[ 彼は心理を眼鏡に隠す ]                          




 カシャン…と軽い音がした。
 控えで見ていた部員の意識は、射的の音とは異質なそれに向いた。記録表をつけていた小橋裕也(こはし・ゆうや)も顔を上げる。ちょうど上芝知己が屈んで眼鏡を拾っているところだった。音は落ちた時のものだったのだ。
 上芝の射は基本に忠実で、姿勢も正しく、こう言った失敗はまずない。眼鏡を払うなんて珍しいな…と思いながら、射位から外れ揖(ゆう=射技の始めと終りの礼)を行う彼の姿を追っていた小橋だが、弦音(つるね)が聞こえてあわてて目を戻す。射位では森野皓(ひかる)が行射を続行中だった。森野、二十五射を終わって中りは二十三。練習とは言え、試合並みに集中している。上芝は四十二射中三十。こちらも率的にかなりなものだが、途中から微妙に調子が下がったことは、表から読み取れた。入部してから何度か記録係をするうちに、これが上芝の一種、癖のようなものだと小橋は気づいていた。
「小橋、俺と代われってよ」
 森野の今の中りを記入した小橋の隣に、同じ一年の杉浦祥吾(しょうご)が座った。「上芝先輩を見張っとけって」と彼が耳打ちする。射位から下がった上芝の姿は、いつの間にか道場から消えていた。視界に入った副主将の高橋が親指で出口を差した。
(やれやれ)
 小橋は杉浦にペンを渡して、言われた通りに上芝の後を追った。




 私立遥明学院高校の弓道部は、開校と同時に創部された歴史あるクラブである。ただ対外試合の成績はあまりふるわず、サッカーや野球と言う花形部活に押されて、年々部員は減少し、ここ数年は常に廃部の危機に晒されていた。とうとう去年には「新入部員三名の確保」と「関東大会地区予選の突破」との必須条件を出されて、同好会格下げ寸前。それを救ったのは、現二年生の森野皓と上芝知己だった。
 森野は前主将の弟で、弓道の経験はまったくゼロの素人だったが、もともとの素質に並外れた集中力でめきめきと上達。弓を始めたばかりの一年生ながら、地区大会でベスト8に入った。上芝は一年の春に大阪から来た編入生で、中学から町の弓道場に通っていたらしく、一年生離れした射で他を圧倒、わずか一射の差で惜しくも四位だったが、遥明の知名度を上げるのには十分だった。一年生コンビの活躍もあって団体戦は準優勝の成績を修め、同好会格下げは回避されたのである。
 そして今年は個人戦一位(=森野)、二位(=上芝)、団体戦一位であっさり地区予選を突破し、関東大会に進むことになった。インターハイも夢ではなくなってきている。
「上芝先輩」
 小橋は前を行く上芝に声をかけた。振り返った彼の顔に眼鏡はなく、別人のように見えた。
 上芝は近眼の人間がしがちな、目を細めて物を見る表情を浮かべる。
「何や?」
 同じ部の一年生だと見てとると、前に向き直ってスタスタと歩みを進めた。小橋は構わず後ろについた。
「高橋先輩に見張っとけって言われました」
「眼鏡のスペア、取りに行くだけやぞ?」
「でもレク(レクリエーション)・ルーム、あっちですけど?」
 進む方向とは反対に伸びる廊下を差す。その先には関東大会前のミニ合宿中に寝泊りするレクリエーション・ルームがあった。部員の荷物はそこだ。
 上芝が苦笑した。「ご苦労さんやな」と言い添えて。
 この弓道部救世主の現二年生コンビは、創部史上、最強であると同時に問題児でもあった。森野はとにかく大の練習嫌いで、隙あらばサボる算段ばかりして姿を消す。部活中、道場に縛り付けておくのは至難の業だった。上芝は面倒くさがり屋で、気が乗らないと練習に身を入れない。集中力の持続時間が短く、練習メニューを平気で無視する。森野兄がいた頃は、当時の三年生が総出で監視していたが、彼らが卒業していくとそれもままならない。それで考え出されたのが、一年生に見張らせると言うものだった。
 白羽の矢が立ったのは、小橋と杉浦である。小橋は上芝に、杉浦は森野に弓道部へ勧誘されたと言う、ただそれだけの理由だった。
「そない怖い顔せんでも、ちょっと休憩するだけやんか?」
「まだ正規の休憩時間じゃないッスよ。それに先輩、今日は五十射も引いてないじゃないですか? 関東大会のメンバーは百引くように言われてるでしょう? もう夕方ですよ」
「素引きなら夜でも出来る。自分、おかんみたいやな?」
 渡り廊下から校舎に入る。上芝が学生食堂に向かっているのがわかった。本当に休憩のつもりなのかも知れない。それでも見張れと言われたからには、小橋も同行するしかなかった。副主将の指示は一年生には絶対だ。
 確かに上芝に勧誘されて入部したが、だからと言ってお守り役を押し付けられるのはどうなんだ――彼らがトンズラする度に探しに出される不条理を、小橋は体育会系一年生ながら感じずにはいられない。それは多分、杉浦とて同じだろう。彼の方がもっと大変だ。上芝は練習しないと言うだけで、誰かの視界内にいるのだが、森野は本当に姿を消してしまうからだった。小橋も杉浦も、高等部に上がってから弓道を始めた初心者である。他の一年生同様、自分達も練習をしたいのに、部活時間の半分を無駄にする時もあった。
「ほら」
 学食の一角に据えられた自動販売機の前で上芝は足を止めた。ポカリを二本買って、一本を小橋に差し出す。
「あ、ありがとうございます」
「これで同罪や」
 ニヤリと上芝が笑うので、小橋は思わず受け取った缶を押し戻した。「冗談やんか」と彼は、再度ポカリを渡す。それから自分の缶のプルトップを引いて一口含んだ。小橋はしばらく手の缶を見つめた後、素直に飲むことにした。体力づくりの基礎練習三昧で、身体は常に水分を求めていたからだ。
 上芝の道着の合わせには、眼鏡が差し込まれていた。落ちた衝撃で片方のレンズに大きなヒビが入っていて、細めの蔓(つる)は少し歪んでいる。直せば使えるものなのだろうかと、視力の良い小橋はそれを見た。
「先輩、コンタクトにしないんですか?」
 弓道初心者の素朴な疑問だ。引分けから会(かい)、離れと言う一連の動作に眼鏡は邪魔にならないのだろうか。弓道に限らず、どのスポーツでもハンデになることはあっても有利には作用しない。特にインターハイも狙える技量を持つと見なされる上芝なら、コンタクトにして当然だと思えるのに。
「顔にメリハリないからな、俺。それに知的に見えるやろ?」
 見慣れていないから、眼鏡のない上芝の顔は苺の乗っていないイチゴ・ショートのように、何か足りない感じはする。しかし、目の大きさはニ割り増しに見えた。
「見えるだけでしょ? マジな話、引くのに邪魔になんないんですか?」
「ならへんよ。正しい姿勢で引いたらな」
「さっき落としたじゃないですか」
「あれは…」
 上芝は何かを言いかけてやめた。代わりに「それに」と言葉を継ぐ。
「コンタクト合わへんねん。ハードは違和感ひどーて、前に慣れんうちに落としてパアにしたことがある。ソフトはきつい近眼と乱視やからなかなか度ぅ合わんし、手入れがメンドいからな」
「最後の理由は先輩らしいッスね」
「キツイな、自分」
 それにしても、少し時間をかければコンタクトには慣れるものじゃないのだろうか? 上芝の射はこの春からしか見たことのない小橋だが、確かに正しい姿勢で引く彼に、眼鏡の存在は感じられなかった。ただ、いつもそうとは限らない。 実際、今日は弦で払ってしまったじゃないか。
「慣れるん待っとったら、引き離される」
 上芝は独りごちた。まるで小橋の心の内の疑問に応えるかのように。言葉尻を捕らえ損なって、「え?」と彼に問い返す。上芝は唇の端を上げる笑顔を作るだけで、繰り返さない。
(もしかして俺、大事なこと聞き逃した?)
 ある意味、無敵の上芝の弱みだったかも知れないのに。「しまった」と言う表情が浮かんだのが、自分でもわかった。
 学食の入り口から声が聞こえた。弓道部員が数人、入ってくる。壁にかかった時計を見ると午後四時。予定の休憩時間だ。その一群の中には森野とそのお守り役・杉浦もいた。
「あ、上芝ぁ、ズリーぞ。先にフケて和んでんじゃねーよ」
 森野が上芝を指差して叫んだ。「あっ」と言う間に近づいてきて、上芝の持つ缶を指で弾いた。
「眼鏡、壊してしもて、スペア取りに来ただけや」
「何、言ってやがる。レク・ルームと反対方向じゃん、ここ」
 自販機に小銭を入れながら、森野はあきれたように言った。彼も二本、缶ジュースを取り出して、一本を傍らの後輩・杉浦に渡した。そう言ったところは、先輩らしく見えなくもない。ただし杉浦の手に渡ったのは甘いオレンジ・ジュース。彼は甘い物が大の苦手なのだが、後輩の好みなど把握しているはずもない。小橋はこっそり、飲みさしの自分のポカリと交換してやった。
「休憩済んだら、こいつらの射、見てやれってさ」
「俺、教えんの苦手やねんけど。おまえら、見て盗めよ」
「職人の修行じゃないっつーの」
「ほな、俺が見本見せるし。森野が指導しろや」
「えー、俺も引くのがいい! ジャンケンで決めよーぜ」
 このやり取りは笑いを誘った。「サボり魔だ」「ものぐさだ」「やる気が見えない」と、OBや三年生達にとって『頭痛の種』の二人は、しかしさりげなくカリスマ性を持っていて、姿が在れば輪の中心になる。今も、知らない間に彼らの周りには先輩、後輩問わずに人が集まっていた。会話はカリスマに似合わず低次元だったが、案外、そう言ったものかも知れないな…と小橋は思った。
「あほ。おまえの射は手本になるか。力任せに引くだけの、威圧する射ぁやんけ。見てるだけで疲れるわ」
 上芝はそう言うと残ったポカリを飲み干して、ゴミ入れに放り込んだ。それから学食の出入り口に向かって歩き出す。
「あ、逃げる気か?」
 森野の声に、「眼鏡、取ってくる」と上芝は応えた。道場を出た時同様、ついて行けと副主将が指示するので、仕方なく小橋は後を追う。
 今度こそ上芝の足はレクリエーション・ルームへ向かっていた。その後ろ姿を見ながら、小橋は学食を出る直前に彼が言った事を思い出す。冗談のような口調だったが、なぜか記憶の片隅に残る――力任セニ引クダケノ、威圧スル射。見テルダケデ疲レル
 それを聞いた時の感覚は、さっき、みんなが入ってくる前に聞き逃した上芝の言葉にも被った。それと連続行射で練習する際の奇妙な彼の癖にも。
「先輩?」
 前を行く上芝はレクリエーション・ルームのはるか手前で右に曲がった。それは弓道場への通路だ。つい十五分前に通った道を逆戻りしたことになる。
「今のうちに引いてく」
「眼鏡は? ダメになったんでしょう?」
 小橋の問いに上芝は、道着の合わせに引っ掛けていた壊れた眼鏡をかけた。歪んだ蔓のせいでヒビの入ったレンズの側が、不自然に下がる。
「これで十分」
と不適な笑みで答えると、足早に道場に入った。もちろん、一礼は忘れない。当然、小橋も後に続く。訳もわからないままに。


 気ままに見える上芝の行動を、彼が引退する三年の秋までの間、お守り役の小橋は時折、目にすることになる。漠然と感じた『感覚』の本質が、実はその気ままな行動のベースにあることに小橋自身が気づくまで、まだしばらくの時間が必要だった。




                                   
 end.
 
                                   2006.07.01


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