記憶がある村
山を迂回するように蛇行して続くその道を、男はただ黙々と歩いていた。
肌寒いばかりの風が身を掠めていくのを気にする様子もない。だがかといって、急いでいるわけでもなかった。
正直に言えば、男は途方にくれていたのだ。
行く先も定まらず、ただ山を登るくらいならと山を迂回する道を、ただただ歩いているだけだった。
そもそも行く先を定めようにも、この男は何も覚えてはいないのだから、目的地を決めることが出来ようはずもない。
男は、自分は誰なのか、ここはどこなのかと心の内で問いかけながら、その道を歩き続けた。
村の入り口らしき木の立て札と、そこから続く畑が見えてくると、男は安堵よりも不安が先にため息となって出る。どこに行っても、自分を知る人がいるのか、知っている場所なのかがわからない。もしかしたら、自分は酷い人間だったのではないだろうかという不安と、かすかな確信だけが彼の胸を押しつぶそうとする。
だが男は懸命にその不安を押し殺し、村へと足を踏み入れた。
入ってすぐ目に入ったのは、僅かに轍の跡の残る道の脇に建てられた、あばら家。そこには人影は無く、遠くに黒い点のような人がいるばかり。農作業の最中で、男に気づく様子もない。
男もまたそこに足を止めることは無く、村の奥へと進んでいった。
やがてポツリポツリとあったあばら家を通り過ぎれば、しだいに石造り、レンガ造りの頑丈な家が建ち並ぶ。二階の窓枠にはきれいな小物や花瓶が置かれ、老人が家の前に座って日向ぼっこをしている姿も見られる。
誰も皆、男を見れば微笑んで会釈した。
知っているのかもしれない。だが、話しかけないところをみると、ただ愛想の良いだけかもしれないと、迷い迷えど男は話しかけることはせずに先に進んだ。
いつしか日は傾き、影はその長さを増していく。
道は石畳になっていた。その石畳に、影と日差しがチェス盤のように明確なコントラストを持つ模様を描く。その上を、男は先へ先へと進んだ。
曲がりくねった道は、坂になっていて、男は次第に下っていく。その先を、見ようにも曲がっているために見通しは悪い。
曲線を曲がった瞬間だった。
鋭い日の光が、突然目に差し込む。家の陰になったところから日の当たる所へ出た矢先のことで、男は一瞬視界を奪われた。
真っ白の中で、幼い少女の笑い声が聞こえる。小さな足音がいくつか聞こえて、駆け下りてくる音に振り返れば、そこには少女と二人の少年が、まるで転げるかのように走ってくる。
だけど少女は、立ち尽くす男を見て足を止めた。少年二人もまた、その少女の様子に足を止める。
視界が戻ってきて、でも男はまだ動けずにいた。
その少女が、無邪気に微笑みかけたその顔が、不意に胸の奥を揺さぶったのだ。
知っている。
男はとっさにそう感じた。この少女を、確かに知っている気がした。
だけれどそれは、一瞬のデジャ・ヴュ。
「お兄ちゃん、どうしたの? 具合が悪い?」
少女にそう聞かれて、男は無理に笑顔を作った。
「いや、大丈夫だよ。ありがとう」
そうは応えても、少女の好奇心は満足しないようだ。
「お兄ちゃん、どこから来たの?」
「ずっと遠くからだよ。遠く過ぎてね、僕はどこから来たのか忘れてしまったんだ」
「お兄ちゃん、かわいそう」
彼女は一瞬だけ整ったその眉根をしかめたが、すぐに笑顔に戻った。
「でも大丈夫よ。ここは、とても似ている場所だから……。忘れちゃった記憶も、きっとすぐに思い出せるわ」
えっ……。
何を、……。
少女の言葉に、男は釘付けになる。この少女は、何かを知っている。それに対する警告が、体の中で鳴り響く。
我に返ってその言葉の意味を聞こうとしたときにはもう、少女は少年達と坂を走り下っていってしまった。
やはりこの村は、自分のことを知っている。男はそう確信した。
三日前、男の意識が戻って見回してみれば、人々は怖がるような、威嚇するような目で彼を取り囲んでいた。
「ここは……」
村の名を告げられても、男にはその村の名に覚えはない。逆に村人から名を聞かれて初めて気がついたのだ。自分は何も覚えていないということを。
川から流れてきたのだという。
老婦人が言った。昔はよく、上流の村から死刑囚が流れてきたと。死刑のときは両手両足を縛り、袋に入れて川に落とす。万に一つ助かる者がいるが、それらは無罪放免となるのだと。だがここに流れてきたのはみな死体だった。生きていたのは初めてだと、老婦人は驚きと若干の恐怖をにじませながらそう言った。
自分は、死刑になるほどの罪人なのだろうか。
その思いが、不安が、彼を捉えて放さない。
だが、誰かが言った。こいつはそんなことしそうにない。
けれども、気味が悪い事に変わりは無かった。川から流れてきた、訳ありそうな男。ご丁寧に記憶を失って、どこから来た何者かも明かさない。
村人の気味悪がっている様子や恐怖、そして何よりも迷惑だといっているその視線が痛くて、男はその村を出た。
村を出て、ただ道をずっと歩いていたらここに着いた。だから怖い。人と会って、またあんな視線にさらされるのが。
でも本当に死刑囚なら、もっと怖がられ、嫌われ、殺されるかもしれない。それも怖い。
「旅の方ですね。お泊りの場所はお決まりですか?」
ふと声をかけられて我に返れば、目の前には温和そうな青年が立っていた。手には食料品の入った紙袋を持っている。
あの村と違って、この村の住人は男に怯えることはない。目の前の青年も、人のよさそうな顔で微笑んでいた。
だけど青年の顔をみるのが、男にはなぜか辛い。
「まだお決まりで無いのなら、私の家に来ませんか。この村にはお恥ずかしながら宿屋などは無いものですから。旅人は村の誰かの家に泊まっていただくことになっているんです」
「でも僕はお金を持ってなくて……」
「旅人からお金を取ろうなんて思ってはいません。どうぞ、遠慮なさらずに」
「すみません」
青年の家は、その坂をさらに下り、村の中心を外れたところにひっそりと建っていた。他に家族がいないようで、青年は家に着くなり紙袋からいくつかの食材を取り出して、手際よく料理を作る。
「あの、何かお手伝いをさせてください」
男が居心地の悪さからそう声をかけても、青年はその申し出を誇示する。だが、再度頭を下げれば、困った顔でジャガイモを差し出した。
「それでは、皮をむいてもらえますか」
男は包丁とジャガイモを手にして、慣れない手つきで青年と並んで皮をむき始める。
青年は料理を手際よくこなしながら、この村のことを話した。田舎にあって、めったに人が来ないこと。静かな場所で、小さいけれど不自由しないこと。村人の愛想が良くて住みやすいこと。男の不安を感じ取って、少しでも安心させようとしているのかもしれない。
それでも男は、落ち着かない。その理由は、不安だからだ。自分がわからない。どこの誰かも、どんな人間で、どんな性格なのかも。村の事を聞いても、思い出せることはない。だけど、さっき感じたあの既視感が彼の不安を煽っているのは確かだった。
「知っていたら、教えてください。僕は、この村に来たことがあるんですか?」
「いえ、ないですよ」
青年は微笑みながら、きちんと男の目を見てそういった。そこに嘘は無いと思う。だけど、信じることも出来ない。
「だったら何故、皆僕を知っているみたいに笑うんですか?」
「それはね、あなたが村人の知る誰かに似ているからですよ」
青年は、静かに言った。
「この村は、どこにも無い、だけど行った事のあるような、そういう村なんです。ここを訪れる人は皆言います。どこかで忘れてきた思い出のような場所だと。村の人たちも、訪れる人にどこかしか自分の記憶の片鱗を見つけるんですよ。だから皆、人あたりがいいでしょう?」
「……そう、なんですか。よくわからないな。でも、だったら僕も、思い出を見つけることが出来るでしょうか」
「できますよ。大丈夫」
青年は、まるで兄のようににっこり笑って男を元気づけた。
「ほら、そろそろご飯も出来上がります。ね、元気を出して」
二人は食卓につき、粗末ながらも美味しい夕食を前に祈りをささげた。
記憶は無いのに、神への祈りだけはつっかえもせずに出てくる。不思議なことだ。青年もまた、全く同じ祈りの言葉を口にしていた。
「じゃ、食べましょう。お手伝いしてくださって、ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございます」
二人はパンとスープの簡単な食事を摂り始める。青年が何気なさを装って、男に聞いた。
「もし、答えたくないならそれでかまいません。もしかして、あなたは記憶をなくしていらっしゃるのですか?」
ビクッと固くなる体に、青年は申し訳なさそうな顔になる。だが彼が何か言う前に、男は自分からこわばったまま頷いた。
「隠し立てしても、仕方が無いですね。僕は記憶がありません。川から流れてきたそうです。ここから二日ほど歩いたところにある村に流れ着いたときにはもう、何も覚えていなかったんです」
「そう、ですか。この村で何か思い出せることはありましたか?」
「一人の少女と、二人の少年に会いました。そのときに、何か僕は思い出しかけたのですが……」
「あの子達は、幼馴染なんです。よく似ていますけど、皆別々の家の子なんですよ」
記憶が、疼く。無いはずの記憶が。
「二人の少年は、そろそろ少女を意識し始める歳ですから、色々と関係がギクシャクしてしまって。大人たちは皆、温かく見守っているんですよ。興味もありますけどね」
あどけない少女の微笑が胸を刺す。憶えている、あの微笑。
「自然と少女を意識してしまって、少年達は二人とも躊躇っているんです。自分が恋心を持ったことを知られたら、三人の今みたいな関係を崩しちゃうんじゃないかって。少女だけはいつもどおりなのに、少年二人は今までどおり笑うことも出来なくて」
幸せだと思ってた。幸せだったのに、いつかそれは幻になっていて。
「少年もいつまでも子どもじゃないですから、最近では少女を取り合うようなしぐさを見せるようになりましてね。どちらも引かないものだから、いつか間違いが起こらなければ良いなと思ってるんですよ」
ちょっとした事から、喧嘩をしてしまった。
「あの年頃だと、ちょっとこじれただけで全部が崩れてしまいそうな危うさがあるでしょう」
謝る機会をいつも逃して。
「三人が、いつまでもあの仲の良いままいられるなんていうのは、所詮幻想でしかないんですけどね」
そしてあの日……。
――カチャンッ
スープ皿に、スプーンが落ちた。
涙が後から後から、頬を伝って皿の中へと落ちていく。
「僕は……手を掴むことが出来なかったんだ……」
祭りの日だった。
棒の上にある鳥の人形を取った子が勝ち。とてもシンプルな、子ども達のゲーム。大人がみんなでおさえて支えた、とても長い棒に少年達が群がって。
前の日に、彼女が言った。あの鳥が欲しいって。
――僕が取ってくる!
僕が言おうとしたのに、あいつが僕よりも早く言った。
誰にも渡さない。あの鳥は、僕が取って彼女に渡すんだ。
三人の関係は、もうずっと壊れっぱなしだった。
棒を掴む手は、すぐにしびれて、腕も重くなって。すぐ下を見れば、あいつが。幼馴染で、僕と同じで彼女を好きなあいつがいて。
僕の体力はそれが限界だったのに、あいつはすいすい登って僕を追い抜こうとして、僕はとっさに彼の足を引っ張った。
バランスを崩したあいつの体が僕の上に落ちてきて、僕もバランスを崩して二人とも、落ちそうになったけれど僕の右手だけはどうしても棒を離さなかったから、ゆっくり落ちていくあいつが、伸ばした手を掴もうと左手を伸ばしたけど届かなくて、あいつは落ちて。
石畳に、赤いのが散って。悲鳴が聞こえて。
「僕は、人殺しなんだ……」
「すこし、夜風にあたりませんか」
青年は少し経ってから、ひとしきり泣いて落ち着いた男を外へと連れ出した。
涼しい風が心地よく、空には青白い月がまばゆい光を放っている。
とぼとぼと歩く二人の影が、草原に長くゆらゆらと進む。
「ほら、三人でいつも一緒にいたでしょう。少女と、少年二人。片方の少年はね。どうしたらいいかわからなかったんですよ。初めて自分の気持ちに気づいたとき、どうしたらいいのか……」
青年は後の男に、静かに語りかけた。後は振り向かない。それでも男がしっかりと聞いていることを確信している。
「丁度そのときに、もう一人の少年が少女を好きだと彼に打ち明けたから、余計に言えなくなってしまって」
二人の影はまるで葬列のように、ゆっくりと草原を進む。
「彼は自分の気持ちを押し殺した。どうにか、三人で一緒にいたかったんです。でも友達だと思ってた少年は、どんどん少女に惹かれていく。二人が遠いところに行ってしまうようで、彼は必死に二人に追いつこうと考えました」
穏やかな風だけが、二人の間をすり抜ける。
「だから彼も、彼女が好きだと言うことにしたんです。少年に。そうしたら同じ気持ちだから、前みたいに二人で同じ景色が見れると思ったんですよ。でもね、違った。少年は彼からどんどん離れていって、むしろ敵を見るような目で睨むんですよ。恋敵になってしまったと気づいたときには、もう遅かったんです」
二人の距離は変わらないのに、なぜかお互いをとても遠く感じてしまう。
「開いた溝は埋まらなくて、少年にはもうどうしたらいいのかもわからなくなってしまいました。そしてあの日、村一番の祭りの日……」
青年が立ち止まり、男が顔を上げればそこには静かな湖があった。波一つ立たない、鏡のような湖が。
物音もしない。
ただ風だけが、優しく水面を撫でる。
月が、青白く湖に浮いていた。
「あの時、あなたは自分が足を引っ張ったから、彼は落ちたと思ったんでしょう。違うんですよ。本当は、彼が先に足を滑らした。あなたが手をかけたのが丁度その時だったのは、ただの偶然です。しまったと思ったときは、すでにあなたの上に。あなただけは巻き込んじゃいけないと、伸ばしかけた手を途中で止めた。あなたがどうにか棒にぶら下がっているのを見て、安心したんです。巻き込まないで済んだって。あなたの泣きそうな顔を見ながら、それでも私は満足だった」
青年が振り返った。青白い月に照らされた顔に、男は驚いた表情と、流れ落ちる涙で答える。
ようやく気づいた。青年の面影は、落ちて死んだ友のものだった。
「おまえ、なのかよ」
「そうだよ」
声音が、いつもの友のものに戻っていた。姿は青年のままなのに。
「なんでおまえ、そんなにでかく……」
「君のことがわからなかった。僕は自分の感情さえもわからなかった。だから知りたいと思ったんだ。大人になったら、わかるかもしれないって」
「わかったのかよ……?」
青年は、男のよく知る友の笑顔で頷く。
「ああ、わかったよ。自分の気持ちを偽らなくていいんだってことがね。僕は君が好きだった。君が彼女を好きなのを知ってて、それでも僕は君のことが好きだった。だから、最後に巻き込まなくて、本当に良かった。君が僕のために泣きそうな顔をしてくれただけで僕は嬉しかったんだよ。まさか、君が自分から川に身を投げるとは思わなかった」
「だって僕はおまえを殺してしまったんだ。一人で生きていくのは辛い……。あの日から毎晩毎晩、お前の夢を見るんだ。いつも手が届かなくて、助けられない」
男も、いや少年もまた自分の気持ちを認めた。
彼が死んで、言えなかった。自分が殺したとも、彼が死んで悲しいとも。どちらも言ってしまったら嘘になる。ただ感じてるこの思いだけが本当で、でもそれを誰にも伝えることが出来なくて。だったらその気持ちを自分の中に秘めたまま、彼の後を追おうとして川に飛び込んだ。
「僕は悲しかったんだ、おまえが死んで。最後まで謝れなくて、誤解してて、助けられなくて」
「そんな君を見て、僕も辛かった。君のせいじゃないのに」
「ごめん。ごめんっ……」
「いいんだよ」
友は青年の姿のまま、少年を優しく抱きしめた。
「いいんだよ。君のせいじゃない。僕の死を悲しんでくれて、嬉しかったよ。ありがとう」
少年はただ、流れる涙を拭くこともせずに青年にしがみつく。離れたくなかった。
「君がここに来るって知ってたから、僕はここで待ってた。君を帰してあげなきゃいけないから」
「いやだ、離れたく無いんだ!」
青年はなおもしがみつこうとする少年の体を、やんわりと引き離した。かがんで、真正面から少年の瞳を見つめる。いつだって二人はこの視点でお互いを見ていたのだ。
「覚えていて、僕のこと。でも、悲しまないで。僕達の思い出は、悲しいことより楽しいことが多かっただろう? 彼女によろしく伝えて」
そう言うなり、青年は泣きじゃくる少年の唇にそっと口付けた。驚いて少年が涙を止める。唇を合わせるだけの、軽いキス。そして青年は、優しく少年の体を離すと、トンッと湖へその体を押した。
少年は、驚いて声も出せないまま、冷たい水の中に落ちる。手を伸ばしても、青年は手を差し出さなかった。あの時、落ちていくときと同じ、悲しい笑みで見つめるばかり。
少年の体は水の中なのに浮きもせずに底へ底へと落ちていった。
底に落ちたはずなのにずいぶん明るい光に目をあければ、目の前には母の涙に濡れた顔があった。
「良かった、目を覚ましたよ!!」
すぐに父の顔も視界に入る。
「あれ、ここ……」
声がかすれる。
「あんた、川から落ちて隣村まで流されたんだよ。助けられたけど、熱が引かなくて死ぬところだったんだ!」
だとしたら、あれはやっぱり夢だったのかもしれない。
「……あいつが助けてくれたんだ。僕に生きろって」
また涙が流れる。見れば母も父も、涙を流していた。
夢のはずなのに、唇に触れればまだあのときのキスの感触が残っていた。
2007.10.01
(閉鎖されました)
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