[ 秘密は秘密のままに ]





――あ、呉羽
 午後の会議の休憩時間、正面玄関脇に設けられた喫煙場所に出た上川は、タクシーから降り立つ呉羽を見とめた。彼も上川に気づいたようで、社内に向いていた足を逸らす。
「よう、休憩か?」
「ああ。確かお前のとこも会議じゃなかったっけ?」
 上川の言葉に「大遅刻」と彼は肩をすくめた。作業服姿だから、現場に出ていたのだろう。彼は上川の左手首を掴み、腕時計で時間を確認すると顔を顰めた。その表情で、かなりの遅刻だと察せられる。
「俺、行くわ。そうだ、上川、今日帰り空いているか? 久しぶりに飲みに行かないか?」
「夕方からミーティングなんだ。定時は無理だと思うぞ」
「いいさ、図面引いているから、終わったら声をかけてくれ」
 呉羽はそう言うと、慌てて社内に入って行った。
 大きく歩幅を取って玄関ホールを横切って行く様が、上川のところからも見えた。長身な上に作業服の彼は、スーツ姿ばかりの中でかなり目立つため、見えなくなるまで追うのは難しくなかった。
 上川千尋(かみかわ・ちひろ)と呉羽一樹(くれは・かずき)は大学の同期だ。下宿先のアパートの部屋が隣同士で、学部も、選んだサークルも同じだったことから意気投合し、大学時代はつるんで過ごした。卒業後、上川は中堅の建設会社に、呉羽は院に進んでからスーパー・ゼネコンと呼ばれる大手に就職してからは、すっかり間遠くなっていた。四年前に双方の会社が合併。事実上、上川の所属した側が吸収されたのだ。合併後の本社勤務となった上川は、呉羽と十五年ぶりに再会した。
 片や営業部、此方設計部。巨大組織内での部署違いでは、顔を合わすことなどほとんどない。実際、合併して半年近く経ち、新プロジェクトの立ち上げ会議の席上で呉羽の姿を見るまで、同じ社屋に勤務していることを上川は知らなかったくらいだ。予期しない再会で驚く上川に、少し離れた席についた呉羽はニヤリと笑って見せた。学生の頃と変わらない、不敵とも取れる笑みだった。
 上川は二本目の煙草に火を点ける前に腕時計を見た。休憩に割かれた時間がいくらも残っていない。二十一階の営業本部フロアまで戻ることを考えると、二本目はあきらめなければならなかった。
――まったく愛煙家の肩身は年々狭くなるなぁ
 煙草を胸ポケットにしまって、全館禁煙の本社ビルを恨めしげに見上げた。午後の光が壁面にあたってキラキラと光っている。オフィスビルとしての高機能を持ちながら、さりげない芸術性が感じられる外観の社屋は、社内コンペの結果採用された、呉羽の設計によるものだと聞く。
「ヘビースモーカーのくせして、豪華喫煙ルームくらい作っておけよ」
 上川は見上げたまま、独りごちた。




 午後九時を回った玄関ホールは、まだ人が行き来していた。残業は奨励されていないし、コスト・カットの折、費やした時間全てが給料に反映されるわけではなかったが、毎日を定時で帰ることが出来ない社員が大半だった。上川もその一人だ。
 エレベーターを降りると、上川は喫煙場所に向かった。内外の温度差で眼鏡が白く曇った。春とは言え、夜はまだ冷える。先に着いた呉羽が、コートの襟を立てて煙草を吸っていた。
「すまん、待ったか?」
「いや」
 呉羽は携帯灰皿の中に吸いかけの煙草を突っ込み、それを合図に二人は歩き始めた。
 二人きりで飲みに行くのは学生時代以来で、二十年は経っているだろう。当時は周りも認める親友同士だったが、卒業してからは一度も会うことはなかった。お互いの結婚式にさえ、出席していない。
 計らずも会社が合併し、新規のプロジェクトに営業と設計の立場で参加することに決まってからも、そう言う機会を持たなかった。部署も違うし、『畑』も違う。会議で顔を合わせることはあっても、終わればそれぞれのテリトリーに戻って行った。二人が担当している足掛け三年の大型プロジェクトでも、居合わせることは稀だった。設計の総責任者ながら呉羽は現場が好きで、急ぎの図面がないかぎり席にいることは珍しかった。一方のプロジェクト開発推進本部に身を置く上川は、デスク・ワークと外部折衝案に忙殺され、こちらは机に縛り付けられている。かつての親友同士、同じ会社、同じプロジェクトの担当――実は二十年近くもまともに言葉を交わしていないなど、学生時代の二人を知る者なら、さぞ意外に思うだろう。
「こんな時間か、近場でいいか?」
 呉羽は上川の左手首をヒョイと掴んで腕時計を見た。
「スーツでも相変わらず時計、しないのか?」
 両手を自在に使う呉羽は、邪魔になるからと腕時計はしなかった。学生の頃は上川の左手で時間を確認していたのだが、今も変わっていない。
「携帯(電話)は? 時計代わりになるだろ?」
「カバンの中に入れっぱなし。あんなもの持ち歩いていたら、四六時中、追い回されるじゃないか」
「じゃあ仕事中、おまえと連絡取りたい時は、みんなどうしてるんだ?」
「側にいる誰かのところにかかってくる。一応、行き先だけはハッキリさせるようにしているからな」
「相変わらずだな?」
「相変わらずさ」
 会社から二ブロック先の角を曲がると、店先に赤い提灯を吊るした小料理屋が目に入った。
「結構、イケるぜ」
と言って、呉羽は先んじて暖簾をくぐった。




「上川のところって、子供いたっけ?」
 小ざっぱりした店内の一番奥の座敷に席を取る。飲み物以外は適当に料理が運ばれてきた。呉羽がその店の常連だと言うことが、店員とのやり取りでわかった。
「小一の息子がいる」
 呉羽が「おや?」と言う表情を浮かべる。自分たちの年齢からみて、上川の子供は少し幼く感じたのかも知れない。
「まだ小さいんだな。かまってやる時間、ないんじゃないのか?」
「まあな。休みの日は、だから大変さ。こっちは一週間の疲れを取りたいんだけど。いったい誰が子供を週休二日にしたのか、文句を言ってやりたいよ。呉羽のところは?」
「いない。出来る前に別れた」
 ああ、だからか…と上川は納得した。この料理屋で夕食を済ませて帰ることが多いのだろう。素朴な家庭料理と、さして高級ではない酒類。毎日食べても飽きない感じの品書きだった。
 学生の頃なら、知らないことは二人の間にはなかったが、今は知らないことばかりだ。二十年の月日は長く、それらを知るにはこのひと時では足りない。奇妙な緊張感。人見知りを隠して合コンの席にいる時のそれに似ている。会話は自然、途切れがちとなり、間を埋めるためには結局、仕事の話に頼らざるを得なかった。
 過ごした時間の思い出は何年経っても鮮やかで、上川の脳裏を去来する。きっと呉羽もそうに違いないはずだったが、一つの記憶が思い出話をすることを躊躇わせた。




 二人には秘密があった。




 大学の四年に上がる春休み――就職活動と卒業論文・製作のため、上川と呉羽は帰省せずに下宿先のアパートに留まっていた。
「呉羽、飯、買ってきたけど、どうする?」
「んー、もうちょい、キリのいいとこまでやっちまう」
「じゃあ、その間に味噌汁、作るよ」
 建築設計学専攻の呉羽は、論文と卒業設計を出さなければならず、論文だけの上川よりも忙しい身の上だ。その上、週末だけとは言えアルバイトが入り、就職活動も絡んでくる。さすがに体力に自信ありの彼も疲れを隠せなくなっていた。放っておくと空腹凌ぎの菓子パンしか口にしないので、上川は時間がある時、なるべく彼の食事の面倒をみた。と言っても、たいていファスト・フードやコンビニ弁当の類なのだが、菓子パンよりはマシだ。それに味噌汁くらいなら小学校の家庭科で習ったから、上川にも作ることが出来た。一度、それを出したら呉羽はすごく感動し、それ以来、味噌汁だけは手作りのものを要求するようになった。
「おまえの作る味噌汁、本当、美味いよ」
「だし入り味噌を溶くだけだぞ。具だって、適当に切って放り込むだけだし。栗原、料理上手いんだって。新学期始まったら、来てもらえば?」
「女子なんか来たら、時間取られるじゃねえか。作らせて、片付けさせて、『ハイ、さよなら』ってわけにいかないだろ?」
 呉羽の周りはいつも華やかだった。サークルでもコンパでも、目星い女子は彼狙いで、一声かければ喜んで食事の仕度に飛んで来ると思われた。
「いかないの?」
「いかないの。男の生理として」
「左様ですか」
 上川は自分の部屋よりも、呉羽の部屋で過ごすことが多くなった。卒論の資料やノートパソコンを持ち込んで、ホーム・ゴタツで眠る。建築学科のホープだった呉羽は、上川が専攻する建築計画学(都市計画)にも明るく、資料を調べるより彼に聞く方が早いこともあった。
「おまえさぁ、俺を辞書代わりに使うなよ」
と言いつつも、呉羽は忙しい中、上川の卒論に貢献してくれた。新年度最初のゼミ発表の目処がついたのは、彼のおかげだ。
 居心地の良い空間――就職活動、卒論の準備、合間に単発のアルバイト。上川もそれなりに忙しい毎日だったが、夜戻って、呉羽と一緒に食事をし、たまに晩酌をして過ごす時間は心地良かった。
 コンパの誘いが来ないではなかった。地方出身者が多い大学では、長期休暇の間、頭数を揃えるのに苦労するからだ。呉羽はもちろんそんなものに割く時間も、気もない。みんなそれがわかっていているので、上川に誘いが集中したが応じなかった。
「最近、断ってばっかだな?」
 大学生の嗜みとして、上川もご他聞に漏れずコンパにハマッた時期はある。
「昼間、歩き回ってるんだから、夜ぐらいゆっくりしたいさ。それに誰かさんの飯の仕度もしなきゃなんないし」
「後半は言い訳だな。単に年食っただけだろ?」
「失礼な。おまえより半年以上、年下だぞ」
 断りきれない誘いもあった。OBがお膳立てしたもので、呉羽が出られない分、上川には必ず来いとのお達しだった。内定しかかっている呉羽と違って、上川はまだまだ就職の口利きを頼むことがあるかも知れない。無碍に断ることも出来ず、ある日、久しぶりにコンパに出かけた。
 アパートに帰ったのは午前一時。呉羽の部屋にはまだ灯りがついていたので、いつもの癖でそちらに入る。
「ただいま。呉羽、飯、食った?」
「食った。味噌汁、まだ残ってるぞ。酒、抜くのに温めてやろうか?」
「うん。そんなに飲んでないけど、久しぶりだからさすがにクルな」
 コタツに足を突っ込むと、途端に睡魔が襲ってきた。次の日に会社説明会の予定が入っていたので、飲んだのはビールをコップに二、三杯、チューハイ一杯と言うところ。全盛期に比べたら飲んでいないにも等しいくらいだ。場の雰囲気にあてられ、疲れたせいもあるだろう。知らず知らずに上川の身体は、前に傾いでいた。
「上川、上川、ほら、眼鏡外せよ。型つくぞ。味噌汁はどーすんだ?」
 上川は頭を上げた。目の前に呉羽が見える。「もういい」と辛うじて答えると、彼の手が眼鏡を外そうとした。
「ああ、ごめん、自分でするよ」
 上川は眼鏡に指をかけた――と、手首をつかまれ指は離れた。弾みで眼鏡は外れ、軽い音を立ててテーブルの上を滑った。
 奇妙に間が空いて、上川は顔を上げる。呉羽が見つめていた。裸眼でぼんやりとした視界の中、彼だけがはっきりしている。
「呉…」
 上川の声は途中で途切れた。呉羽の唇が塞いだのだ。
 ぎこちなく重ねられただけの唇。場数を踏んでいるはずの彼には似つかわしくないキス。上川は何がどうなっているのか、すぐには理解出来なかった。ただ不思議と、拒む気持ちは湧かなかった。
 重なっていただけの唇は、一瞬の温もりを残して離れて行く。バツの悪そうな呉羽の表情を伴って。
 酔ってはいない。眠気も覚めた。離れていく彼の唇を追ったのは、だから上川のはっきりした意思。残った温もりが消えないうちに、再び、二人の唇は重なった。
 上川の髪に差し入れられた呉羽の手の指先は冷たかった。緊張しているのだ、あの呉羽が。自信家で、どんな時も動じない彼が。
 今度は唇が重ねられただけのキスではなく、呉羽は上川の下唇を軽く噛んで、開くことを促した。少し上川の唇が開くと、待ちかねたように彼の舌先が歯列を割る。勢いで仰け反った上川は、そのまま畳の上に倒れた。頭を打たなかったのは、呉羽の手があったからだ。
 冷たかった呉羽の指先は熱を取り戻し、抱き込むように肩を抱いた。もう片方の手が、上川の髪を梳く。その間も、キスは止まらなかった。
 上川は目眩を感じていた。それは甘い火照りとなって身体中に広がり、全てを委ねてしまいたい誘惑を呼ぶ。
 呉羽の唇が離れ、上川の耳朶を軽く啄ばみ、首筋に落ちたその時、どやどやと、夜中に響く足音が耳に入った。
 部屋の前の廊下を行く数人。酔って呂律が回っていない声が、「夜中だから、静かにしろよ」と嗜める。
 呉羽は身を起こして、そちらを振り返っていた。上川もまた、彼の肩越しに見る。急速に何もかもが冷めていくのを感じながら。
 呉羽は上川を引き起こした。うるさく行き過ぎた一行はどこかの部屋に入ったらしく、再び静けさが戻ったが、甘い火照りは戻らなかった。
 二人とも黙ったまま、壁に背をもたせて並んで座った。唇は二度と重なることは無く、あの数分が夢だったのではないかと思うほど遠く感じる。それでも触れ合う肩は離れられず、知らず知らずにどちらからともなく手を握った。
 そのまま朝を迎えるまで。




「そろそろ帰るか?」
 呉羽は上川に確認するが、すでに手には伝票が握られ、腰が浮いていた。上川は慌てて身支度をした。
 ここに入った時よりも、気温が下がっている。外に出た二人は、コートの前を合わせると歩き始めた。
 結局、あの夜の後、二人には何も起こらなかった。すぐに大学が始まり、更に忙しい日々が待っていて、すれ違う時間が増えていった。呉羽は大学の研究室に泊り込むようになり、そして決まりかけていた就職内定を辞退する。卒業制作は規模を拡大、論文も大幅に書き換えにかかった。大学院を受けることにしたからだった。
 上川は六月に内定が出て、夏季休暇の半分を帰省して過ごした。大学に戻ってからは本格的に卒論にとりかかり、泊り込みこそしなかったが研究室と図書館に詰めることが多くなった。
 アパートの呉羽の部屋は、夜になっても明かりはつかない。広い構内では専攻違いもあって顔を合わすことがなかった。何度か学生食堂で見かけ同席もしたが、他の友人を介しての会話しか弾まない。何かがあの夜を境に変わってしまったことは、顕著にわかった。以来、二十年余り、そのスタンスが続いている。
 最寄駅は会社を挟んで反対の方向にあったので、二人は行きの道を戻った。正面玄関の喫煙場所の辺りに差し掛かると、呉羽は急に立ち止まった。
「呉羽?」
「遅くなりついでだ、一本吸っていこう」
 口元に指をあてて喫煙の仕草を示した。上川の答えを聞きもしないで歩き出す。
 閉館時間を過ぎると、スタンド型の灰皿は片付けられる。昼間は喫煙場所らしい体裁が整えられるが、夜はただの『玄関脇』のスペースでしかなかった。前庭の常夜灯や玄関ホールの非常灯が完全な暗闇にしないまでも、充分に暗い。そんなところで男二人が立ち話をする姿は、かなり怪しいに違いなかったが、呉羽は気にせず煙草に火を点けた。
 上川は呉羽の火をもらう。一連の動作は沈黙の中で行われた。煙草を吸い終わるまで、会話がないままになりかねないと上川は感じた。その居心地の悪さを嫌って、話題を作る。
「この社屋、呉羽の設計だろう? 喫煙スペースは考えなかったのか? 外でしか吸えないなんて、冬は寒いじゃないか」
「考えたさ。それなりに確保もした。だから結構、無駄な空間が多いだろ? あれはほとんど、喫煙用に取ったスペースなんだぜ。例えばあそこ」
 呉羽はガラス越しに玄関ホールの上の方を指差した。十階分の吹き抜けの中央を渡す廊下が、表示灯や非常灯の光にぼうっと浮かび上がっている。あの渡り廊下の真ん中に、バルコニーのように左右に突き出た休憩スペースがあったことを上川は思い出した。見晴らしのいいところでの仕事の合間の一服は、さぞかし気持ち良いだろう――実現していたとしてだが。
「喫煙ブースなんて、隔離されるみたいで嫌だし、端から作る気はなかった。まさか全館禁煙にするとは思わないさ」
「呉羽ともあろう者が、読みが甘かったな?」
「ほっとけ」
 二人は互いを見合って笑った。今日、初めて出た自然な笑みだった。間の空気も和んで、上川は学生の頃の懐かしい雰囲気が戻った気がした。
 一本目が吸い終わり、どちらからとなく二本目に火を点ける。
 長い息で紫煙を吐いて、呉羽が言った。
「今抱えている仕事のキリが付いたら、ここを辞めることにしたよ」
 あまりに突然で、あまりに何気なく。ぼんやりと彼が吐く煙の行方を見ていた上川は、重要なこととも思わずに「え?」と普通に聞き返した。
「独立して、事務所を持つんだ」
「独立?!」
 今度ははっきりと聞き取って、声は大きくなった。闇に慣れた目が呉羽の表情を捉える。上川の驚く反応に、彼の口元がほころんだ。
「独立って、おまえ、ガーデン・シティの設計総指揮じゃないか?」
 二人が担当しているのは、四企業共同での駅前再開発整備事業である。ランドマークとなる高層ビル、コンサート・ホール、商業施設、高級ホテル等の複合施設を配して人工都市と為す、巨大プロジェクトだ。呉羽はランドマーク・ビルの設計を担当し、他の主だった建築物にも少なからず関わっている中心的存在だった。プロジェクトが動き出して四年目に入ったが、まだ全体の半分近くが残っている。
「俺の担当は本来、タワービルだけなんだよ。後はお手伝い」
 呉羽の実力は学生の時から周知だった。むしろ、今まで独立しなかった事の方が不思議なくらいなのだ。今回のプロジェクトで更に『顔』は売れただろうし、独立するにはいいタイミングかも知れない。その口ぶりから、設計部、もしくは上層部ではすでに決定事項であることが察せられた。
「退職までバタバタするだろうし、まともに話さないまま、また別れて行きたくなかった。だからケリをつけておこうと思って、今日、誘ったんだ」
 独立と言う言葉をまだ消化しきれずに、半ば呆けている上川に呉羽が続けた。
「ケリ…?」
 上川はうつむき加減になっていた顔を上げ、彼を見た。
「ケリと言うより、確認かな。あの時の気持ちを」
 『あの時』とは、大学三年の春休みのあの夜だ。上川にはすぐにわかった。誰も知らない二人だけの秘密――昨日のことのように思い出される記憶。
「おまえに触れた自分が信じられなくて、しばらく混乱した。確認するのが恐かったのかもな。上川のことを、ずっとそんな対象で見ていたのかって。同性愛を否定する気はないけど、いざ自分がそうかも知れないと思ったら恐かったんだ」
 呉羽があまりにまっすぐ自分を見るので、上川は視線を逸らせなかった。夜の暗い中で良かった。逸らすに逸らせないでいる自分は、どんな顔をしているかわからない。
 呉羽は、「だから逃げた」と続けた。何かに没頭することで頭を冷やそうと思い、急遽、大学院を受験することに決め、それを言い訳に研究室に逃げ込んだとも。
「卒論も設計も良い点をもらえたのは、上川のおかげだ」
 冗談めかして、彼は笑った。
「だけど気持ちを中途半端にしたままじゃ、何も解決しないってことがよくわかったよ。誰と付き合っても長続きしやしない。思い出の中でおまえはどんどん美化されるし。再会してみたら、ちゃんと年食ってたから、自分の純情さ加減にあきれたけどな」
 二本目の煙草は、ほとんど吸われることなく灰になった。呉羽は吸殻を携帯灰皿に突っ込み三本目を手にしたが、火は点けない。しばらく手の中の煙草を見つめて――
「おまえのことが好きだった」
 呉羽は目線を上川に戻した。
「二十年前に言えなかったことを、やっと言えた。こんな中坊(中学生)みたいな告白、今更言われても、おまえは困るだろうけどな」
 そう言うと彼は三本目に火を点けた。
「呉羽、俺は…」
 カラカラに乾いた喉から、やっとのことで上川は言葉を搾り出した。しかしそれは呉羽が止める。
 また二人は沈黙した。呉羽は煙草をふかし、上川はその煙を追った。時折吹き抜けるビル風に、煙はすぐに行方を失って消える。それでも目をやらずにはいられなかった。
 気持ちを落ち着かせるには、その沈黙は必要だったし、有効だった。
「二十年前へのタイムスリップは終わりだ」
 三本目を吸い終えて、呉羽は言った。声の調子が、普段のそれに戻っていた。ケリがついたのかどうなのかは、彼しかわからないことだ。ただ少なくとも、糸口にしようとしている。
「辞めるのは、いつなんだ?」
 だからなるべく、上川もいつもの自分に戻る。胸の内は多少なりとも動揺しているが、悟られたくなかった。
「中間決算までにはなんとか。こっちの現場は手を離れるだろうし、今度の長崎もそれまでには形になっているはずだから」
「そうか。きっとうちは、おまえのところに設計を頼むこともあるだろうな」
「優秀だからな」
「本当におまえは変わってないよ」
 上川は苦笑した。
 呉羽の手が上川の左手に伸び、手首を掴んだ。時間を見る彼の癖。時計の文字盤が見えるところまで引き寄せる。手首が出たおかげでコートの袖口から外気が入ったが、上川は冷たいと感じない。呉羽に触れられているところが、途端に熱を帯びる。
 呉羽は引き寄せた上川の手をしばらく見つめた。
 上川もまた、自分の手を掴む彼のそれを見つめた。
 二人とも、触れ合う二つの手を見つめた。
「誰だ?!」
 誰何の声がかかり、同時に小さいながらも鋭い光が二人を照らす。眩しさに思わず上川は手を翳したが、それより先に大きな影が光を遮った。呉羽が上川の前に立ったのだった。彼の肩越しに、相手が見回りのガードマンだとわかった。
「呉羽さんじゃないですか? こんな時間まで残業ですか?」
 ガードマンは呉羽だとわかると懐中電灯を地面に向ける。声音が親しげな調子に変わった。
「飲みに行った帰り。こっちは営業二課の上川課長。一服して、酔い醒まししていたんだ。悪いね、もう帰るから」
「そうですか、気をつけて帰ってくださいよ」
 さして怪しむ様子も無く、ガードマンは正面玄関の方に去った。残業で遅くなることが多く、退社時には必ずここで喫煙して帰るから、彼ら守衛係とは自然、顔見知りになっているのだと呉羽は笑った。
「今度こそ帰るか。終電に間に合わなくなる」
 そう言った呉羽に上川は頷きで答える。二人はここに寄り道した時同様、並んで歩き始めた。




 路線が反対方向なので、改札を入ったところで左右に別れた。何事もなかったかのように呉羽は軽く手を挙げ、乗り込むホームへのエスカレーターを上って行った。
 上川はその後ろ姿を見送る。頭が見えなくなるほんの一瞬、呉羽が振り返った。視線が合わなかったので、見ている上川に気づいたかどうかわからなかった。彼の姿が階段の上の方に消えた後、上川は反対側のホームへ上り始めた。
 上川の息子がまだ幼いのは、結婚が遅かったからだ。仕事が面白く、また忙しかったせいもある。好きな相手もいなかったし、結婚の必要性も感じなかった。しかし本当のところは、心の奥底にしまい込んだ思い出が邪魔をしたから。学生時代と、あの春の夜。どの場面にも、必ず呉羽の姿があった。
 誰とも本気になれなかったのは上川も同じだった。合コンや友人の紹介で何度かデートをしたが、そのたびにあのキスの感触が蘇った。時間が経てば経つほど、鮮明になる。成り行きでも、酔った勢いでもなく、自分はあの口付けを受けたのだと思い知らされた。
 上川がホームに着いた時、ちょうど向かいホームから電車が動き出すところだった。まばらな乗客の中に、こちらに背を向けて座っている呉羽の姿を見つけた。今度は振り返ることがなかった。
 呉羽は今月末から長崎に出張する。リゾート・ホテルの工事が着工されるからで、こちらのプロジェクトと並行することになり、現場が好きな彼は何度も往復することになるだろう。自身で言ったように退職まで忙しいに違いなく、二人きりで過ごす機会はもうないかも知れない。
 上川はベンチに腰を下ろした。ぼんやりと向かいのホームに目をやる。呉羽の残像が、自分を見ていた。


『おまえのことが好きだった』
 

 耳に残る呉羽の声に、別の声が重なる。鼓動が少し早くなり、頬は熱を持った。
 上川は自嘲気味に笑う。
 秘密は秘密の中に、秘密は秘密のままに――あれは確かに恋だったと、いつか過去形で語る日が来るまで、再びその想いを上川は胸の奥に沈めた。




                           
end.
(2008.03.09)




 親愛なる三鷹美咲さまに、この作品を捧げます 




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