Wir pflanzen die Rose.
                 〜薔薇を植える〜




 故国は青い河の畔。街並みは古びて、どこか寂しげだった。何度も他国の侵攻を許し、その都度、大国の思惑に翻弄される歴史的背景が、クリスティアンにそう見せるのかも知れない。
 彼が国を離れて十年が経っている。国境の山から見下ろす故郷が、イメージと少しも変わりがないことへの懐かしさと、この国は未だに変わりえないのだと言う切なさが混在して、クリスティアンの胸中は複雑だった。
「クリスティアン、春の兆しが見えたら、国に戻って薔薇を植えてくれないか?」
 ある日、クリスティアンは病床のラファウから小さな包みを渡された。薬の包みのように折りたたまれた中には、種が数個。季節はすでに初夏になろうとしていた。そのことを彼に言うと、
「季節のことじゃないんだ」
と微笑んだ。


 ピアニストのクリスティアンと作曲家のラファウは、若い芸術家を支援する貴族のサロンで知り合った。同郷であったことと、実は同じ音楽学校に在籍していたことで意気投合したのだが、蹂躙され続ける母国を憂えて地下活動の一端を担い、そのために国を離れなければならなかったと言う事情までが同じで、更に二人を固い友情で結びつけたのである。
 やむを得ず国外に身を置いているが、演奏活動を続けながら二人は、国に残った仲間達のために資金を送り続けた。そのためにラファウは貴族が好む華やかな曲を書き、クリスティアンは過剰なまでの表現で情感たっぷりに演奏して見せた。二人はたちまちサロンでひっぱりだことなり、時には国家賓客の前で演奏することもあった。
 そうして走り続けること数年、もともと丈夫な性質ではなかったラファウが病に倒れる。支配国からの独立機運が高まった故国へ、二人が帰ろうとした矢先のことだ。
「帰らなけりゃ、国が亡くなってしまう…、クリスティアン」
 熱が下がらず、うわ言を繰り返すラファウ――彼の想いも連れてクリスティアンは単身、帰国しようと試みるが、「今のままでは犬死に戻るようなものだ」と他の仲間に押し留められた。
「すまない、ラファウ。戻れなかった」
「君が謝ることじゃない。もう少しで僕は、かけがえの無い友人を危険にさらすところだった」
 ラファウは何とか回復したが、故国は過酷なまでに鎮圧を受け首都は陥落。同志は更に地下に潜り、沈黙した。
 クリスティアンは幾つもの国を跨いでサロンを渡り歩く。演奏の依頼をただの一度も断らなかった。体力には自信があったし、資金はいくらあっても多過ぎることはなかったからだ。病身となったラファウの治療費と故国の仲間への支援と。
 気がつけば故国は支配されることに慣れて落ち着き、仲間との連絡は途絶えていた。


「今はまだ『冬』の最中だろうけど、きっと冬ばかりは続かない。いずれ春が来た時、国に色がないのは寂しいだろう? 薔薇には『情熱と愛情』と言う花言葉がある。その葉にもね、クリスティアン、『希望と激励』の意味を持つのだって。この花を植えて、僕たちの想いを託そう」
 仲間との連絡は取れないままだった。しかし国状は安定し始めている。大国の属国となり、他民族の王を迎え、体裁は整いつつあった。支配による安定が間違いではなかったと各国に見せしめるために、出入国の規制もかなり緩和されていると聞く。
 戻るなら今だ…と、今度は誰も反対しなかった。
「わかった。これを持って行くよ。国中に蒔いて来よう。いつかこの薔薇が花をつけて種を作ったら、それをまた蒔こう。どこででもこの薔薇が見られるように。そして今度は、ラファウ、二人でそれを見に帰ろうな」
「うん。それとね、」
 ラファウはベッドの傍らの机の引き出しを開け、冊子を取り出した。それをクリスティアンに差し出す。受け取って中を見ると、ピアノ譜だった。
「これはあの陥落の日に書き上げたものだ。怒りを忘れないために。今まで書いた人好きのする曲ではないだろう。だってこれは、僕たちの涙だもの。だからクリスティアン、君も君の音で、これを弾いてくれないか? 本当の君の音で。そしてみんなに聴かせてほしい。国は僕たちのもので、他の国のものではないと言うことを、忘れないように」
 ラファウの頬は紅潮していた。その病を患う病人特有の症状ではあるが、そればかりではないだろう。目の光は鋭く、口調は穏やかながら力強い。
 楽譜に記された音楽は、彼がそれまでに書いた繊細で優雅なものではなかった。怒りと悲しみ、口惜しさ、そして再生への希望が、躊躇うことなく旋律となって綴られていた。ラファウが持ち続ける母国への想い、すべてが詰まっている。その優しげな容姿のどこに、これほどの激情が隠されていたのかと驚くほどに。
 クリスティアンは彼の手を握った。
「必ず弾く。自分の音で」
 その言葉に応えて、ラファウはクリスティアンの手を握り返した。


 故国は青い河の畔。変わりないことへの懐かしさと、未だに変わりえないのだと言う切なさで見下ろした『彼』の姿は、すでにない。
 薔薇は咲いたのか?
 ピアニストは、あの曲を皆の前で演奏したのか?
 作曲家は故国の土を、自らの足で踏めただろうか?

 
 薔薇を植えよう、来たるべき春のために。
 

                         2008.05.28 (wed)






モチーフ=『ばらを植えよう』 T・コンヴィッキ・詩(工藤幸雄・訳) 林ひかる・作曲
      『Etude Op.10 No.12(革命)』 F・ショパン・作曲
      (歴史的事象、実在の人物等とはいっさい関係はありません)



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