前へ前へと、逃れるようにシーツを掴む手――エヴァンスはそっと、上から握り込む。
「Aimé…」
と耳元で囁くと、彼の吐息が一層甘くなった。
篁亜朗にセカンド・ネームがあることは、プロフィールで知っている。ただ誰もそれを使って彼を呼ばないので、エヴァンスは忘れていた――その日の午後までは。
ニューヨーク滞在二日目の午後、エヴァンスは友人から三人展のチケットを贈られ、篁とチェルシーの画廊街に出かけた。
今回のニューヨークで共に過ごすクリスマス休暇は、口説きに口説いてやっと篁に「うん」と言わせたものだった。それも当初の予定の三分の一、五日間と言う貴重な時間。エヴァンスはさほど絵画に造詣が深いわけでもなく、一度は断りを入れたのだが、三人の画家のうちの一人をその友人がバックアップしていて、出来るだけ多くの人間に観てもらいたいからと懇願されたのだ。久しぶりに会いたいとも、彼は付け加えた。
「私は構いませんよ」
休暇の半日が潰れることについて、篁は頓着していないようだった。
友人は米国最大の金融機関において重役の地位にあり、篁がエヴァンスとのプライベートな時間よりも魅力的に思うのは仕方がない。二人の『関係』はもともと、そうしたことがベースにあった。つまり、篁との一時を得るかわり、エヴァンスは自分の人脈を提供する――文字通り、ギブ・アンド・テイクな関係だ。それを承知で付き合いを始めたエヴァンスだが、最近は少々切なくなってきた。
「君はつれないね」
「何を今更」
エヴァンスの呟きに篁は不敵な笑みで、事も無げに答えた。
耳朶を啄ばみ、耳下の窪から顎の線、首筋へと唇を這わす。
肩越しからキスを求めると、彼は首を傾げてそれに応えた。
脇の下から右腕を差し入れ、彼の腰を抱く。
「Aimé…」
囁くと、彼はまたも甘い吐息で応えた。それが愛おしくて、エヴァンスは何度も囁く。
昂りは最も高みにあり、エヴァンスは一方の腕も前に回した。そうして揃った両腕で篁の肩を掻き抱く。
穿たれるに身を任せていた篁だが、エヴァンスの激しく求める様に、首が耐え切れず垂れた。
頚椎が浮かぶ。
エヴァンスは噛み付くように、その美しい骨格に口づけた。
三人展は盛況だった。パトロンである友人の面目躍如と言ったところである。彼は上機嫌でエヴァンス達と一緒に回り、懇切丁寧な解説を施した。スーパーリアリズムの絵画に言葉など必要ないのにとエヴァンスは聞く耳半分だったが、篁は真摯に彼の話に耳を傾け、時には嬉しがるような質問をしてみせる。たちまち打ち解けて、知らぬ間に後日のディナーの約束まで取り付けていた。
「君が絵画に興味があるとは思わなかった」
篁の美術に関する知識には浅からぬものがあり、エヴァンスには意外だった。現実主義者的な彼には、芸術の類はもっとも縁遠く思えたからだ。
「嗜みでしょう? それに嫌いなわけじゃない」
クリスマス・シーズンを迎えた画廊街は、様々な展覧会が催されていた。二人は三人展の会場を出てすぐには車を拾わず、しばらく街の雰囲気を楽しむことにした。
日本での逢瀬は忙しい合間を縫っての束の間、その上、目的が情事なのでホテルから出ることはなかった。こうしてデートよろしくそぞろ歩くのも悪くない。友人の薀蓄的解説には辟易しても、篁のそれなら聞いてみたかった。しかしエヴァンスのそんな思惑など知ってか知らずか、彼はどこの画廊も覗こうとしない。
――『嫌いじゃない』とか言っておいて
とエヴァンスは苦笑した。
「ああ、ここは彫刻のようだ。少し観て行こう」
だからたまたま目についた画廊に、彼を強引に誘った。
その画廊では立体アートの個展が開かれていた。彫刻と呼ばれる類だが、木であったり、石であったり、ブロンズ用の石膏原型など、展示物は多岐に渡っている。とにかくこの作者はさまざまなものを削り、あるいは付け足して造形していくことで、自己の才能を表現しているようだった。
さも興味なさげな篁だったが、とある展示物の前に立ち止まり動かなくなった。白大理石を削る、この個展の中では最もオーソドックスな作品だ。
横臥する男性体のトルソ(胴体だけの彫像)で、ほぼ等身大。均整の取れた美しい『身体』は若く、上腕の格好から『彼』が微睡んでいることが想像出来た。背中には羽が見える。後ろに回って見ると、肩甲骨の辺りに今まさに生えようとしている翼があった。
『Aimé〜愛される人』
プレートには仏語と英語で作品名が記されていた。作者の名前はC.Rとのみ、制作年は一九九五年から二〇〇七年とある。展示されている中で一番古く、一番新しい作品だ。金額は提示されていなかった。
篁はずいぶん長いこと、そのトルソを見つめていた。
金額の未提示は要相談なのか。上質の白大理石を使ったこれほどの力作が安かろうはずがない。それでもあまりに熱心に篁が見入るので、エヴァンスはつい言わずにおれなかった。
「気に入ったのかい? もし良ければ、クリスマス・プレゼントに…」
「申し訳ありません。これは売るつもりはないのです」
エヴァンスが言い終わらないうちに、背後から声がかかった。振り返ると年恰好が篁と同じくらい――年齢は多少上かも知れない――の男が立っていた。おそらくこの個展のアーチストだろう。灰色がかった青い瞳とフランス語訛りの英語が印象的だった。
彼はまず最初に振り返ったエヴァンスを、それから篁を見た。途端に表情が変わる。大きく目を見開き、篁を凝視した。
そして搾り出すように言った。
「まさか、エメ…なのか?」
それは英語ではなかった。
同時に昇りつめた後、篁はエヴァンスの胸の下でくたりと動かなくなった。エヴァンスはそんな彼の背に身体を重ね、快感から生まれた程よい疲労感に浸る。
胸に伝わる彼の少し荒い呼吸に、自分の呼吸が同調するのを感じた。この時がエヴァンスを最も幸福な気持ちにさせるのだが、長くはその余韻を楽しめない。以前、「重い」と篁に言われたことがあったからだ。名残惜しげにエヴァンスは篁の身体から離れた。
暖炉の炎が作り出す淡い灯りに、彼の背中が浮かび上がる。陰影が彫像のように見せた。
エヴァンスは篁の肩甲骨に口づけ、それから背中の稜線を上から下へと舌でなぞる。微かだが、彼の身体に力が入ったのがわかった。
脇腹に手をかけ、篁の身体を仰向けに返す。彼は眉間に皺を寄せ、うっすらと目を開けた。明らかに抗議の表情だ。エヴァンスはおかまいなしに微笑んで、額にはりつく前髪を梳き上げてやりながら、その唇に口づけた。
触れ合う舌は熱く、艶めかしく蠢く様は、先ほどまでの房事を思い出させた。
篁の手がエヴァンスの肩を軽く押し上げて、やっと長いキスが終わる。濡れた彼の唇は、実に扇情的だった。
エヴァンスは収まった情欲が、沸々と蘇ってくるのを感じた。再び彼を組み敷くのに、そんなに時間はかからないだろう。それは篁にも伝わっているらしく、
「少し、休ませてくれないか、ミスター?」
と気だるげに呟いた。
「まだ夜は始まったばかりだよ」
エヴァンスの唇は篁の首筋や鎖骨の周辺にキスを浴びせかける。
「あなたほどタフじゃない」
されるがままの篁は、ため息まじりに言った。
「君の方が十才以上、若いのだがね?」
「ご自分がどれほど立派なモノをお持ちか、自覚がないんですか? 私は抱かれる側は慣れていない。手加減してくれないと、身体がもたない」
とうとう篁は両手でエヴァンスの髪を掴むと、胸元から引き剥がした。
「痛いな」
「言うことを聞かないからだ」
篁は嫣然としてエヴァンスを見る。
エヴァンスが彼の手首に手をかけると、さほど抵抗なく髪から手は離れた。今度はその手を愛撫する。
指を口に含み、関節を甘咬みし、指の股に舌を這わせた。
手の甲、手のひらの順に、わざと音を立てながら接吻する。
手首から肘窩まで、静脈をゆっくりと唇で辿った。ベッドにその腕を縫いとめるようにして押し付け、更に上腕の裏側へと唇を移動させる頃には、篁のもう一方の手がエヴァンスの頭から滑り落ちた。すぐさまその手に指を絡ませ、握り締める。
エヴァンスの唇は篁の肩口、鎖骨を余すことなく愛撫した後、首筋から唇に戻る。
「Aimé」
と呼ぶと、篁の身体はあきらかに反応した。
「…なぜ、その名で呼ぶんです?」
「そう呼ばれていたのだろう?」
画廊で出会った彫刻家は、篁をセカンド・ネームで呼んだ。最初は驚きの響きを含んでいたが、すぐに呼び慣れたそれに変わった。
『Aimé』と名付けられたトルソは、どの作品よりも手をかけられ、美しかった。愛情を込めて制作したことがわかる。そして篁がモデルであることは、目の前の裸体を見れば一目瞭然だった。
「大昔のことです。今は誰も使わないし、使う必要もない名前だ」
ブルーグレイの瞳を持つ彫刻家を篁は古い知人だと言ったが、特別な関係であったことは、彫刻家が彼を見る眼差しで容易に想像出来た。彼ら二人が交わしたのは、フランス語でほんの二言、三言。それだけで周りは、アメリカとは違う空気に包まれた。
抱かれることに慣れていない篁の身体はしかし、抱かれることを知らない身体ではなかった。「Aimé」と呼びかけられる度に、微かに甘い息で呼応した――かつて誰かがその名を囁きながら、この身体を愛したことを物語っている。
「彼が、その『誰か』?」
などと野暮なことは聞かない。ただその名前を、『誰か』のための特別なものにしておきたくはなかった。
「ではこれからは私が使おう。こうして二人きりの時に」
これは嫉妬か?…とエヴァンスは自問する。言い切れるほど、篁との精神的な関係はまだ成熟していない。
「Aimé…」
キスの合間に呼びかける。今、この名前を呼んでいるのは自分であることを、彼の耳に刻み付けるために。
そうして蘇った熱い昂りにまかせ、エヴァンスは再び篁の身体を支配した。
<end>2009.01.06
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