※ 『BLEACH』 京×浮です。
「雨の匂いがするな」 机上執務に区切りがついて、一休みをする為に部屋を出た浮竹は、庭に面した渡り廊下で、深く息を吸った。 吸い込んだ空気は、雨特有の湿った匂いがする。見上げると、暮れ始めた空に濃い灰色の雲が伸びていた。雨は西からやってくる。夜半には、降るのかも知れない。 浮竹は小さく二、三度、咳をした。なるべく抑えて、気取られぬように。 生来、虚弱な質である上に、幼い頃に患った病のおかげで、浮竹の身体は季候の変化に敏感であった。油断をするといつの間にか体調は崩れ、床に臥すはめになってしまう。長くこの身体と付き合ううちに、その頃合いを計れるようになり、以前ほどに寝付くことは少なくなったが、それでも世話役を自負する二人の三席が神経質に構うことには、変わりがなかった。ことに『藍染の乱』とも、『尸魂界の争乱』とも名づけられた一件での無理が尾を引き、机上以外の隊務がこなせなくなっている。 ゆえに軽い咳払いの一つ二つで、「すわ、お加減が?!」と三席達が駆けつける。過保護とも取れるほどだが、二人とも浮竹のことを思ってのことなので、無碍にあしらうわけにもいかず、なるべく心配をかけぬようにすることしか、今の浮竹に出来ることはなかった。 浮竹のことを思い遣っている――のは、彼ら二人ばかりではない。 毎朝、決まった時刻に聞こえる足音がある。忍ぶでもなく、主張するでもなく、柔らかく敷石を踏み、雨乾堂の寝所を囲む生垣の外を渡って行くのだ。 足音は、ほんの瞬きをする間だけ止まり、すぐに遠ざかって行った。それに気づいた何度目かの朝、浮竹は雪見障子を上げておいた。果たして足音の主は、目深に被った菅笠と、植え込みの隙間からもわかる色鮮やかな女物の羽織。 「京楽」 雪見障子が上がっていることに気づいているはずであるのに、内にいる浮竹に声をかけることもなく、京楽は素知らぬ風に通り過ぎて行った。 後に八番隊副隊長の伊勢七緒に尋ねると、 「美容と健康のための『早朝うぉーきんぐ』と言うものだそうです。現世で流行っているとかで」 とあきれた調子の答えが返ってきた。 『七緒ちゃん、これからの男子たるもの、体型を維持しないと女性にモテないんだよ。山じいをごらん。幾つになっても、惚れ惚れする肉体美だろう? それとも何かい? 七緒ちゃんは醜く腹の出たボクでもいいわけ?』 「ええ、腹が出ようが、体型が崩れようが、ちゃんと仕事をこなしてくだされば、そんな事なんて些細なことです」 『早朝うぉーきんぐ』のおかげで、京楽の昼寝の量が格段に増え、困りものだと伊勢は付け加えた。 そのことを確認してから、浮竹は毎朝、同じ時刻に雪見障子を上げる。 雪見窓は低く、生垣は高い。互いの顔(かんばせ)を見ることもなく、ただそこにいる気配を感じ合うだけだ。無言で交わす朝の挨拶が、浮竹の日課に加えられた。 「隊長、ここにおられましたか! さがしましたぞ!」 背後で大きな声が響いた。三席の一人、小椿仙太郎だった。 「そろそ…」 「そろそろ、引き上げられてはどうですか?! この清音めが、お帰りの支度を致しますゆえ!」 小椿の言葉をさえぎって、ズイッと前に出てきたのは、今一人の三席、虎徹清音である。 「何しやがる、こンのぅ、ハナクソ女! 今、俺様が隊長と喋ってるんだろうーが!」 押しのけられた格好の小椿が、小柄な虎徹の頭を掴んで横にはらった。たちまち二人の間で、小競り合いが始まる。この二人は寄ると触るとこの有様だ。ことに浮竹を中に挟むと。 「ああ、わかった、わかった。それじゃあ、片付けて俺は引き上げるから、後は頼んだぞ」 それはそれで、二人の息抜きの一種でもあると浮竹にはわかっているから、期を見計らって割って入るようにしている。二人が先を争って供をすると言うのを、勤めがあるだろうと言い含めた。それから帰り支度のために、浮竹は執務室に一旦、戻ることにした。 さあさあ…と、屋根や庭木、敷石を濡らす雨の音で、浮竹は目を覚ました。辺りはまだ暗く、夜の最中だ。浮竹はもう一度目を閉じた。 雨音は古い記憶を呼び覚ます。久しく思い出さなかった、思い出すことを封じた一夜の記憶。真央霊術院(=統学院)卒業前夜の、あの一夜――雨が降っていた。統学院最後のその夜を、浮竹は京楽と同衾した。 どちらから言い出したことか、今となっては思い出せない。あるいはどちらからともなく、手を伸ばしたのかも知れない。熱い胸が重なって、唇が重なった。昂ぶる気持ちを抑えることが出来ず、呼気さえも身の内に取り込もうと、舌を絡めたことを覚えている。 あとはただ夢中で、互いを求め合った。激しい息遣いで、闇の中の身体を探り合う。「甘い」と言うにはほど遠い営み。何度も痺れるような感覚が、浮竹から意識を奪おうとした。しかしそのたびに、京楽が深い接吻で強引に引き止める。頤を掴み、焦点が泳ぐ浮竹を彼自身に向けさせた。正気を取り戻した浮竹は、京楽をまた求めるのだった。 浮竹は目を開けた。すっかり忘れていたはずの夜が、鮮やかに蘇る。この数百年、なかったことだ。雨の夜は、何夜もあったと言うのに。 先の争乱が、離れていたものを引き寄せてしまった。 『藍染の乱』が起こるまで、尸魂界にはこれと言った問題はなく、護廷十三隊はそれぞれ、瀞霊廷で割り振られた場所の警備と、現世への死神の派遣・監察業務に腐心すれば良かった。他の隊と協力して事にあたることなどほとんどなかったから、京楽との接点は隊首会くらいで顔を合わせる程度に希薄になっていた。それが強大な力を有した旅禍の侵入で各隊の協力体制が築かれ、朽木ルキアに対する納得しがたい量刑(=死刑)が、同じく疑問を持っていたもの同士を結びつけたのだ。 思いもかけず、かつての恩師であり護廷十三隊総隊長の山本元柳斎と対峙した時、浮竹の斬魂刀『双魚の理』と京楽の『花天狂骨』は、同じ空間に在って確かに共鳴した。 広い尸魂界に二刀一対の斬魂刀はわずかに二組。世にも稀なる斬魂刀が、浮竹と京楽に授けられたことには理由があるのか。 それが宿命だとは、浮竹は思わない。だが、二組の斬魂刀が呼び合ったことは事実であった。 『皮肉なこった。今回のことで、ボクは自分の気持ちを思い出しちまった』 先の十六夜に京楽が語った言葉は、そっくり浮竹に戻ってくる。訪ねることのなかった彼の元に向かったのは、なぜか。 長い時を隔てて、再び京楽に触れられた唇は熱かった。 障子の向こうが白み始めていた。雨の音はまだ聞こえるから、夜明けは遅れているだろう。 ――この雨では、今朝は来ないか…。 浮竹はそう思って、雪見障子を開けずにおいた。 しばらくして、うとうととし始めた頃、雨とは別の音が浮竹の耳に入ってきた。濡れた敷石を踏む微かな音だ。それは段々と近くなる。早朝の見回りもあるから、彼とは限らない。しかし足音は、この寝所の前で止まった。 ――京楽?! 浮竹は慌てて身を起こすと、雪見障子を開けた。ちょうど彼が立ち去ろうとするところだった。勢いよく上げられた障子に、一歩踏み出した足は止まる。いつもなら見ることのない京楽の半身。それでも目深に被られた菅笠から見えるのは、口元だけだ。彼からも浮竹の姿が見えるのだろう。その口元の両端が、結んだままに上がった。そして会釈のように菅笠を軽く抑えると、京楽は遠ざかって行った。 それだけだ。言葉もなく、視線も交わさず、互いの存在を感じ合うだけ。逢瀬と呼ぶには色気がない。 ただ、あの雨の夜に断ち切ったものが心に満ちてくることを、浮竹は感じずにはいられなかった。 (了)2007.09.30 |