高原の澄んだ爽やかな風が、テラスに続く掃きだしの長い窓からリネンのカーテンを揺らし、部屋の中を通り抜けて行く。カウチに寝そべりうとうとしていた篁は、その風に前髪を遊ばれて目を覚ました。大きく伸びをすると、胸の上に伏せられていた本が床に落ちる。それを一瞥して身を起こした。
休暇でこの地を訪れてから数日。そろそろ曜日の感覚が麻痺し始めていた。滞在ホテルの部屋からは、時を知るアイテムが排除されている。午前七時のモーニングコールと三度の食事、午後のティータイムだけが、正確な時間を篁に教えてくれた。彼の腕時計も、ここに来た初日に携帯電話と共に取り上げられる徹底振りだ。
もちろんパソコンはなく、テレビはニュースを省いた番組に限定されている。外出は自由だが、自然の美しさと水や空気の良さが売りの避暑地には、テニスコートやハイキングコース以外にこれと言った娯楽施設は無く、一人で訪れている篁には縁がない。もっぱらホテル内のジムを利用することが、時間潰しの術になっている。
このようにゆったりとした「暇な」時間がまだどれくらいか続くのかと思うと、篁は仕事で溜まった分以上の疲れを感じた。
「お出かけですか、篁様?」
「散歩。コーヒーは外で飲むから、今日はいい」
フロント係に声をかけ、外に出る。フロントの置時計で時間を確認すると午後三時になるところだった。
外は夏の明るい陽光で満ちていた。その光を吸って樹木の緑が鮮やかに発色している。避暑地として人気の高原地帯だけあり、直射日光も都会のそれと違って篁にはやわらかく感じたが、女性達にはそうではないらしく、紫外線対策された格好で行き過ぎる。中には長袖の上着に日傘、手袋、ネックカバーのフル装備の者もいた。
――女はどこでも大変だな。
篁は只今、特別休暇中だった。午前に入る社の報告や、緊急を要する議案と決済の電話を受ける以外、仕事との接触は禁じられている。と言うのも先週、軽い眩暈を起こし、ダウンしてしまったからだった。正しくはふらついた程度なのだが診断は過労で、医師は二週間の休養を勧めた。
篁エレクトロニクスの専務取締役に就任して以来、篁は休みらしい休みをほとんど取っていない。建前上、土日と祝祭日が休みで、夏と冬には長期休暇も義務付けられている。しかし週末はたいていパーティーやゴルフ等の予定が入っていたし、海外で過ごす長期休暇は各国の財界との顔つなぎに使われ、出張と大差なかった。一度、プライベートでクリスマス休暇を取ったことがあるが、ノーブルウィング社専務のデイビッド・エヴァンスとの同行で、これも言わば彼に対する接待のようなものだった。
実は先週の眩暈の原因は、エヴァンスに多少なりともあると言って過言ではない。土曜の夜に出向いたオーケストラのコンサートで、篁とエヴァンスは偶然会った。どちらも取引先からチケットが回って来たもので、篁は付き合いの一環だったが、エヴァンスはおそらく、篁が来ると見越したものと思われる。コンサートが終了すると、そのままエヴァンスの自宅に誘われ、後はお決まりのコースを辿った。ただ彼との逢瀬は三ヶ月ぶりだったため、いつもよりも『夜の時間』が濃密だったのだ。
――五十過ぎているくせに、あの精力はどこからくるんだ。
おかげで篁は翌日曜日の午後まで爆睡してしまい、にもかかわらず疲れは月曜日まで残った。そして火曜日の午後の会議が終わった時に足をふらつかせることとなる。秘書の暮林の眉間に、盛大に皴が寄ったのは言うまでもない。
医師の診断を受けて直ちにスケジュールが調整され、その翌週明けから十日間の休暇を強制的に取らされた。
「大げさだな、暮林」
「今日からの十日間、仕事のことはお忘れください」
ホテルまで篁を送り届けた暮林に、携帯電話と腕時計を取り上げられた。休暇の間にあらたまった席に出ないようにとでも言うつもりか、荷物の中に確かに入れたはずのスーツは入っていなかった。
「逆にストレスが溜まって疲れたらどうする?」
「仕事のストレスに比べれば、可愛いものでしょう」
「まあ、いざとなったら相手をしてくれる人間など探すのは簡単だ。そう言えば近くのペンションで女子大生の集団を見かけたな」
「既婚者であることを自覚なさって、分別ある行動をなさるなら構いませんよ」
篁が普段、適当に情事を楽しんでいるように見えて、その実、リスクの高い人間を相手に選ばないこと、必ず何らかの計算を働かせて行動していることを、暮林はよく心得ていた。故に目の届かない避暑地であっても、スキャンダルになりそうな種はまかないと踏んでいるのだ。秘書になった当初は篁に振り回されていた彼も、すっかり第一秘書らしい手綱捌きをするようになっていた。その仕事ぶりは頼もしくもあり、時に憎らしくなる。
ただ篁は、ポーカーフェイスを崩さない暮林から小さな動揺を導き出す術を知っていた。
「ではミスター・エヴァンスを誘うか。彼となら分別ある関係だし、面倒もない。ちょうど最後の三日間は連休だしな」
エヴァンスの名前を出すと、必ずこめかみがピクリと反応した。
暮林はエヴァンスに対して手厳しかった。隙あらば貴重な篁の休日を潰そうとする彼を、快く思っていない。今回、休暇を取るはめになった一因に、エヴァンスの存在があると思い込んでいる。
反応を見るのが面白くて言った一言だったが、暮林は室内からの電話はフロントを通さなければ外に繋げないよう手配した。その場合も特定の電話番号、つまり暮林の携帯電話の番号以外には繋がない旨を、ホテル側に言い含めた。加えてアドレスがわかるものは全て持ち帰った。
――まったく大人気ない。
暮林の過剰すぎる配慮のおかげもあり、最初の三日で疲労は取れ、篁の体調はすこぶる良くなった。読もうと思って買ったまま放置していた本も、ずいぶん読了出来たが、刺激がなさ過ぎて頭の回転が鈍りそうである。
ぶらぶらと散策し、行きつけになったカフェに立ち寄ると、昨日までと打って変わり屋内は満席だった。篁は歩道に面したテラス席に空きを見つけ、腰を下ろした。
「今日は人が多いな?」
「三連休ですからね」
オーダーしたコーヒーを運んで来たスタッフは、愛想よく笑って答えた。
三連休と言うことは、やっと今回の特別休暇も終わりが見えてきたことになる。仕事に戻る火曜日の予定はどうだったかと思いを巡らせる篁の目の前を、見覚えのある顔が横切った。
「今のは」
カラーリングしたものとは違う栗色の髪に、銀のフレームの中で利発な表情を見せる目、意志の強そうな性格を物語る口元――今日は多少、力が抜けているように見えなくも無いが。
「森澤君」
ほんの1メートルほど行き過ぎた『彼』は、篁の呼びかけに振り返った。途端、驚きを隠せない様子に変わる。間違いなく、エヴァンスの秘書をしている森澤だった。
篁が手招きをすると、森澤はぎこちない足取りで二、三歩、引き返した。
「こんなところで会うとは、奇遇だな?」
篁の問いに、彼は「はい」と短く答えた。内心、振り返ったことを後悔していることは明白だ。
「どうしてここに? 仕事かな? エヴァンス専務はご一緒…なわけはないか」
篁は森澤の頭の先からつま先まで、目線を上下させた。彼と会うのは勤務時間内ばかりなので、スーツ姿しか見たことがなかったが、今日はペパーミント・グリーンのサマーニットに、ベージュのチノパンと言うカジュアルな装いである。そしてその手には小ぶりのボストンバッグを持っていた。一見してプライベートだとわかる。
「ああ、世間は今日から三連休だったな。じゃあ君も、休暇でここに来たのか」
「篁専務も、休暇でこちらに?」
「『専務』はよしてくれ。今は完全プライベートでね。一人で来ているんだ。君も一人? 良ければ今夜、夕食でもどうかな?」
「いえ…、連れがおりますので」
篁はニヤリと口角を上げた。
――豊田か。
森澤には恋人がいる。同じ秘書課の上司、豊田だ。二人の仲は当然ながら周りに秘密であったが、篁は知っていた。進んで手を貸したわけではないが、二人を結びつけたのは結果的に篁だったからである。
篁はこの森澤と初めて会った時から、一筋縄ではいかない強い内面と清廉な外見を好ましく思い気に入っていた。本気の恋愛関係を望んだわけではなく、難攻不落に見える彼を落とすゲームに興じたい面が多分だった。その結果、恋人もどきになるのなら、それはそれで良いと。
ベッドに押し倒す状況にまで持ち込んだのだが、寸でのところで邪魔が入った。それがノーブルウィング日本支社秘書室長の豊田である。
惹かれ合いながら一歩を踏み出す勇気がなかった二人は、その一件でめでたく納まるべき鞘に納まった。篁はとんだ道化役を演じたことになる。
「俺は構わないよ。豊田室長とは知らない仲じゃない。二人をディナーに招待しよう。そんな堅苦しく考えなくても、ノーネクタイでいい。俺もスーツは持って来ていないのでね」
豊田の名前が出て、森澤の表情が少し硬くなる。
良い遊び相手が出来た。最後の三日間は退屈せずに済みそうだ…と、篁は胸の内で笑った。
「遠慮しないで今夜は飲み明かそう。ああ、そうだ。俺の部屋に泊まればいい。一人で使うには広すぎる部屋だし、ゲスト・ルームも付いている。俺が使っているのはキングサイズのベッドでね、三人で『楽しむ』って言うのも悪くない」
外国の血が四分の一混じっている森澤は、ハーフの篁よりも色白だ。篁の言葉に、耳が一瞬にして赤くなった。
「便宜を図って頂かなくても、ホテルはちゃんと取っています」
「キャンセルすれば? 俺が誘ったのだからね。キャンセル料は持つよ」
平静を装うとしているにもかかわらず、森澤の表情は面白いほどくるくる変わる。篁の誘いをどうやって躱そうかと、頭の中では様々にシミュレートされていることだろう。三人でベッドを共にするなど、篁が本気で考えているわけではないと言うのに。
――それはそれで楽しめそうだが。
ディナーの席に二人を並べて、言葉遊びするだけでも良い退屈しのぎになる。
「どこに泊まる予定なんだ?」
森澤はすぐには答えない。取引先の重役でもあり、自分が担当する自社専務の公私共に一番のお気に入りである篁に対し、ぞんざいな態度は失礼にあたると一応は考えているのだろう。
「本当に、今回はプライベートで来ておりますので」
と言うのが精一杯のようだった。普段なら、もう少しマシな受け答えが出来る彼であったが、予期せぬ人物とばったり出会い、あまつさえ恋人同伴の旅行だと知られたことが、狼狽を招いてしまっている。逆に休みボケで鈍りがちだった篁の脳は覚醒した。溜まっていた鬱憤が晴れそうな清清しさである。
「ホテルのことはともかく、ディナーの招待は受けてくれるだろう? 俺はあのホテルに泊まっているんだ。あそこの食事はなかなかいけるよ。今夜七時に予約しておくから、二人して来たまえ」
有無を言わせぬ断定的な言葉で会話を締め、篁は席を立った。背後で置き去りにされた森澤の表情が想像出来て、思わず笑みが漏れる。
彼らがホテルにチェックインした頃を見計らって、レストランの支配人から確認の電話を入れさせよう。この辺はペンションが主でホテルは数が知れている。あの二人クラスが泊まるところは察しがついた。ホテル同士の横の繋がりを利用して、探し当てるのは容易い。
と思ってホテルに戻った篁に、一時間ほどして先方から電話がかかってきた。森澤ではなく豊田の方であった。森澤から話を聞き、断りの電話を入れてきたのだろう。
豊田は篁と年齢的に一つしか変わらない。ノーブルウィング日本支社の秘書室を束ねる有能、且つ、食えない男だ。案の定、丁寧な辞退の言葉が続いた。
「遠慮することはない。俺も一人で食べるのが、そろそろ寂しくなってきたところなんだ」
今回は食事が目的で誘ったかっこうになっている。森澤だけではなく、豊田も招いた。食事時間はたかが二時間ほどのことだ。その後に、ホテルの部屋に呼んで朝まで過ごすこと――たとえ飲み明かすだけにしろ――を強要すれば、パワーハラスメントと言われても仕方がないが、食事程度、それも篁から「お願い」しているわけだから、いつまでも愚図ることは大人気ないと豊田なら考えるだろう。
「それに君達には感謝してもらいたいくらいだ。こうしてプライベートな休みの時間を共有出来る仲になったのは、俺のおかげでもあると思わないか? たかが三日のうちの二時間付き合ってくれても、バチは当たらないだろう?」
――さて、どうする、豊田?
電話越しなのが残念でならなかった。豊田のような男は嫌いではなく、参謀の一人に引き抜きたいくらいだった。きっと直に顔を見て駆け引きする方が、断然楽しい。
――エヴァンスには相談出来ないよな。
篁をけん制するのには、エヴァンスを引っ張り出すことが手っ取り早いとわかっていても、連絡は取れないだろう。森澤との私的な交際は、秘密にしておきたいはずだ。もっともエヴァンスは二人の仲をとっくに知っている。
二人が付き合うきっかけとなった時は自分が引き下がった。今度は君が譲る番だ…と言う篁の無言の圧が伝わったのか、受話器の向こうから「わかりました、伺います」と返ってきた。
「時間は七時だ。楽しみにしているよ」
電話を切り、篁はくつくつと笑った。
「いらっしゃいませ、篁様」
「連れは?」
「はい、お見えになっています」
午後七時、篁が店に姿を見せると支配人が出迎え、自ら席へ案内する。他の客――特に女性客は必ずと言っていいほど、篁を見た。本格的なフレンチの店である。フォーマルとまではいかないにしても、客は店に合った服装で食事を楽しんでいた。しかし篁はリネンのテーラードジャケットこそ羽織っているものの、上はTシャツでボトムはジーパンと言う「超」の付く軽装で、実年齢よりかなり若く見える。そんな若造が気後れすることなく、当然のごとく支配人に席まで案内させているのだから、否が応でも目を引いた。
――さて、どうやって遊んでやろうか。
向けられる視線など気にしていない篁の意識は、席で待っているあの二人に飛んでいた。篁の一言一言に赤くなったり青くなったりする森澤と、受けて立つであろう豊田とのやり取りは、楽しいものになるに違いない。そのために暮れなずむ山々の景色が楽しめて、周りの目が気にならない席を予約した。
しかしその席が見えた時、篁の右眉が上がる。二人の姿があるべきそこに一人しかいなかった。そして篁を案内した支配人に英語で声をかけられ振り返ったその人物を見て、篁は自分の脳が休みボケ状態になっていたことを痛感する。
「アロウ」
篁を見るとエヴァンスは穏やかな笑みを作った。テーブルにセッティングされたカトラリーは二人分で、豊田と森澤は来ないことがわかった。篁は苦笑で返し、彼の向かいに着席する。
「退屈しているようだね」
「それが今回の仕事ですから」
運ばれてきた食前酒に口をつけた。
食えない豊田のことだ、こう言う手段に出ることは考えられなくはなかった。エヴァンスに二人の仲を知られたくないだろうから、彼らからはここで篁に会い、いじめられそうになっていること…もとい、食事に誘われていることは話さないと踏んだのだが、もう一押し、読みが足りなかった。
エヴァンスが二人の仲を知っていることは、豊田も薄々感づいているのかも知れない。仕事と職場の人間関係に支障がなく、公私をきちんと分けられるなら、エヴァンスは何も言わずに見て見ぬ振りをする。今までがそうだった。それを知っているから、連絡が出来たのだ。大方、「篁専務が一人で退屈そうにしている」とでも言ったのだろう。その一言でエヴァンスには、彼らの置かれた状況が充分に伝わる。
――この借りはきっちり返させてもらうぞ。
脳裏に浮かぶ澄ました顔の豊田の顔に向かって言い、篁は口の端で笑った。エヴァンスと目が合う。
「若い二人がせっかく休暇を楽しもうとしているのだから、邪魔をしてはいけないよ。馬に蹴られてしまうぞ?」
「食事に誘っただけですよ。それに若い二人と仰いますが、豊田君と私は一つしか変わりませんが?」
「君も充分若いよ。そんな格好をしていると尚更ね」
エヴァンスは目を細め、うっとりと言った。
「それにしても、あなたも早業だ。この時間に間に合うだなんて」
「わが社が契約しているハイヤーは優秀なんだよ。おかげで着の身着のままだ」
そう言って彼は肩をすくめた。
食事の後、エヴァンスは「ホテルを取っている時間がなかった」と言って、当然のように篁の部屋に入った。篁が連泊している部屋はTwoベッドルームのジュニアスイートで、四名まで宿泊が可能だ。利用することはないと思っていたもう一室のベッドルームが埋まっただけの話であるが、多分、使われることはないだろう。
ベッドほどもある大きなソファに腰を下ろし、ホテル側が用意したワインをグラスに注ぎ、エヴァンスは篁を手招きした。まるで彼がここの宿泊客に見える。「着の身着のまま」と言うように彼もかなりカジュアルな装いだが、貫禄の点では篁よりもこの部屋が似合った。
「長い休暇を取る時は一声かけてくれても良いだろう?」
「あなたと一緒だと休みにならない」
「時間さえあれば、私は君と色んな時間の過ごし方が出来るんだよ。ニューヨークのことは忘れたのかい?」
彼の言うようにクリスマス休暇を過ごしたニューヨークでは、二人であちらこちらに出かけた。ドライブを楽しんだり、画廊を回ったり、観光客のように自由の女神にも上った。休暇の過ごし方としては充実していたが、身体を休めることが出来たかは疑わしい。外出し適度に疲労したままフィジカルな夜を過ごすのだから、休んだうちに入るのかどうなのか。
「だから休みにならないと言ってるんです」
「二時間、車を飛ばして、退屈している君の元へ来たのだから、ご褒美をもらいたいね」
「頼んだわけじゃない。それにメリットは何です?」
「それは帰ってから考えることにしよう」
エヴァンスの大きな手が、篁の手を包む。そのまま引き寄せられそうな勢いだ。彼のコロンの匂いがきつくなっているのは微かに発汗しているからで、それはこれからの時間に対する期待値の高さの表れだとわかる。まだジャケットを着たままの篁は「皴になるな」と思った。
エヴァンスとの関係はビジネスだ。見返りがなければ夜を一緒に過ごさないというのが篁なりのルールだが、この状態からの「No」はなかなか難しい。
――まあ、いいか。
そう言えば…と、十月にサウジの王子が来日することを思い出す。招待したのはノーブルウィング社だと聞いていた。
「また良からぬことを考えているね?」
エヴァンスは篁の手からグラスを取り上げテーブルに置いた。
「十月にサイード王子が来日されますよね?」
エヴァンスの目が一瞬、見開いた。それから破顔する。
「わかった、善処しよう」
彼はゆっくりと篁をソファに押し倒した。篁はせっかく取れた疲れが、甦りそうな予感がした。今回の休暇が体調を崩したゆえだと言うべきか。ただそれは弱みに匹敵する。健康に不安があると思われるのは、社を担う人間として、マイナス・イメージに繋がりかねない。
携帯電話が手元にあれば、隙を見て暮林に連絡を入れることも出来る。知ればエヴァンス以上の速さでここに駆けつけるだろうが、あいにくそれを取り上げたのは暮林だった。こう言う状況になっていることを知った時の彼の反応を思うと、自然と笑いがこみ上げてくる。
エヴァンスの指が、我知らず笑みを零す篁の唇をなぞった。
「君を三日間独占出来るとは、ステキな週末になりそうだ」
「正確には四十時間ほどですよ。月曜の午後にはチェックアウトの予定だから」
「野暮は言わない。とりあえずキスをさせてくれないか?」
エヴァンスは篁の唇をキスで塞いだ。
「さて、今日一日、どうやって過ごそうか。来る時に小さな湖を見つけたよ。ピクニックがてら、行ってみないか? ランチ・バスケットを用意してもらおう」
テンションが幾分高めのエヴァンスに一瞥くれて、篁はルーム・サービスのブランチのコーヒーを一口含んだ。
まだ覚醒しきっていない。元々朝が苦手な上に、昨夜は一晩、ほぼ眠らせてもらえなかったので、睡眠が圧倒的に足りていないのだ。そんな状態であるのに、二人の時間を無駄なく使いたいエヴァンスに、篁は早々、ベッドから引きずり出された。やはり、ここには静養で来ていることをエヴァンスに話すべきだったなと、篁は後悔する。
「元気だな、あなたは」
ただ身体はすっきりとして、疲れはさほど残っていない。体力が戻ってきているのか、エヴァンスが篁の体の変調を察して加減したのか。
――加減したようには思えなかったが。
エヴァンスが楽しげに今日と明日の予定をどうするか話している時、部屋のドアベルが鳴った。
「マップを持ってきてくれたのかも知れない」
エヴァンスは自らドアを開けに行った。この辺りの観光マップをフロントに頼んだのだろう。大したもののない地域だが、難易度に合わせたトレッキングやハイキング・コースは充実している。エヴァンスの話しぶりからすると、ここに来るまで漫然と車に乗っていたのではなく、有意義な時間の使い方を考えつつ、景色を見ていた節があった。美術館に牧場にと、一週間以上滞在している篁よりもよほど詳しい。
しかし部屋に入ってきたのは、コンシェルジュでも部屋係でもなかった。
「暮林」
篁の前に立ったのは暮林だった。エヴァンスの楽しいプランが無駄に終わった瞬間である。
「おはようございます。お言葉に甘えて、ご一緒させて頂くことにしました」
スーツではなく珍しい私服姿で、ワンショルダーのデイバッグを肩から提げている。仕事モードではない。
確かに篁は休暇に入る前、月曜日の午後に迎えに来るのならば、三連休でもあるし「君も来ればいい」とは言ったが、暮林は固辞した。それがこのタイミングで来るとは、誰かの差し金に違いない。
「豊田だな?」
「エヴァンス専務がこちらに来られていると、今朝、連絡をもらいました」
豊田は多少の後ろめたさを感じたのかも。連絡の入った時間は朝の七時だったと言う。彼ら二人も日常から解放されて、さぞかし有意義な夜を過ごし、朝はゆっくり寝ていたかっただろうに。どうせなら昨夜のうちに連絡してくれれば良かったものをと、篁と、おそらく暮林も思っていることだろう。
「タカヤも来るとは知らなかった」
エヴァンスが笑った。少し複雑なものを含んで見えなくもない。
彼と暮林はある意味、天敵同士である。仕事面においてエヴァンスは暮林を評価しているし、暮林はエヴァンスの仕事の手腕を尊敬し畏怖もしている。ただし、こと篁を間に挟むと様子は違う。地位も年齢差も越えて、変に対等なのである。
「彼も三連休ですからね。よく働いてもらっているので、福利厚生ですよ」
篁の言葉を受けて、暮林はにっこりと笑った。「してやったり」的な表情が覗えた。エヴァンスは当然、その笑顔の意味合いをわかっていて、動じずに切り返す。
「それでは休みにならないだろう? アロウのことは私にまかせて、君は君で楽しみたまえよ。ここには可愛い女性もたくさん来ているぞ」
上司と取引先の専務と一緒では心安らかな休暇とはいかないはずで、暮林がつまり貴重な休みを潰すことになることを、エヴァンスは暗にほのめかした。
「ご心配には及びません。気さくで手のかからない上司でらっしゃるので、仕事を離れてご一緒させて頂くのは嬉しいです」
――「手のかからない」は、あきらかに俺に対する嫌味だな。
篁は目の前に立つ暮林の横顔を見て思った。
話の中心ではあるが輪から外れている篁は、二人の静かなバトルを見ながら一つ大きなあくびをする。
「アロウ」
「専務」
エヴァンスと暮林が同時に篁を見るので、開けた口元を手の甲で隠した。手の下で声なく笑う。
エヴァンスと二人きりでは甘いだけの休日になってしまうが、暮林と言うスパイスが入るとエヴァンスに緊張感が生まれ、その面白みで篁の脳が適度に刺激された。
明日で休暇は終わり、火曜日からはいつもの日々が待っているのだ。鈍った頭と身体を通常モードに戻さなければならない。
「とりあえず、男三人でピクニックに出かけよう」
篁はそう言うと、ランチ・バスケットの用意を頼むために、電話に手を伸ばした。
Have a nice Holiday!
<end>2012.05.25
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