注) このお話は『Slow Luv Op.4』の後の話です。

              So emotional 





もしもーし?
 電話からは、聞き覚えのない声がした。さく也は腕時計で時間を確認する。ウィーンとは八時間の時差だから、日本は今、午前0時を回った頃だ。
「あの、加納さんの電話では?」
ええそうですよ、加納さんとこです。今、シャワー浴びてるから、こっちから掛け直しましょうか?
「あ、いえ、もう出かけるので。また掛けます」
 相手が名前を聞いたので、「中原」とだけ答え電話を切った。
「どうした?」
 置いた受話器をしばらく見つめていると、英介が声をかけた。さく也は今からコンクールに出場する為に、夜の便でイタリアに行くところで、英介が空港まで送ってくれることになっていた。
「知らない男が出た」
受話器から目を離し、傍に立てかけてあったヴァイオリン・ケースを肩にかける。
「知らない男?」 
 さく也が持とうとしたスーツ・ケースを横からさらって英介がまた聞いたが、それには答えずドアに向かって足を進めた。
 国際コンクールに臨む際は必ず悦嗣の声を聞く――それが出場するコンクールに負けなしの、さく也のジンクスだった。ジンクスなどあまり信じていないさく也は、聞けなければ聞けないで構わないのだが、知らない声の持ち主は多少気になるところではある。
「加納さんは友達が多いから」
と、とりあえず自分で自分に悦嗣のフォローを入れてみた。こう言った時、どれだけ彼に傾倒しているか思い知る。
「なんだ、まだそんな他人行儀な呼び方してんの? それでエツは『中原』だろう? まったく」
 表情にあまり出ないさく也の、実は乙女な胸のうちなど知る由もない英介は、違う点が気になったようだった。
「さく也がフリーになって一緒に住まないと、いつまで経ってもその呼び方から脱却出来ない気がするな、君たち?」
 茶化すような彼の言葉に、さく也は苦笑で返した。




 玄関に見覚えのない靴があった。加納悦嗣もスニーカーは持っているが、あきらかにサイズが違う。
 居間の方からはピアノの音が聴こえた。でもそれは、聴き慣れた悦嗣の音ではない。彼の音よりも硬く、彼の音よりも自信過剰だ。タイプ的にはユアン・グリフィスに似ているかも知れない。ドアを開けると、ソリスト特有の音がダイレクトに耳を刺激した。
「中原?」
 ピアノに並んで座る二人の姿が、さく也の目に入った。演奏しているのは見知らぬ若い青年で、その脇に座っているのは悦嗣だった。さく也の姿を認めて、悦嗣が立ち上がる。それと同時に音が止まり、演奏していた青年もさく也を見た。
「どうした? 帰るのは1週間後じゃなかったっけ?」
 悦嗣はさく也の前に立った。
「イタリアから直接来た」
 イタリアのコンクールを終えたら、一度ウィーンに戻って日本に来るつもりだったのだが、さく也はそのまま日本行きの飛行機に乗った。ウィーンを出る直前の電話が、微妙に影響していることは否めない。
「ジェノバ、おめでとう」
 悦嗣の手がさく也の頭をくしゃくしゃと撫でた。「ありがとう」とさく也は応えた。頬がすぐに上気する。
 その時、軽い咳払いが悦嗣の後方で聞こえた。さっきまでピアノを弾いていた青年がいつの間にか悦嗣の後に立っている。悦嗣の肩越しにさく也を見て、ニヤリと笑った。
「中原さく也さんですね? 本人に会えるなんて、びっくりだ」
 彼が右手を差し出したので、さく也はその手を取って握手した。
この声には聞き覚えがある――あの時、イタリアに発つ前にした電話で聞いた声だ。
「葉山孝太です。エツ先生の一番弟子ってのが自慢です」
 人懐こい笑顔を振り撒いて、彼は自己紹介した。
 ピアノの調律師をする傍ら、悦嗣は実家の音楽教室が新設した音大受験コースで教えていた。葉山孝太はコースを持って初めての生徒で、音大合格者でもあると悦嗣が付け加える。その間、孝太は甘えた表情で悦嗣の両肩を揉むような仕草を見せていた。
「俺も今度、仙台(国際コンクール)に出るんですよ。コンクールなんて初めてだから、ぜひさく也さんに心構えを聞きたいなぁ」
「まだ予備審が通っただけだろ」
「それでも通ったことには変わりないよ。先生も喜んでくれたじゃん」
 背後から両腕をかけて、彼は悦嗣の首を抱いた。その腕を悦嗣はやんわり払い、彼の額を軽く小突いた。孝太は舌を出して、「へへへ」と笑う。
「コータ、悪いけど今日はパスする。中原も来たことだし」
「えーっ!? 可愛い教え子の予備審通過祝いなのに?」
「おまえなぁ、予備審通過ぐらいで祝ってどうすんだ」
 悦嗣があきれたように言う。
「だってオーディション(=二次審査)が通るとは限んないでしょ? そしたら祝ってもらう機会ないじゃないですか」
 孝太は大きな声を上げた。それからさく也の方に一歩踏み出す。
「今晩、俺の予備審査通過祝いの飲み会があるんです。良かったら、中原さんも来ませんか? その方がみんなきっと喜ぶと思うんだけど」
 彼はさく也の手を取って、「ぜひぜひ」と続けた。
 さく也はちらりと悦嗣を見る。彼は肩を竦めて見せた。その表情は「断っていい」と言っているようだった。疲れていないわけではないが、連絡も入れずに戻ったことに多少は責任も感じる。悦嗣には悦嗣の生活もあるし、つきあいもあるだろう。孝太の話では、次の審査の激励会も兼ねているらしかった。
 結局、そう言ったことを考えているうちに、さく也もその『お祝いの会』に出席することになってしまった。
 



 葉山孝太のコンクール予備審査通過祝いと来たるオーディション(二次審査)激励会は、飛入りした中原さく也に主役の座を奪われた格好になっていた。何しろさく也は現在、出場する国際コンクールで負け知らずなのである。そしてイタリア・ジェノバで先日まで行なわれていた国際コンクールを、制してきたばかりの時の人だったから尚更だ。当の孝太は気にしていないようで、隣に座る悦嗣との会話に専念している――他の人間をさく也に押し付けて。
「来年はチャイコフスキー(=国際コンクール)の年ですが、勿論、出場なさるんでしょう?」
「去年、ロンドンのガラであなたの演奏を聴きましたよ。ぜひ、日本でも演奏して頂きたいと熱望しているファンは多いと…」
 入れ替わり立ち代り、さく也の隣には人が座っては賞賛して行く。必ずその手には何かしらのボトルがあって、グラスに注いでいった。その度にさく也は一口二口と含む。すでに酒量は限界を大幅に越えていたが、本人には自覚がなかった。つがれるままにグラスを差し出し、進められるままに口にする。アルコールはさく也の口数を普段の三倍にもするから――とは言え、それで人並み――、会話は続いて途切れることがなかった。時折その目は悦嗣に向けられる。彼との距離は二人分ほどだったが、葉山孝太の甘えたような笑顔に応える悦嗣を、さく也はひどく遠く感じた。
 あの青年は確かに悦嗣に好意を寄せている。師に対するものでも、兄に対するようなものでもなく、さく也と同じ類の感情を。さく也だからこそ、わかる感情だ。これはヤキモチなのだろうか? だからそう見えるのだろうか? 悦嗣が彼の話を聞く表情が優しげで、それが更にアルコールをさく也の口に運ばせた。周りの質問など、すでに右から左だ。
 何度目かに悦嗣を見た時、彼の姿はなかった。
「エツ先生ならトイレっすよ」
 気がつくと葉山孝太が隣に座っていた。曽和英介とは違う人好きのする笑顔を浮かべ、新しいグラスに近くにあったビールを注ぐと、さく也の前に置いた。
「今日はお疲れのところ、すみません。でも中原さんにも来てもらえて、俄然、やる気出ましたよ」
「別に疲れてなんかいない。飛行機で寝られたから。それにこっちが先約だし」
 孝太が注いだビールに口をつける。五ミリ程度減ったのを見て、彼はまたビールを注いだ。
「でもホント、すごいッスよね、中原さん。去年から出るヤツ出るヤツ、総なめじゃないですか? ネットでインタヴュー記事を読んだけど、緊張しないって本当ですか?」
「弾いてしまえば、いつもと同じだから」
「そうかなぁ? いつもと全然違う状況じゃないッスか。恐い顔した審査員が、ミスるのを手ぐすね引いて待ってるみたいで」
 孝太はさく也にコンクールに挑む際の心構えを聞きたがった。心構えの意味が、さく也にはよくわからない。曲を弾くと言う行為以外に、必要なものがあるのか…と、さく也は逆に質問したりした。
「やっぱ、凡人とは違いますね。僕なんて、予備審用の録音だけでビビってましたよ。でもあの時はエツ先生が付き合ってくれたから、不思議と落ち着いてられたな。今度のオーディション、オーケストラ・パートはピアノ伴奏になるんですよ。先生が弾いてくれたら、きっといつも通りに弾けると思うのに、『うん』って言ってくれなくって」
 そこからは悦嗣の事に話題が移った。孝太が悦嗣を知ったのは五年前のアンサンブル・コンサートだったこと、本職は調律師だと知って、家のアップライト・ピアノの調律を頼んだこと、彼の実家が音楽教室で、受け持つ受験コースの募集を知り、一番に申し込んだことなどを彼は熱っぽく語った。
「俺、先生のピアノ、大好きなんです。力みがなくってタッチが柔らかくて。一緒に弾いてると、すんごく気持ちいい。包まれてるっての? そんな感じ」
 悦嗣は孝太と弾いたことがあるのか。師弟の関係にあるのだから、ダブル・ハンドくらいはあたりまえだろう。良い演奏が出来たなら、あの大きな手は彼の頭を撫でるのだろうか?――孝太のふわふわとした薄茶の髪を見ながら、さく也はぼんやりと思った。
「君は…加納さんのマンションでレッスンを受けているのか?」
 さく也がグラスに一口、口をつける度に、孝太がビールを注ぐ。彼の手の動きを見ると、午後の光景が蘇った。さく也がマンションに着いた時、悦嗣と孝太は並んでピアノに向かっていた光景だ。
「ええ。八王子のレッスン室まで通うの大変だし。それに先生のピアノ、すげぇちゃんと調律されてんですよ。録音に使うヤツのオーダーもあのピアノに合わせてもらったくらい、俺、あの音好きなんです」
 孝太が話を続ける間、さく也は悦嗣の音を思い出していた。
 悦嗣は自宅マンションでレッスンをつけることはなかった。普段は物置にしているピアノは悦嗣の好みに、悦嗣のタッチに合うように、定期的に調律されている。ピアノはいつ聴いても変らない、加納悦嗣の音を奏でるのだ。彼以外が弾いているところを、さく也は見たことがなかった。とは言え、さく也が悦嗣のマンションを訪れたことは数えるほどしかなく、それは単なる思い込みかも知れない。実際、この葉山孝太があのピアノを弾いていた。さく也の知らない悦嗣の生活の片鱗だ。
「あのコンサート、中原さんもファースト(第一ヴァイオリン)で出てましたよね? 素人同然のピアニストが代役で来て、びっくりしませんでした?」
 疑問形の言葉にさく也の意識が戻った。話題はアンサンブル・コンサートに変っていた。乾いた唇を、ビールで一度湿らす。
「止まらずに弾けるなら、別に。同じステージに立つんだから、素人だなんて思ったことはなかったけど」
「じゃ、メンバーはみんな納得してたんだぁ? やっぱスゴイや、エツ先生って」
「俺が何だって?」
 悦嗣が戻って来て、孝太とは反対側のさく也の隣に座った。
「アンサンブル・コンサートの時の話をしてた」
 さく也が答える。続けようとすると、
「オーディションのピア伴の件、考えてくれました?」
と孝太が話をさらった。
「なんだ、まだそんなこと言ってるのか?」
 その言葉に悦嗣があきれたように言った。
「オーディションは初めからカシニコフ先生に頼んでるだろ?」
「そりゃそうだけど。じゃ、引き続きレッスンは見てくれるでしょ?」
「もともと俺は補佐の補佐なの。せっかくカシニコフが時間を割いてくれてるってのに、俺んとこばかりに入り浸ってちゃいかんだろうが」
「ちゃんとミスターのところにも行ってるよ」
「一月まで時間ないぞ、本腰入れろよ、本腰」
「ミスター、ベタベタ身体に触るから、嫌なんだよね」
「おまえは俺にべたべた触るじゃねぇか」
 さく也の目の前を通り越して自分の手に触れる孝太の手を、悦嗣は素気無く払った。
「冷たいなぁ。中原さんからも頼んで下さいよ。絶対、エツ先生との方が平常心保てるんだけど」
 孝太はさく也に減っていないグラスを空けるように、ビール瓶を持って促した。さく也がグラスを無意識に取るより先に、悦嗣が取り上げる。
「大丈夫か?」
「何が? そんなに飲んでない」
 さく也は悦嗣の方に顔を向けた。
「飲んでないけど、酔ってるだろ?」
 笑って悦嗣はおもむろに立ち上がると、「そろそろ帰ろう」と言ってさく也の腕を掴んだ。
「エツ先生、まだこれからっしょ?」
 その様子を追う声は孝太だ。
「この後、ローズ・テールに行こうと思ってるのに」
「俺達は帰るよ。ずい分、酔ってるから」
 悦嗣がさく也を指差す。
「普通じゃないですか?」
 これは孝太の声なのか、それとも周りにいる誰かの声なのか、さく也はそろそろわからなくなっている。しかし悦嗣の声だけは判別出来た。
「これで酔ってるんだよ。顔に出てないだけさ。立てるか?」
 さく也の腕に少し力がかかった。「大丈夫、歩けるよ」と答えて、さく也は立ち上がった。
「どっちにしてもこいつは疲れてるから、連れて帰る。じゃあな、コータ、しっかり練習しろよ」
 『コータ』――彼のことは名前で呼ぶんだな…と、さく也は悦嗣の横顔に問い掛ける。声に出してではなく、心の中でだ。もちろん悦嗣が声なき言葉に答えるわけはない。さく也の腕を引いて、残る人間に挨拶しながら進む。
 そこから先、さく也の記憶は一時、途切れてしまった。
 
 


 コーヒーの香りがする――さく也は細く目を開けた。コポコポと独特の音を立てているのは、コーヒー・メーカーだろうか。さく也はのろのろと身体を起こした。そこはソファの上で、かけられていた毛布が床に滑り落ちる。
 どうやら悦嗣のマンションに戻って来ているらしい。
「起きたのか?」
 マグカップを用意した悦嗣と目が合った。
「眠ってたのか…」
「タクシーに乗ってから、ずっとな。コーヒー、飲むか?」
 さく也が頷くと、彼はもう一つカップを出す。コーヒー・メーカーのポットから2つのカップにコーヒーが注がれると、更に香りが部屋に広がった。
 さく也の酔いはまだ完全に覚めていない。悦嗣が差し出したカップを取って一口含んだが、ひどく苦く感じる。それが表情に出たのか、悦嗣は砂糖を持って来てくれた。
「少し甘くしろ。疲れが取れるから」
 そう言うと、さく也のコーヒーに砂糖を入れた。
「直接来たって言ってたけど、ウィーンに戻らなくて良かったのか?」
 悦嗣はさく也の隣に座る。
「うん。もしファイナリストになったら、冬の休暇を先にもらうことになっていたから」
「ああ、そうか。ガラもあるからな?」
「それもあるけど」
 本当は日本に早く来たかったからだ。夏の休暇はアンサンブルのツアーと、秋のコンクールの為に潰れてしまった。3月の休暇以来だから、悦嗣の顔を見るのは七ヶ月ぶりだった。
 想いが通じ合ってから三年が経とうとしていたが、生身で会えるのは年に二度ほどしかない。東京とウィーンはあまりに遠く、特にさく也は公務員待遇のオーケストラに所属していたから、自由に時間を取れなかった。
 居間を占領しているグランド・ピアノの上に楽譜が積まれている。もともと物置き場と化しているピアノなのだが、楽譜が出しっぱなしになっていたことは見たことがないから、今ある楽譜はあの葉山孝太のものなのだろう。テレビの前にはゲーム・ソフトと思われるディスクが転がっていた。これもまた七ヶ月前には見られなかったものだ。
 知らない物が増えて行くのは仕方がない。悦嗣とさく也はそれぞれの生活を送っているのだから。それでももう少し近くであったなら、もう少し訪れる機会が増えたなら、その変化に違和感を覚えずに済むのに…と、さく也は思ってしまうのだった。だから、国際コンクールを数々受けるうちに考えていたことを、初めて悦嗣に話した。
「来年のモスクワが終わったら、日本に戻ってきたい」
 口元からカップを外し、悦嗣がさく也を見る。
「Wフィルを辞めるつもりなのか?」
 さく也は頷いた。
「そうしたら、もう少し自由に時間を使えると思うし。もっとあんたと一緒にいられる」
「中原」
「一緒にコンサートに行ったり、演奏したり、ピアノを教えてもらったり。ううん、何もしなくてもいいんだ、一緒にいられるだけで」
 まだずい分と酔っているのかも知れない――普段なら口に出来ない言葉が零れ出る。コーヒーの甘さに誘われるように。
 さく也はカップの中のコーヒーから、目が離せなかった。悦嗣を見ると、もっと子供じみたことを言ってしまいそうだ。
「…まだ酔ってるな、俺」
「素直で可愛いさ」
 悦嗣が笑って言った。その笑んだ目を見ると、さく也の頬は途端に熱くなった。
「それぐらいがちょうど良い。なかなか本音を聞けないからな。だから今のうちに言っとけ」
 彼の細長い手がさく也の頭を撫でた。さく也の頬だけではなく、体中が熱を帯びる。酔いは急激に醒め始めた。さく也の言葉数は比例して少なくなる。だから少し間が空いた。
「帰って来たいなら、帰ってくればいいさ。せっかくソロ向きの音を持っているんだから、オケに溶けるばかりじゃもったいないし」
 その間を接いだのは悦嗣だった。さく也の頭にあった手はカップに戻される。その動きをさく也の目が追う。
「『日本に帰って来たい』、『一緒にコンサートに行く、演奏する』、『ピアノを習いたい』、他には何かないのか?」
 次のわがままを悦嗣は促す。さく也は躊躇いがちに言った。
「名前で呼んでほしい」
「名前?」
「ファミリー・ネームじゃなくて」
 葉山孝太のことを呼ぶ時、悦嗣は名前で呼んだ。親しみのこもった響きは、さく也の心に小さな痛みを残した。自分はすっかり孝太に中てられている。ウィーンを発つ前に英介にも言われたことだが、その時は気に止めなかったのに。子供じみてる思ったことを、結局、口にしてしまったな…と、さく也は後悔した。
「さく也」
 悦嗣の手の動きを追っていたさく也は、思わず彼を見る。いきなり顔を向けられて、悦嗣は驚いたような、照れたような表情を浮かべた。
「なんだか照れるな」
「無理しなくてもいいよ」
「そうでもない。他のヤツはみんな、あたりまえのように名前で呼んでるんだから。むしろおまえの事を名前で呼ばない方がおかしいんだ。誰よりも名前で呼ばなくちゃいけない存在なのにな」
 悦嗣はそう言って頭を掻いた。珍しく赤面している。名前で呼んだことに対してなのか、自分の言ったことに対してなのか。誰よりも名前で呼ばなくちゃいけない存在――さく也は彼から目を外せなかった。
「なか…さく也?」
 瞬きもせずジッと見つめるさく也に、悦嗣の照れ隠しの仕草は止まった。
「…キスしたい」
 欠片で残った酔いが、さく也に言わせる。悦嗣の目は少し見開いたが、すぐに柔らかい表情になってさく也の肩を引き寄せた。
「俺も」
 言葉と同時に彼の唇がさく也の唇に重なる。さく也は目を閉じて、悦嗣の首に腕を回した。
 このやさしいキスは自分のものだ。交わす吐息を感じながら、さく也は思った。もっとそれを感じたくて、悦嗣の首に回した腕に力が入る。呼応するかのように、さく也を抱きしめる彼の腕にも力が入った。
 心地よい陶酔感が、さく也の心の内に刺さった微細な『棘』を溶かす。
 キスの熱さが酔いを呼び戻し、さく也は意識が薄らいで行くのを感じた。右目の下のほくろに悦嗣の指が触れて、「おやすみ」と言った気がした。
 
 そうして長い一日が終わり、さく也はやっと悦嗣の元に戻れたのだった。




                                              end

*このお話は、以前、拍手コメントにお寄せ頂いた言葉から発想を得て書きました。
 「ライバル登場でやきもきするさく也」(←要約)と言う事柄でしたが、
 イメージに合っているでしょうか? 
 

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