[ 初恋の亡霊は静かに笑う ]                          



 大学の時、一度だけ久坂(くさか)とキスをした。俺達四回生の為の退寮会の後、彼の部屋で。
 お互いひどく酔っていた。いつ部屋に戻ったのか、どちらから言い出したことか、どう言うことでそんな気分になったのかも覚えていない。唇を合わせただけのガキのようなキスだったけど、温かく満たされた気持ちが心の中に広がったことは、今も鮮明だ。
 久坂はそのまま潰れて眠ってしまい、俺はと言うとすっかり酔いが醒めて、ナツメ球の光でほの明るい部屋の中、その寝顔を飽きることなく見つめていた。
 俺は、三年間、知らずに恋をしていたのだ――そう気づいた時、言いようのない切なさが、心を満たしていた温かな気持ちを食い尽くした。ため息に変った恋心を、俺は静かに吐き出した。


「それで?」
「おしまい」
「何もなし?」
「何もなし」
「ヘタレねぇ、環ちゃん」
 ぼたんさんのため息はいつも特大の鼻息に思える。でも口に出しては言わないことにした。前に入れ込んでいたホストに振られて号泣した時、泣き声が「恐竜みたいですね」とうっかり言ったら、グローブのような手でビンタをくらったからだ。あ、ぼたんさんと言うのはバー『ヴォーチェ・ドルチェ(voce dolce)』のママで、レスリングのフリー・スタイル96キロ級の学生チャンピオンだったと言う輝かしい過去を持っている。筋骨隆々で、ある意味豊満な体つきだが、正真正銘の男。年令は本人曰く「女性に年を聞くもんじゃなくってよ」――や、あんた、男だし。
 俺こと越野環(こしの たまき)はバーテンをしている。ヴォーチェ・ドルチェはオーナーがこんなだが、それ系のバーと言うわけではない。『おいしい酒とチョコレートを出すくつろぎの場所』をモットーに、ぼたんさんの他にはバーテンの功(こう)さんだけのこじんまりとしたバーだった。但し、男限定。それも青二才の学生はお断り。そこのところは、オーナーであるぼたんさんの趣味がはっきりと反映されている。
 功さんが米寿を迎え、さすがに連夜の仕事が辛くなって来た時に求人の募集をかけたのだが、ぼたんさんのお眼鏡に叶うのがなかなかいなかったらしい。たまたま客として飲みに来ていた俺が昔取った杵柄でカクテルを作ったところ――学生時代、カフェ・バーでバイトしていたので――、週3日ほどのバイトでいいからと頼まれたのが、ここで働くきっかけだ。
 俺がゲイだと言うことは、バイトを始めてすぐに気づかれた。
「そんなの、最初に見た時からピピッと来たわよ。私達、同類には鼻が利くの。チャンスは逃したくないものね」
 社会人になって五年目。どんどん忙しくなる仕事も、自分の性癖を隠すことにも疲れていた俺は、結局、会社を辞めてここで働くことにした。功さんはめでたく退職し、今は栃木の娘さんの所でのんびり隠居生活を送っている。
 今日は発達した低気圧のおかげで朝から警報が出るほどの大雨。夕方になって風は止んだけど、相変わらず雨は降っていて、ヴォーチェ・ドルチェは閑古鳥が鳴いている。早めに閉めるにしても、ある程度は開けておこうということになって、始めたのがお互いの恋の話だ。ここに就職して1年、そろそろ気心も知れて、プライベートなことも話すようになっていた。
「で、その後輩、今はどうしてるの? 時々は会ったりする?」
「いえ、卒業してからは全然。製薬会社に就職したとは聞きましたけど。後輩と言っても寮生としてだし、サークルも学部も違ったから、あんまり接点なかったんですよ、俺達」
「それでも好きだったのね、恋だわねぇ」
 俺の恋の話は大学の時のことだ。相手は久坂知章と言う一学年下の同じ寮生だったヤツ。俺は一浪していたから年令的には二つ下と言うことになる。久坂が入学してきた時、他の部屋が空くまでの半年間だけ相部屋だった。
「どこが好きだったの? 環ちゃんが惚れるくらいだもの、素敵な子だったんでしょうね?」
「俺が惚れるくらいの『くらい』って、どう言う意味ですかね?」
「だってあんた、誰にも本気にならないじゃない? 『凍れる花』って呼ばれてるの、知らない?」
「『凍れる花』ぁ? なんすかそれ?」
 そんなドリーマーなあだ名、いつの間についたんだか。思わず吹き出してしまうじゃないか。
「いつも黙ってお酒を作るだけ。同伴もアフターもなし」
「同伴にアフターって、ここはそんな店じゃないでしょーが」
「ものの例えよぅ。出勤前にお茶とかってこと。誘われたこと、あるんでしょう?」
「なくはないけど、ここのお客だったかな?」
「いえ、私関連。紹介しろってうるさいの。片っ端から玉砕するから、そんなあだ名が付くのよ。ちなみにつけたのは私」
「ドリーマーですね?」
「ロマンティストって言ってよ」
 久坂の事が好きだったんだと気づいて、自分が実は異性にまったく興味がないことを自覚した。女の子との経験はそこそこあったけど、そこに恋やら愛やらあったのかと思い返すと自信がない。だいたい、二十歳前後はヤリたい盛りだから、そこに準備オッケイの女の子がいれば、男の生理として乗っかってしまうものじゃないだろうか? ああ、これは、あくまでも俺の主観だな。世の中の二十歳前後のみんながみんな、そんな不埒な考えを持っているとは思わない。ただ俺の場合、女の子とのセックスはマスタベーションと何ら変りなかったような気がする。気持ち悦ければそれで良し。時々、最中に面倒くさくなることもあったし。最低です。
「それで、久坂くん? 彼のどこが良かったの?」
「興味津々ですね、ぼたんさん?」
「今後の参考のために、タイプを聞いておかなくちゃ」
 え、それって…。
「やーねー、あんた、私の好みじゃないわよ。もっとこう、ガッチリ胸板厚くなくっちゃ」
 ぼたんさんがレスリングを始めたのは、自分と同じくらいか、もしくはデカイ相手と正々堂々、組んず解れつ出来るからと言う、これこそ不埒な動機からだったらしい。どう考えても俺では役不足だ。俺はどっちでも構わないけど、ぼたんさんは心は乙女なので常に受身な方だと思うから、俺の薄っぺらい胸では受け止めきれない、受け止めたいとも思わないけど。その前に、俺にだって許容範囲があるから。
「早く言いなさいよ。どこが好きだったの?」
 久坂の好きなところ――そう言えば、俺はあいつのどこに惚れたんだろう? 先輩寮生の俺に、入寮直後から平気でタメ口たたく生意気なヤツだった。ズボラかと思うと変に几帳面なところがあって、クツは揃えろだの、寝る前に歯を磨けだの、同室の時はうるさかった。結構、料理が得意で、日曜日なんかはよく昼食を作ってくれたっけ。でも、そんなことぐらいで? 何かもっとあったはずなのに、あまり思い出せない。
 好きだったと言う感情だけがハッキリ残っていて、それ以外は記憶に残っていないのだ。
「わかりませんね。だって意識したことなかったから。何しろ退寮する最後の日に、好きだったことに気づいたくらいだし」
 翌日、起きたら俺はベッドに寝かされていて、久坂はコタツにもぐっていた。一応は先輩に布団を譲ってくれたと言うことだろう。最後の最後に年上扱いしてくれたわけだ。コタツで寝たおかげで寝違えて首が痛いと、あとで散々文句は言われた。
「まさしく恋の真骨頂ね。恋に落ちるのに理由はいらないって典型」
「あはは、本当にぼたんさん、ドリーマーだなぁ」
「でも、実は今でも好きなんでしょう? 環ちゃん、いい顔してるわよ」
「まさか、何年前の話だと」
「成就しないまま、キレイに終った恋はね、理想化されてしまうものなのよ。特に初恋の場合ね」
「初恋? 俺の初恋は小学生の時でしたよ」
「それは女の子?」
「もちろん」
「じゃ、やっぱり初恋じゃないの。男は久坂くんが初めてなんでしょ?」
「それはそうだけど」
 成就しないまま、キレイに終った恋は理想化される――確かにそれはあるかも知れない。
 自覚してから何人かと付き合ったけど、どれも長続きしなかった。ようやくお互いの性格なりを知って、これからってくらいになると途端に冷めて、だんだん間遠くなる。そして自然に消滅する。このパターン。
「初恋は実らないものなんだから、そんなもんでしょう? 俺の話はこれでおしまい。次はぼたんさんですよ」
「私の話なんて、環ちゃん、腐るほど聞いたでしょう?」
 そりゃ、聞いたけど。これ以上、俺の話を掘り下げられても。
「環ちゃんの話の方がよっぽど新鮮だわ」
 時計は午後11時になったところ。開店して四時間経つけど、今だに客なし。グラスを磨くのにも飽きてきた。そろそろぼたんさんの好奇心満々な目からも、解放されたい。
「あら、いらっしゃいませぇ」
 救世主到来。
「今日みたいな日でも開けているんだね、助かったよ」
「お珍しいですわね、樫山さま。今日はお連れがいらっしゃるのね?」
 常連客の樫山さんだ。いつも一人で来ては、ベルギー産のチョコレートとぼたんさんオススメの洋酒を飲んで行く。ヴォーチェ・ドルチェの常連はたいていこのケースが多い。ふらリと一人で立ち寄って、2、3種類のチョコレートとそれに合わせた酒を、ゆっくり味わっていく。元が取れているかどうかは別として、毎日、それなりに席は埋まっていた。
 ぼたんさんが言うように、今日の樫山さんには連れがいる。若いのが3人くらい。本当に珍しい。
「彼の送別会でね、最後だから僕の隠れ家に連れて来たんだよ。何か適当に出してもらえるかね?」
「わかりました。皆さん、甘いのは大丈夫かしら?」
 表情がやっと見えるくらい落とした照明だけど、連れの三人がぼたんさんを見て多少、驚いているのがわかる。最初にここに来た客はまず、『彼女』を見て似たような反応をするから面白い。斯く言う俺もそうだった。190近い長身に広い肩と厚い胸板。どう見ても男にしか見えない四角い顔…にもかかわらず厚化粧で形(なり)は女なんだから無理もない。ちなみにぼたんさんの仕事着は和服。銀座のママに激しく憧れているからだった。
「じゃ、環ちゃん、これでお願いね」
 送別会の3次会くらいか。まずはシャンパンで乾杯ってところだろう。チョコレートはビター・テイストのアマンド・ショコラ。甘いのが苦手なヤツがいるんだなと、一年経ってようやくわかるようにもなって来た。
 やっといつものヴォーチェ・ドルチェ――やれやれだ。


「越野さん」
 気がつくと、カウンターに一人座っている。樫山さんが連れてきた三人の内の一人だろうが、聞き覚えのある声だった。
「誰?」
「俺。久坂です」
 久坂? 久坂知章?
「おまえ、久坂か?」
 手元を照らす為のミニ・キャンドルを一つ、カウンターの上に置いた。小さな炎の向うに、懐かしい顔が浮かぶ。
「久しぶり」
と笑う顔は確かに久坂だった。
 小説なんかでよくある話だ。初恋の相手とか過去の恋人の話なんかをすると、決まってそいつが偶然にも登場する。まさに今、その状況だった。
「ひさしぶりだな、元気だったか?」
「それはこっちの台詞だ。どこに雲隠れしたかと思ったら。確かメーカーに就職したんじゃなかったっけ?」
「一年前に転職したんだ」
 ぼたんさんがオーダーを持ってやって来た。ちらりと、久坂と俺を交互に見る目は意味深な表情が浮かんでいる。俺の前に座る男が件(くだん)の久坂だと気づいたのかどうかはわからない。ただ出来たカクテルを手にして戻る際、ウインクを寄越した。
「何か、作ろうか?」
「じゃあ、ドライ・ジンを」
 ドライ・ジンに合うチョコレートって何だろう。とりあえずヴォーチェ・ドルチェ特製のチョコ・クラッカーでも出しておく。
「髪、長いから初めはわからなかった。結わえたの見て、越野さんじゃないかって気づいたんだ」
「ここのオーナー命令。長い方が似合うし、それっぽいからって」
「確かによく似合ってる」
「そりゃ、どーも。おまえは小奇麗になったな?」
「営業ですから、身だしなみはちゃんとしないと」
「大人になったなぁ」
 トレードマークだった不精髭も剃られ、金田一耕助みたいにボサボサだった頭も、こざっぱりと刈り上げられている。あの頃の面影は、口調の中にしか残っていないように思えた。
「変った店だな? 酒のアテはチョコレートしか置いてないなんて」
 カウンターの脇に設えられたチョコレート専用の冷蔵庫兼ショーケースを、久坂は珍しげに見ている。ぼたんさんを見た時同様、これも初めて来た客の典型的な反応と言える。
「ぼたんさんが好きなんだよ。そのチョコ・クラッカーも彼女の作」
「彼女って、あの人、男だろ?」
「心は純真可憐な乙女だそうだから、彼女って言わないとすねるんだ」
 久坂が噴出した。声を抑えた笑いが、拳で隠した口元から漏れている。俺も釣られて笑ってしまった。久坂の肩越しにこっちを窺い見るぼたんさんの大きなシルエットが見える。残念ながら、あなたの期待する甘い会話にはならないと思うよ。


 樫山さん達は小一時間ほど飲んで帰って行った。帰り際、チョコレートの詰め合わせがぼたんさんから久坂に渡された。久坂は親父さんの経営する会計事務所を手伝うために、会社を辞めて実家のある明石に帰るのだと言う。
「いつの間に会計士の資格なんて取ったんだ?」
 大学の時はバイトに明け暮れ、前後期の試験の度に「あれもこれも落としたかも」と大騒ぎしていたのに。
「俺は案外、堅実なんだよ」
 来週の大安に交際中の彼女と式を挙げるのだとか。本当に堅実だ。と思ったら同期と思しき若い連れが、「出来ちゃった結婚なんです」と教えてくれた。別に出来ちゃった婚が堅実の否定にはならないけど。
 彼らが帰ると、店の中は途端に静かになる。今夜、ぼたんさんがセレクトしたBGMは途中からバラードばかり。なんだか意図的な物が感じられて、俺は苦笑せずにはいられなかった。
「でも、いい男ねぇ、久坂君。環ちゃんが面食いだって、よーくわかったわ。それで? 何年かぶりに再会した初恋の君はどうだった?」
 多分、この一時間弱、聞きたかったことに違いない。
「さすがに変ってましたね。今はあんなですけど、学生の時はもっと小汚かった」
 擦り切れたジーンズによれよれのTシャツがトレード・マークだった。ジーパンが擦り切れていたのはファッションなんかでよくある態(わざ)とのものではなく、本人がそればっかり履いた結果の産物。だから擦り切れ方、破れ方はちっともかっこ良くなかった。冬はTシャツがトレーナーかセーターに代わる。その上に半天をひっかけてコタツで丸まっていた様は、どうにも売れない小説家っぽかった。ああ、これは小説家さんに対して失礼だな。
「それがあんなにこざっぱりしちゃって、なんだか別人に見えましたよ」
「残念?」
「そうでもないけど、隔世の感が。何年も経ったんだなぁって感じかな」
 自分の性癖を自覚するきっかけをくれたのは久坂だけど、懐かしいと思う以外、大した感慨もなかった…ように思う。結婚の話を聞いても、特に気にならなかったし。実際、暇つぶしに過去の恋愛談をぼたんさんに話すのでなければ、思い出しもしなかったろう。
 好きだったのは、あの時代の久坂だったんだ。俺の知っているのは、寮で一緒に過ごした三年間の久坂だけ。ズボラで、それでいて変に几帳面で、豪快に笑って、情に厚くて――傍にいて妙に安心できる。そんなあいつが好きだったんだ。
「環ちゃんは小汚いやさぐれ系が好みなのね、わかったわ」
 ぼたんさんの声。洗い物の手が知らずに止まっていた。いけない、久坂知章学生編を懐かしんでいるだなんて知られたら、これから先、からかいのネタにされるに決まっている。
「いや、そんなでもないですけど」
「私はね、初恋って幽霊になり易いものだと思うの。何だかんだで一生その人に取り付いていくのよ。新しい恋をすると、どこからともなく迷い出てきて、人の恋路を邪魔したがるの。結局、同じタイプを好きになってしまったりしてさ。だからきっと、またあの子と同じようなのと恋に落ちるのよん」
「初恋を幽霊に例えるなんて、文学的ですね?」
「文学部哲学専攻ですもの」
「え、体育大学じゃなかったんですか?」
「それは最初の勤め先。失礼しちゃうわ。筋肉馬鹿じゃなくってよ」
 初恋の幽霊…。
 じゃあ、俺も、六年前の久坂のことを何だかんだで想って行くんだろうか?
 あの時の、あの子供っぽいキスの感触を、時々思い出して、いつまでも忘れずにいるんだろうか?
「今、幽霊が出たでしょ? あの時のキス、思い出した?」
 ぼたんさんにはかなわない。さすがに人生経験が違う。だけど肯定するのはちょっと癪だから、言わずにおくさ。
「今夜は早く閉めるんじゃなかったんですか?」
「ああ、そうね。そろそろ閉める用意しましょうか」
と時計を見てぼたんさんが言ったところでドアが開いた。常連さんが顔を覗かせる。
 帰るモードに入っていたぼたんさんだけど、低音を甘く響かせて「いらっしゃいませ」と席を立った。『彼女』はバリトン歌手並の美声の持ち主なのだ。オネエ言葉が残念なくらいに。店の名前のヴォーチェ・ドルチェ=甘い声は、ぼたんさんの声から取ったんじゃないかな。
 一人、また一人と客が続く。低気圧は通り過ぎ、雨はすっかり上がっているのだろう。ぼたんさんは愛想の良い笑顔でテーブルを回り、俺はオーダー票を受け取って酒とチョコレートを揃える。
 久坂が座ったカウンターの席にも、別の人間が座った。
 そうして幽霊はどこかに引っ込んでしまい、ヴォーチェ・ドルチェの夜が過ぎて行く。


                                       end.
 
                                  2006.04.23


   back