scene1


――早く、早く、今日が終わっちまうじゃないか。
 山田勇気はイライラと、タクシーの窓から流れ行く景色を見ていた。
 昨日今日と名古屋で小児救急の医学会であった。終了時間は午後5時。終わってすぐに新幹線に乗り込めば、遅番夜勤の鈴木を職員通用口で捕まえられる。そう算段して職場用の土産もあらかじめ買っておいたと言うのに、帰り際、旧友に捕まってしまったのだ。旧友だけなら蹴散らして帰るところだったのだが、恩師も付録についてきたものだから、つき合わざるを得なかったのである。
 何とか理由を付けて席を立ち、予定から二時間遅れの『のぞみ』に飛び乗った。駅からタクシーを飛ばしても、今日中に高柳記念病院に着くかどうか。
 それでも今日中に鈴木に会わなければ。一年に一度しかない大事な日――その日九月三十日は、恋人である鈴木健一の三十六回目の誕生日だった。
 



 教えられた通り、三号ベッドで鈴木の姿を見つけた。ちょうど診察が終わったのか彼が顔を上げる。入り口に立つ山田に気づいたので手招きすると、不思議そうな表情で近づいてきた。
「あれ、山田? 今日、学会で休みじゃなかったっけ?」
――おまえはそう言うヤツだよ
 山田は身体が脱力するのを辛うじて堪えた。
 大幅な速度オーバーにびびるタクシーの運転手を叱咤激励し、やっとのことで病院通用門に到着したのが午前零時十五分前。そこからここまで出来る限りの早歩きで来たのは、誰のためだと思っているのだろうか。
 鈴木は山田と違って、記憶の容積は狭量だ。覚えておく必要があるかないか簡潔に分類され、私事に関してはよほどのことがない限り、次々と新しい記憶に上書きされる。山田の誕生日でさえ、山田自身がさりげなくアピールしておかないと忘れそうになるくらいだった。それでも一応は覚えておく『重要な私事』には分類されてはいるようだが、仕事が忙しくなるとそれも怪しくなってくる。
 そんな有様だから、彼本人の誕生日など忘却の彼方だった。
「今、いいか?」
「いいけど。ああ、田川さんの点滴、頼むよ」
 鈴木が手にしたカルテに点滴の指示を書き込み、看護師に渡したのを確認してから、山田は先に立って歩き出した。




 二階の一般外来の総合受付は夜になると必要最小限に消灯される。特に日付が変わる頃には人気(ひとけ)がなく、長椅子をベッド代わりにして静かに休憩するにはもってこいの場所だった。ERとは階違いであったが、山田や鈴木は忙しい夜など、喧騒から逃れて休むために足を延ばした。
 山田はその総合受付のフロアを横切り、一際薄暗い、院外処方箋用のファックス・コーナーのところで立ち止まる。カバンを無雑作に放して、すぐ後ろをついてきていた鈴木に向き直ると、少しだけ背の高い彼の後頭部に左手を伸ばし徐に引き寄せた。
 驚いたように開きかけた鈴木の唇を、言葉が出る前に唇で塞ぐ。山田はもう片方の手を彼の腰に回した。
 お互いの誕生日は必ず、一緒に過ごしてキスをする――救命救急勤務の二人が同時に休みを取ることは難しい。だからどこかで重なるように勤務シフトを組み、合間を見つけてキスを贈る。それが二人で考えたささやかな誕生日プレゼントだった。
 歯列の間から差し入れた山田の舌先に、鈴木のそれが応えるように触れる。しかしそれ以上の動きはなく、ほどなく唇は離れた。深く触れ合うには場所が悪いし、時間もなかったからだ。
 山田の腕時計のアラームがピピピッと鳴り、午前零時を知らせた。
「ああ、そうか、今日…」
 鈴木は苦笑した。
「何のためにタクシー飛ばして帰ってきたと思ってんだ」
 山田は離した唇を近づけると、鈴木の下唇を軽く噛み、再び口づけた。
「マメだなぁ、山田は」
「おまえのためだから、マメになれるんだろう?」
 繰り返される短いキスは次第に熱がこもり、重なる時間がだんだんと長くなる。引き気味になる鈴木の身体を、山田は許さなかった。彼の後頭部にかけていた手を離してその右肩を掴み、抱き込む。鈴木の胸ポケットで院内用の携帯が震えていた。山田はそれに気づかないふりをして、口づけを続けた。
「こらこら、続きはオフになってから」
 鈴木が山田の顎に手をかけて押し剥がす。携帯電話に出て一言、二言話し、「戻るよ」と言って切った。
「同時のオフっていつのことやら。きっと一ヶ月後か二ヶ月後ぐらいなんだぜ」
と、名残惜しげに山田は鈴木を離した。
 昨今の医師不足が、ERの忙しさに拍車をかけている。救命救急はそれでなくても人気がない。二〇〇四年度から始まった新臨床研修制度で、インターンは複数科をローテーションで研修することになった。そこでの体験や実感が、後々の専門科選択時に影響する。すなわち、「多忙」、「常時の緊急対応」、「医療訴訟件数」等の理由によって敬遠される科が出てくるということだ。訴訟件数はともかく、はじめの二つは救命救急に不可欠だった。二〇一〇年度から制度改正されるが、どれだけ期待していいものか。
「俺、少しここで休んでいくわ。何だか疲れちった」
 一般外来待合の長椅子に山田は腰を下ろした。鈴木は夜勤だが、山田は日勤までオフだった。その日のうちに戻るため、名古屋からの徒歩部分をほとんど走ってきた。鈴木との時間が終わりに近づくにつれ、疲れがだんだんと山田を襲う。
 先んじていた鈴木が足を止め振り返った。
「明後日だぞ」
 その意味がわからず、「へ?」と間抜けた言葉を返す。鈴木は山田のところまで戻ってきて、緩めたネクタイを引っつかみ、唇が刹那、重なった。
 それから彼は山田の両頬の肉を指で摘み、外側に引っ張る。
「オフが重なるのは。半日だけだけどな」
「いててててて…。え、そうだったっけ?!」
 鈴木は頬から指を離した。
「予定通りに帰れるとは思わないけど、少なくとも何時間かは一緒に過ごせるはずだ。予定、入れるなよ」
 よくもそんなことを覚えているものだ。誕生日は忘れ去っているくせに…――頬を撫で擦る山田の表情からは、きっとそんな心の声が読み取れたのだろう。鈴木は笑って続けた。
「自分の誕生日なんかより、記憶するに値する。飢えてるのは、おまえだけじゃないってことさ」
 彼はそう言うと、階段に足早に向かって行った。
 一瞬見せた頬の赤みは、気のせいだろうか? 確認しようにも、すでに鈴木の姿は階段を下り始めていて、まもなく階下に消えてしまった。
 山田は身体を長椅子に横たえる。幸せの余韻に微睡みかけて、慌てて起き上がった。
――ちゃんとベッドで寝て、疲れを取って、体力温存しとかないと
 久しぶりに一緒に過ごすオフで期待もされているのに、「お役に立てない」では申し訳ないではないか。もたもたしている間に、焦れた鈴木に先手を取られて『形勢逆転』でもしたら、目も当てられない。
 そうと決めたら長居は無用。山田はカバンを掴んで通用口へと向かった。




                 (2009.06.01)


(山田&鈴木は、掌編・短編内の『イヴよりも大切なこと』の登場人物です)
    back