[ ひとつぶ ]                          



「最後に、お別れなさいますか?」
と葬儀屋は尋ねるが、すでにその手は棺の蓋にかかっていた。周りの一瞬の沈黙を了解と見なし、蓋が開けられる。次に顔を覆う白い布が取り去られた。
 目が半分開いていた。参列者の一人が、「そら未練があるやろう、まだ六十前やし」と呟く。
 まるでガラス玉のようだ。硬く、曇ったガラス玉。生きた人間のそれではなく、身体が死後硬直するのと同様、死んでしまえば目の光も硬直するのか。
 そうだね、父さん。きっと未練はあっただろう。生きることを楽しんでいたあなただもの。
 楽しみ過ぎて、家族を捨てたあなただもの。
 ざまあみろ…と、私は半開きの目蓋の奥のガラス玉に、声にならない言葉を贈った。


 通夜の夜は線香と蝋燭の火を絶やさない。母と妹と兄嫁は親戚の世話で忙しく、兄は葬儀屋と打ち合わせ中で席を外している。することのない私が火の守を任された。
 白木の棺の中には父だった男の骸が横たわっている。彼の死を知らされて東京から帰郷した時には、すでに身体は棺に納められていた。小窓から中が覗けるからと葬儀屋は勧めたが、周りの忙しさを理由に死に顔は未だに見ずにいる。
 父は十年前、女を作ってとうとう帰ってこなくなった。それまでも放蕩の限りを尽くし、母はいつも苦労をしていた。その姿を見て育った私達は、事情がだんだん把握出来る年頃になると、父を敬遠するようになっていく。母はせめて子供達が成人するまではと思っていたのだろう。出て行って三年後、妹の短大卒業を期に離婚が成立した。
 その父が倒れたと連絡が入ったのが、新年が明けてすぐ。徐々に筋力が固まって行く難病で、進行する部位によって闘病期間が変わるやっかいな病気だった。
「なんでお母さんが看病に行くん!?」
 妹から怒りの電話がかかって来た。母が、二年前から父と交際している女性と交代で看病しているというのだ。
「好きにさせとう。おふくろは言い出したら聞かんしな」
 兄は相手の女性と会ったことがあるらしく、「ええ人やし」と悪い印象ではなさそうだった。
 結局、闘病は二ヶ月足らずで終わる。気管と心臓の筋力に病気が進行したからだった。
「最後の最後に、妻孝行しよったな?」
 父方の伯父が私の隣に座った。
 複雑な事情で通夜も葬儀も、出来るだけ近い親族だけで行うことになった。焼香に訪れる客もまばらで、部屋は人気(ひとけ)がない。この伯父は、今回、兄と一緒によく動いてくれて、今夜も寝ずの晩を一緒にしてくれることになっていた。父が出て行ってからは、弟の不実を申し訳なく思っているのか、私達の後見人を買って出てくれた人でもある。
「妻孝行?」
「そうや。病気の進み具合によっては、ここが一等最後になることもあるんやそうや。そうなったら、いつ終わるとも知れん」
 伯父は胸の辺りを指差した。
「それにな、復縁が間におうて、美晴さん、遺族年金が下りることになってなぁ。あいつは放蕩もんやったけど、会社はきっちり勤め上げとうから、そこそこもらえる」
 母に父との復縁を勧めたのは、この伯父だった。三十年近く連れ添っていたのだから、せめて年金は受け取れるようにしたらどうか、この先どれだけ寝込むかわからないし、苦労するばかりで何も残らないでは、あまりにも割が合わないからと。
「伯父さんには今回、いろいろお世話になりました。母も兄貴も心強かったと思います」
 伯父はすっかり禿げた頭を撫でて、「いやいや」と手を振った。
 蝋燭が短くなってきたので、新しいのに火を移す。
「まだ顔、見とらんのやって? あんだけ嫌ろうてた美和ちゃんかって、ちゃんとお別れしとったぞ」
 蝋燭を替えて元の席に戻った私に、伯父は複雑な表情で言った。非難しているわけでもなく、だからと言って、私の行為を肯定しているようでもなかった。
「あいつは本当にしようのない奴やった。でも、お前達がこまい(幼い)時は、よう可愛がっとった。それは覚えとうやろ?」
 私は曖昧に頷いた。伯父の思い出話は続いて行く。そうやって、諭しているのがわかった。
 私達兄妹は幼い頃、確かに父が好きだった。母は彼の放蕩に疲れてヒステリーを起こしやすくなっていて、子供にとって厳しい母親だった。父は自分が好き勝手にしているせいか子供にも甘く、母のヒステリーから逃れる意味合いもあって、よく私達を連れて近くの海に出かけた。夏休みにはキャンプ道具を車に積んで、泊りがけの遠出になることもしばしば。冬はスキーや雪遊びに連れて行ってくれた。ただし、どのシーンにも、若くてきれいな女性が必ず付録でついて来た。彼女達は総じて子供に優しく、ガミガミ叱る母よりも私達は懐いていたように思う。私達が幼い頃の父には、多少、彼自身の楽しみを優先したところはあっても、良い思い出の方が多い。
「したら、顔、見てやったらどうな? 明日んなったら昼にはもう焼き場や。周りに人もおるし、ゆっくりお別れ出来んろう?」
「僕は生きてるうちに、最後と思うて会うてますから」
 母に頼まれて、一度、見舞ったことがある。妹の美和は父の生前は、ガンとして会いに行かなかった。他県に住んでいて仕事が忙しいと言う理由をつけていたが、会いたくないと言うのが本音だった。
 私は――私も、最初は母の言葉に従わなかった。妹よりはずっと遠くに住んでいたし、常に仕事に追われていた。「一生後悔する」と母は何度も口にした。別にそれに絆されたわけではない。娘に対してより息子に対しての方が容赦なく、あまりにしつこい電話攻撃にとうとう根負けしたのだ。
「別に、みんなと一緒でもかまんのです」
「聡が一等、キツイな」
 伯父は大きくため息をついた。本当は尚も一押ししたいように見受けられたが、焼香のため母方の叔母が入ってきたので、言葉はそれ以上、続かなかった。多分、私の顔には「見るもんか」と強い意思表示が出ていたことだろう。「しようないな」と伯父は再度嘆息し、叔母の方に身体をずらした。
 少し休んできたらと言う叔母のありがたい言葉に応えて、私はその部屋から出た。
 背中に棺の存在が視線のように感じられたが、私は振り返らなかった。
 

 母と共に看病し最期を看取った父の交際相手の女性は、棺が運び出されるのを見送ってひっそりと帰って行った。彼女の去り際、私は遺影に使った写真を手渡した。信州かどこかに友人達と旅行した時に撮られたスナップ写真で、楽しげに父は笑っていた。出て行く前のものだから、ずいぶんと若い笑顔だ。
「頂いて、いいん?」
「うちには他にも写真はありますから」
 たまたま傍らにいた叔母は変な顔をしたが、私は構わず彼女に、半ば押し付けるようにして写真を渡す。見る見る涙がその目に溢れて、彼女は深々と頭を下げた。
 復縁した母には妻としての肩書きと、遺族年金と、家と血を分けた子供が遺されたが、彼女には何も遺らない――二年の思い出以外には。その思い出を、彼女はどう消化して行くのだろうか? 
 火葬場へ向かう車列が彼女を追い越して行く。サイド・ミラーから小柄な姿を見送って、私は父の功罪を改めて考える。父は彼女に思い出以外、遺さなかった。『思い出』はこれからの彼女にとって功なのか罪なのか。そして私達にとっても、父との『思い出』は功なのか罪なのか。兄は事務的に葬儀を仕切り、母は妻としての役割を淡々とこなし続けた。妹は黙々と母を手伝い、私はと言えば久しぶりの故郷に居心地が悪くて、ただ言われるがままに動くことしか出来なかった。そこには父への愛情は感じられない。体裁ぶっているだけ。家族としての役割を演じ続けて、早くこの茶番が終わればいいのにと願うだけだった。少なくとも私は――妹もまたそうだと思っていたのに…。
「お父さん…」
 骨を拾う妹の手が止まる。そして搾り出すように「お父さん」を繰り返し、ぽたぽたと大粒の涙が灰の上に落ちた。母は妹の肩を抱き、つられて目頭を押さえ、やはり手を止めてしまった。涙は立ち会った親戚にも伝染する。兄と私は女家族の嗚咽を聞きながら、黙って骨を拾い続けた。
 骨は白い。父の功罪を問うなと言うごとく。無垢に回帰するのだと、無言で訴えかけていた。
 

 その日の内に初七日と精進落としを済ませ、日の暮れる頃には残った親戚も帰って行った。線香の匂いが充満する家の中で、翌日の帰り支度を始めた私は、波の音に気がついた。
 実家は漁村の一角にあって、庭の脇から続く細い道を抜けると、海へはすぐだ。通夜や葬儀で忙しいうちは聞こえなかった波の音は、弔問客も去り、夜本来の静けさを取り戻した家に、その存在を思い出させる。私はコートを羽織ると、音に惹かれて表に出た。
 子供の頃から行き慣れた海への道。磯の香りがきつくなるにつれ、波の音も鮮明になる。その音に混じって、私の後ろからついてくる足音が聞こえた。
 振り返ると兄だった。
「外に出る姿が見えたんでな」
 私達は並んで海に向かった。
 内海は凪いで、思ったより波の音は小さかった。夜の海はただ黒く、波は打ち寄せる時に白く光ってはすぐに消えた。
 私達家族は最初、比較的山寄りのアパートに住んでいたのだが、子供達の成長につれ手狭になったので、海の側に中古の一戸建てを見つけて引っ越した。アウトドアな遊びは何でもこなした父は、当然のようにサーフィンも素潜りも得意で、子供を遊ばせると言うもっともらしい名目をつけていたが、本人が一番、海を利用していたことを覚えている。
 兄と私はしばらく黙まり込んだまま、何も見えない夜の海をただ見つめ、寄せる波の音を聞いていた。冷たい春の風が頬を撫でるのも気にしない。
「美和が…泣いたんには驚いた」
 先に言葉を発したのは兄だ。
「多感な時に親父がおらんようになって、一等、荒れたんはあいつやし、今回も入院しとった時から一回も会うとらん。通夜も葬式も、手伝いに来た近所の人にしか見えんかったくらい他人行儀な感じやったのに」
「なんだかんだ言っても、美和は親父に可愛がられてたから」
「そうやな。むしろ、聡の方が冷たいて、伯父さん、言うとったぞ。中ん子(なかんこ)が一等キツイってな」
 兄はそう言うと、足元の小石を拾い上げ、海に向かって投げた。それから私に「仕事はどうや?」と尋ねる。帰郷してから、私達兄弟はあまり話しを出来ずにいた。初めてまともに口をきいているような気がする。しばらくお互いの近況を話したが、どうしても会話は途中で途切れがちになった。
 兄は地元の公立大学を卒業後、隣県で高校教師をしている。今度、教育委員会に移動が決まって、将来、教頭から校長へ至るラインに乗った。私はと言えば関東圏の大学を卒業した後そのまま地元には戻らず、フリーターをしながら物書きの真似事をして、最近ようやっと作家――それも官能小説――と呼ばれるようになった。正反対の性格であるが故に仲は良かったが、だからと言って話題が合うとは限らない。
 それに――海は幼い頃の思い出が多すぎる。何も知らない子供だった頃の、父を父として純粋に慕っていた頃の。
 穏やかな波の音が再び私達の耳を満たし、言葉は自然、消え失せた。暗い沖合いを見晴るかす視線の中に、漁船の小さな漁り火が入って、それをぼんやりと見つめる。多分、同じものを兄も見ていただろうが、私は彼を見なかった。空咳に紛らわせて、一、二度、兄が鼻をすすり上げたように聞こえたから。
 漁船が通り過ぎるのを見送って、私達はどちらからともなく来た道を戻り始めた。
「明日は何時に帰るんや?」
「朝飯、食ったら出る。明後日の夕方までに一本、書かなきゃなんないんだ」
「おまえの小説な、読ませてもろうとるぞ」
「少しは夫婦生活の『お役』に立ってる?」
「何、言ってんや。それよか出来ればもっとこう、未成年も読めるもん書いてもらえるとありがたいな。せっかく小説家の弟がおんのに、生徒に紹介出来んやろ?」
「そのうち芥川賞獲るから」
「期待せんとに待っとうわ」
 海から遠ざかるにつれ、兄と私の会話はようやく続くようになっていた。実家の庭から出てくる人影が見え、屋外灯で妹だとわかった。彼女は「晩御飯、出来たよ」と私達に声をかける。帰りの荷物の片付けを、そのまま広げて出かけた私への小言付だ。等閑な謝り方に更にツッコミが入った。妹は年々、母の口調に似てくる。きっと結婚して子供が出来て叱る時には、もっと似るだろう。私がくつくつ笑うと、彼女は変な顔をして、「さーちゃんは、いっつも真剣みが足らん」と頬を膨らませた。その頬をつまんでやると、つまみ返された。「まあまあ」と穏やかな口調で兄が取り成す。この構図は昔から変わらない。
 そうしてじゃれ合いながら私達は、庭の木戸を閉めた。


 穏やかに凪いだ海を窓に留めながら、新幹線が走る。春とは名ばかりの三月の海だが、沖はふんわりと霞んで暖かそうに見えた。
 三日前に同じ道を実家に向かった時、胸には何の感慨もなかった。仕事の締め切りと重なって、「面倒くさい」と思う以外は。
 徹夜で目途を付けて乗った行きの新幹線は、眠りを貪る場所でしかなかった。帰りは起きてはいたが、それは翌日の締め切りが気になって眠れないだけで、故郷を離れると言う寂しさでも、逝ってしまった者への感傷でもなかった。
 そうだと、私は思っていた。
 しかし海を見るうちに知らずに左頬を伝った一粒の理由づけは、結局、東京に着いて日常生活に戻っても、出来はしなかった。




「…と、言う話はどうだい?」
 空になったグラスを差し出す。受け取った環くんは、眉毛をへの字に曲げた後、破顔した。
「なんだ、小説のネタですか?」
「あ、クラリとしなかった? 傷心の主人公を慰めてやりたいと思わない?」
 新しいグラスをカウンターに乗せた彼の手を、私の右手が包んだ。環くんは驚く様子もなく、いつもの慣れた手つきでやんわりとそれを外し、「お客様とはお付き合いしないんです」と、これまたいつもの言葉を返した。
 私はこのバーテンが気に入っている。際立った美形ではないが、ほのかな色気を感じさせた。私だけじゃなく、ちょっとその気がある者は、必ず一度は口説いているのじゃないかな。この『ヴォーチェ・ドルチェ』 はそう言ったところじゃないから、無理強いは出来ない。それに客とは店以外で親しくしない…をモットーにしていて、お茶の一杯にも応じなかった。ついたあだ名が『凍れる花』――これはここのオーナーのぼたんさん(=男)がつけたらしい。夢見がちだと本人は笑う。
「何なに? 何か楽しいお話?」
 本格的に口説こうとすると、必ずぼたんさんが邪魔をする。これも恒例だ。
「二ノ宮さんが新しい小説のネタを教えてくれたんです」
「まぁ、今度はどんなお話なの? 縛り? 心中? この前の渡辺淳一郎っぽいのは、なかなか楽しませて頂いたわ」
「それが珍しく普通の話で、ホロリを狙ってらっしゃるらしいですよ」
 ぼたんさんが興味津々で、私の隣に座った。
「ぜひ私にもお聞かせくださいな」
 大きな手が上着の袖をつんつんと引く。
「口説く時にしか使わないネタだよ」
「あら、私じゃ駄目ってこと? にくらしいこと。でも環ちゃんにも使えなくてよ、二ノ宮さん」
「うん、また玉砕した」
 さざめく笑いが起こった後、新しい客が入ってきて、ぼたんさんはそちらに意識を移した。カウンターに座る別の客が、オーダーのために環くんを呼び、私の周りは静かになった。
 薄暗く静かな店内に、ぽそりぽそりと交わされる耳ざわりでない会話は、あの夜の波の音のようだ。センチメンタルでいて、心地よい。
 
 私は目を閉じて、波の音を懐かしんだ――左頬に、一粒が伝った感触を思い出しながら。
                                                          
                                    end.
                                                     
                                2006.06.19



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