ピアノ弾きII


 12月が近づくと、ピアニストはわくわくする。彼の想い人の誕生日があるからだ。
 想い人である医師は、何をプレゼントしても喜ばないし、受け取らなかった。欲が無いと言うより、つれないと言った方が正しい。ピアニストはもうずっと以前から想いを寄せ続けているのだが、医師は応えようとしなかった。ピアニストに限らず、愛を囁きかける何者をも、たぶん彼は無意識に拒絶し続けるだろう。そんな恋をしない、愛を知らない医師が、ピアニストには愛しくてならなかった。どんなに拒まれても、彼を想うことを止めることは出来なかった。
 物や食事などには見向きもしない医師だったが、一つだけ受け取ってもらえたプレゼントがある。それは彼の勤務先である病院内で開いたミニ・コンサートだった。イブの夜に狭い食堂をホール代わりにしたもので、当の主役よりも周りの方が大喜びしたが、この際、それには目を瞑る。ピアニストにとっては、誕生日プレゼントを「受け取ってもらえたこと」が大切なのだ。その他大勢の聴衆など、ピアニストは眼中にない。特別な夜の彼の演奏は、医師のためだけに捧げられたのだった。
 以来毎年、イブの夜にこの病院の食堂でミニ・コンサート行われることが恒例となった。簡易マイクからスピーカーを通して、フロアのどこでも音楽は聴けるようになっている。医師の耳に否が応でも入るはずだ。必ず受け取ってもらえるプレゼントを見つけ、ピアニストは嬉しくてならない。
 12月が近づくと、だからわくわくする。今年のプログラムを何にしようかと考えることに没頭した。
 医師は双子の兄がヴァイオリニストであるにもかかわらず、音楽にまったく興味がない。何を演奏しても感想は、
「急患でゆっくり聴く暇がなかった」
と誤魔化してしまう。クラシックはどれも同じに聴こえるに違いない音楽音痴であるのに、それを素直に言わないところが医師の可愛らしいところであった。
「いい年の男に、可愛いなんて言うな」
「どうして? チャーミングなものにチャーミングと言って、何が悪いんだい? 君は自分の魅力を知らなさ過ぎる」
「そんな魅力、知らなくて結構だね。おまえも、ちったぁ名の知れたピアニストなんだから、こんなところで無料(タダ)のコンサートなんか開かず、ちゃんとしたホールで仕事しろよ。その方がクラシック・ファンとやらも喜ぶだろう? クリスマスなんて稼ぎ時じゃねぇか」
「僕はね、君に聴いてもらいたいんだよ。君が聴きに来てくれなければ、たとえカーネギーで弾いたって意味がないんだ。イブの夜に弾く全ての曲は、君のために弾いているんだもの」
「そんなセリフ、よくも吐けるな?」
「愛しているからね」
「一生、言ってろ」
 こんなやり取りもピアニストは楽しかった。なぜなら、医師が不機嫌な表情を見せるのはピアニストの前でだけだからだ。彼は医師として優秀で、患者にもスタッフにも誰に対しても人当たりが良かった。冗談を言って笑ったり、親身になって患者や家族の話を聞いたり――そんな表情など、誰もが知っている。
 しかし不機嫌な表情は、知っているかぎりではピアニストの前でだけだ。
「気持ち悪いな。何、ニタニタ、笑ってやがる?」
「別に。君はやっぱりチャーミングだと実感中なのさ」
 あきれたように医師はピアニストを見た。スラング混じりの言葉遣いも、皮肉めいた笑みも、ピアニストにだけ見ること・聞くことが許されているようで、特別な気分になる。
「それより、今年のプログラムだけれど、何かリクエストはないのかい? 子供の頃はどんなキャロルを聴いていたの? 日本でもやっぱり、クリスマスはするだろう?」
「興味なかったから」
「ああ、そうか。クリスマスより、君の誕生日の方がメインだったろうからね?」
「12月25日がクリスマス以外の何ものだって言うんだ」
 いつの頃からかピアニストは、医師が実はあまり幸せな幼少期を過ごしてなかっただろうことに気がついた。子供の頃の思い出を聞いたこともない。医師の人生に兄の姿はあっても、両親の存在は感じられなかった。
「俺にプログラム云々は聞くなよ。どんな曲でも、みんなは大喜びするだろうから、せいぜい腕を奮ってくれ。いいか、ここは病院だ。患者が主役なんだから、そのつもりで」
「でも、僕は君のために弾くよ」
 医師は「やってられねぇ」と肩をすくめて、自分を呼ぶスタッフの方に向かう。ピアニストは口元を緩ませた。
――本当に、君は何てチャーミングなんだろう
 プログラムはロマンティックな曲で占められる。子供の頃に聴きそうなキャロルを数曲入れて、ジャズやポップスの名曲もピアニストなりにアレンジして組み込んだ。
 音楽に興味がない彼を惹きつけるのは決して容易くはないが、彼が聴く、彼のためのプログラムだと思うとそれだけで心が温かくなった。ただ一人のためにプログラムを考えることが、こんなに幸せな気分になれることを、医師との出会いで知った。プレゼントすることが、今まで考えてきた以上に特別なものなのだと言うことも。
 ピアニストは目を上げた。忙しく動くスタッフや、診察を待つ患者の中に、医師の姿はすぐに見つけられた。食中毒患者の吐瀉物に汚されたとかで、今日は緑のプルオーバーに着替えている。いつもの白衣ではないが、印象は変わらない。薄っすらと白く清廉に発光して、どこにいてもピアニストの目を惹きつけた。そんな視線に気づいたのか、医師は受付の一角を占領するピアニストを見る。ピアニストが手を振ると、彼は口をへの字に曲げて、近くのドアの中に姿を消してしまった。ピアニストは思わず苦笑する――本当に、彼は可愛らしい…と。
「さて、今年は何にしようかな?」
 12月が待ち遠しい。
 一年で一番、幸せな気分になれる。そしてその気持ちのままに、新しい年を迎えられる。
 医師を想った年が思い出となって重なり、また想う年が始まる。
 ピアニストはうっとりと微笑んだ。


   Both waking and sleeping, thy presence  my  light.
      ――目覚めている時も眠っている時も、あなたの存在はわたしの光――  
                                 (聖歌287番より)
 

                                             

                 2007.11.11 (sun)

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