里の鬼舞い
[ 語り手 ]
この里にはね、鬼伝説があるんです。
むかーし、むかーしのお話でね、里に出た鬼は人を襲ったり、田畑を荒らしたりした
そうです。
困り果てた村の人を助けたのは、一人の青年。村に住む身寄りの無いその青年は、
見事に鬼を討ち果たしたそうです。村人はたいそう喜んだ。
それでね、この鬼伝説には続きがあるんですよ。
その鬼を討った青年ね、実は神様だったんです。鬼を退治するなりその正体を現し
ましてね。私はこの時のためにここに居たのだと言って、それっきり天に帰ってしまっ
たそうなんですよ。
それで村人はその神様を祭るために、今のこの舞を始めたと。そういう伝説が残っ
ているのです。
だから今でも素晴らしい舞い手が舞う舞は、神が舞い手に乗り移っている”神舞い”
と呼ばれているんですよ。
もっとも、”神舞い”が舞われる時には同時に”鬼舞い”も舞われると言う伝説があり
ますがね。神舞いを舞うのは、舞い手の中でも一等舞いの上手な者です。でも誰が鬼
舞いを舞うのか、それは誰にもわかりません。
でも、鬼舞いを舞うのはやはり鬼、でしかないのではないでしょうか。
山の奥里 日は暮れて
空には鴉の 黒い染み
鳴く声響く里の端に
外に通じる道はある
朱に染められしその道を
しずしず歩くは か細き女
合わせて歩くは 洋装の 筒袖似合う青年か
ふらりと歩くは 黒尽くめ
袴も羽織も真っ黒の、傘を深くに被ってる
今は誰そ彼、逢魔ヶ時
隣の顔とて、よく見えぬ
余所者は誰そ
朱に染められし夕暮れに
里に入る余所者を
鴉が鳴くのは警告か
祭囃子の笛の音が 拙い音を響かせる
祭の日は近い
祭の日は近い
《三日前》
[ 或る二人連れ ]
田畑ばかりだったあぜ道を抜ければ、いくつかの民家が並ぶ通りへ出た。
「ここの先に、旅籠があるわ」
女がか細く呟いて、青年は頷き一つで歩を進める。
いつしか後ろを歩いていた黒い男は消えていた。追っ手かと思っていたのだが、どう
やら違うようだ。青年は女にわからないよう小さく一つ安堵の息を漏らし、だが油断は
出来ないと思い直して先を急いだ。
旅籠とは名ばかりで、蕎麦屋の二階を客間としただけのもの。それでものこの里で
はここしか宿がないと言われれば、ここに泊まるしかあるまい。
「こんな山里に客なんぞ、ずいぶんと珍しい。いくら世の中が変わったとはいえ、女連
れの長旅とはまた……」
廃藩置県はもう数十年も前のこと。だがいまだにこの里では、江戸の頃と変わらぬ
暮らしが行われているだろう事が、蕎麦屋の主人の言葉から察せられる。
「夫婦になろうと契りを交わし、あとは連れの実家に報告をするばかりとなりました。連
れの親が、この里に住んでいるそうですので」
その表情が固いのを、蕎麦屋の主人は緊張と見て取ったようだ。
「おお、それはめでたい。では三日後の秋祭りも見ていかれるといい。ここ数年いい舞
い手に恵まれましてね。本当に神がかって見えるんですよ」
「それは楽しみにいたしましょう」
青年は始めてフッと笑って目を細めた。
その一部始終を、女は奥から不安色濃く残るその目で見つめていた。
[ 舞い手の藤次郎 ]
「よう、藤次郎。舞いの練習は済んだのか?」
神社から出てきたところに声をかけられ、藤次郎は立ち止まった。笛の庄三郎が立
っている。藤次郎はにっこりと笑った。
「そっちは笛、大丈夫なんだろうな? ずいぶん酷い音が聞こえてきていたが」
「なあに、若いのがまだ調子をつかめてねぇのさ。ま、明日おまえと合わせりゃ、大丈
夫だろうよ。なんせおまえは笛も太鼓も引っ張っちまうような、ずいぶんな舞い手だか
らな」
「そんなことないよ」
「そんなことないもんか。でなきゃ、一年に一人って決まってる舞い手を四年もやらさ
れるかよ」
この里では一年に一人、舞い手を選ぶ。舞い手は年に三回ある祭のときに、この里
に伝わる伝統の舞を一人で舞う。そのための、舞い手だ。
選ばれるのは十代から二十代の青年一人。藤次郎は十四の時にはじめて選ばれ
て、以降毎年選ばれ続けている。本来は毎年舞い手を代えるのが慣わしとなってい
たが、古い書を読み解けば、数十年、数百年に一度、あまりの舞いの技量ゆえに十
年以上舞い手を続ける者がいたという。その者の舞う舞いは、舞いの元となった、あ
の鬼退治の神が宿っているのだということから”神舞い”と呼ばれる。藤次郎の舞いは
まだ”神舞い”と呼ばれるほどではないものの、それでもやがて”神舞い”になるだろう
と噂されていた。
”神舞い”はその名のとおり、神の宿る舞い。その舞を踊れば、必ずやそれとわかる
印が出る。だが、一体どんな印なのか、知る者は一握り。
「ま、本番まであと三日。お互いばてないように頑張ろうぜ。おまえはいつも踊った後
放心状態で、二三日記憶が怪しくなるからな。あんまり根詰めすぎるなよ」
「そうだな」
藤次郎は苦笑いをする。
神社の前で別れ、二人は帰路についた。
《二日前》
[ 語り手 ]
日本の田舎には、結構たくさんの伝統舞があるそうで。
私はその辺にはとんと疎くてね。ですからこの里の舞が特殊なのかどうなのか、よく
はわからないのですが。
ただ私はいつも不思議に思うのです。
何故、舞は一人の舞い手が舞うのだろうと。
だってこれは鬼退治の舞ですから。舞で、青年が鬼を退治するところを伝えるのに、
何故肝心の鬼が出てこないのでありましょう。
舞い手はその手にそれはそれは美しい布をくくりつけた棒を持つのです。、極彩色
の布をね、ほらあの神社で神主さんが振る祓串。あの紙垂れに似たような感じで棒に
くくりつけて垂らすのですよ。それを左右に振りながら踊るのですが、祓串の様でもあ
り、剣の様でもあり。
確かに何かに対して舞っている様ではあるのですが、果たしてその相手は何者なの
でしょう。本当に、鬼を祓っているのかどうか、姿が無いのでわかりません。
舞いの本当の意味を、知る者は極めて少ない。誰がその意味を知り、誰がその意
味を知らないのか。それを考えても、栓の無い事とはわかっております。ですが、私に
は一つ気になることがあるのです。
今年の舞い手は舞いの本当の意味を知る者の内に入るのでしょうか。
[ 舞い手の藤次郎 ]
合わせの練習は頼りなげな笛が気にかかりはしたものの、何とか無事に終えること
が出来た。
笛は技術よりも度胸が無いのだと、藤次郎も舞いを合わせて実感していた。だがそ
の度胸一つ何とかなれば、きっといい奏者になるだろうとも思えたので、それほど心
配をすることはない。場に立って、度胸がつくこともある。
「二日後だ。それまでには、笛も何とかなるさ」
「そうだな」
庄三郎の言葉に、素直に藤次郎も頷く。
「それよりお前、聞いたか? 二人連れの男女の話」
「いや」
藤次郎と違い、商売を行っている庄三郎はどうしても噂話の類が早く入る。おそらく
この話も、まだ噂になって間もないはずだ。
「旅籠に昨日到着した二人連れの男女がいるんだ。どちらも若くてな。なんだか雰囲
気が怪しいらしい。心中じゃないかって主人は気にしたらしいが、聞いてみたら夫婦に
なるんだって話だ。その女の方の親が、どうもこの里にいるらしい」
「それで、許しを得るためにわざわざここまで来たというのか。律儀な話じゃないか」
「おかしいとは思わないか。里の者が娘を一人遠くにやったなんて話、俺はこの里で
聞いたことはない。それに、旅籠の主人にも誰が親かは告げてないってことだ」
「野暮なこと探るなよ。誰かが行商のときに外で作った子どもかもしれないだろ」
「だが、女の方はこの里のことを良く知ってる」
「それで?」
話の大事な部分を勿体ぶるのは庄三郎のいつもの癖だ。勿体ぶる割りに、核心を
話すまでは相手を放さないのだから困ったものである。その辺のことを、長い付き合
いの藤次郎は良くわかっていた。
「俺はこの里に昔住んでいて、出て行ったという娘のことを調べてみた。身売りなんか
もそうとうあったからな、誰とは特定できなかったが、婚儀の許可を得に来るほどだ。
身を持ち崩したわけじゃあないだろう。身売り以外で里を出た話をあたったら、それら
しいのがあった。郷士のさ柿島様のお嬢様だよ」
柿島という郷士がいたことを、藤次郎は話に聞いたことがある。まだ二人が幼い頃
に家を潰してしまったとか。その原因が、高原屋という卸問屋にあったことも、里では
有名な話だ。だが、それは藤次郎達の親の代の話で、藤次郎も庄三郎も物心つくころ
にはもう柿島家は潰れていた。
「高原が柿島家の当主に入れ知恵をして、金を分捕ったって話は聞いたことあるだろ。
俺も親父から詳しい事を聞いたが、あれは酷いね。もう今の時代は侍なんぞなくなっ
て、士族だって商いをしなきゃいけねぇってんで、うまい取引の話を持ちかけた。何で
も、舶来の品を買って捌けば長者になれるってな。柿島の当主はその話を信じて田畑
を売って高原屋に預けた。だけど、舶来品なんてそう易々と手に入るものじゃねぇ。結
果、柿島家は財産を全て失って没落。そのときに丁度年頃の娘がいたんだが、それ
が借金の方に高原の妾として囲われた」
「その柿島の娘が生んだのが、今回訪ねてきた女だというのか?」
「そうらしい。柿島の娘が産んだ女の子は名前を綾香というんだが、彼女が生まれた
ことを知って、高原はその子を売ろうとしたらしいんだ。それも、ある程度成長して、い
い年頃になったところでな。そもそも高原は妾にも子どもにも愛着なんぞなかったらし
いし、金の亡者だって噂の奴ならやりかねん。で、わが子の身を案じた母親は、娘を
遠方に住む妹の夫婦に預けたって話だ」
「その柿島の娘は?」
「もう三年も前に亡くなってる」
「それをその綾香という子どもは知らないのか?」
「……どうだろうな」
なんとも後味の悪い話に、藤次郎は顔をしかめた。
[ 或る二人連れ ]
「許す、というが、何様のつもりだ?」
綾香にとってはほとんど思い出の無い、だが怖いという恐怖だけが染み付いた男が、薄笑いを浮かべて青年に聞いた。
「今まで綾香と彼女の母にしたことを彼女に詫びるなら、許すと言っている」
青年は夫婦になると誓ったときに、綾香から全てを聞いていた。彼女と彼女の母親
が、高原からどんな仕打ちを受けていたかを。三年前に母の訃報を聞いたとき、綾香
は言った。母は高原に殺されたのだと。それ以来決めていたことだ。彼女の前で、詫
びさせると。
だが青年の剣幕を、高原は鼻で笑って彼女を睨んだ。
「なんとも礼儀の知らない男だ。綾香、こんな青年将校をたらしこむとは、おまえも母
親に似てずいぶん阿婆擦れらしいな」
次の瞬間には、すでに青年の刀が高原の鼻先に光っていた。さすがに高原もその
剣幕に恐れをなして、叫ぶ。
「だ、誰か!!」
「次に彼女を侮辱するようなことを言ってみろ。斬って捨ててくれる!」
火がついたような青年は、彼女が縋っている事でかろうじて男を切りつけるのを抑え
ていた。
主人の叫びを聞いて何人もの男が襖を開け、刀を抜いた青年を見て怒りの色をあら
わにする。
「ええい、出て行け! 綾香、こんな男との結婚は許さんからな!」
二人は追い出されるように、いや逃げるように屋敷を後にした。
《前日》
[ 語り手 ]
そうそう、伝説といえば、この里には鬼伝説の他にも言い伝えがありましてね。これ
がまたありきたりな話なのですが、双子は忌み子だと、そういうのです。
かつてはね、生まれたら殺していたそうですよ、双子。それは片方だけなのか、両方
なのかはわからないのですが。
ただね、やはり言い伝えだけで殺されたらたまったものではありません。ですからね、殺された双子が祟る、などという話もあるんですよ。だから双子がより迫害される。悪循環なのですね。
ですが不思議なことに、双子のうちの片割れが子どものうちに亡くなることは、実際、この里では多いのです。そうして、独りになった片割れが迫害されることなく生き残るとね。
大きな声では言えませんが、舞い手の藤次郎もね、双子だったそうですよ。
それでね、この里では双子の片割れが舞い手になると神舞いを舞うっていう言い伝
えもあるものですからほら、村の者の期待は大きいのです。事実、藤次郎は近年まれに見るほどの素晴らしい舞い手ですからね。双子だから神舞いを舞うのか、神舞いを舞うのがたまたま双子なのか。
どちらにしろ、今年の祭りで藤次郎がついに神舞いを舞うか、そこに皆は注目してい
るわけです。
神舞いがどういうものか、知っている人はほとんどいないというのに。
[ 或る二人連れ ]
日が傾く少し前、綾香と青年が二人揃って神社を訪れた。
昼間なのに鬱蒼と木の生い茂っている神社の境内は、驚くほど暗く静かだ。むしろ
夕方ともなれば仕事を追えた若い衆が祭の練習に訪れて賑やかになるものだが、昼
間は何か恐ろしささえ感じさせる。
それでも二人は、礼をし、手を打ち、そして何事かを念じる。その二人の表情たるや
声もかけられぬほどに真剣そのもので、もし誰かが見かけたとすればついつい口の
端に乗せてしまうような、そんな違和感があった。
「ほんとうに、やるのですか」
綾香はお参りの終わったあとでそう切り出した。人がいないから、ようやく口に出せ
たのだ。宿屋では、いつ誰が聞いているとも限らない。
「今更何を。事を成さねば、私達はいつまでも悔いて暮らしてくのだぞ」
元々、結婚の許しを請いに来たわけではない。綾香の母の訃報を聞いて以来、ずっ
と青年は心に決めていた。高原を彼女の目の前で謝らせると。それが出来ないので
あれば、死んで償わせると。
「でもこんなこと、あなた様にさせるわけには……」
「何度も話し合っただろう。おまえ一人のことじゃない。もはや、これは私のことでもあ
るのだ。これ以上言うな」
言葉と共に女に背を向け、振り返った先に、それはいた。
息をのむ青年の肩口から女もそれを見て、小さく悲鳴をあげる。
それは、狐。
いや、狐の面を被った何者かだった。
黒い手甲に、黒い巻脚絆に、黒い足袋。着ている半被もまた黒く、襟だけが緋色で
その存在を強調している。そして黒のいでたちに、白く浮き上がる狐の面。
青年は後に女を庇い、黒装束の狐に相対する。
「鬼……」
綾香は小さく呟いた。
狐はゆっくりゆっくりと近づいて、とうとう二人の目の前まで来てふと立ち止まる。
青年が、唾を飲み込む。
だが一瞬の後には狐は二人とすれ違って神社の方へと歩いていってしまった。呆け
た二人が振り返ったときにはもう、黒尽くめの姿はない。
まさに狐に化かされたかのように、二人は唖然とするしかなかった。
[ 舞い手の藤次郎 ]
藤次郎は名前のとおり次男である。だが、生まれてすぐに兄、藤一郎がなくなったこ
とで、実質上一人となってしまった。まだ幼かった藤次郎は神社に引き取られ、現在
に至るまで雑用を手伝って生活している。
そうした縁もあって四年前に舞い手に選ばれた。誰もが神主の身内びいきであると
感じていたが、それも藤次郎の舞いを見て以来誰も文句を言わなくなった。天賦の才、というのだろう。見るものを引き込まずにはいられない力強く、しなやかなその舞いは、まさに藤次郎の才であった。
神社での色々な雑務を終えて、舞いの練習に入るまでの僅かな間、藤次郎は近所
の散歩をするのが束の間の楽しみだった。
近所のあぜ道を歩き、人々と言葉を交わして帰ってきたその神社の階段を、怯えき
ったように下りてくる男女の姿を見たのはもうあたりが薄暗くなろうかという頃。
「もし、どうされました? 大丈夫ですか?」
女性の方は足元さえおぼつかない様子で、つい言葉をかけずにはいられなかった
のだ。
「いえ、なんでも。お気遣いなさらず」
まだ比較的大丈夫そうな青年がそう声をかけて先を急ごうとするのを、だが藤次郎
は引き止めないではいられなかった。
「私はこの神社の者です。お連れ様は歩くのも難儀なご様子。休まれてはいかがです
か?」
だがその言葉に、二人は怯えたように身を寄せ合って藤次郎を見た。
「この神社の……あなたは神主様ですか?」
「いえ。ただの手伝いです。神社で何かございましたか?」
二人は怯えながらお互いを見るが、やがて青年が覚悟したように告げた。
「黒い、狐が……」
「狐?」
あまりにおびえたその様子に、藤次郎は二人を社務所へと誘う。
「ここで立ち話もなんです。それにお連れの方の鼻緒が切れているようだ。社務所に
寄って下さい。お茶でもお出ししましょう」
言われて見れば、確かに鼻緒が切れている。だが恐れが先に立つのか、二人とも
動こうとはしない。
「なあに、鳥居より内は神聖なる場所ですから、妖怪もののけの類は出ませんよ。出
たら私が退治いたしましょう」
優しい言葉と無垢な笑顔に、二人はついてゆくことにした。
[ 舞い手の藤次郎 ]
一通り話を聞き終えた藤次郎は笑顔のまま二人に黒い装束を一式取り出して見せ
た。
「これでしょう、その狐とやらが着ていたのは」
それはまさに、先ほどの男が着ていたものと同じ。黒い手甲、巻脚絆、黒足袋に黒
法被。襟の部分だけが緋色だ。
「これは……」
「これは祭の装束です。恥ずかしながら私は舞い手を務めさせていただいておりまし
て。明日はこれを来て舞うのです」
「狐の面をつけて……」
「いえ、狐の面はつけませんよ。それはきっとね、祭に浮かれた若い衆が神社に来た
人を驚かしただけなのでしょう。気にすることは無いですよ。この装束はずいぶんと長
い間変わっていない祭の伝統ですから、里の人間は誰でも知っています。誰でも、こ
の装束を着る事はできるんですよ。とは言ってもやはり、舞い手ではない人間がこの
格好でそこら辺を歩き回るのは誰かに見咎められるでしょう。ですからばれても冗談
で許してくれる神社で、悪戯をしたんだと思いますよ」
恥ずかしそうに笑顔を見せたのは、青年の方だった。
「いや、幽霊の正体見たり、枯れ尾花とはこのことですね。すっかり騙されてしまいま
した」
「本当に、お恥ずかしい」
女性もそう言って顔を俯けて微笑む。
「明日、祭は里の者皆が見に来ます。良かったら見にいらしてください。豪華できれい
な祭なのですよ」
「そうですか。それは楽しみです」
二人の帰り際、藤次郎は神社の奥から美しい錦のはぎれを持ってきて鼻緒を器用
に直してみせた。
「こんな高そうな布……」
「ああ、お気になさらず。これは今度の祭で使う布のはぎれです。どうせ他に使うあて
の無いものですから」
藤次郎は二人を送って神社の階段を下った。
「それでは明日、頑張ってくださいね」
青年が爽やかな笑顔で会釈をする。藤次郎もそれに返して、二人に会釈した。だが
背を向けて歩き出した二人に、彼は声をかける。
「狐の悪戯のことは、早く忘れることです。心にやましいところがなければ、疑心暗鬼
に襲われることもありませんから」
ぎくりとして青年が振り返った先で、藤次郎はもう二人に背を向けて階段を上がって
いくところだった。
[ 或る二人連れ ]
「やめた方がいいわ。ばれてるのよ、私達のこと」
綾香は刀の手入れをする青年にすがって言った。
「狐に見られたわ。舞い手の人だって、知ってるみたいだった」
青年は刀を手入れする手を休めはしない。
「狐のは悪戯だといわれただろう。それに私達は何も言ってない。疑われても証拠は
無いさ」
「でも噂が広まってるわ」
「それがどうした。好きに言わせておけばいい」
「捕まるわよ」
「殺ってすぐに里から出る。東京までは、誰も追ってこない。明日、祭のときに呼び出
せばいい。どうせ里の者は祭に夢中だ。祭が終わって発見される頃には、もう俺達の
姿はない」
外からは軽快な笛や太鼓の音が響いている。里で会った者は皆、この祭のことを話
題にした。祭の最中、こっそりと殺せば、見咎められることも無いだろう。人々が祭の
興奮から冷め、高原の死体を発見する頃にはもう、二人は峠を越えているはずだ。
だが、綾香は急に恐怖に顔を引きつらせた。
ずっと忘れていたはずの記憶。思い出したのは、笛の音のせいだ。
あれはまだ彼女が幼く、母と二人で里の外れのあばら家に住んでいたときのこと。
高原の来ない日は、二人にとっては幸せな日だった。そのときも、確かそんな幸せの
中、祭の練習の笛音が聞こえていた。
「綾香、明日はお祭の日ね。きれいな浴衣でも縫ってあげられれば良かったのだけど
……」
母を責めたくなかった幼い綾香は彼女なりに考えた。祭りに行かなくていいよう、母
が自分を責めなくていいように。
「お母さん、私お祭嫌い。お祭のときはね、お家にいようよ」
だが、母は怖い顔で首を振った。
「駄目よ、綾香。お祭に行かないでいるとね、鬼に食べられてしまうのよ」
それがあまりに鬼気迫って言うものだから、幼い綾香はすっかり怯えてしまったのだ。その恐怖が、もう十数年経った綾香の胸を不意に襲う。
綾香はひしと青年の背にしがみついた。
「駄目よ。祭のときには、鬼が出るもの」
「その鬼に、私がなるのだ」
青年の背で、綾香は声を忍んで泣いた。
[ 舞い手の藤次郎 ]
「その面は、どうしたんです? どうせなら鬼の面にすれば尤もらいしのに」
「こちらの方が気に入ったのだ。おまえは鬼の面にすればいい」
藤次郎が振り向いた先に、狐面の男がいた。ここは神社の境内。練習の者が皆帰
って、今は神主と藤次郎だけだった。そこにこの男が、現れたのだ。いや、いたのがわ
かっていたからこそ藤次郎は声をかけたのだが。
「そんな面で出てくるものだから、旅の人が驚いてたじゃないですか。面など被らず、
堂々とくれば誰も疑いはしないものを」
「一年ぶりだ。おまえが変わっていたら成りすますことも出来ない」
「私は変わっていませんよ。兄さんに成り代わっているのは、私の方ですから」
少し、間があった。先に口を開いたのは藤次郎のほうだった。
「今年は神舞いを舞います」
「ああ、いい鬼舞いになりそうだ」
二人は顔を見合わせて笑うと、社務所の方へ消えた。
《祭りの日》
[ 語り手 ]
さあ、いよいよ祭の日。
藤次郎が神舞いを舞うか、村一番の注目。
ですが、ああ、神舞いを舞うことで起こる、それはもちろん鬼舞い。文字通り、鬼が
舞う。神舞いでは舞い手に神が取り付いて舞うように、鬼舞いは鬼が取り付いて、舞
う。
誰が鬼の舞い手か。
それは誰にも、わからない。ただ一人、鬼を除いては。
[ 或る二人連れ ]
祭りの音が朗らかに、赤く染まった空を翔る。
笛の音も、今日になって聴けばそれなりに聴こえるし、鉦と太鼓が上手く調子を合わ
せている。練習のときの拙い音を知っているからこそ、今のこの音を村人は楽しめる。
「おや、祭り見物ですかい?」
蕎麦屋の主人に声をかけられ、青年は頷いた。
「せっかくだから見てこようと思いまして」
青年の後ろに隠れるようにしている綾香の表情は、主人からは見えない。
「楽しんできてくださいよ。俺たちも祭り見に行きますから」
主人の声を背に、二人は歩き出した。
神社へ向かう道を途中で逸れて、祭りの音から次第に遠ざかる。
[ 舞い手の藤次郎 ]
「準備はいいですか?」
神主が、黒装束を纏った藤次郎に声をかけた。
「今宵こそ、鬼が舞います。私は神舞いを舞う」
そういった藤次郎の表情は、すでに神が乗り移ったかのように穏やかで、気持ちが
読めない。だが神主は全てをわかったように、しっかりと頷いた。
[ 或る二人連れ ]
祭の音を背に、二人は緊張を纏いながら歩いていた。
もはや空はその明るさを失いつつ、ただ赤と群青がせめぎあう。
たそがれどき、とはよく言ったもので、確かに誰かが二人の姿を見たとて、それが誰
なのか判別するのは容易でない。
黙々と、高原の家だけを目指して歩く。
もう舞は始まっただろうか。かすかに聞こえる笛の音が、僅かに変化したようだった。
早く、激しく、強く、高く。その笛の音は、何かをけしかけるように、焦らすように、鼓舞
するように、舞うように響いてくる。
突然、ひし、と綾香は青年の袖を掴んだ。
その二人の目の前に、黒い狐面の男が立っていたからだ。
青年も息をのむ。何しろ目に入ったのは、黒い男が右手に持った、その刀だったの
だから。
「今日は祭だ。舞を見に行くがいい」
狐面の男がそう声をかける。だが、青年は引かなかった。
「高原に用事がある」
「祭りへ行きたまへ。祭の日には鬼が出る。深追いは、女連れでするものではない」
見られたからには、疑いをかけられる。里を抜ける前につかまるかも知れない。それ
に何より、目の前の男は異常だ。その刀を持って、どこで何をしてきてさらに何をする
つもりなのか、わからぬとも想像できぬわけではない。
己一人ならいざ知らず、綾香までをも危険に晒すわけにはいかない。
一歩、青年は下がった。
狐面の男は動かない。
一歩、二歩、さらに下がる。
狐面の男は、やはり動かない。
散歩目からは背を向けた。早足になるのは、否めない。ただ手はしっかりと、腰に下
げた洋刀にやっている。
ついに狐面の男が追ってくることはなかった。二人はだが、宿に戻る気にもなれず
に祭へと、足を運んだ。
[ 舞い手の藤次郎 ]
四方に松明を置いた、朱の舞台。
地に灯火を掲げただけの、それは簡素なものだった。舞うのは神社ではなく、里の
真ん中の開けた土地。いや、本来であれば場所は選ばなかった。四隅の灯火さえあ
れば、舞はどこでも舞えるのだ。
揺れるその舞台の上で、藤次郎は小さく一つ息を吸った。
そしてその次の瞬間にはもう、きっと前を見つめてそこにいない鬼と対峙する。
舞は男が手に持った祓串のような棒を左に振れば右足を上げ、右に払えば左足を
上げ、その動作をはじめはゆっくりと、次第に速く、拍子を取るように軽くなり、そして
時には時を止めたかのようにふと止まり。
力強く払い、時には軽やかに除けるように払う。
笛の音が曲調をがらりと変えれば、一瞬の間をおいて次の舞へ。太鼓が拍子を取
ればそれに合わせて飛び跳ねる。鉦の音は景気よく舞い手の動きに合わせて舞い踊
る。炎のゆれと、その影さえもが青年の舞に合わせているかのように見える。
[ 或る二人連れ ]
舞が次第に熱を帯びてきているのは、初めて見る青年にも怖いほど良くわかった。
舞い手は面を付けておらず、だからその表情がよく見えるのだが、その表情は真っ直
ぐに、だが何も見てはいない。ただただ舞に支配され、舞を舞うためだけに今は生き
ているような、そんな張り詰めた空気さえ感じられる。
舞い手の手が高くに勢い良く振り出され、足は軽やかに飛び跳ね、まるで一人でい
るのに目の前に誰かが対峙しているような、明らかに何者かの動きに合わせて舞っ
ている。それでいてその表情には真剣さと神々しさ以外は何も感じられない。
ひきつけられるそれが、神舞いであるなどとは青年にわかるはずもない。
[ 舞い手の藤次郎 ]
最高潮へ達したときにはすでに、舞い手には何も見えていない。
ただただ勝手に動く体、炎の揺らめきにぼうっとなる意識、頭の中で共鳴しあう音。
神が降りてきたなどと、藤次郎にわかるはずもない。
だが今回はいつもの余裕すら、なかった。自身の意識がない。ただもう舞に舞わさ
れ、神に舞わされ、藤次郎は何か目に見えない者の傀儡にでもなったような、そんな
自分を感じているだけ。
やがて音楽が緩やかになって、動きがゆっくりになり、最後に祓串を胸に片膝を地
につく形で、舞は終わる。
終わって一息の間を置き、やがて里の人々の歓声と拍手に包まれた。
[ 舞い手の藤次郎 ]
人々の話し声や笑い声は、まだ途切れることはない。
この日のために女達が作ったご馳走もまだまだ無くなりはしない。
だが、藤次郎は人の目を盗んで神社へ戻ると、すぐに社務所の裏手に消えた。そこ
に待っていたのは、黒い狐面の男。
「神舞いは、成功したようだな」
「その様子では鬼舞いも」
ちらり、と狐面の男が持つ刀に目を移す。暗くて見えはしなくとも、その生臭い匂い
がなんであるかの想像は容易い。
黒尽くめの男が狐の面をはずす。そこにあったのは、藤次郎とうりふたつの顔だった。二人は互いを見やり、笑う。
「四年目にして、ようやく神舞いを舞えましたよ。兄さん、次の一年は頼みます」
そう言って、藤次郎は頭を下げた。兄、藤一郎へと。双子ゆえに殺されそうになり、
神主が助け出した兄だ。
「おまえこそ、次は鬼になる番だぞ。わかってるのか」
「ええ、そのために一年ずつやってきたんでしょう。今年の鬼舞いは、やはり高原です
か」
藤一郎は頷く。
「高原の娘が来ていたのは驚いたがな。高原に殺される前に、柿島の娘は洗いざら
い話したから、初めの鬼舞いは高原に決まっていたのだ」
鬼舞いは、里で悪さを働いたものに天誅を下す。それは知る人だけが知っている、
この里の伝統。
「柿島の娘は双子だったらしいですね。家柄が郷士だから双子でも殺されずに済んだ
とか。だけど結局家の没落は双子を殺さなかったからだ、なんて言われてますけどね。
今回訪ねてきたあの娘さん、遠くに嫁いだ妹さんのところにいたそうですね。殺された
お姉さんも、綾香さんを預かっていた妹さんも、双子なら鬼舞いの話は聞いていたは
ずだ。だけど、それを綾香さんには話していなかったのですね。知っていれば、自ら命を奪いに来ることもなかったのに」
「だが、狐面を見て鬼と言った。鬼が出るということだけは、聞いていたのやも知れぬ」「かも知れませんね。どちらにしろ、詳しいことを知る前に綾香さんは里を離れた。お
ばを頼り、そこで娘同然に育てられて青年将校との出会いもあった。この縁談は良縁
だと聞いています」
「話が早いな。庄三郎か」
「ええ。彼はいつも噂話ばかりします。ですから庄三郎に会ったら、毎日聞いて聞き飽
きたとでも言うように話を合わせて下さいね」
藤一郎は笑って頷いた。
「また、舞で精根尽き果てて記憶が怪しくなった振りでもしようか」
「今度やったら莫迦と思われる。よした方が懸命ですよ」
「かまうものか。どうせ一年交代だ」
「次の年に私まで莫迦扱いされるのは嫌ですから」
せっかくの縁を、掴みかけた幸せを、この里のせいで壊すわけにはいかない。二人
は納得などしないだろうが、鬼舞いを舞った本人の藤一郎はすがすがしい気分でい
た。まるで人を殺してきたなどとは思えないほどに。それこそが彼が鬼である証なの
かもしれない。
《祭りのあと》
[ 語り手 ]
神舞いと鬼舞いは、裏と表なのです。その真実を、お話しましょう。
いつの時代も、真実は語り継がれます。
ですがその形は、時として大きく変わってしまう。意図的に、変えられる場合もある
のです。
かつてこの村に住んでいた双子がいました。
ですが双子の片方は、悪党になった。それは、双子ではなくとも人の子なら道を踏
み外すこともあるでしょう。だけれどもそれを、双子のせいにしたのは明らかに里の
人々の罪でした。
日々片割れの罪を責められ、存在を責められて追い詰められた双子の片割れは、
悪党となった片割れを殺してしまったのです。
ほっとした村人は、だけれどもその殺しの責任を、今度は生き残った双子に押し付
けました。同じ腹から生まれた兄弟を殺すとは、何と恐ろしい。人の子ではないのだ。
片割れが悪党なら、もう片割れも悪党だ。二人揃って化け物なのだと罵り、殴り、つい
には双子の片割れも、自ら命を絶ってしまったのです。
村人は、そこで熱からふと冷めました。
よくよく考えれば、双子を殺したのは自分たちなのかもしれないと、そこになってよう
やく考え始めて怖くなったのです。これは祟りがあるかもしれないと誰かが言い始め、
折り悪く干ばつがあったのをますます祟りのせいにしました。祟りを鎮めるためには
片割れを神として祀り、それが現在のような祭りの形になったといわれています。
殺された双子は、憐れでした。
その死を悲しんだのは、当時の神主と、里にいた他の双子。元々双子を忌み嫌う里
でしたから、生き残った方の双子も片割れが姿を消しました。一緒にいれば、いつま
た殺されるかわからないからです。
そうして、初の祭りで舞を踊ったのは、残った双子の片割れ。舞うならば、双子の魂
を静めるならば双子の方が良いだろうと。そういう了見だったそうです。
だけど、双子は里の人々の罪を忘れることはありませんでした。だから、伝えること
にしたのです。その恨みを、苦しみを、そして復讐を。
双子は、顔がよく似ていました。だから次の年、兄と弟が入れ替わってもわからなか
ったのです。こうして一年ずつ交代で村に戻りました。そして片割れは、一年に一人ずつ、双子を殺した里の人を殺しました。
これは、この里の双子にだけ伝えられる、祭の真実なのです。代々の神主が、双子
が生まれるたびにそれを伝え、自ら舞い手となった双子達は神舞いと鬼舞いを交代
で舞う。
いつしか里の人々が祭の起源も意味も無くしてしまっても、双子だけは伝え続けた
のです。悲しきこの、伝統を。
だから神舞いと鬼舞いは二つで、一つなのです。
何故私がこれを知っているかって、それはもちろん私が――
[ 或る二人連れ ]
翌朝、二人は宿屋の主人に見送られて里を出た。
里では朝から高原屋の主人が殺されたと大騒ぎだったが、祭のときに宿屋の主人
が二人の姿を舞いの席で見ていることから、疑いはかからなかった。舞いの後すぐに
家に戻った女中が高原の死体を発見したとき、まだそれは温かかったというのだ。だ
から犯行は、舞の最中に行われたのだろうと。それに、村の年寄にはわかっていたの
だ。これが鬼舞いの仕業であると。
二人とも、口には出さなかった。あの狐面の男のことを。
青年は自分の手で決着をつけることが出来ずに、口惜しい思いをしていた。綾香を
妻に娶ると決めたときから、彼女の心の奥にわだかまる怒りと憎しみを自分の手で消
すと誓っていたのに、それを果たすことが出来なかったのだ。
だが、綾香は愛する青年が手を汚さずに済んで安堵していたのは事実だ。
やがて二人は、里を出る道に出た。ここから先は険しい山だ。
ふと、後ろから来る足音に立ち止まり振り返れば、そこにはまたも狐面の男がいた。
自然と青年が綾香を庇う。
狐面の男はいつかのようにゆっくりと二人に近づき、すれ違いざまにその顔を二人
に向けた。
「その鼻緒の布は、祭で使われる縁起のいいものです。きっと無事に帝都まで帰るこ
とができますよ」
それだけを言うと、さっさと二人を追い越して山の中に消えていった。
「あの人――」
鼻緒のことを知っているのは、一人しかいない。その声も、聞き覚えがある優しいも
の。だけど二人とも、その正体を口に出すことはしなかった。
狐面の男が消えてから、二人は先ほどと同じようにより添って歩き始めた。
2007.09.22
(閉鎖されました)
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