※この物語は、オリジナル小説ブログサイト(BL) Night gate様の小説『翠滴III』の二次作品であり、
登場するキャラクター、及び挿画の著作権は原作者である紙魚様にございます。


Le cauchemar




 闇の奥で、仄明るく灯る光――その朧な光の中で、初めて恋だと認識した頃の、清しい『彼』が微笑んでいた。
 形の良い口がパクパクと動いている。何を喋っているのかは距離があるせいか聞こえない。
 あの唇の感触を忘れたことがなかった。触れると桜色に発色し、次第に熱を帯びて、ひどく蠱惑的になる『彼』の唇。ただその記憶はもうずいぶんと古く、そして二度と触れることは叶わない。
 だんだんと成長しながら『彼』の姿が近づいてくる。それに従い懐かしい笑顔には、少し切ないような表情が混じる。疎遠の末に再会し、その意思を無視して関係を結んだ日々の『彼』を思い出させた。
 唇は同じ動きを繰り返す。聞こえなかった声が、切れ切れに耳に届いた。手を伸ばせば届くところで、声はやっと繋がって言葉となった。
「好きだ、瀬尾」
――え…?
「好きだ、瀬尾」
 『彼』の手が一層、伸びる。隆典は思わず後ずさった。追う手を払い、更に下がる。
 『彼』じゃない、『彼』であるはずがない。無理やり手に入れ傷つけた彼・時見亨一は、真に愛する人間の元へ帰って行った。享一は隆典の手の内にあっても、その人間だけを愛し続けた。二度と戻れないかも知れない状況であったのに、享一は決して心まで隆典に渡さなかった。
 そんな彼が「好きだ」などと、言うはずがないのだ。友人としてならまだしも、否、友人としても言ってくれるかどうか。隆典が享一に対して行ったことは、それほどにひどいことであった。とうてい許してもらえるとは思えない。会うことさえ難しい。実際、十数年前に日本で別れて以来、会っていなかった。
 手は振り払うと霧散するが、すぐにまた形を戻して隆典に向かって伸びてくる。
――違う、ありえない。
 そう思っても、享一から伸ばされる手は抗いがたい魅力を持っていた。いつしか隆典の足は動きを鈍らせる。振り払う手の動きも緩慢となり、今しも頬に触れさせることを許そうとしていた。その刹那、彼の顔がハレーションを起こしたかのようにぶれ、新たな顔にすり変わった。一見すると同じ顔に見える。が、儚さを幾分感じさせた享一とは違い、瞳は生き生きとして、笑顔には晴れやかな若さが感じられた。
 似て非なるもの。隆典には別人だとすぐにわかった。途端に囚われかけた思考が我に戻る。
「和輝?!」
 隆典の息子――そして、血の繋がりと言う点では時見享一の息子の和輝。六年ぶりに会った二十一歳の和輝は、その年齢の時の享一と恐ろしいくらいに似ていた。
「好きです…、好きだ!」
 和輝の声を合図に、手は再び隆典へと伸びてくる。振り払っても、今度は消えなかった。それどころか、確かな感触が隆典の手の甲に残る。そうと感じた途端、周りは闇に覆われ、享一の、いや和輝の姿は消え去った。ほっとしたのも束の間、その闇の中から腕が二本突き出て、隆典の両手首を掴んだ。
 突然のことでかわしきれなかった身体は、そのままぐいと引き上げられた。一方の手が外れたかと思うと、次には顎を掴まれる。
 節の太い、骨ばった大きな手だ。享一や和輝のものではない。
「だ…」
 隆典の誰何の声は、正体の知れない唇に吸い取られた。
 顎を掴む手によって隆典の口は薄く開く。歯列を割って熱い舌が差し入れられ、逃げる隆典の舌を追った。享一や和輝の『手』以上に執拗で、拒んでも消えることはなかった。隆典の舌は逃げ場を失い、否応なしに捕らえられ、淫靡な動きに同調する。息をするのもままならないほどの深い口づけが続いた。
 貪られる感覚とあまりの息苦しさに、隆典の喉が鳴る。唇が隆典の下唇を軽く噛んで、顎を掴んでいた手と共にようやく離れた。
 闇が払拭され、視界が開けた。ベッドサイドのライトが、鈍い橙色の光を放つ。つい今しがたまで闇に在った隆典は、まぶしさに目を眇めた。
 目の前にはヘッドボードを背もたれにして座る男。腰に回した腕と手首を掴む手で、隆典の身動きを封じている。瞳はライトを映して橙に染まっていた。もともとの色は酷薄なプラチナ・ゴールドで、同じ色の短い髪もまた橙色に染まっている。
「アレクセイ」
「目が覚めたようだな?」
 合わさった、程よく厚みのある平らかな胸から直に伝わる体温と、身体中に纏わり付く情事の後特有の気だるさを意識して、隆典は完全に覚醒した。
 自由になる方の手で胸板を押しのけようとするのを、アレクセイは許さない。隆典の腰に回した彼の腕の筋肉が緊張し、強く抱きしめられた。
 手首に在った手は隆典の後頭部に回り、首を少し倒した。開いた首筋に、アレクセイが唇を押し当て吸い上げる。シャツのカラーで隠れるギリギリのところ、そこにアレクセイは必ず跡を残した。それも情事の最後につけるのだ。まるで儀式のように、あるいは、所有物に印をつけるかのように。
 そんな彼の意図的な所作を、隆典は度に嫌悪感を覚えた。瞬間、表情に出るらしい。アレクセイはそれを含めて尚更、跡をつけることを楽しむ節が見える。彼は隆典の顕著な感情の表れを、なぜか好んだ。どんなに微細なそれも見逃さない。
 一度、違う場所にマーキングされたことがある。耳の後ろの柔らかな窪みだ。跡が消えるのに数日かかった。六年ぶりに会いに来る息子の和輝と過ごすために休暇を取っていたので誰にも見られなかったものの、でなければ仕事先で話の種にされていたことだろう。
 それを付けられたあの日。


『好きです、好きだ!』
 

 あの日に――享一そっくりに成長した和輝は、禁忌を口にした。
 あれから半年以上が経っている。なのに、いまだにあのシーンがフラッシュ・バックする。こうして隆典の夢を侵食する。
 首に軽い刺激が走った。アレクセイが甘噛みしたのだ。再度、彼の胸を押しのけようと試みたが、さして力が入っているとは思えない腕の中からは、やはり逃れることは出来なかった。
 二人は見て不自然なほどに身長差があるわけではない。隆典は日本人にしては長身の方だった。大学の頃にお遊び程度で始め、社会人になってもしばらく続けたテニスが、そこそこ筋肉を鍛え、華奢とは言えない体格にしてくれたが、左足を負傷して軽度の後遺症が残り、リハビリ以外の運動がままならなかったのと、慣れない外国での、多忙で気の張る弁護士業が、隆典から筋肉のみならず体重も奪ってしまった。片やアレクセイは、ほぼ毎日、一日中と言っても良いほど隆典を『監視』していて、トレーニングする暇などあるのかと思えるのに、動くのに邪魔にならない筋肉の付いた、バランスの良い体格を保っていた。その差が常に隆典を縛る。普段も、そして今も。
 アレクセイの唇が、隆典の首筋から肩の稜線を渡り、肩口で止まった。たったそれだけの行為であるのに、長い年月をかけて彼の愛撫に慣らされた身体は、ゆっくりと湧き上ってくる快感の期待に震えた。アレクセイに対して、どれほどの感情も持ち合わせていないにもかかわらず反応する己が肉体を、隆典は恨めしく思った。
 好きでなくとも、与えられる快感には抗えずに反応する。あの頃の享一もまた、憎いはずの隆典に抱かれながら、快感には従順だった。それを交歓の証だと思い込もうとしていたし、錯覚もした。
 昂れば開く身体、欲情の前には嫌悪感も理性も消えてなくなる。享一が経験したであろう心と身体の乖離、味わったに違いない諦観と無力感を、トレースする自分がいる。これを因果応報と言うのだろうか…と、隆典はぼんやりと思った。
「何を考えている?」
 アレクセイの低い声が耳に滑り込み身体中に響くのを感じた次には、そのまま引き倒された。体勢が変わって、橙色に染まった瞳が目の前から真上に移動する。
 所定の場所への『刻印』は、情事の終わりを意味した。恋人ではないから、甘い余韻に浸り、二人で朝を迎えることはない。事が終わるとアレクセイはさっさとシャワーを浴び、夜が明ける前に姿を消す。そして何食わぬ顔で、出勤する隆典を迎えに来るのがいつものこと。で、あるのに今夜は違っている。隆典から外れないアレクセイの視線と近づく唇に、夜の続きが見て取れた。
「もう眠りたい」
「眠れないくせに。それとも夢の中で、あの坊やに抱いてもらう方がいいのか?」
 隆典は目を見開いた。アレクセイは口の端に笑みを作った。
「ずいぶんと悩ましい声で、名を呼んでいたぞ?」
 動揺を見せると付け入られる。弱みは見せたくなかった。だから努めて平静を装う。
「息子だ」
「血は繋がっていない。あのキョウイチ・トキミに生き写しだ。気持ちが動かないはずはないだろう? それにあの坊やは、お前を息子としてではなく、『雄』の目で見ている」
「今夜はよく喋る」
「俺の腕の中で、他のヤツの名前を呼ばれるのは気分が悪い」
 アレクセイの大きな手が、抵抗の兆しを見せた隆典の両手首を一まとめに掴み、頭上でシーツに縫いとめた。
 健常な右足にはアレクセイの長い足が枷のように絡み、故障している左足以上に自由が利かない。隆典は身動きの取れない状態にされた。こんな扱いを受けるのは、初めて彼に組み敷かれた時以来だった。
「なぜ拒む?」
「気分が乗らないだけだ」
「今まで、気分が乗ったことがあるのか?」
 気分が乗らなくとも隆典がアレクセイを本気で拒んだことは、ここカナダに渡ってからはなかった。ボディ・ガードを兼ね、射撃の腕のみならず体術にも優れている彼に抵抗出来ないことはわかっていたし、欲しいものを失ってしまった隆典自身「もうどうでも良い」と自暴自棄になっていたからだ。皮肉なもので、下手な睡眠薬より彼とのセックスの方がよく眠れた。
 それなのになぜ、今夜はアレクセイを拒んでしまうのか。享一や和輝の夢を見たからなのか。しかし彼らの夢を見るのは、今に始まったことではない。
「嫌だ」
 迫る唇から逃れるために、隆典の首が右に左に振れる。
「聞かない」
 指の背で、アレクセイは横を向いた隆典の頬を撫でた。隆典はそれを横目で睨みつけるが彼は意に介さず、今度は閉じられた唇を人差し指でなぞり、開くように促した。隆典が一層、固く引き結んだのを見てとると、ふっと笑った。
 自分だけではなく彼の様子も違うことを隆典は感じていた。何かが二人の間で、少しずつ変わり始めている。あの日――和輝と再会した春の日から。
 アレクセイが隆典を自分の方に向かせ、二人の目が合う。彼の瞳の中のライトの光は、炎の揺らめきに似ていた。
「眠りたいなら眠らせてやる。夢も見ないくらいにな」
 アレクセイはそう言うと、頑なな唇に口づけた。



Le cauchemar(ル・クシュマール)=悪夢



end(2011.10.09)

   
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