「よぉ。」
重いドアを、剥き出しになった腕に押し開ければ、そこに立つ、男の口角
をくいと上げた元より出た声は、熱気と湿気に沈むように、ひどく低くに
這って響いた。
「元気そうだな?」
「ええ。」
墨色に、光を全て吸い込むような、艶消しの黒麻のジャケットスーツ、
目に痛いばかりの純白のシャツ、細い、横に、織り模様の入った、黒一色
のネクタイ。漆黒に艶やかな、真ん中より分け、流した長い前髪が御簾と
触れる、透明度の高く、極細いフレームの眼鏡程度では、その眼光の鋭さ
を隠す役割の、万に一つも果たせない。
「どうぞ。」
穿つような視線より逸らすように、それでも歓迎の笑みを、口元と、ほん
の少し細めた瞳に、ちいさく浮かべながら、もうひとつぐいと、大きくド
アを押し開けば、支えとなる腕の筋肉が、こちらも、ぐ、と隆起する。
「こっちも暑いな。外は地獄だぜ。」
身を滑らせ内へと進み入る。
「クルマやないんですか?」
「駅前近くで帰した。そこから歩きだ。」
言葉を背に、足を止めぬ間に、髪と同じく漆黒の、上質の麻のジャケット
をすうと脱げば、真白く糊のぴんと効いた、それでもあちこちに皺を刻む
シャツが、背の半ばに円を描いて張り付いて、その下にある、本来ならば
あり得ない、青みがかった肌の色を浮かび上がらせる。
招き入れ、鍵をかたりと閉め振り向いた、この部屋の住人の目に、それが
直に飛び込めば、知ってはいる、実際に、汗を流す、クラブハウスのシャ
ワールームに幾度か見た、それでも尚、一瞬目線をそこに、止めずにはい
られない。
リビングへと続くドアを開け、そこにあるソファの背に、脱いだジャケッ
トをふわりと丁寧に置けば、タグに、Yohji Yamamotoの文字。そうして間
髪を入れず背(そびら)を返すので、思わず鉢合わせの恰好となる。
「お……。」
「あ、すみません。」
「いや。」
すれ違い様、男の手が、グレイのTシャツの、半袖の肩を、ぽんと叩く。
そうして反対側にある、ドアを開ければ、ベッドメイキングをクローク
に頼んだかの、整頓され、本ひとつ、雑誌ひとつ、散らばりも見せない、
寝室兼勉強部屋。
「……ったく。」
吐き捨てるようにひとりごちて、ぱたりと、ドアを閉める。
「何にしはります?……ブランデー?」
リビングに付随する形の、台所から、やはり低い声が響く。
「昼間っからブランデーはねぇだろ。ベン・ネヴィス、まだあるよな?ロッ
クで……あぁ、その前にビールあるか?」
飾り気の全くない、白いクロスの、眩しい、部屋。
どん、と、ソファに浅く腰を下ろし、背もたれに身を任せ、長い脚を、ぞ
んざいに組む。いかにも暑苦しいとばかりに、ネクタイの首回りをぐい、
ぐいと二度左右に引き延ばし、真白いシャツの、長い袖を腕捲る。そうし
て、あぁ、と、脱いだジャケットより、マールボロの箱と、ジッポを取り
出し、一本を口に咥えて、かん、とライターの蓋を開け火を点けて、また、
かん、と蓋を閉じれば、それらをガラステーブルに並べ置く。
「すみません、サミュエル・スミス、ないんです。この辺りじゃ手に入
らへんので、ギネスしか。」
「あぁ。」
言われた通りのもの全てを、大きなトレイに乗せ運び、かちゃ、とガラス
テーブルに置けば、そのままに、ギネスの瓶の、栓を抜く。
溢れ出ようとする黄金色の泡を、掬うようにビアグラスに注ごうとすれ
ば、
「いい。自分でやる。お前は座れ。」
組んだ足をほどき、咥えた煙草を灰皿に押しつけて、まるで奪うように、
泡に濡れた瓶を取り上げ、二つのグラスに涅色(くりいろ)の液体を分け
注ぐ。
「すみません。」
手渡したグラスに、自分の持つグラスを軽く当て、かちん、と、透き通っ
た音を立てさせたかと思うと、ぐいと半分以上を流し込めば、ふう、と一
息。
「青(ショウ)、お前、また背が伸びたんじゃねえのか?」
そうして、静かに、横に座る男に視線を流す。
「そうですか?測ってないから分かりませんけど……。」
独軍払い下げの、アーミー・パンツに肘をつき、その手に持ったグラスに
一口つけたと思うと、こちらもぐいと、半分ほどを。
「ったく。一年程前に、あっさり俺を追い越しやがって。……そんな恰好
していりゃあ、そこいらのジャリガキと区別がつかんのにな。」
「ガキやから、まだ、背ぇ、伸びるのと違います?」
「は。そりゃそうだ。」
眼鏡の奥の瞳を細め、残りのビールを飲み干す。
それを横目に、ふふ、と照れるように見せる笑顔には、確かにあどけなさ
をどこかに残す、表情豊かとはお世辞にも言えない顔つきに、肩幅も、背
丈も、人一倍大きくはあっても。
「住み心地はどうだ?」
マールボロの箱に、手を伸ばせばすぐに、元よりそこに置いてある、玩具
のような自らの、ライターを青は手に取り、男が一本を咥えるのを待つ。
「良いです。広うて、清潔で、静かで。……俺一人には過ぎますよ。」
用意されたライターに、咥えた煙草の先を近づければ、黒い前髪がさらと
流れる。
火を点ける。かち、と音がする。
「青な……お前がきれい好きなのも、整頓好きなのも知っている。知って
いるがな。」
ふう、と、微かに白い煙を吐き出す。
「言ったよな、お前は仕事をしに、ここに来ている。その、給料分でここ
を借りた。だから、出る、その日まで、お前だけの城だ、と。」
「……はい。」
「まぁ……だからお前の好きにすりゃあ、いいんだがな。」
琥珀色の、瓶に手を伸ばす。
「なんだ、これ。封、開けてもねぇじゃねぇか。」
「すみません、荷物に入れてくれてはったのに……酒飲むと、どうしても
集中力落ちるから……ビールぐらいは、適当にやってますけど。」
溜息まじりに、封を開けながら、それでも二つ、用意されているウィスキ
ーグラスに目を遣る。
「今日はいいのか?」
くす、と微笑む。悪戯っぽい、笑み。
「沁(シン)さんの杯(さかずき)断ったら、スナにされて沈められるで
しょう?」
「はっはぁ!」
横に流す、眼光から鋭さが霧散し、破顔に思わず白い歯を見せる。
からん、と、グラスに落とされる、氷の音。
その上に、とくん、と美しい音を立て、注がれる、命の水と称される、琥
珀にきらと光る液体。
デジャ・ヴュのように繰り返される、一連の行動。違うのはグラスと、
その中身、そうして、二人の、飲み方だけ。
「こうしていると、お前と初めて会った時の事、思い出すな。」
眼鏡の奥の、黒い瞳が、柔らかに光る。
「俺の母校の奴等が集まる、高架下の例の店に、最近面白い奴が居つい
ていると、少し前に、ウチの若いのから聞いてはいた。ようやく時間も取
れたので足を運んでみれば、お目当てのお前はテーブルに突っ伏して、潰
れる一歩手前、って処だったな。
何やらぼそぼそ呟いているから、隣に座り、顔を近づけて聞いてみれば、
酒臭い声で、やきゅう、野球がしたいと繰り返している。そんなにしたい
のならオールナイトの、バッティングセンターにでも行くかと声をかけた
ら、その時だ。」
く、と、ちいさく吹き出しそうになるのを禁じ得ない。
「いきおい身を起こし、俺のジャケットの襟をぐいと掴み、真っ赤な顔と、
潤んだ、真っ赤な目で、一度俺の顔を、まるで恋すがるように見据えたか
と思えば、シャツの中にその熱い顔を押し込み埋めて、違いますよ、俺の
したいのはバッティングじゃなくて、ピッチングです、ピッチング。ピッ
チングセンターに、連れて行って下さい……と、それだけ言ったかと思え
ば、そのままの恰好で、すうすうと寝息立て出してしまいやがった。」
「……すみません……ほんまに、俺、全く、記憶が飛んでいて……。」
うつむく青の耳が、赤く染まっている、その時のように。
「まぁ、あの時に、スナにして沈めても良かったんだけどな。実際、ウ
チの若い奴らを鎮めるのに、ちょっとは苦労したんだぜ。
お前はまぁ、度胸が据わっていると云うのか、怖い物知らずと云うか……
堂々と、俺のクルマの中でも眠り続け、そのまますやすや俺のベッドも独
り占めだ。
……まぁどちらにしても、悪いとは思ったが、おねむの間に、簡略にじゃ
ああるが、お前の事、調べさせてはもらった訳だがな。
まぁしかし……お前も、驚いただろう? 気がつけば、全然知らない処に
居たんだからな。」
「ええ……。」
青はもう、どうすれば良いのか分からないといった風。
「おまけに俺、目が覚めた途端に気分が悪うなって……。」
「そうだぜ、お前。まだもどすな、我慢しろ、って、バスルームまでこん
なでかい、野郎の図体ひきずってよ。俺ぁ何してんだ、と我ながら思った
ぜ、ったくよ……あぁ、あの時スナにすりゃ良かったんだな。」
「……すみません……。」
そう言って、往時を心より恥じながらも、その反面に青は思う。彼等の法
規を逸した情報収集能力は優秀の域を超え、特に、後々に知る事となる、
沁のその冷徹ぶりには、震撼をさえ覚える事が一度や二度には到底収まり
切らなかった。
母親との確執などは言うに及ばず、父親の仕事内容、年収から、リトルリ
ーグに於ける戦歴さえも筒抜けにお見通しだろう……沁は何も、何ひとつ
口にしないが。
項垂れる青を慰めるかに、Tシャツと同じ色に染められ、短く刈られ立て
られた髪に、沁の大きな手が触れれば途端、びく、と、肩を震わせる。
「……髪、撫でられるの、まだ駄目なのか。」
「……すみません……。」
「謝るような事じゃぁねえよ、誰にでも苦手はある。……しかしな、これ、
女と居る時、困らねぇか?」
言ってくすりと笑う。
判っているのだろう、その理由も。息子が高校生になって尚、子供扱いを
止められぬ母親の、それが癖だった、その心的外傷だと。
好んで軍系の恰好を普段着に愛用するのも、そろそろ色気が出て来る子供
の頃、迷彩色がファッションとして流行し、自分もそれをとねだってみれ
ば、あれがどんな服装か分かって言っているのかと、人を殺し殺される、
戦闘服をファッションにして喜ぶような、そんな軽率な考えしか持てない
人間に育てた覚えはないと、目の前で髪振り乱して号泣された、その反動
でもあるのだと、あれもそれも、きっと、沁は承知で居るのだろう。
グラスを傾ければ、からん、と氷が柔らかい音を立てる、あちらで、そし
てこちらでも。
「沁さん……ひとつ訊いていいですか?」
「あぁ。」
「あの時、なんで俺みたいな、どこの馬の骨とも知れん人間に、ご自分の
ベッドまで、貸してくれはったんですか。」
「……あぁ、それな……。」
眼鏡の奥の瞳が、きらと鋭く光り、声音を低く、まるで呟くかのように。
「あの頃俺は、大学出てまだ二年余り、周囲は“若いの”なんて名ばか
りで、俺より年上ばっかりで……生まれた時からそいつらに、傅かれてば
かり居たし、大学じゃあそこそこ机上の勉学とやらも修めたつもりでもい
たが、いざ実践となりゃあ、喙の黄色い青二才でしかなくて……。」
途端、くす、と笑う。
「まぁとにかくな。お前の寝顔が、やたら、な。……まるで邪気がなくて
よ。」
「はぁ?」
素っ頓狂な声を出して、ほんの少し茶を帯びた瞳を円くしたかと思えば、
次にはまた、耳の先まで赤く染める。
そうしてばたばたと、テーブルの上の、キャメルとライターに手を遣って、
一本を取りだし、火を点けようとして、ふと我に返ったように言う。
「あ……煙草、いいですか?」
「……だからな、青。ここはお前の部屋だろうが。いちいち断り入れなく
ていいんだよ。……それより、その銘柄、まだ止める気にならんか?……
まぁ、それこそお前の自由なんだが、どうもその匂いには慣れなくてな。」
青の瞳に、複雑な色が混ざり込む。
「すみません……これは、止めとうなくて。」
「まぁな。こうして俺のと並べて置くと、往年のF1レースみたいで面白い
けどな。」
「アイルトン・セナと中嶋悟ですよね。」
「お、良く知ってるじゃねえか。俺はゲルハルト・ベルガーの結構なファ
ンだったんだぜ。」
今日、いつになく饒舌に、この人は優しい顔つきを甲斐間見せる、と、青
は思う。
そう言えば、組付きの、いや、正しくは沁、彼自身直属の、弁護士となる
為の、司法試験受験申請を正式に受けた、その頃から、こうして二人きり
で話す事など殆どなかったのではないか。それまでは、あちこちに、遊び
に連れ出してもらった、ダーツにも、ビリヤードにも、ゴルフコースに、
果てはクルーザーにさえも。だが何より青を驚かせ、感激させたのは、真
新しいキャッチャーズミットとグラブ、硬球までを新調して、河川敷に誘っ
てくれた事だろう。キャッチボールの心得位はあるさ、ストレートだけな
ら何とかなるぜと、そうして五年のブランクが、少なくとも沁の方には幸
いして、それでも、これ見てみろよ、全く何てぇ球、投げやがる、と、ミッ
トより出された掌は、見事に赤く腫れてはいたが、その時に見せた沁の顔
は、恐らく青と同様に、いや、ともすればそれ以上に、童心に綻んでいた。
服一枚から運転免許証取得、そうしてクルマ、一人暮らしのマンション契
約に至るまで、必ず青の好みを聞き入れた上に、保証、金銭の両面を全て
請け負って、沁はあらゆる手配を手筈を惜しまなかった。まるで実の弟で
も降って湧いたような可愛がり様だと、構成員の口々に、時には微笑まし
気に、そうして時には妬まし気に話題に上るのを、耳に漏れ聞くのなどは
最早、逐一気にしてもいられぬ回数を数えた。
かち、と火を点ける。その、煙草のみの持つ、特有の匂いが漂う。
「俺、ほんまに、沁さんには感謝しています。 沁さんと会えへんかっ
たら、俺、きっと、今頃は、ヤク中でアル中の、ホームレスやっています。」
実際そんなインテリくずれを、青は高架下に幾人も見ていた。
一瞬に、眼鏡の奥の瞳が、閃光を放つ。
「それはな。お前の持っている法的知識と、公的資格への可能性が、俺の
渇望していたものと、ぴたり合致しただけの事だ。礼など要らん。」
「……はい。」
煙草を深く、深く吸い込む。
「それ、飲んでしまえ。新しいのを入れる。」
「はい。あ、氷、新しいのと換えます。」
「いい。」
立ち上がろうとする青を言葉で制する。
「室温も頃合いだしな、これは元々ストレートが旨い。」
く、と、飲み干したグラスを、沁に手渡す。残った氷を、とりあえず、
空となったビアグラスに、からんと捨てる。瓶を傾ければ、とくん、と、
酷と深みのある音をたて、流れ出した蒸溜の酒が、グラスの底を琥珀に染
めてゆく。エアコンの、風向変更用羽根の動く、規則正しい音が、くうん、
くうんと、その合間合間に、入り込む。
「試験対策は順調か?」
唇を、潤わせた、静かな声。
「ええ、何とか……なかなか、難敵ですけど。」
「これから追い込み、という一番大事な時に、仕事をさせてるんだからな。
今年は模試のつもりで受けりゃあいい。お前はさっさと片を付けたかった
だろうが……悪かったな。」
「いえ、今年受かる自信も、元々あまりなかったですし。」
「急ぐ理由のひとつも消えたからな。そりゃあまぁ、早いに越した事はねぇ
んだが……こんな事なら、大学に行かせてやりゃあ、良かったぜ……お前、
俺の母校に行きたかったんだろう?」
青は微笑む。やわらかく。
「友人の兄さんが物理(学科)に進んで、そこに居るというんで、高校一
年の秋に、遊びに寄せてもろたんです、帝大時代からあるっていう、大学
寮。もう、傾きかけてるような古びた洋館で、学生は皆和気藹々としてい
て、その癖一方ではマイペースで。ああ、ええなあ、って。」
「あぁ……あの学寮に入りたかったのか。」
それで沁には全てが腑に落ちる。帝大時代は当然の事として、そうして今
となれば、男やもめに何とやらで、余りのむさ苦しさに、誘っても寄って
は来ない、それ故わざと残してある、“女人禁制”の看板。
「あそこには、理工系の奴が多く集まっていてな。実験の多い理工系には、
走れば間に合うあの場所は理想的だからな。俺は経済(学部)で、マンショ
ン下宿組だったが、高校からのダチが二人ほど居たから、結構居座って管
巻いていたな……あの、塵芥と、片付かないモノで足の踏み場もない部屋
部屋の中で四年暮らせば、お前の潔癖も、多少は矯正されたかも知れん、
そう考えるとますます惜しいな。」
「……沁さんがあの大学出身と聞いて、憧れていた事、思い出して……。
でも、どちらにせよ、あそこの法(学部)に行くには、俺の当時の成績で
は厳しかったですし、一縷の望みも、自分で閉ざし、絶ちましたから。大
学への未練は、ほんまに、もうないです。ありがとうございます。」
ふ、と、瞳落としながら、微笑む。
沁は、微笑まない。
ぐ、と、酒を流し込む。
「……僭越ですけど、お父さん、その後、如何ですか。」
「あぁ。」
沁の手が煙草の箱に伸びれば、青がライターを取り、待つ。これもまた、
デジャ・ヴュのように。
「ったく人騒がせな野郎だぜ。ありゃあ、三途の川の渡り賃、渋りやがっ
たに違いねえな。」
ぱあ、と、煙草の先が赤く光りを放つ。
「脳梗塞ってのは、発見と処置の迅速さは勿論だが、最終的には病巣部
位が運命を左右するものなんだな。親父の場合はどうやら全てが幸運だっ
たらしく、半年かけたリハビリも極めて順調で、後遺症の欠片も残らねぇ
可能性が極めて高いらしい。実際今現在も自宅療養で、ついこないだも、
事のついでに顔見に行けば、退屈極まりねえって、憎まれ口叩きまくって
いやがったぜ。一ヶ月もしない内に現場復帰すると息巻いていた。」
「そうですか。ほんまに、良かったです。」
「……お陰で俺も、三十路到達に数年も残した身で、組長参謀なんぞの重
責を、担うお役目からはとりあえず放免だ。ったく、やれやれだぜ。」
「……これもまた僭越なんですけど……跡目継ぎの件は、決定事項ですか?」
青の声はやわらかに、けれどもどこかに痛みを帯びたように。
「あぁ。……正式には、親父が復帰して後、直々に発表があるだろうがな。
親父隠居の後は、義兄が正式に跡目を継ぎ、俺はその参謀に収まる、この
線でまず間違いない。」
ふう、と紫煙を吐き出し、眼鏡の奥に、口角に、皮肉っぽい微笑を浮かべ
青を見遣る。
「組長付き弁護士になれなくて、残念か?」
「な……まさか……。」
代々世襲を伝統の、深嶌(みしま)の家に生を受けた人間には、例えば
それが男子ならば直接に、女子なら婿を取るという方法で、跡目継承を念
頭に置いた成育を期待され、またそのように教育を受け育てられる。沁の
姉も、沁も当然例に漏れず。
感性に流れを読み、頭脳と知識に機先を制するのがこの世界でも、これ
からは最重要事項になると、幼い頃より英才教育を受けながら、行く末の
選択肢は経済学、経営学、この二種より他には許されず、その上に、指導
力、統率力、リーダーシップに人心掌握、そう云った人の上に立つ器を、
努力には培いかねる、天性の資質、素質の有無を計り試される日々の中を、
沁はずっと生きて来た。
幸いにして頭脳は明晰に、こちらは父親の望み通り経済学士の学位も取
得したが、反して長となるべく資質には、その目に叶うには物足りず、そ
うとなれば父親は、一人息子でさえも切り捨てる事に躊躇はない、次には
それを有する婿選びへと関心を移す。いやもっと云えば、その婿候補選び
は既にして、沁の成長どころか、彼の誕生を待たずしてより、始まってい
た事柄であった。
こうして選ばれた義兄に、沁ごときが歯向かえる筈もない。実際に義兄
は人望に人心掌握に極めて優れた人物に、組長たる父親不在の際、義兄は
その能力を遺憾なく発揮して、周囲を唸らせそれまでに、反目を拭いきれ
ずにいた者達の、口を完全につぐませる威力を発した。
長となるより参謀となる方が、余程自分に向いている、父親の見抜いた、
その通りに。長たる器のない事など、誰に諭されずとも己が一等痛感する。
だからこそ、この、才覚溢れる義兄の参謀となるのならば、それはそれで
本望だと沁は思う、思おうとする。ただ、幼い時より、自分を愛し、可愛
がってくれた“若い衆”達に、ただ、申し訳がない、その気持ちだけはど
うしようもない。
「俺は沁さん直属の弁護士になる、それだけです。」
「あぁ。そうだな。」
互いに目を、合わさない。
青という男は、狐疑の心根が幾分薄い、その分ある方向への、勘に、感
受性に於いてはひどく、痛々しいまでに鋭敏に、それだけに何も話さずと
も、そういったこちらの背景を、流石にこれまで生きて来た世界が違いす
ぎる、充分にとは云えないが、あらかたを読んでいる。そう、沁は思う。
だからこそ。
ふと、気付いたように腕時計に目を落とす。
「あぁ、もうこんな時刻か。最近はいつまでも明るいからな。
駅前に七時にクルマを待たせてあるから、そろそろ行く。」
煙草を灰皿に、ぐいと押しつける。
「帰りはるんですか。泊まって行かはるかと。」
にや、と笑う。
「なんだ。お前のベッドに寝かせてくれるのか。」
捲り上げた、腕の、真白いシャツを下ろし、乱れたネクタイを直しながら。
「ええ、狭いですけど。俺はここのソファで充分ですから。」
「……は。」
……ったくこいつときたら。
「あぁ、そうだ。」
立ち上がり、ジャケットを羽織りながら言う。
「少し前になるが、“クラブ凉子”のママが、青の故郷なら一度見てみた
い、と言っていたが。」
思い出す、鎮守の杜での、ひととき。
「ええ、来はりました、十日ほど前かな。」
眼鏡越しに、鋭い眼光に見遣る。見遣ったかと思うと、次にはもう、その
眼光を緩ませて、まるで呆れたような笑みを漏らす。
「……そうか。」
こいつの表情(かお)は、決して嘘をつかない、いや、これは、つけない
んだ。
沁は、そう思う。
廊下と隔てるドアのノブに手をかけ開ければ、エアコンの効いていない、
むっとした空気が底を這って入り込む。
「あ、沁さん。煙草とラ──」
「煙草は適当に処分してくれ。ジッポはお前にやる。使い古しで悪いがな。」
玄関に向け、歩を出したまま、振り向きもせず。
「沁さん。」
「ん。」
座り込んで、靴紐を結ぶ、広い背に向かい。
「感謝しています。ここに戻る機会、与えてくれはった事。」
「お前の法律的見地が必要だっただけだ。」
「……はい。」
相変わらず、振り向きもせず。
「青。」
「はい。」
立ち上がって、こちらを向く。
沁の、長い右腕が、すうと上がって、その手が青の、左耳下の首筋を這い、
うなじの辺りで止まり、軽く力が入る。
「多分、ここにはもう来ねぇ。元気でやれ。」
「はい。」
口角を上げ、にやと微笑む。
腕を下ろしたかと思うと、即座背を向ける。
「見送りは要らん。」
かた、と鍵を開ける音。
「はい。」
ドアが開く。押し寄せる、むせかえるような、夕凪の熱気。
「ジッポ、大切にします。」
「おう。じゃあな。」
ゆっくりと、扉が閉まる。足音が消える。
乱れ置かれた、酒宴の跡にちらと一瞥をくれ、それから沁の座っていた
場所に、どうと腰を下ろし、背もたれに、首を乗せて天井を仰ぎ見ながら、
ふう、と、青はひとつ、大きな溜息をつく。
エアコンの、くうん、くうんと規則正しい音だけが、広い部屋に谺して、
音を立てぬ時計が、それでも刻々と時間を刻む。
どの位の時が流れただろう。部屋は夕暮れの、薄い闇に沈みこもうとし
ている。ようやくソファにきちんと座り直し、照明はつけずそのままに、
目の前に置かれたままの、ジッポに手を伸ばす。
アンティークものの、燻されたように、色に変化を見せる、スターリン
グ・シルバー。
蓋を開ける。かん、と、やわらかな銀の音。
親指で、じゅ、とフリント・ホィールを回転させれば、これもまた特有の、
ウィックの焦げる匂いと、青闇のなかに浮かび揺らぐ、やわらかな炎のい
ろ。
蓋を閉める。やはり、かん、と、やわらかな、銀の、おと。
記憶を手繰れば、初めて会ったその時より、沁の手には、このジッポが
握られていたのではなかったか。
マールボロの箱に手を遣る。数本が中に残る。
一本を出し、口に咥える。
ジッポで、火を点ける。吸い込めば、先が赤く灯る。
昔に吸った事は幾度もある、だがもう味は。こんな味だったか。
その瞬間。
突然に、全てが蘇った。
野球がしたい、ピッチングがしたい、と、懇願して、見も知らぬ男の胸に
顔をうずめた、自分の姿。その、見知らぬ男の、顔。まるで、幽体離脱で
もしたかのように、写真でも見せつけられたように、一瞬にして、鮮明に。
煙草を咥えたまま、もう一度ジッポを手に。
蓋を開ける。火を点ける。蓋を閉じる。
また、同じ事を繰り返す。
かん、かん、と、同じおとばかりが、今や闇に落ちた、部屋に響く。
吸い込まれない煙草の煙が、目に沁みて痛む。
灰がぽろりと、アーミー・パンツの上に落ちる。
手に払いのけ、煙草を灰皿に、ぎゅ、と押しつけ火種を消す。
もういちど、ジッポを開け、火を点け、閉じる。
そうして次にはそれを握りしめて、立ち上がり
青は静かに、その、白いクロスの部屋を後にした。
end.
2007.09.03
この作品は『潮のおと』と言う短編小説の、サイド・ストーリーでもあります。
ぜひ本編『潮のおと』と、もう一本のサイド・ストーリー『秋茜のもとに』も読
まれることをおススメします。
『潮のおと』 『秋茜のもとに』
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