ピアノ弾きI ブラームスを弾く時、挑むような目をする。 苦手意識が抜けなくて、幾分緊張するからだろう。本人が思うほど、聴いている人間には感じられないと言うのに。 ショパンを弾く時は、軽やかな指の動きに反して、結んだ唇はへの字気味だ。 繊細な旋律が、弾きながら軟弱に思えるのだと言う。それでも彼の指は、ひどく感傷的にショパンの世界を作って見せた。 本人が苦手だと公言するものほど、なぜか生き生きとして聴こえる。その点、加納悦嗣と言うピアニストは自分を知らない。 しかし総じて言えることは、ピアノが好きだと言うことだ。本人が思う以上に、彼はピアノを愛している。 苦手だというだけで、ブラームスも嫌いじゃない。 軟弱だと敬遠はしても、ショパンを弾かないわけじゃない。 「器用貧乏なのさ」 と苦笑したが、どの曲も演奏の終わる頃になると、不思議と『彼の曲』になって行く――柔らかなベートーヴェンも悪くないと思わせた。 中原さく也は、そんな彼のピアノと合わせるのが大好きだ。ヴァイオリンの音色を包み込むような、決して前に出ず、それでいて引きこもりもせず。程良い一線が、さく也を惹きつけてやまない。いつまでも一緒に弾いていたいと思うのだった。 「おまえのヴァイオリンと合わすのは苦手だ。聴き入って引きずられるからな」 以前、悦嗣が言った。 確かにさく也のヴァイオリンと合わす時、彼は努めてシンプルに弾こうとしているのがわかった。 振り回されないように、自分のピアノを見失わないように、距離を取ろうしている。それが『一線』の正体なのだが、だからと言って、彼はさく也との二重奏を拒まなかった。 最初は自分のことを気遣ってのことだと、さく也は思っていた。寸暇を惜しんで帰国するさく也がせがむから、せめて日本にいる間くらいはわがままを聞いて付き合ってやろうと言う、彼の優しさなのだと。 ――あ… ある日の二重奏で、偶然、さく也は悦嗣のその表情を見つける。 タイミングを計るためでも何でもない時に、たまたま悦嗣を見た。 口元が少し綻んでいる。 鍵盤に視線を落とす目元が、穏やかな笑みを作っている。 「どうした? 遅れたぞ?」 思わずさく也の弓は休符のないところで止まり、次の入りが遅れて悦嗣が気づく。 「あ、ごめん。余所見した」 「余所見? おまえでも演奏中に余所見すんのか?」 悦嗣にはさぞかし意外だったろう。さく也は淡々とした風情で演奏しながらも、その集中力は途切れることがなく、最後まで弾ききってしまうからだ。特に悦嗣相手だと、さく也から止めたことは一度あるかないか。 「どうする? [C]の 悦嗣が楽譜のページを一枚戻した。 「最初から」 さく也はページを最初に戻した。 「え、最初からって、イントロから?」 「うん」 もう一度、確かめてみたかったからだ。 いつも彼は、あんな表情でいたのだろうか? いつからあんな表情を作るようになったのだろう? さく也は今までどんな時にも感じたことの無かった緊張を、初めて感じた。 「楽しそうだった」 独り言に近いさく也の言葉を、「何が?」と悦嗣が拾う。 「俺のヴァイオリンと合わすの、苦手だと思っていた」 口元に持って行きかけた缶コーヒーを戻して、悦嗣はさく也を見る。 「苦手だぞ」 「でも、さっきは楽しそうだった」 二曲、続けて合わせた。さく也は演奏中、何度も悦嗣を見た。錯覚ではないかと思いながら。 彼はやっぱりあの表情で、ピアノに向かっていた。 「あのなぁ」 悦嗣の手はカップから外れ、さく也に伸びた。 くしゃくしゃと長い指が頭を撫でる。 「苦手だけど嫌いじゃないんだ、おまえのヴァイオリンと合わすの」 悦嗣は笑んで続ける。 「おまえと合わすのが一番楽しいよ。緊張するけど、それは悪い意味じゃない。曲が終わると寂しいしな。前にも言ったと思うけど?」 さく也の頬は見る間に赤く熱くなった。 加納悦嗣の 一度苦手意識を持つと、頑固なまでに解消しなかった。 でも音は、いつだって饒舌だ。 『苦手 「天邪鬼って日本語の意味が、理解出来た」 誰よりも正直な音を持つヴァイオリニストが呟く。 天邪鬼と称されたピアニストは、不敵に笑った。 2007.02.04 (sun) |