scene2




 ホテルに戻れたのは、間もなく日付が変わる頃だった。
 さく也は部屋に入るなり、ヴァイオリンと共にベッドに仰向けに転がる。今回のツアーはヨーロッパでもアメリカでも予定外の出来事で予備日を使いきり、スケジュールにまったく余裕がない。おかげでニューヨークから一旦、東京の自宅に戻るつもりが、直接、関西入りしなくてはならなくなった。
 ここ一ヶ月、演奏会と移動の繰り返しで満足に休みが取れず、見た目の割には丈夫なさく也も、さすがに疲労を感じている。今夜は演奏会が終わったらすぐにホテルに戻り、ゆっくりバスに浸かる算段でいた。しかしスポンサーが用意した食事の席を断れなかった。今回のツアーはどうやらそう言うめぐり合わせになっているらしい。あと二つの日本公演を残すのみだが、はたして予定通りに終わるのかどうなのか。
 ベッド・ヘッドに埋め込まれたデジタル時計が目に入った。ちょうど日付が変わる。
 本当なら昨日――もう一昨日だが――は、半日だけでも自宅で過ごすはずだった。悦嗣に直に会えるのは三ヶ月ぶりである。彼はさく也が帰宅する午後から、調律の本職も、実家が開く音楽教室の仕事も休みにしてくれていた。久しぶりに過ごす彼との時間を、さく也はどれほど楽しみにしていたか。なのにウィーンでは恩師のための『何とか記念コンサート』に急きょ駆り出され、ロンドンでも予定外に王族出席のパーティーで弾くはめになった。そしてニューヨークでは悪天候で空港に丸一日、足止めされた。厄年にはまだ一年以上あったが、前厄と言うものがあるし、その前兆が現れているのではないかと、さく也は思った。
 疲れて重い身体を、ゆっくりと起こす。それからカバンの中を探り携帯電話を取り出した。
――声、聞きたい
 今夜、悦嗣はカフェ&バー『ローズ・テール』での仕事日だ。まだ帰宅していないだろう。タイミングが良ければ携帯電話に出るかも知れない。さく也は電話で話すことが苦手だった。しかし今は、とにかく声が聞きたかった。
 携帯電話が等間隔で点滅している。メールが入っているのだ。開くと悦嗣からだった。
『ホテルに戻ったら、携帯に電話してくれ』
 液晶に浮かぶその文字を指でなぞる。自分の心を察してもらえたようで、さく也の頬は途端に上気した。
 見とれている場合じゃないと言い聞かせて、さく也は悦嗣の電話番号を押した。
“もしもし”
 二回の呼び出し音で悦嗣が出た。さく也が声を発する前に、「今、戻ったのか?」と次の言葉が続く。
「食事に誘われて」
“声、疲れてるな? 大丈夫か?”
「大丈夫。ワインを飲んだから、それで」
 疲れているなどと言ったなら、悦嗣は気遣ってすぐに電話を切るに違いない。ワインを飲んだのは二時間も前、それも食前酒としてたった一杯だったが、さく也はそれを理由にした。
 次の演奏会先に直接行くことを連絡した時にも悦嗣の声を聞いているのだが、ひどく懐かしい。あの時は時間がなく用件のみの短い会話だったので、話した感じがしなかった。
 悦嗣の息遣いが、声に混じってさく也の耳に入る。少しでも会話を伸ばしたいのに、さく也の口からは短い単語しか出なかった。
――こんなことなら、もう二、三杯、飲んでおけば良かった
 そうすれば口下手な舌も、少しは滑らかに動いただろうに。もちろん、眠ってしまうリスクはあったが。
“そろそろ切るよ。今日、帰るんだろう?”
「…うん。一番の新幹線で帰るつもりだ」
“何時に起きるんだ?”
「五時」
“起きられるのか?”
 受話器の向こうで悦嗣が笑うのがわかった。
「自信ない」
 それでも起きなければ。オフは一日で、翌日にはまた仙台へ移動することになっている。悦嗣は仕事があって留守にするだろうが、彼の気配の残る部屋で過ごす方が、きっと心地よく休める。早く帰りたかった。
“じゃあ、俺が起こしてやる”
「え?」
“だから、時間は気にするな”
 寝過ごすことを恐れて、うたた寝程度で済まそうとしているさく也の胸の内など、悦嗣はすっかりお見通しだ。さく也は苦笑した。
“もう切るぞ”
 電話が終わってしまうのは名残惜しかった。しかしさく也はオフだが悦嗣には仕事がある。それに悦嗣がモーニング・コールしてくれると聞いて、現金なもので眠気も催してきた。さく也が素直に「おやすみ」と言うと、「それじゃあ、また」と悦嗣は返し、電話は素っ気無く切れた。
 悦嗣の温かな低い声音に代わって、機械音が耳に響く。余韻に浸ることも許さない無粋な音だ。さく也は携帯電話を折りたたみ、浅く息を吐くと、ベッドに転がった。
 あれだけ聞きたかった悦嗣の声だが、聞かなかった方が良かったかも知れない。声が消えた途端に部屋の静けさが迫ってくる。握り締めた手の中の電話が冷たくなって行くようだった。
 携帯電話を再び開く。さっきまで悦嗣の声が聞けた受話口に、さく也はそっと口づけた。




 どこかでアラームが鳴っている。ふんわりとしたコンフォーター(掛け布団)に包まり、夢うつつの中でさく也はその音を聞いていた。
――携帯…?
 のろのろと起き上がると、枕元の携帯電話は鳴り止んだ。時間は午前五時、着信履歴は悦嗣だ。約束どおり、モーニング・コールをしてくれたのである。さく也はすぐさま掛けなおした。
 ワン・コール鳴るか鳴らずで悦嗣が出て、「起きたか?」と笑いを含んだ声で言った。
「…起きた」
“じゃあ、ドアを開けてくれ”
「え?」
“今、部屋の前にいるんだ”
 起きたものの、さく也は覚醒しきっていない。だから悦嗣の言葉の意味を、すぐには理解出来なかった。一瞬の沈黙に、さく也の頭がまだ回っていないことに気づいたのか、彼は「ドアを開けてくれ」と繰り返した。同時にドアベルが鳴った。
 さく也は飛び起きて、素足のままでドアに駆け寄る。ドア・スコープを覘くと、そこには悦嗣が立っていた。
「エツ?!」
 今度は完全に目が覚めた。慌ててドアを開ける。
「おはよう」
 悦嗣が携帯電話を耳から外して笑った。しかしさく也は彼を部屋に入れるどころか、ドアを閉じてしまった――ひょっとして、願望が見せている幻ではないのかと思ったからだ。
 もう一度、ドア・スコープを覘く。それから表に立つ人物を確かめるように、今度はゆっくりとドアを引いた。はたしてそこには、正真正銘の悦嗣が立っていた。
「どうして?」
「ここに泊まったんだ」
 悦嗣はドアの中に入った。
「…ここに?」
「昨日のツィゴイネルワイゼン、良かった。照明室からでも、鳥肌が立ったよ」
 サラサーテのツィゴイネルワイゼンは昨夜のプログラムだ。起き抜けで、事情がよく飲み込めずただ見つめるさく也に悦嗣は、演奏会に来てそのまま同じホテルに部屋を取り、今、ここにいると話した。それから、彼はさく也の鼻を軽く摘んだ。
 さく也は瞬きした。
「今回のヨーロッパ、きつかったらしいな? ユアンからエースケ経由でメールが来てたぞ」
 仕事に関して何も言わないさく也を慮ってのことだろう。そう言うところにユアンはマメだ。いつも以上に少ないメールや電話も気になっていたが、ユアンのメールがなければ来ることは考えつかなかったと、悦嗣は正直に、そして苦笑混じりに付け加えた。
「じゃあ、なぜ昨日、ここに来なかったんだ?」
「終演後にすぐ戻っていればそうするつもりだったけど、遅かっただろ? 声が疲れていたから、おとなしく寝させた方がいいと思ったんだ。ゆっくり眠れたか?」
「眠れた。でも、」
 さく也は悦嗣の首に両腕を回した。
「眠れなくても良かったのに」
 微かに煙草の匂い。久しぶりの悦嗣の匂いだ。彼の腕に抱き返されて、幻ではないことを実感する。
「支度しないと遅れるぞ。始発に乗るんだろう?」
 耳元で悦嗣が囁く。彼の声が反響して、耳がじんと熱くなった。
「遅れても構わない」
 目の前に悦嗣がいるのだ。もう急いで東京に帰る理由はなくなった。今は、抱きしめられる腕を感じていたかった。そんなさく也の気持ちが伝わったのか、悦嗣の腕に力が入る。さく也は彼の首元に、額を摺り寄せた。
 髪に悦嗣の唇を感じそろりと顔を上げると、さく也のトレードマークである右目の泣きぼくろにキスが落ちる。
「わかった」
と言った悦嗣の吐息が鼻先にかかり――それから二つの唇はゆっくりと重なった。




                 (2010.08.17)



(この二人は卯月屋novels『Slow Luv』の登場人物です)
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