scene3 毎朝、娘のエレナが三才になる孫娘のエイミーを連れてやってくる。娘一家はクリニックの隣――と言っても、車で行き来しなければならないが――で牧場を営んでいて、搾りたての牛乳や朝採りの卵、我が家の冷蔵庫の在庫状況に応じて、自家製のバターやチーズなどを届けにくるのだ。 エイミーはキッチンに続く裏口から中に入るや否や、一目散に奥の部屋へと走る。横切って行くリビングのソファでは、祖父の私が新聞を広げていると言うのに、 「グランパ、おはよ」 の一言だけで、キスは後回しにされた。 エイミーが何を置いても向かう先は、私の同居人、リックことリクヤ・ナカハラの寝室だ。まだベッドで熟睡しているリックの頬に、そのさくらんぼのようなピンクの唇を押しつけて起こすことが、彼女の日課だった。朝一番にエイミーのキスを受ける光栄に浴するのは、私ではなくリックなのである。 五分ほどするとエイミーを足下に纏わりつかせながら、覚醒しきっていない表情のリックがリビングに現れ、一人掛けのイスに近づく。 「おはよう」 そう言ってリックがイスに腰を下ろすと、やっとエイミーが私に朝のキスをくれるのだが、すぐに彼の方に戻り膝に乗った。 「おはよう、リック」 エレナがコーヒーの入ったカップをリックに差しだし、頬にキスをする。 「おはよう、エレナ」 リックは反対側の彼女の頬に頬を合わせて、挨拶を返した。その後で、エレナは思い出したように私にキスをする。リックと同居し始めてからと言うもの、朝はいつもこの調子だった。 「他人だから気を遣ってくれているんだろう」 とリックは言うが、そればかりとは言えないだろう。 とにかく昔からリックはよくもてた。私達は医学生実習の頃からのつきあいだが、彼が女性に不自由しているところを見たことがない。日本人にしては珍しく長身だが、リックよりハンサムな男がマクレインにはいくらでもいた。にもかかわらず、女性達はなぜか彼のベッドを選ぶのである。 どうやら五十七才になった今もその魅力は衰えていないらしい。エレナやエイミーはもとより、看護師のマーガレットもリックからの頼まれごとは文句を言わずにこなしたし、女性の患者は年齢に関係なく、彼の診察時間の方が多かった。さすがにベッドインに至ることはなかったが、田舎町のアシェンナレイクサイドでは、近隣の住人とはみな顔馴染み状態だから弁えているだけで、ニューヨーク同様に都会で後腐れのない相手がいればどうだか。 もっともリック自身に昔のような覇気は感じられなかった。日本人は淡白だと聞くし、若い頃にさんざん遊んでいたから、その手の欲は減退しているとも考えられる。 「リックはスマートだもの。脂ぎったところがないし、優しいし。話していても楽しくて年齢差を感じないの」 エレナのリック観である。他の女性達の印象も概ね、似たようなものだ。 人当たりがよくて、洗練された嫌味のない物腰。セックスアピール的なものはあっても、これ見よがしではない。笑顔もチャーミングだと評判だったし、もてる要素は揃っている。 それに私と同じ年でありながら、リックはかなり若く見えた。同居を始める際の約束通り二十ポンド痩せた私も、年齢よりは若く見られる方なのだが、リックは四十代前半と言っても通るくらいだった。東洋人は本当に年齢不詳だ。そんなだからエレナや、彼女の夫ジェームズの妹やその友達など、うんと年下の女性にとっても許容の範疇なのかもしれない。 ――スマートで優しい…か。案外、嫌味ったらしいし、根暗のところもあるんだけどなぁ。怒らせると恐いし。 子供っぽいところもある。頑固で素直じゃない。大らかに見えて中身は繊細だ。印象よりずっとアンバランス。 「そんなリックを知らないだろう?」 リックが洗面に行ったので私の膝に移ったエイミーは、呟きに小首を傾げた。 『そんな』リックを知っているのは、ここでは私だけだと、三才児相手にちょっとした優越感に浸っている自分に笑える。よもや、男に対してこんな感情を持つようになるとは。 リック以外の同性に、今までかつて心が動いたことはなかった。彼への気持ちが恋愛感情だと気づきはしたものの、だからと言って肉体的にどうこうなりたいと思ったこともない。でも最近は少々違ってきている。 シャワーの後、均整のとれた上半身裸のままの彼にウロウロされると、少しばかり心拍数が上がった。ソファでうたた寝している姿を見ると、飽きずに眺めてしまう。湖岸に並んで釣り糸を垂らし、静かな時間を共有する時、ひどく幸せな気分になれた。 久しく忘れていた恋情が、一つ一つの出来事で蘇るようだ。 抱きたいとか、抱かれたいとか、そこまではさすがに思わない――あと二十才若ければ、いやせめて十才若かったなら、事情は違っていたかも知れない――けれど、せめて「おはよう」、もしくは「おやすみ」のキスくらいはしてもらいたいものだと、毎朝の風景を見るたびに娘と孫娘を羨んでいる。 「エイミーはいいなぁ。リックにキスしてもらえて」 エイミーがまた小首を傾げた。 「グランパはリックにキスしてもらいたいの?」 「もらいたいねぇ。だってエイミーと同じで、リックのことが大好きだからね」 「じゃあ、『キスして』っていったらいいのに」 その通り。子供は素直だ。 「恥ずかしいよ」 あいさつのキスも気軽に出来ないなんて、幼なじみのモリーを初めて異性として意識した十一才の夏以来の感情だ。 エイミーが私の膝を降りる。顔を上げるとリックが戻っていた。 私は一瞬、ドキリとした。いつ戻ったのか、もしかしてエイミーとの会話を聞かれただろうか? 大きな声ではなかったが、子供の声は澄んで思いの外通るものだから。 「二人とも、卵はどうするの?」 朝食の支度をしてくれているエレナがキッチンから叫んだ。 「スクランブル」 リックはそう言うと、ダイニング・テーブルの方へエイミーを引き連れて移動した。 私も「同じく」と答えて、その後に続いた。 「おい、ちゃんとベッドに入れよ。風邪をひくぞ」 リックの声で私は目を開けた。ソファでうたた寝は彼の専売特許だったが、今夜は立場が逆で私が転んでいた。シャワーを浴び終えたリックが缶ビールを片手に、私を揺さぶり起こしてくれた。 「ありがとう。シャワーを浴びてから寝ることにするよ」 「じゃあ、俺は先にやすむから」 「ああ」 うたた寝の最中を起こされた私は、あくびをしながら手を振った。 私のその半開きの唇の上で、「チュッ」と軽い音がした。 「おやすみ」 それからリックの声。一瞬、何が起こったか理解出来なかった。微かだけれど確かな感触に、私の眠気は吹き飛ぶ。 「え?!」 もしかして、いや、もしかしなくても、今のはリックからのおやすみのキスではないのか? それもmouth to mouthの! 「今、キスした?」 「『おやすみ』のキスくらいするさ。家族なんだから」 やっぱり今朝のエイミーとの会話を聞かれていたのだ。でなければ、今まで言葉だけのあいさつで済ませていたものに、キスがついてくるはずがない。 まさかmouth to mouthでくるとは思わなかったけれど、でもリックは実兄のサクヤとはmouth to mouthだ。「家族なんだから」と事も無げなのは、彼にとっては普通のことなのかも知れないが、私を十分に動揺させる。 「家族って、思ってくれているのかい…?」 同居を始めて二年。私にとってリックは特別な存在だったが、彼にとっての私はどうなのかわからなかった。私の想いを知った上での同居でも、マクレインの頃と二人の距離間はちっとも変わらない。「仕事のために住むところをシェアしている関係」と言う、周りからの見方と大差ないのではないかと思っていた。 今のキスは、少なくとも私を家族と認めてくれたと言うことだろうか。 「俺はいつだって、そう思っているけど?」 リックの口調はあたりまえのことだと言わんばかりだった。 彼の思い出話の中に、ヴァイオリニストの兄以外の家族の話が出て来たことがない。家庭に恵まれていなかっただろうこと、そしてアンバランスな性格もそう言ったことが関係しているのだと、何となく理解していた。打ち解けているようで実はそうではなく、なかなか心の内を見せようとしないリックには、家族としての『あたりまえのこと』がどれほど特別なことか知っているつもりだ。 なのに私はその『特別』に付随したキスを、あくびの延長でうやむやにしてしまった。なんてことだ。 「じゃあ、もう一度。僕は『おやすみ』が言えなかった」 なるべく自然に言ったつもりだけれど、リックは変に思わないだろうか。実際、キスをねだっているのだから、変には違いない。 リックは苦笑しただけで、再度唇にキスをくれた。 「おやすみ、ジェフ」 そう言って離れて行く唇を私は追って、 「おやすみ、リック」 同じようにキスを返す。よもや返しが来るとは予想しなかったのか、リックは少し意外そうな表情で、でも気にする風でもなく受けると、寝室へと向かった。 私はそのまま、ソファに寝転がる。顔中の筋肉が緩んでいるのがわかった。 とても幸せな気分だった。そして恋愛対象としてか、家族としてかはともかく、リックのことを愛しているのだと、今更ながらに確信したのである。 (2013.02.10) (この二人は卯月屋novels『愛シテル』の登場人物です) |