[ 花の名は知らない 〜約 束〜 ]





 遠い昔、花の名を冠した戦争があった。




 アリステアとクリストファーは幼馴染であった。
 両家は治領が隣同士であったので、古くから婚姻関係を結ぶなどして均衡を保ってきた。次代の領主である二人も、交流を絶やすことはなかった。
 輝く金色の髪のアリステアは負けず嫌いで、何事にも一番でなくては気が済まない激しい気性の持ち主であった。
 対して温かな緑の瞳のクリストファーは物静かで、確実に物事を成し遂げることが出来れば、鈍尻であろうと気にはしなかった。
 二人は火と水、太陽と月ほどの差があったが、仲は大層良かった。あまりにも正反対な為に、魅かれ合うものがあったのかも知れない。
 いずれにしてもお互いに諍うことなく過ごして行くであろうと、彼らは信じて疑わなかった。領地を護り、親交を保ち、共に静かに老いて行くということが、言葉には出さない『約束』であった。
 しかし運命は、二人の思いの通りには巡らない。国中の貴族を二分した花の名の戦争が、彼らを否応なしに引き裂いたのである――『紅』と『白』に。
 すでに話をしなくなって三年、姿を見なくなって一年余りが経っていた。






 アリステアはとにかく休みたかった。
 清潔な寝台の上でなくても良い。天幕の内でなくても良い。敵襲の心配のない、戦いの音が聞こえない静かな場所ならば、野辺でも構わなかった。
 今回の戦いは熾烈であった。一進一退の攻防は、均衡が破れると泥沼と化した。屍は累々として、どちらの陣営の者とも確認出来ないほどとなり、運良く生き残った者は憔悴しきっていた。
 アリステア自身、足にひどい怪我を負っていた。感覚が薄れる。もう一歩も歩けない。
「こちらで休みましょう。この葉陰ならば、人目にもつきにくいかと。大丈夫でございますか? どこかで水を汲んで参ります」
 従者は肩からアリステアの腕を外し、その場に座らせると水を求めに離れた。
 茂みの中に隠れるようにして、アリステアは横たわった。下草は露を含んでいたが気にならない。その冷たさが心地よいと感じるのは、少し発熱しているせいだろう。
 ここで敵方に遭うとしたら、それは神が与えた運命なのだ。甘んじて受けても良い。受けざるを得ない――開き直りの安堵感が睡魔を誘う。アリステアはとろとろと眠りの中に入って行った。
 どれほどの時間が経ったのか。額の冷たい感触に、薄ぼんやりと意識が動いた。
「冷たくて気持ちがいい」
 はじめアリステアは、従者のジャンが濡れた布切れを額に乗せてくれたのだと思った。足の痛みも幾分か和らいでいる。傷の部分も簡単に手当てされ、血濡れた嫌な感じは消えていた。
「ありがとう。ずい分と楽になった」
 半身を起こし加減にして、彼の方を見た。しかしそこに座ってアリステアを見ていたのは、ジャンではなかった。
 見覚えのある緑の瞳。
「ク…クリス?」
 あやふやしていた意識が直ちにはっきりする。思わず手が、目の前に座る人物の腕を掴んだ。覚めて尚、夢ではないかと疑ったのである。はたして手は、確かに腕を掴んでいた。そしてその腕の持ち主・クリストファーは、やんわりとアリステアの手を外す。
「変わらないな、アリステア? 言葉より先に手が出る」 
 クリストファーは笑って言った。
 彼一人だった。供の姿は見えない。
「どうしてここに?」
と言うアリステアの問いに、彼は「休もうと思って」と短く答えた。
 敵同士。ことに今はこの戦いが始まって以来、最も険悪な状態になっていた。親族同士はもとより、親・兄弟が分かれて戦う者もいる。幼なじみと言う繋がりなど、何の意味も成さない。それでもアリステアはわだかまりなく、この再会をただ嬉しいと思った。
 それはクリストファーも同じに見えた。
「ひどくやられたようだね?」
 クリストファーはアリステアの足を見た。
「ああ、助かったのが不思議なくらいだ。お互い、ひどい顔色だな」
「まったくだ」
「おまえ一人なのか? レイクランドはどうした?」
「先にいっている。君の姿を見つけて、どうしても会っておきたかったので」
 変わらない静かな口調。この前話したのはいつだったか。
 再会したなら話したいことがたくさんあったのに、いざ会ってみると月並みな言葉しか出てこなかった。触れたくない戦いの話も、避けようがなく話してしまう。 途切れがちな会話がもどかしかった。
「そろそろ、いかないと」
 さほどに時間が経たない頃、クリストファーが言った。
「クリス?」
 クリストファーは遠くを見やる。
「ジャンが戻って来る」
「関係ないだろう? ジャンも前から見知っているし、ここでは敵も味方もないさ」
 久しぶりに会えたのに、まだ思うように話せていない。このまま別れて、今度いつ会えるか、生きて会えるのかさえわからない。そんな思いがアリステアに彼を引き止めさせようとする。
「会えて良かった。このまま会えなくなるのは心残りだった。君は無鉄砲なところがあるから、敵の中にも平気で突進して行きそうで心配だよ。今度はこんな怪我では済まなくなる」
 クリストファーは目をアリステアに戻した。アリステアは話を急いで継ぐ。
「何を言っている。俺はおまえの方が心配だ。普段はおっとりしているくせに、いざと言う時には自分の身を顧みないところがある。他人の為に命を捨てかねない」
「お互い様と言うところか」
 顔を見合わせて笑う。
 クリストファーは立ち上がった。アリステアも立ち上がろうとしたが、治まっていた傷が痛んで立ち上がれない。
「今度はいつ会えるかわからないが、クリス、死ぬなよ」
 アリステアはせめて、彼の上着の裾を掴んだ。痛みに顔が歪む。そんな様子を見てクリストファーは、
「この愚かな戦争が終れば、きっと会える。よく木登りをして叱られた、あの木の下で待っているよ」
と言って屈み、アリステアを柔らかく抱きしめた。
「会えて良かった…」
 アリステアは抱き返したかった。しかしなぜか腕は動かない。抱き返して掴まえておかないと、彼は行ってしまうと言うのに。
焦るばかりのアリステアから、クリストファーの身体が離れた。再び彼は立ち上がり、今度こそ、たちこめ始めた霧の中へ去って行った。
「遅くなりました。大丈夫でございますか?」
 入れ代わるようにして、ジャンが戻って来た。手には水袋を持っている。彼はアリステアの怪我の具合を見た。
「ご自分で?」
 手当てされているのを見て問う。アリステアはクリストファーがしてくれたのだと答えた。
 ジャンは怪訝な表情で、
「チェスタートンの若様でございますか?」
と聞き返した。
 肯定すると、ますます不思議そうな顔をした。
「そんなはずはございません。クリストファー様はこの度の戦いで亡くなられたと、聞いて参りました」
「え?」
「これより暫く行ったところに、お味方の野営がございます。この水と薬もそちらで頂いてきたのですが、チェスタートン家のクリストファー様がお亡くなりになったことが、大層な話題になっておりました。何しろ智将として名高いお方でしたので」
「まさか! 今までここにいたんだぞ。この額の布も傷の手当ても、あいつがしてくれたものだ。俺と話をしていたんだぞ?」
「ですが、確かにクリストファー様のお名でございました。何でも供のレイクランドを助けようとなさって、敵の矢に。結局、レイクランドも助からなかったそうですが」


『(レイクランドは)先に逝っている。君の姿を見つけて、どうしても会っておきたかったので』


 アリステアの耳にはまだ、クリストファーの声が残っていた。
 確かに彼はいたのだ。アリステアを抱きしめた彼の腕の感触も、まだ肩にそのままだ。
 では今までここにいたクリストファーは何だと言うのだ?
「クリストファー…?」
 彼が去って行った方向を見る。いつの間にか霧は晴れていた。






 戦争は三十年以上も続いた。長い戦いだった。ただただ、ただただ戦い続けた。気がつくと、アリステアは老いていた。
 『紅』が勝利し、宙に浮いていた王冠は、その首謀者たる大貴族の上に落ち着いた。
 平和な時代が戻ってはきたが、その犠牲はどうだろう? 大事な人々を失うことよりも、権力の奪い合いは大切なことだったのだろうか? ある者は父を、ある者は息子を、兄を、弟を、その手にかけざるを得なかった。勝利したにもかかわらず、没していった家名もある。
 傷は双方に残った。しかし、何もかも終ったのだ。振り返っても虚しい思いしか蘇ってこない。
 アリステアは今、廃墟と化したチェスタートン家の庭に立っていた。
 クリストファーを失った後、チェスタートンは没落の一途を辿った。次々と男達は戦死し、残った婦女子は遠くの縁者を頼って、この地を離れて行ったのだ。
 花の盛りが美しかった庭。夏には水音が涼しげだった噴水も枯れ果て、当時を偲ぶ術はなかった。


『この愚かな戦争が終れば、きっと会える。よく木登りをして叱られた、あの木の下で待っているよ』


 あの時のクリストファーの言葉が、アリステアをその木の下に導いた。
 戦争は終った。クリストファーは既に亡く、あの遠い日の約束も、実際に交わされたものかどうかも定かではない。それでもアリステアはこうして立っている。
「クリス、やっと終ったぞ。私は生きて帰ってきた。約束通り、この木の下に帰って来たのだ」
 言葉に応えるのは、風に揺れる木の枝だけだ。
 幹を軽く叩く。幼い頃、二人はこの木に登ってよく叱られた。老いたアリステアにはもう登ることは出来ない。
 小さく息を吐いて立ち去ろうとしたその時、崩れた石壁の辺りから足音が聞こえた。アリステアは振り返る。そして息を飲んだ。
「ク…クリストファー?」
 崩れた石壁の陰から現れたのは、クリストファーであった。三十年前に別れた姿のままの。
 アリステアは半信半疑で近づいた。髪の色も瞳の色も、思慮深い表情も、何もかも懐かしい彼だった。
 あの時のようにアリステアの手は、彼の腕を掴んでいた。そして腕の持ち主もまた、あの時のようにアリステアの手をやんわりと外した。
「クリスは、死んだはずだ」
 アリステアは自身に言い聞かせる。「ええ」と声までもがそのものに、彼はその呟きに答えた。
「クリストファーは私の叔父です。よく似ていると言われますが、そんなに似ておりますか?」
 やはり。
「見間違うほどに、よく似ている」
 やはり違った…と、アリステアは自嘲の笑みを浮かべた。
「あなたはランズベリー伯爵アリステア殿ですか?」
「そうだが?」
「ここ数ヶ月、何度も夢の中に叔父のクリストファーが出てきました。チェスタートンの屋敷跡に行って、この木の下で待つ人間に会って欲しいと。あまりに頻繁なので、数日前から足を運んでいたのです。生まれる前に亡くなった、会ったこともない叔父の、それも夢の中での言葉なのに、なぜか来なくてはいけないと」
 彼は微笑んだ。
「そして今日、あなたに会えました」
 アリステアは、胸に熱いものが込み上げてくるのを感じていた。
「彼は約束を破らない男だった」
 それは涙となって現れる。
 アリステアの肩に『クリストファー』の腕が回され、抱きしめた。
「叔父からの伝言です。『会えて良かった』」
 静かな口調もあのまま――かけがえのない友が時を超えて、確かに目の前に存在する。
「会えて…良かった」
 アリステアも『彼』を抱き返した。
 あれは夢ではなかった。
 遠い日の約束は果たされ、アリステアの中の花の名の戦争は、ようやく終わったのであった。






<end>2009.08.01
(文芸誌『中央分離帯の上 第二号』掲載作品)

  

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