険しさをまとって口数が少ない日もあった。それを見てとると環ちゃんは黙ってカクテルを作り、無理に言葉をかけることはしなかった。
「環はお茶の誘いにも乗らないって聞いたけど?」
「ポリシーなんです」
「それはなぜ?」
「公私混同は嫌だから」
「なるほど、それであまり話もしないのか。俺とは比較的、話してくれるな?」
「是枝様は暇な時間にいらっしゃるので」
「それが計算してのことだったら?」
「え?」
「環を独占したいから、時間を選んでいるんだと言ったら、どうする?」
 孝正は『ヴォーチェ・ドルチェ』にいる時間を、穏やかに過ごした。小さい頃からを知る兄の私でも、滅多に見たことがないくらい素のままで。その目は時々、環ちゃんを追っている。シェーカーを振る姿や、別のお客のオーダーを受ける様子や、チョコレートを皿に並べる仕草を、優しい眼差しで、とても楽しそうに――孝正は、環ちゃんに惹かれ始めている。多分、環ちゃんも気づいているだろう。
「面白い冗談ですね? では光栄だと、お答えしておきます」
「巧いな?」
「慣れていますから」
「ふふ、今のところはそう言うことにしておくさ」
 孝正は欲しいものは必ず手に入れるし、今まで取りこぼしたことがなかった。時には強引に出ることもある。飴と鞭を使い分けて、駆け引きを楽しむことも。そして本人は気づいているかどうかはわからないけれど、手に入れた後には興味を失い、顧みないことが多い。その最たるものが結婚。財閥の一隅に揺るぎない地位を確保した今では、心は妻のどこにも存在しない。だいたい、最初から心なんて存在したのかも怪しいところ。私には、「将を射んとすれば、まず馬」としか見えなかった。それでも家庭人としては完璧にこなしているようなので、奥さんは感じていないかも知れない。お嬢さん育ちらしいし。
 環ちゃんはわかるだろうか?
「孝正は計算高いところがあるから」
「あはは、わかってますよ。是枝さんはぼたんさんの弟さんだけど、ここのお客様じゃないですか。それ以上でもそれ以下でもないです」
 彼は一笑に付した。いつもと変わらない調子。頭のいい子だから、一線を越えることはないと思う。でも、心の中まで覘くことは出来ない。彼の本心がどうなのか、私には計れなかった。ただ孝正と過ごすひと時を、環ちゃん自身は悪(にく)からず思っているように見えた。
 そして孝正にも、今までの「欲しいものは必ず手に入れる」的な強引さはなく、『ヴォーチェ・ドルチェ』での時間に自我を持ち込むことかはなかった。
 やがてヨーロッパのグループ支社を統括する本部を新しくドイツに設立するとかで、準備責任者として孝正が赴任することになった。
 発つ前日の夜、姿を現した孝正は、いつものように二、三杯のアルコールを口にして、これと言って特別な言葉も残さずに帰って行った。






「孝正、あなたったら、いつ帰ってきたの?」
「一ヶ月前。どうでもいいようなことに時間を取られて、ここに来るのが遅くなった」
 ある日の夜、突然、孝正が顔を見せた。一年半、いえ二年近くぶり。
 ヨーロッパに赴任している間、ただの一度も彼は連絡を寄越さず、実の兄でありながら、私は弟の帰国を経済新聞で知った。彼の所属する是枝グループが、ヨーロッパ支店の統括本部をドイツに置くことによって、更なる飛躍をとげること間違いない…とあり、その土台造りとEU経済界での存在感を示すのに、孝正がかなり重要な役割を果たしたのだと、記事は締めくくっていた。
「ますます偉くなったのねぇ」
「当然の結果だ。それだけのことはやってる」
 不敵な笑みを見せる。『ヴォーチェ・ドルチェ』では初めてかも知れない仕事の顔。だけどそれも、すぐに消えた。
 来て早々、指定席にしていたカウンターの席に彼が座ると、環ちゃんがオーダーを聞くために前に立つ。
「レパートリーは増えたのか?」
「たいして。是枝様のように、難しいものをオーダーなさる方は少ないので、十分、こと足りているんです」
「じゃあせいぜい目新しいものをオーダーして、環を育てるかな」
「お手柔らかに」
 年月の隔たりを感じさせない。時間は一時止まっていたに過ぎず、また動き出したのだ。
 心配しないではないけれど、二年前と違って環ちゃんの周りには、孝正以外にも『人』が増えた。若いピアニストに、小説家に、大学時代の後輩――孝正の入り込む余地があるかどうかはわからないし、私としては孝正を選んで欲しくない。きっと傷つき、どちらも失うものが大きいから。
 でもヴォーチェ・ドルチェでの時間は孝正には必要だわ。出来れば今のままの距離でいて欲しい。
 恋に似た優しい時間のままで。





                                       end.
 
                                  2007.10.19



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